蝉時雨
102さま
「タツさん、白桃を頂きましたのよ。折角ですから、中禅寺さんに持って行かれてはいかが?」
関口が一人、座敷で鬱々としていると、妻の雪絵が手に風呂敷包みを持ってやってきた。
「――厭だ」
関口は口の中で唸る様に呟くと、畳に寝転んだ。
「まぁ、いつもあんなにお世話になっているのに…」
「君が持っていくといい」
「私は叔父が倒れたのでお見舞いに行ってきますと朝お話ししたじゃありませんか」
雪絵は口元に困ったような微笑を浮かべ、小首を傾げて夫を見る。
ああ。そうだったか――。
関口はぼんやり思い出しながら、それでも踏ん切りのつかないままに「あぁ」とか「うん」とか意味の無い言葉を洩らす。
「沢山頂いたので、私達二人では食べきれませんわ。それに私は2・3日留守にしますし…。あまり置いていては桃が痛んでしまいますよ。折角見事な桃を頂いたのに、勿体無いでしょう?」
「僕が一人で食べる」
雪絵は微かに眉を寄せたが、駄々をこねる夫への叱責の代わりに、そっと溜息を吐いた。
「タツさん、あまり家に篭りきりでは身体に悪いですよ。気分転換にお出かけなさったらいかが?」
「炎暑に当たって倒れそうだよ」
ごろりと寝返りを打つ。
「……」
雪絵は何か言いたげに口を開いたが、あきらめた様に唇を結んだ。
「では出かけてきます。火の元と戸締りには気を付けて下さいね」
++
関口は何をする気も起きず、畳の頬にあたる感触にそっと目を閉じた。
先日中禅寺宅を訪なった時の事が脳裏に蘇る。
乱暴に中禅寺に組み敷かれ、背徳の肉欲に沈淪した。
一体どんな顔をして京極に会えと言うのだ。
関口は胸に苦いものが込み上げてきて、堪らない様に顔を顰めた。
同性の10年越しの友人に強引に姦され、関口の脆弱な精神は基盤から崩壊しそうだった。
しかし、「あの時」自分は確かに「感じていた」
その厭わしい事実。
中禅寺に抱かれ、関口は目眩めくような快感に酔ったのだ。
それが何よりも関口を混乱させた。
ああ、蝉が煩い――。
++
「関口君、いるかい」
玄関からよく通る声がした。
途端、関口の心臓が跳ね上がる。
何故彼が――!
あの日以来、関口は中禅寺を避け続けていた。
会える筈が無い。
どんな顔をして、何を言えというのだ。
怒りのままに罵倒しろと――?
しかし自分は怒りなど感じていない。
僕も好きだとよろめき付けと――?
しかし自分は中禅寺と同質の愛情を彼に抱いているわけではない。
関口にあるのは混沌だ。
乱麻のように錯綜する感情のままに、鬱を彷徨っている。
あの日の答えを出せないままに……。
「関口君――?」
不審げに呼ばわる声がする。
関口は咽喉の奥に言葉を凍りつかせたまま、その塊を飲み込む事も吐き出す事も出来ずに、繰り糸に操られる人形の様にふらりと玄関へ向かった。
「あ・やぁ……」
笑おうとしたが、関口の頬は痙攣の様にぴくりとしただけだった。
「――雪絵さんから電話があったよ」
中禅寺は暗い目で関口を見た。
「雪絵が…?」
「ああ。ちょっと自分は用事で出かけるが、君のことが心配なので様子を見てやって欲しい、とね」
「――」
「そんな顔をするもんじゃない。雪絵さんは酷く恐縮していたよ。何度も謝られた。余程、鬱の君を一人残して行くのが気がかりだったんだろう」
相変わらずの仏頂面――いや、いつもよりずっと険しい。
しかし、中禅寺は淡々と喋り続けている。
関口は中禅寺の顔すらまともに見れないほどに混乱していると言うのに――。
「あの…、京極――」
「なんだい」
「…いや、その――」
俯いた侭、もごもごと口の中で言葉を空回りさせている関口に、耐え兼ねた様に中禅寺はピシャリと冷たく言った。
「苛苛するなぁ、何だい、一体。言いたい事があるなら明瞭り言いたまえ」
関口はびくりと肩を竦め、怯えたような目で中禅寺を見上げた。
「……。桃をね、貰ったんだ。よかったら、持って帰ってくれ」
誰のせいでこんなに混乱しているか判っているのか?
関口は叫びたかったが、それを口に出せば、「あの日」の事を蒸し返さねばならない。
それは厭だ。
中禅寺が「無かった事」にしてくれるのなら、それに越した事は無い。
「あの日」は記憶の底に埋めてしまえば良い。
訳のわからない靄もやとした感情に翻弄されるのは御免だ。
逃避こそが関口の日常を保ってくれる手段だ。
狡い、とは思う。
しかし、快刀乱麻の如き決断を下すには、自分の意志は薄弱過ぎる。
「折角来てくれたのに、玄関で立ち話も悪いね。何もないけど、麦茶程度ならだすよ」
逃げを決め込んだ途端に、関口は肩の荷が降りたような気分になった。
++
「へえ、白桃か。見事だね」
雪絵が用意した風呂敷包みを渡すと、中禅寺は僅かに頬を緩めた。
「ああ。この辺じゃあまり作ってないよね」
「袋掛けが手間だし、防虫駆除も大変だからね。管理と世話に随分気を遣わなきゃならないらしい」
空々しい会話だ――。
関口は乾いた笑みを貼り付かせたまま、中禅寺の話を聞いていた。
「関口君」
中禅寺が言葉を切る。
「な・なんだい?」
気まずい沈黙の気配に、関口は努めて明るい口調で答えた。
「言葉は口から出た以上、行為は犯してしまった以上、”無かったこと”には出来ないのだよ」
中禅寺の目が強く関口を射る。
中禅寺の目には、何かに耐えるような、苦しそうな色が浮かんでいた。
関口は頭の芯が凍りついたまま、降る蝉時雨を遠くに聞いていた。
「何事もなかった様に君に接することで、君の鬱を払おうとも思ったがね。しかしそれでは根本的な解決にはならない。逃避は君に仮初めの安寧を与えてくれるかもしれないが、しこりを深層に残したままでは駄目なのだよ」
中禅寺の眉間の皺が深くなる。
「僕は君への感情を抑えつけて、最悪の形でそれをぶちまけた。関口君が逃避を望むなら、それに沿うのが本来なのだろうね。だが、忘却と欺瞞で構築した仮想現実が長持ちすると思うかい? そんなもの、所詮砂上の楼閣さ」
中禅寺は不味いものを吐き捨てる様に顔を顰めた。
「関口君。僕を裁きたまえ」
頭の中で蝉の声がわんわんと響いている。
何も聞こえない。
何も聞きたくない。
関口はカラカラに乾いた口から、掠れた声を何とか絞り出そうとした。
「きょ…ごく――。僕は……」
僕は、――なんだ?
突然、容赦無く選択を迫られ、関口は只呆然と中禅寺を見た。
無理だ。駄目だ。苦しい。苦しい。苦しい。
自分が中禅寺を拒絶できるはずが無い。
愛とか恋とかいうものは、自分にはよく解らない。
好きか嫌いかで言うなら、中禅寺の事は「好き」だろう。
しかし、友人としての好意と男女のそれは違う。
抱きたい抱かれたい、そんな劣情を中禅寺に抱いたことは無い。
同性同士のマグワイなど、考えるのもおぞましい。
では何故、自分はあのような行為を受けて尚、中禅寺の事を「嫌い」になれないのだろう。
依然自分は中禅寺の事が「好き」でいる。
そしてあの時感じた酔った様な恍惚感――。
「もう一度、抱いてくれないか?」
関口は俯いた侭、やっと聞き取れるぐらいの声で呟いた。
「関口君――?」
流石の中禅寺も驚いたらしい。
片眉を上げ、関口の真意を測りかねる様に目を細めた。
「…よく解らないんだ――だから…確かめたい――」
関口は羞恥に耳まで真っ赤になっている。
同性の友人に性交を請うなど、狂気の沙汰だ。
いや、たとえ自分が女であったとしても、なんと淫乱な台詞だ。
しかし、ただ机上で空論をこね回すだけでは、思考が迷宮に入り込んでしまう。
「――怖いから…その、あまり、乱暴にはしないでくれ…」
そう言ったきり、関口は唇を噛んだ。
言いようの無い恥ずかしさ。居た堪れなさ。
それに関口は耐え、中禅寺の答えを待った。
答えの代わりに、関口は頬に中禅寺の骨ばった手が触れるのを感じた。
優しく上向かされ、そっと口付けられる。
中禅寺は込み上げる愛しさのまま、強く関口を抱き締めた。
目を強く閉じ、関口は中禅寺の肩に顔を埋める。
――外は耳を聾さんばかりの蝉の声。