「遭遇」

作:MORIVER


 そうぐう【遭遇】 思わぬ場面に出会うこと。不意に出会うこと。(広辞苑)




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 長い街燈の列の向こうに影が見えた。小さな、一人の、女の姿をした影だ。メタリックグレーのコートがかすかにはためくのが、目をひいた。

 僕は、仕事帰りで、同輩の社員と一杯飲んでいて、少々を酔いを感じてはいたが、その時の記憶はしっかりと覚えている。そろそろ終電も行ってしまいそうな時刻、若い女が……不思議なことだが、僕は彼女を若い女と決めつけていた……一人で、人気のいない場所でたたずんでいるというのは、普通に考えて、やはり奇妙なことだ。

 そこは、国道から一本外れた二車線道路で、住宅地域をよぎる道のためか、夜間の車通りは極端に少ない。それでも、駅前に通じる主要道には違いないから、こうして街燈だけはしっかりとついている。

 僕は、夜の、この道を歩くのが好きだった。とかく、街中というのは、どこへ行っても人がいて、「独りになる」のがどうにも難しい。「独りになりたい」なんて、真顔で言うと怪訝な顔をする同僚もいるが、そう特別な気持ちとは思わない。人と交わっているというのは、それだけで結構大変なエネルギーを使う。時々、孤独というものを味わっておかないと、ストレスで参ってしまいそうになる。

 勿論、人が沢山いる中でも孤独を感じることは出来るだろうが、そういう孤独は、僕にとって、何とも寂しいだけで、ストレス解消の手法にする気にはなれない。物理的に、本当に誰もいない空間。卒業後、今の会社に就職しこの街に一人、越してきた時初めてしたのが「独りになれる場所」探しであった。そして、この、長い夜の車道を僕は見付けた。

 そんなわけで、その女の姿を認めた時、僕は自分の庭に勝手に入られて怒る頑固じいさんのような気分になっていた。

 ようやく体に馴染み始めたトレンチコートに両手を入れながら、僕は女の影にゆっくりと歩み寄って行った。しばれる風が、顔を数度なめる。女の髪が揺れていた。長さは、肩にちょっとかかるぐらいか。顔は白く、街燈に照らされ、ほのかに闇の中で浮かび上がって見えた。

 声もかける前に、彼女が僕の方を向いた。足音をことさら、消そうともしなかったが、強調していたわけでもない。こんな所にいるのだから、てっきり物思いにふけっているのだろうと勝手に思っていたが、そうではなかったようだ。で、なければ、こんな早く相手に気付かれるわけはない。僕と彼女との間には、まだ五〇メートル以上もの距離がある。

 一瞬、視線が合い、僕は知らず、まごついた。

 そして、その様子を悟られる前に、ここを立ち去ろうと僕は決めた。

 考えてみれば、彼女に話かける理由もない。ちょっと、自分のお気に入りの場所に、見知らぬ者がいたとて、なにを怒ることがあろうか。今日の所は、黙って通り過ぎておけばいい。それが自然というものだ。

 視線を彼女の方にあまり向けないように、歩調を一定に保ちつつ、僕は彼女の脇を通りすぎようとした。

 そして失敗した。彼女が、僕に話かけてきたのだ。

 「すいません」

 ソプラノの声がした。僕は足を止めた。それは、中学時代の音楽女教師の声に似ていた。それは僕の初恋にして初めての失恋の相手。赤い西日が斜めに差し込む、あの音楽準備室の光景が蘇る。

 「……はい?」

 一瞬の間を、回想に費やし、僕の反応はやや遅れた。僕は緊張をしていた。新ためて目の前の彼女見てみる。どこか外国人ふうな顔だちだ。髪は濃い栗色をしているが、瞳はブルーがかっており、鼻や顎の感じにもやや鋭さを感じる。ハーフなのだろうか。

 「駅はどちらになりますか?」

 明朗な日本語だった。が、彼女はあの音楽教師とは別人であることは間違いない。にもかかわらず、その声は記憶の内にあるそれと、波長をだぶらせて聞こえた。

 「駅、ですか?」

 ゆっくりと、相手の言葉を反復する間に、僕は心を落ち着かせた。

 「はい」

 ここちよい響きだった。彼女は真しな眼差しで、僕を見返している。脈拍が上がる。

 「あ、駅はあっちですけど……」と僕は、今、来た方向を指差したが、すぐに、それを下ろして自分の腕時計を見た。

 「もう、終電には間に合わないかもしれませんよ」

 そう言いながら、僕は、彼女が靴をはいていないことに気付いた。彼女は、少し、足の指先を握るように力を入れて、戻した。僕は、僕で気付かなかったふりをしようとしたが遅かった。彼女の表情に険しさが増した。なんとは無しに罪障感を覚える。

 「タクシーの方がいいと思いますが……ここじゃ、つからないかもしれませんね」

 「あ、でも……」

 落ちつかな気に彼女は周囲をふりむく。

 「私、お金が無くて……」

 その言葉に、一瞬、混乱した。

 「タクシーだから、着払いでも平気ですよ」

 さまざまな推測が頭をよぎった。彼女の着る服は、ブランドこそ分からないが、見た目にも高級そうだ。複雑な事情を予感させる。

 「そ、そうですね」

 彼女は相づちを打ちながらも、せわしなく首をめぐらす。まるで、何かを待っているようだ。

 何を? 

 おそらく、彼女をここへつれてきた誰かだろう。彼女を裸足でほっぽりだし、そいつはどこかへと去っていったのだ。こんな夜更け、人通りも無い路上の途中に。

 「どうしますか?」

 暖かみの無いセリフだと我ながら思う。だが、このまま彼女は、その『誰か』を待ってここに待ち続けていそうでもある。朝まできっと、そうしてるのだ。

 怒りにも似た苛立ちが湧いてくる。後にしてふりかえって見ると、それは見知らぬ『誰か』に対する嫉妬だったのかもしれない。まだ、彼女は、その『誰か』を信じようとしている。そんな様子をどこかで僕はうらやましいと思っていた。

 「待ちますか?」

 何を、とは彼女は聞き返さなかった。ごく、当たり前のように、彼女はうなずき、

 「そうですね」と言って、駅とは反対方向へと首を向けた。

 会話はそれきりで途絶えた。

 彼女に背を向け、家路につく僕の心は晴れなかった。

 ため息を吐く。口の周りの空気が白く変化する。こんなにも寒くなっていたのか、とちょっと驚いた。考えて見れば、もう初冬と言ってもいい頃だ。

 あの裸足の女性を置いたまま去ることに、良心のかしゃくを覚えるなどと言うのはいささか偽善的であるかもしれない。あの女教師に覚えた気持ちをそのまま、だぶらせているだけなのだろうから。

 明日の夜には、もう彼女はいないだろう。だが、独りになろうと、あの場所を訪れる度に、きっと僕は今夜の事を思い出す。もうちょっと、なにかできたんじゃないかと頭を巡らす。彼女が今感じているだろう寂しさを、僕もまた、あの場所で感じてしまうのだ。そうなったら、新たな「独りになれる場所」を探さなくてはいけなくなる。

 気がつくとアパートの前に僕はいた。部屋の扉の鍵を開ける手が重く感じられた。僕は自分の気持ちにとっくに気付いている。理屈はともかく、僕は彼女が気になって仕方ないのだ。

 僕は、玄関にあった健康サンダルを1足掴むと、今来た道を走りだした。



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 長い街燈の列の向こうに影が見えた。小さな、一人の、女の姿をした影だ。メタリックグレーのコートがかすかにはためいて見える。

 まずどこで声をかけようかと考えを巡らせたその時、彼女の顔がこちらを向いた。僕と彼女の間の距離は一〇〇メーター近くまだある。とにかく、気付かれた以上、リアクションをおこさねばならない。そして、手に持ったサンダルを高く掲げた。

 僕は飲んでいて、その上、全力疾走をした直後であったからやや酔いが回っていた。だが、その時の記憶はしっかりと覚えている。

 オレンジ色をしたまばゆい光が、僕の瞳に差し込んだ。『迎え』が彼女の元にやってきたのだ。その『迎え』を見た時、僕はやっと、この事実に気付いた。どうして、彼女は僕の存在にあんなにも早く気付いたのか。そして、どうして、彼女の吐く息が寒さの中でも白くならなかったのか。

 なにより証拠に、今や僕と彼女の間の距離は既に五〇〇メートルを越えようとしているにもかかわらず、彼女の言葉ははっきりと僕に伝わって聞こえた。

 「オ世話サマデシタ」

 それもはや、何者の声でも無かったが、ただ、決して忘れえぬ心地よい波動となって、僕の心の内に響いて止まなかった。

 『迎え』の中から覗ける彼女の顔は、もうかなり小さくなってはいたが、そこにあるほほ笑みを僕は見ることができた。僕も、顔をほころばせ、せいいっぱいに両手を振って彼女に答えた。驚きよりも、奇妙なまでの嬉しさでいっぱいだった。

 僕は首を仰ぎ、『迎え』が静かに、が、これ以上ないというまでの威厳に満ちた様子で、紺碧の夜空へと消え去ってゆくのを眺めた。

 「よかった」

 古びた健康サンダルを手に、僕は、知らず、そうつぶやいていた。






<「遭遇」>

Written by MORIVER.

1994.12.11
HTML modified in 1997.6.10




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