晴れた夜
―七夕―


「遅いぞ、猿くん!もう皆揃っている!」
 顔を覗かせるやいなや、降りかかってきた榎木津の声に、関口は驚きと不安で口が利けなくなる。何とか言葉を返そうとしている内に車に押し込まれ、超特急という勢いで車は発進した。
「榎さん、安全運転でお願いしますよ」
 隣に座っている京極堂の台詞に、関口はどうにか理性を取り戻す。そして前座席に座っている榎木津と木場の頭を見ながら言った。
「何か約束してましたっけ?」
 今日、関口はいつものように何と無く京極堂を訪ねて行っただけだった…筈だ。それ以上に思い出せる事は無く、その台詞を口にしたのだが、もし何らかの約束をしていて、それを自分がうっかり忘れていたのならば、この台詞は危険なものだった。だから敢えて京極堂の顔は見ずに、ぼそぼそと呟くように言ったのだ。
「馬鹿者!本当に愚かだな!君は。今日が何の日だかも知らないのか?では神たる僕が教えてやろう!今日は――七夕だ!」
 そう言われてそう言えばそうだったな、と関口は思ったが、それについての約束など思い出せなかった。仕方無しにそっと横の京極堂を覗う。相変わらず不機嫌を絵に描いたような表情の京極堂は、小さく肩を竦めると不本意を背負った口調で言った。
「先程、突然二人でやって来たんですよ。七夕だ七夕だと騒いで。そこへたまたま君が来合わせた」
「それじゃあ、遅いなんて言われる筋合いは無いじゃないか」
 関口がそう言うと、運転席にいる榎木津が振り返って言った。車は相変わらず猛スピードを誇っている。
「だから馬鹿だというのだ、君は!僕が決めた時に君が遅れて来たんだぞ。遅いと言われて当然なのだ!」
 相変わらず無茶苦茶である。だが運転手が振り向くという恐怖から、関口は解った解ったと言って、前を向いてくれるよう頼んだ。
「しかし約束なんてしてなくたって同じ事だろう、君の場合は」
 京極堂の台詞に関口は嫌な予感に包まれて京極堂を見る。不機嫌な表情に些かの愉しみが浮かんでいた。
「どういう意味だよ」
「どうせ今だって、有りもしない約束を思い煩っていたんだろう。記憶力が欠如しているんだから、約束なんてするだけ無駄だ」
 言われた事が事実なだけに反論のしようが無い。関口は黙って流れ行く景色を見ていたが、ふと気づいて再び口を開く。
「それで…何処に行くんだい?」


 そこは大層な人出だった。平塚七夕祭――昭和26年に仙台のそれを模して開催されるようになったそれは、年々人気が高まっているようだ。榎木津の運転する車は、その人込みをあろう事が掻き分けると、我が道を行く呈で駐車した。榎木津は高笑いと奇声を発しながら、木場と共に大通りを闊歩して行く。関口は先程不用意に口にした言葉…とは言え訊いて当然の問いの後、再び散々馬鹿にされて、些か疲れ果てていたが、人々の愉しげなざわめきと煌びやかな装飾に暫し目を奪われた。
「関口君、呆けていると逸れるよ」
 そう声を掛けた京極堂は既に関口から数歩離れて進んでおり、関口は慌てて京極堂に追いついた。
 色とりどりの明かりを燈した夜店。浴衣姿の子供、大人。風に揺れる笹の葉、その飾り。目にするだけで胸が高鳴った。
「関口君」
 再び迷惑そうな京極堂の声に促されて、関口は京極堂の傍まで歩を進める。だが傍目には酷く不機嫌そうでも、京極堂自身もこの雰囲気が満更でも無いのは長い付き合いの関口には見て取れた。
「あれ?榎さんたちは?」
 関口が訊くと、京極堂は呆れたように溜息をついた。
「君があんまり遅いものだからとっくに姿が見えないよ。しかしここで逸れてしまっては後で何を言われるか解ったものじゃないから追いついてみるか。どうせ行き先は見当がつく」
 京極堂は酷く面倒くさそうに言うと、これで最後にしてくれよとばかりに関口を睨みつけて歩き出した。関口は今度こそはと思い、京極堂の姿だけを目で追う事にした。
 京極堂が見当をつけて入ったのは、大きなちょっと洒落た感じの居酒屋だった。そしてそこには当然のように杯をあけている二人の姿がある。
「遅いぞ!二人共。何処で何をしていたんだ?」
 榎木津が二人の姿を目に止めるなり喚いた。京極堂は溜息をつきつつ、二人の向かいに腰を下ろす。関口もそれに倣ってその隣に腰を据えた。
「関口君があまりに歩くのが遅いのでね。私のせいではありませんよ」
「なんだ、猿くん。君は猿ではなく、亀だったのか。のろまな亀め、とっとと呑め」
 突き出された杯を受け取りながら、既に大分できあがっている榎木津と木場を見た。この短時間に一体どれだけ呑んだのだろうといぶかしながら、杯を口に運ぶ。思っていたものより随分と口当たりがよく、これでは進みも早いだろうと思った。隣を見ると、京極堂も木場に勧められた杯を口につけている。京極堂は今日は割合機嫌が良いらしいと、関口は思った。
 呑み慣れない酒を強かに呑んでしまい、関口は目が回るような感覚を覚えた。これは拙い。榎木津と木場に付き合っていたのでは潰れてしまうと、今更のように思いながら、京極堂はどうしただろうと視線を送る。彼もどうも勧められるがままに杯を重ねていたようだ。いつもの不機嫌な表情が消えかけている。珍しい事もあるものだと、関口はまじまじと京極堂を見つめた。
「何だね?」
 そう思ったのも束の間、再び不機嫌を取り戻した京極堂の視線に会って、関口はもぞもぞと口を動かす。
「いや、その…七夕祭を見に来たのに、結局酒盛りなんだね」
「何を言う!僕は確り七夕祭を見たぞ。関君は見なかったのか。相変わらず間抜けだな」
 榎木津の言葉に関口は反論しようとしたが、ただでさえ理屈の通じない相手に酒が加わっているので、ここは黙っていた方が得策だと口を噤んだ。それを良い事に榎木津は間抜けだののろまだのと繰り返す。いい加減腹に据えかねていたところで京極堂が言った。
「僕はそろそろ行きますよ。どうぞごゆっくり」
 京極堂はそのまま席を立つとさっさと店を出て行ってしまう。榎木津も木場も気にした風は無い。ならば、と関口も席を立つ。
「じゃ、じゃあ、僕も」
 慌てて京極堂の後を追った。


「京極、待ってくれ」
 関口は京極堂の後姿に縋るように声を掛けた。京極堂はわざわざ振り向いたりしなかったが、その足は止まる。関口は今日何度めかに京極堂に追いつくと、その横に立った。
「やはりこの時期ではあまり良く見えないな」
 京極堂は空を仰ぎ見ながら言った。関口は同じく空を見ながら、京極堂が言ったのは織姫星と牽牛星の事だろうと、思い目を凝らす。星は幾らか見えてはいるが、どれがそれなのか関口にはさっぱりだった。
「この時期には見えないって?七夕なのに?」
「やはり旧暦に沿ってやるべきだね」
 そう言われて成程、そう言うものなのかと関口は思った。だが星の瞬きはこの夜美しくて、それはそれでいいような気もした。
「仙台では旧暦で祭をやるんだよ。その頃になると織姫星は夜の9時くらいには仙台の真上に見える。そんな事に気づく人間はあまりいないだろうがね」
 見えても見えなくても同じ――京極堂はそう言っているようだった。
「そんな考え方は淋しくないか?」
 関口の言葉に京極堂は彼に視線を注ぐと、何とも言えない表情をした。関口もそれ以上言う気になれず、また何を言って良いかも解らなくなり、ただ黙って星を見上げた。
 暫くしてから京極堂は思い出したように口を開いた。
「そうそう、面白い事を思い出したよ。織姫星…琴座のベガは歳差現象によって今から一万二千数百年後には天の北極から5度離れたところに輝くようになる」
 そう言って京極堂は少し笑ったようだ。
「天の北極から5度?」
 意味が解らず関口は問う。歳差現象も解らなかったが、酒のせいかふわふわした気分であまり追及する気にならない。
「北極星になるという事だ」
「へえ」
 それはなんだか不思議で感動的な事に思えた。だがそれを口に出すのは止める。酔い気分でも不思議なんて言葉を持ち出して、一通りの蘊蓄を聞く気にはなれなかったのだ。それよりもその不思議な気分のまま、星空を眺めていたい。果たして京極堂もそういう気分だったのか、それ以上ものは言わずに黙って空を見上げていた。
 どれだけそうしていたのだろうか。首が疲れて来たので隣を見ると、京極堂はとっくに空を見放したらしく、何故か関口をじっと見ていた。
「京極?」
 ふいと、視線が逸らされる。何故だと考える隙も無いままに、京極堂は歩き出しながら言った。
「そろそろ行こう」
 考えが何も無いままに関口は京極堂と共に足を進めたが、ふと気づいて口を開く。
「…って、何処へ行くんだ?まさか榎さんはあの呈で運転はしないだろう?」
 もししたとしても絶対に自分は乗らないぞと関口は思った。だが京極堂はまさかと一蹴する。
「旅館をとってあるんだよ。榎さんの知り合い…いや、正確には榎さんの家の付き合いの旅館だそうだ。毎年、榎さんの父上が来ていたらしいんだが、今年は用事があって来れないらしくてね。それで榎さんが行くと言い出したのさ」
「そんな事なら早く言ってくれればいいのに…」
 初耳な事ばかりである。関口はぼやいた。
「君が訊ねかったんだろう?車で来ているのに酒なんか呑んで、どうするつもりだと思っていたんだ?」
 確かに言われてみればそうなのである。だが京極堂が何も言わなかったので、何故か大丈夫なんだと思っていたのだ。そう口にすると、京極堂は苦笑いを浮かべて小さく呟いた。
「全く君は――」
「暢気だって言いたいんだろ。いいさ、何だって。今日は七夕だからね」
 苦笑いと言えど、なんだか穏やかな京極堂の様子に関口は不思議な事もあるものだと思った。
「理由になっていないよ、関口君。しかし…晴れて良かったな」
 ああ、そうだ。星空が見える。今夜は晴れて…牽牛と織姫も出会えたのだ。それこそ何も理由になっていなかったが、何故かそれでいいのだと思えた。今夜は晴れていて京極堂は機嫌が良い。七夕で関口も気分が良い。良い事尽くしだ。


「七夕は恋の成就を願う祭でもあるんだよ」
 再び星空を見上げながら、京極堂はそんな事を呟いた。

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