「内股すかしの判定について考える」
篠原対ドイエの試合に関して、マスコミやファンの間での話題は「内股すかし」の瞬間に集中しています。
あの部分だけを見ると確かに意見は二つに別れるでしょう。
篠原選手の動きにだけ目をとられた人が見た場合、逆にドイエ選手の動きだけを見ていた人の場合、また「内股すかし」という技を知らない人が見た場合、あるいは柔道のルールすら知らない人が見た場合...などなど人によってそれこそいろんな意見が出るに違いありません。
確かにあの試合は多くの素人の方はもちろん、多少の柔道の経験がある人でさえ簡単には判断しにくい難しい判定だったことは事実です。
今回の件は、例の「内股すかし」のシーンの判定の是非が主に問題の争点になっているようですが、実際はあの5分間の始めから終わりまでの全てに問題があります。
さらに言えば、あの試合で見られた山下ヘッドコーチをはじめとする日本選手団及び全柔連関係者の怒りはもっと長くて根の深いものがあり、昨日今日始まったものではないということ。
たまたまあの試合終了直後にこれまでたまっていたものが一気に噴出してしまった、ということでしょう。
ここ十数年(ソウルオリンピックの少し前あたりあるいはもっと昔から)にわたり国際柔道連盟が長らくうやむやにしてきた(全柔連の辛抱と寛容によって許されてきた)重大な問題が最悪の形で表にあらわれたに過ぎなかった。。。私はあの試合についてそんな感想を持ちました。
あの試合における論議の中で、このシーンに関する判定の是非が主に問われているようです。しかし私はこのことが最も重要な問題ではないと考えていることを前置きしておきます。
また、あの試合の中でのあのシーンだけを見ることで試合全体を評価することは大変危険です。
更に、あの試合だけを評価することで、現在の国際柔道界が抱える問題について言及することも大変危険である、ということを重ねて前置きしておきます。
ともあれ、あのシーン(試合開始1分39秒の内股〜内股すかしのシーン)に関する私の考えはこうです。
結論から言えばあの試合は、篠原選手がドイエ選手の内股をすかして一本を取った時点で終わっています。
ドイエが篠原の足を跳ね上げて両者が体のバランスを崩した時点までは確かにドイエが篠原の体をコントロールしています。その状態のまま篠原の体が少しでも浮いて倒れてしまったならそれは明らかにドイエの技が効いたということでドイエのポイントになります。
(審判は有効の判定を下しました(これもどちらの有効をとったのか定かでない)が、あれは譲っても「効果」程度です。)
↓こちらの写真をクリックしてみてください。
篠原選手がドイエ選手の内股をすかした時の写真(転載)です。
この写真を見ると、篠原がドイエの刈り足をすかした直後、篠原の両手が完全にドイエの体を制しているのがよくわかります。
軸足も刈り足も畳から離れ一回転して背中から落ちてしまったドイエの体は、この時すでに完全にそのコントロールを失っています。
体が宙に浮いた上に軸足はおろか両足が天井を向いた状態の選手が、相手の重心を制することは不可能です。
さらに、ドイエの両手に注目すれば尚それは明らかです。落ちる瞬間のドイエの両手は篠原の体から完全に離れてしまっています。
篠原の体から離れたドイエの引き手は篠原の吊り手によってしっかり絞られ自由を失っており、篠原の帯を掴んでいた(これは既に反則ですが)ドイエの吊り手も帯からすっかり離れてしまっています。
つまりこの時点で既にドイエの体は、篠原の返し技に投げられるままの“死に体”になってしまっているのです。
内股をかけた時点で相手を攻めていたのは確かにドイエでしたが、技の途中から相手の動きを制していたのは篠原。
最終的に一回転したのはドイエであり、背中から落ちたのはドイエの方でした。
さらに、篠原の足に注目していただきたい。
ドイエを投げた直後に篠原の体もほとんど同体で倒れたように見えたかもしれませんが、よく見るとドイエの体が畳につくまで篠原の軸足はしっかり畳についています。軸足が地についているからこそ篠原の上半身は有効に働き、結果的にドイエの体を畳に叩きつけることができたわけです。
この間、コンマ何秒というほんの一瞬の出来事ですが、まさに一瞬にして攻守が逆転してしまうのが返し技というものです。
柔道の試合は非常にスピーディに展開します。
柔道の審判員は、こういった一瞬の出来事を見極めることができなければ到底つとまりません。
この試合の審判員は審判員として当然要求されるべき的確な判断をすることができず、正しい判定が行えなかったのです。このことが行えなかった審判員のスキルは非常に未熟であったと言えます。
これは、ミスジャッジ以外のなにものでもありません。
試合の流れを正しく見極めることができなかったばかりか、 ドイエの体を先に畳に落とした篠原に「一本」を与えず、逆に後から畳に横になった篠原が「有効」をとられるという理解不能とも思えるジャッジに我々はその目を疑うばかりでした。
問題のシーンについての私の意見は以上です。
講道館柔道の投げ技というのは、そもそも戦場の殺し合いから生まれた技術だと聞いています。(今となっては前時代的な話ですが...)
柔術が柔道になってスポーツとして一般化される過程の中で変質してしまったものですが、本来それは一撃で相手の命を奪うことのできる技術とされています。
もしあの会場が畳の上ではなくて、固い土の上あるいは石の上だったとしたら?
おそらく立ち上がれたのは篠原一人でしょう・・・。
本来、「一本」というのはそういった観点で判定されるものです。
(残念ながら、国際柔道でいわれるところの「一本」というのは長い間に、本来の講道館柔道でいうところの「一本」とはかけ離れたものになりはててしまっています。)
反則や効果的な技といったポイントばかりを奪い合うだけのジャケットレスリングになりはててしまった「JUDO」しか知らない今の国際審判がこれを理解しようとするのは困難なのかもしれません。