「煙草」
作:MORIVER
狭い指導室に、私は少年と二人きりでいた。傍らにある二つの小さな扉のうち、一つ
は職員室に、もう一つは廊下へとつながっている。廊下側の扉からは生徒達の騒ぎ声が
かすかに聞こえた。
今は休み時間だ。短い時間を利用して、私はこの生徒に話をしている。生徒は黙って
うつむいているだけだった。寝ぐせのついた髪をしきりにいじっている。黒い学生服の
肩にふけが落ちるのが見えた。私は不快感がわきあがってくるのを必死にこらえていた。
* * *
そもそも私はこのクラスの副担任に過ぎなかった。担任の教師が病気で緊急入院して
しまったため代行として数か月その役をつとめているだけなのだ。何かと前の担任と比
較されるのはたまらない。
・・・・・・副担の時は、結構な人気者ぶりにすっかり気をよくしていた。だが、それも私
が若くて女性というだけだったからなのだろう。クラスの全責任を背負ったとたん、私
は気付かされた。自分は生徒にみくびられている。生徒とのお友達感覚は、頼りなさと
不信感に変わった。
授業中の私語をうまくおさめる術を私は知らない。一度、たまらず大声ではりあげ、
どなりちらしたことがある。自分でも驚くぐらい、ヒステリックになっていた。気がつ
くとクラスはしいんと静まりかえっていた。私は、黙って教室を出た。空き時間で、職
員室にいた同僚の何人かが私の姿を見てちょっと顔を曇らせた。彼らは何がおこったの
かを一瞬にしてさとったのだ。泣きたいのを我慢して私は煙草を一本吸った。
この一件は、たちまち生徒の父母の耳に入り、教頭は指導のなんたるかをやんわりと
私に告げた。
そんな矢先だ。受け持ちのクラスのいじめ問題が、職員会議の場であげられたのは。
会議の前に一言、私に教えてくれれば、とその報告した教師を恨んだが、勿論、反論で
きるわけもなかった。
* * *
今、目の前にいる少年がその被害者だ。彼もまた私に不信感を抱いている。私もまた
彼に嫌悪を感じていた。うじうじとしてはっきりしない態度に苛立ちは隠せない。前の
担任から渡された指導ノートにも過去に何度かいじめられた経験があるらしいと記され
ている。
『こういう子はいじめられて当然なのよ』
心の奥からこんな声すら響きあがってきた。私は自分で自分が怖くなってきた。しか
し、その恐怖がやや私を冷静にさせる。
「ねえ、田端くん」
少年は名前を呼ばれて、ちょっと面を上げた。にきび面。顔はこわばっていて表情は
読みきれない。
『若いんだから、生徒たちの気持ちもわかるでしょう』
教頭はあんな事を言ったが、私には生徒の気持ちがさっぱりと理解できない。それと
もあれは単なる嫌みだったのだろうか。
「先生に本当の事言ってほしいの。石島くんたちとは仲がいいの? いじめられてる
んじゃない?」
田端くんはますます顔をこわばらせてうつむいた。思わず出かかった溜息を喉元で必
死にこらえる。そんな事をしたら両者の溝はますます深まるばかりだ。私に今必要なの
は子供の気持ちではなく、状況に正しく対処する大人の知恵であった。
「先生ね、田端くんが悩んでいるのなら助けてあげたいの。何があったか教えてくれ
る?」
少年の沈黙は続く。答が無いのも私への不信感の現われなのだろう。黙って彼の観察
する他仕方なかった。
突然、扉がドンと鳴った。扉を開けると、二人の男子生徒がしまったという顔つきで
廊下に重なっていた。
「先生、こいつが悪いんだよ」
「なんだよ! おまえが押したからだろ」
「ふざけんなよ!」
互いに責任のなすりありをしている内に、私はぴんと来た。彼らが石島くん達と良く
一緒にいるのを良くみかける。きっと様子見の為にこんな事をしたのだ。それを証拠づ
けるかのように、二人の視線はちらちらと部屋の中の田端くんに向けられている。
「いいから、向こうへ行きなさい。今、大事な話をしているんだから」
「何だよ、大事な話って」
まるでチンピラのような口調でその生徒は言った。また、不快感が私を襲った。
私は返事もせずに扉を締めた。部屋へ向きかえるとき、思わず溜息をついている自分
に気付いてはっとした。田端くんは黙って私をみつめていた。
二人の生徒が去って行く姿を追うように、田端くんは扉の向こうへ目を向ける。私が
扉の鍵を締めると、彼はまた以前の様に顔を下に降ろした。さっきの二人の出現で、彼
はいよいよ口を重くするだろう。
「田端くん、先生はあなたの為に言っているのよ。ね、誰にも言わないから先生だけ
に教えて。なにが・・・・・」
突如、田端くんは叫んだ。
「僕、何も言わないよ!」
そのあまりにしっかりとした口調に私は一瞬たじろいだ。そして、その言葉は私にで
はなく表の二人に言っているのだと気付いた。
「田端くん!」
私も叫んだ。
「どうして何も言ってくれないの? 先生が信用できないから? 石島くん達がしか
えしするのが怖いの? ねえ、田端くん。きちんと言ってくれないと先生解らないよ」
そこまで言って、はたと私は我に帰った。目の前では少年が戸惑った表情を浮かべて
座っていた。
私は顔を背けた。慌てて窓際に向かう。
『最低だ』
震える手で私は上着のポケットを煙草を求めてまさぐった。ない。ふりむくと、椅子
の近くにある机の上にライターや灰皿と一揃え置いてある。ポケットからはハンカチが
飛び出した。鼻の辺りがあつくなるのをそれで押しとどめる。
「煙草、ちょっと吸ってもいい?」
机の側までなんとかたどりつくと、まだ少し震える声で私はそう尋ねた。田端くんは
黙って諾いた。灰皿を持って、また窓際に近付き火をつける。煙を表へだそうと窓ガラ
スを空けると、車や工事の音がやわら聞こえはじめた。
壁の時計を見る。もう次のホームルームまで時間もない。しかたない。このまま帰そ
う、そう思った時、田端くんは急に口を開いた。
「先生」
彼は言う。
「違うんだよ」
田端くんはじっと私を見据えた。
「僕、いじめられてなんかいないよ」
* * *
「確かにそういうこともあるわね」
相談相手になってくれたベテラン教師は、ちょっと考え深げな表情でそう告げた。
「彼の場合、母親が早合点して学校に連絡してしまったために、事が大きくなった。
そう言うのね」
「ええ、昔いじめられた経験があったから敏感になっていたのかもしれません」
「いじめられっ子というのは、一度そういうレッテルが張られると友達がなかなか作
りにくいものなのよね。そういう子と親しくしていると、自分までいじめられるんじゃ
ないかって、そう考えてしまわれたりして。田端くんにとっても、今度の事件がきっか
けでまたそんな事にならないといいんですけど」
「・・・・・・・・はい」
「石島くんの方の話は聞いたの?」
「ええ、殴ったことは認めているのですが、それもただふざけてやっただけだと。石
島くんは普段の態度や成績もいいようですし、やはり今回の事もあまり荒立てない方が
いいんでしょうか・・・・・・・」
「そうね。余程の場合じゃない限り、一人の生徒をせめるのは良くないわね。大変だ
とは思うけど、やはりクラスの中で話合いなりして、いじめについてもう一度考え直さ
せる他ないでしょうね」
「はい・・・・本当に、ありがとうございました。・・・・・・・ところで・・・・・・あの・・・・・・・
一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんでしょう?」
「あの・・・・・・いえ・・・・・・やっぱりいいです。すいません」
「・・・・・・そう。頑張ってね」
「はい。では、失礼します・・・・・・」
* * *
『先生は、生徒が好きですか?』
なんて答えただろう。もっとも、なんと答られても私の気持ちは沈むだけだ。好きだ
と言われれば好きになれない自分をますます責めたくなるだろうし、嫌いだと言われた
ら、ますます私は生徒の事を嫌いになってしまいそうだった。
そんな事を考えている内に、私は、夕焼けの赤で一杯になった一階玄関の下駄箱の前
にいた。パンプスに履きかえていると、生徒用の出入り口近くに人影が一つあるのを見
付けた。田端くんだった。
* * *
「誰にも言わないでよ」
田端くんは、遥かに望む川面を眺めながら私にそう言った。空の半分はもうすっかり
紫色に変わってしまっていた。私は、屋上の手摺りによりかかりながら、キャビン・マ
イルドの最期の一本に火をつけようとライターを擦った。
「どうして煙草を吸うの?」
「え?」
ライターを持つ手が瞬間、下がる。風が吹き、火が消える。肩の辺りに揃えた私の髪
も合わせて揺れた。
「あいつらさ、煙草吸わないと仲間に入れてくれないって言うんだ。煙草って体に悪
いんだろう。なのにどうして吸うのかなあ」
田端くんの視線はもう私の方には向いていなかった。私は両手で風よけを作りながら
ライターを擦り直した。掌の中で赤い火点が浮かび上がる。
『最初は好奇心。いや、なんとなく、かな。でも今はとにかく落ち着くから』
一息吸うと私は心の中でそんなつぶやき声を上げていた。
「僕が嫌だっていったら、あいつら無理やり煙草を口につっこんできたり・・・・・・・それ
で、最期に殴られたんだ」
ちょっと間を置いて私は言う。
「・・・・・持ち物検査しなくちゃね」
「そんなことしたら僕が言ったってことばれちゃうよ!」
むきになって張り上げられたその声は、まるで遠くから聞こえてくるようだった。
「聞いた以上は黙ってもいられないわ」
田端くんは叫んだ。
「嘘つき! 僕を助けてくれるって言ったじゃないか! やっぱり先生も同じか・・・・・
みんな、僕のことなんかどうだっていいんだ。いつだってそうなんだ。なんで。なんで
僕ばっかり、いつも・・・・・・・」
私の心はどこかへ飛んでいってしまったのだろうか。彼の話を無視していたのでもな
い。考えていた。だが、何も浮かんで来なかった。ただ、秋風が頬に当たるのを感じな
がら、田端くんをじっと眺めていた。
彼は激しく呼吸をしながら、泣きそうな面持ちで私を見返した。
「どうしたらいいんだろう」
私はその、彼の顔を見た。それは私の顔でもあった。
「どうしたらいいんだろう」
私はつぶやき返す。それから、彼の方に向き直った。最期の夕日が川向こうの土手へ
消え、少年の顔は薄暗やみに融け込んでゆく。
「煙草は悪い?」
覗き込むように首をかしげ、私は尋ねる。
「あたりまえだよ。だって、未成年は法律で禁じられているんだよ」
私は三分の一程灰になったキャビン・マイルドを口から離すと田端くんの前へ差し出
した。彼はきょとんとした目つきで私と煙草をみつめる。それから急に慌てた。
「駄目だよ!」
「いいから」
田端くんの側に近付いていく。田端くんの頭は長身な私のおでこのあたりにあった。
ふけが見える。彼は体を硬直させた。
「嫌だ!」
田端くんは、うつむいて、拳を握った両腕を下につっぱらせながら叫んだ。
「どうして? 法律で禁じられているから?」
「そうじゃない!」
そう言って、彼は体を背けた。私の人さし指と中指の間のキャビンは半分程になって
いる。指先で煙草をはじき、灰を落とす。田端くんが拳を開いた。
「・・・・・・怖いんだ」
また握り返す。
「怖いんだ! なにもかも、めちゃくちゃになっちゃうみたいで怖いんだ!」
私は適当な言葉を思い浮かべる事が出来なかった。ただ無言で、僅かにルージュの跡
をつけたフィルターの先を、背後から田端くんの口もとへと差しのべた。
ちらりと後ろを向いてから、田端くんはおずおずと煙草に口をつける。一息吸うと、
彼は激しい咳込みをもらした。軽く背を叩いてやりながら、私はうかつにも笑みを浮か
べていた。
「最初はただ、ふかすだけでいいのよ」
顔を渋らせながら彼はもう一度キャビンをくわえる。煙草からは目をそらしたまま、
今度は一呼吸もせずに口を開いた。
「どう?」
「・・・・・・まずいよ」
「そう?」
「やっぱり嫌だ」
「じゃあ、そう言ってやりなさいよ。『煙草はまずいからやめろ』って。それが友達
でしょ?」
「・・・・・・・出来るかな?」
「さっきと一緒よ。最初は出来ることから始めればいいの」
そうなのだ。結局、そういうことなのだ。
私は煙草の先を手摺りに押しつけて消した。
「そうね、とにかくまず言ってみることね」
「・・・・・やっぱり体に良くないからだよね、煙草がいけないのって。まずいからって言
っても説得力無いと思うな」
「君は一言多いね」
その声には少し笑い声が混じっていた。
「・・・・・・・先生」
「なに?」
「煙草、やめたほうがいいよ」
田端くんの顔は真剣そのものだった。
「美容にも悪いし、赤ちゃんにも悪影響があるらしいよ」
「ははは・・・・」
おかしさのあまり涙がでた。鼻のあたりまであつくなってくる。
「さ、もう帰ろうか」
私は水鼻をすすりあげながら鞄を左手に持つ。そして、空いた右手を田端くんの肩に
回すと、一緒に階段へと向かった。
「ねえ、田端くん」
「はい?」
ちょっと緊張した声が返ってくるの聞いて、私は言った。
「髪、ちゃんと洗いなさいよ」
* * *
数ヶ月がたち、私はまだ教師をやっている。
私語を無くす効果的な方法は未だみつからない。しかし、最近、我ながら自分に少々
落ち着きが出てきたのか、前のように収拾がつかない程の騒ぎになることも無くなった。
田端くんはもう石島くん達とはあまりつきあわなくなったようだ。しかし、友達は大
勢出来たみたいで、彼に好意を寄せる女の子もいる、なんて噂も耳にした。やはり、毎
日髪を洗うようになったせいだろうか。
もっとも、田端くんはどうも近頃、私を避けているようだ。時々は笑って挨拶をして
くるので、嫌われているのでも無さそうなのだが。やはり子供の気持ちは良く解らない。
なぜだか、あれ以来、私は煙草を吸っていない。
当分、そのつもりだ。
<了>
Written by MORIVER '93.10.29.
HTML modified in '97.6.11.
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