或いはこんな人魚姫
見上げた空には砕け散った宝石のような数多の星。漆黒に染まった海も、海上では波が月の光を反射して、きらきらと輝いてそれは綺麗です。何処からか音楽が聴こえてきそうな美しい夜に、そんな波間から顔を出した人魚姫はうっとりと漂っていました。
すると何処からか本当に音楽が聴こえてくるではありませんか。人魚姫はその美しい調べに引き寄せられるように、波間を自在に進んでいきました。何と言っても人魚姫です。美しい虹色の尾は多少高くなった波も心配する事はありません。僅かな身の捩りで瞬く間に移動できるのです。そして人魚姫はとうとう流れ出る音楽の在処を見つけました。それは海上を進む人間の船でした。人魚姫にしてみれば無様な泳ぎ方をするもので、可笑しいくらいでしたが、その船の上から聴こえてくる音楽にはとても惹かれました。本当は人間に近づく事は海に住む一族たちの間で、強く禁止されていましたが、その調べに魅せられた人魚姫はついつい船の直ぐ近くまで泳いで行ってしまいました。
船上を見上げると、そこには幾人かの人間が愉しそうに音楽に合わせて踊っていました。二本の足の動きは人魚姫には奇異に感じられましたが、興味深くもありました。そこでじっとそれを見ていると、突然綺麗な音楽を打ち破るかのような大きな笑い声が聞こえてきました。人魚姫が驚いてその声の主を探すと、そこには今まで見た事の無いような美しい姿の王子が船の帆先に座っています。栗色の髪は海風に涼しそうにそよぎ、大きな鳶色の眸は茫洋として夢見るよう。皇かな白い肌に、気高き顔立ち――人魚姫は美しい音楽に惹かれるように、瞬時にしてその王子の虜になりました。
ああ、ですが王子は人間です。船に掲げられた旗を見ると、この近くの大陸の一角を占める薔薇十字王国の紋章――彼はそこの王子なのでしょう。海の中に住まう人魚姫には、近づく事は侭なりません。そう思うと人魚姫は酷く哀しくなりました。せめてもう少しだけでも近くで、あの麗しい顔を見たい。それが不可能だと思えば思う程に、その思いは強くなりました。
人魚姫は哀しみに沈みながら、海中へと潜りました。どうせ不可能ならば早くに忘れた方がいい。そう思って。
どのくらい漂っていたのでしょう。まだ後ろ髪曳かれる思いから、そんなに深くは潜っていませんでした。なので海上の流動が激しくなったのに、人魚姫は気づきました。早く海の底に戻ろう、そう思った瞬間、人魚姫は逆の行動に移っていました。あの船の上の王子が心配になったのです。あんな無様な泳ぎ方をする船で、荒れた海を泳ぎ切る事ができるのでしょうか。
人魚姫が海上に顔を出すと思った通り、船は荒波に揉まれ、今にも壊れそうです。船上からはあの美しい音楽も消え、逃げ惑う人々の悲鳴が響くのみ。しかし人魚姫には何もしてあげる事はできません。人間の前に姿を現す事などできないからです。ですが人魚姫は先程見た王子の姿を求めて、壊れ行く船の近くから離れる事はできませんでした。
風が吹き荒れ、波が牙を剥き、船はとうとう転覆してしまいました。人魚姫は我が身の危険も顧みず、海上に横たわった船の帆先に近づきました。先程王子がいた場所です。そして驚いた事に王子は帆に抱かれるように気を失ってそこにいたのでした。
とても身近に王子を見て、人魚姫はますますその美しさの虜になりました。不可能だと思えた事が、叶ったのです。このままずっと王子の傍にいたい。そう思いました。ですが王子は人間です。このまま海に漂っていては死んでしまいます。そうすればこの美しい姿はやがてたまに波間を漂っている人間の骸のように醜い姿と変貌してしまうでしょう。人魚姫は涙を流しました。
岩陰に身を隠し、人魚姫は切ない想いで王子の姿を見守っていました。王子の国である薔薇十字王国まで王子を運ぶには、王子の体力が持たないと判断した人魚姫は最も近い岸辺に王子の身を横たえて、誰かが気づくのを待ちました。やがて遠くから王子を発見したらしく、走ってくる人間の姿がありました。人魚姫はそれだけを確認すると切ない想いのまま、海へと帰っていきました。
しかし数日経ち、人魚姫は再び王子の姿を求めてその海岸を訪れました。こっそりと岩陰から陸地を眺めていると、海岸のすぐ上に張り出した岩の上に建つ屋敷に王子の姿があります。しかしあまりに遠い距離――海の上ではあんなにも近くにあったものが。
どう足掻いても、陸に上がる事のできない身を人魚姫は嘆きました。王子の姿が見えなくなるまで岩陰に身を置いていた人魚姫は、悲嘆に暮れたまま、海の奥深くまで沈みこみました。海の中ではこんなにも自在な身体なのに、陸へはただの一歩も踏み出す事ができないのです。何故なら陸に踏み出すべき足を、人魚姫は持たないから。
あまりの哀しみに人魚姫の涙が止まる事はありませんでした。
「海が塩辛いのは人魚の涙のせいというのは、強ち間違いではないのかな」
ふいにそんな声が聞えて来ました。人魚姫が泣いたままの顔をそちらに向けると、そこには黒衣を纏った海の魔法使いの姿がありました。
人魚姫は驚きと恐怖に泣く事を忘れました。何という事でしょう。それは海底深くに京極堂という庵を持つ恐ろしいという噂の魔法使いでした。その庵の名前から魔法使い自身もそう呼ばれています。人魚姫が彼の姿を見るのは初めての事でした。
様々な噂から誰も近づく事の無い庵で独り、好きな事だけをして過ごす生活を、京極堂と呼ばれる魔法使いは喜んでいました。ですが珍しく誰かの気配が庵の傍でしました。京極堂は不審に思って庵の外へ出ると、庵のすぐ近くに人魚姫の姿がありました。細い肩を震わせて、海底の小さな岩に縋りつく様に、京極堂は何故か酷く心を動かされました。そして思わず声を掛けてしまったのです。それに驚き京極堂を見る人魚姫の表情に、京極堂は心臓を射抜かれたような衝撃を受けました。何と可憐な人魚姫なのでしょう。泣き腫らした赤い眸がとても痛々しく、京極堂は僅かに胸に痛みを覚えました。
「ごめんなさい。邪魔をするつもりは無かったんです…」
震えるような声で人魚姫は言いました。その愛らしい声は京極堂の胸にきらきら輝く光のように響いてきます。一条の光も射さぬ海底の奥深くに暮らす京極堂にとって、それがどれだけ新鮮だったか言葉には言い尽くせない程でした。
「別に邪魔ではないが…何故泣いているんだい?人魚姫」
自分の受けた衝撃を隠す為、京極堂の物言いは少し冷たいものになっていました。本人としては至極優しく問い掛けたつもりでしたが。
「た…巽です」
人魚姫には実は多くの兄弟がいて、即ちそれが総て人魚姫ですから、そう呼ばれた事に僅かな抵抗を覚えて名を名乗りました。更には自分が人魚であるという事が、今はとても哀しかったので。
「…あまり泣いては目が痛む。来たまえ、薬を上げよう」
その声は鋼のように硬質で、表情も至って無表情でしたが、噂とは違いそこまで恐ろしい魔法使いではないようだと人魚姫――巽は思ったのでした。
「人間に――」
酷く険しい顔をして、京極堂は言いいました。巽は震える肩を抱き、再び大粒の涙をぽろぽろと零します。
京極堂はじっと巽の顔を見つめました。巽が美しいと憧れる人間の王子がどのような容貌なのか知りませんが、京極堂にとっては巽こそが何よりも眩い宝石に思えたので。
「む、無駄な望みだとは解っているんです…僕はこんな身体で、海にしか住めない。陸に上がろうものならば、無様に横たわり何れ死んでしまう――」
あの人間の王子が海の中では生きられないように――。決して近づく事などもう叶わないのだと、巽は涙で歪んだ視界を閉ざしました。
京極堂はそんな巽を切なそうに見つめると、苦い想いを噛み締めました。海の深く、静寂に染み入るかのように微かな歎きが木霊します。
「そんなにまで望むならば、方法が無い訳では無い――」
泣き伏したままの巽に、京極堂の深く低い声が重く響きました。
続く
ご心配無く。
京×関です(笑)