AEROSMITH


Album Number
1st 2nd 3rd 4th 5th

Discography



Aerosmith。 当初Steven Tyler(Vo/Dr)、 Joe Perry(G)、 Raymond Tabano(G)、 Tom Hamilton(B)の4人で結成されたバンドが母体となる。
その後、Stevenがフロント マンに専念する事になり、Joey KramerがDrumsとして加入する。 更に、GuitarのRaymondも脱退し、Brad Whitfordが代わりに加入する。
そして、ボストンで共同で共同生活を始めた5人組は、Joeyのアイデアによりバンド名を「Aerosmith」と命名。
黄金期のメンバーはこうして誕生した。

Aerosmith最初のLiveは、地元のとある高校で行われたらしい。
当初は、カヴァーを中心にやってきた彼らだったが、直ぐにオリジナル中心へと移行する。
だが、その頃のクラブはカヴァー バンドの方を優遇しており、彼らのようなオリジナル中心のバンドは、 なかなか出演の機会に恵まれなかった。
だが、紆余曲折を経てとうとうバンドはクラブに出演できる事となり、そのクラブで当時Columbia社長に気に入られ、 遂にメジャー デヴューを果たせるようになった。

プロデューサーに迎えられたのは、Vanilla FudgeやCreamを手がけたAdrian Harperが迎えられ、 さっそく彼らは1st Album制作へと乗り出した。
だが、これがいきなり売れるほど世間は甘くなかった。
プレスには、「The Rolling Stonesの2級コピー バンド」などと酷評され、滑り出しは順調とは行かなかった。
しかし、地元ボストンを中心に地道にLive活動をやってきた彼らは、口コミで徐々に徐々に人気を獲得して行った。

そして2nd Albumの制作へ入ったAerosmithは、翌1974年に「Get Your Wings」を発表。
だが、このAlbumも売れ行きはパッとしないが、再びDeep PurpleやBlack Sabbath等のビッグ バンドの前座を務めると言った地道なLive活動が実を結んで、 86週間の間チャートに食い込むと言ったしぶとさを見せた。
まさに演歌のような売れ方をキープして、彼らはバンドの命脈を保っていたのだ。

地道な活動を続けてきたAero。 彼らは、1975年に3rd Album「Toys In The Attic」をリリース。
そして、彼らは遂にこのAlbumで栄光をつかむのである。
シングル”Sweet Emotion”が36位、Album自体は最高11位にまで上り詰めたのだ。
そして、この3rd Albumの成功が全2作をも引っ張る形となり、今までたいして売れなかった1stと2ndもプラチナムをゲットしたのだ。
更に追い討ちを掛けるように、1st「Aerosmith」から”Dream On”がサイドシングルカットされ、これがチャート6位にまで上昇する一大ブームを築いた。

順調にセールスを伸ばしてる人気上昇中の彼らは、1976年に止めとばかりに4th Album「Rocks」をリリースする。
このAlbumはAerosmithのブームに乗り、直ぐにプラチナムを獲得。 チャートでは3位を記録した。
更に、”Home Tonight”、”Last Child”、”Back In The Saddle”の3曲がヒットの上、前作から”Walk This Way”も再浮上して トップ 10入りすると言う、まさにAero全盛期であった。

だが、この頃アメリカを蔓延していたドラッグは、Aerosmithをも蝕んで行った。
Steven とJoeが、過酷なスケジュールからの逃避か、はたまた純粋に快楽を求めてのことか、ドラッグにハマり出したのだ。
それでも彼らは、5th Album「Draw The Line」や「Live! Bootleg」などをリリースし、活動は続けていたが、これは消え去る前の残像に過ぎなかった。

そして怠惰な活動を見せるAerosmithに一大事が起こった。
GuitaristのJoe Perryがバンドから脱退したのだ!
元々 Jeff Beckに傾倒していたJoeは、メンバーの中でもBritish Rockのの影響を色濃く受けていた。
それがアダとなって、Joeはバンドの中で浮いた存在になってきてしまったのだ。
既にその時、6th Albumの製作に入っていた彼らは、Stevenの旧友Ritchie Spa達の手を借りて1979年に「Night In The Rats」の名でリリースした。
だが、過酷なツアーとドラッグが彼らを蝕んでおり、ツアー中にStevenがステージで倒れ、残りの日程全てをキャンセルしなければならなくなってしまった。

悲劇は重ねて起こるもので、翌年1981年、Stevenがバイクで大事故に会って長期療養するハメに陥ってしまったのだ。
活動停止を余儀無くされていたAerosmithに嫌気が差していたBradは、元Ted NugentのGuitarist、Derek St. Holmesと組んでレコーディングを行った。
このレコーディングが思ったより遥かにスムーズに行ったBradは、Aerosmithを脱退する事を決意。
Aerosmithは、いきなりオリジナル メンバー2人を失う事になってしまったのだった。

そして、Steveの怪我が癒えた1982年、Bradの後任にRick Duffeyを加入させたAerosmithは、7th Album「Rock In A Hard Place」をリリース
しかし、このAlbumは前作「Night In The Rats」同様、ゴールド ディスクは獲得したものの、大したヒットも生まず終いだった。

一方、Joeはバンドを脱退後、1980年に1st Solo Album 「Let The Music Do The Talking」をClombiaよりリリース。
小さなホールやクラブを中心にツアーにも出ている。
その後、Vocalを新たに加入させて2nd Album「I've Got The Rock'n Rolls Again」をリリース。
ツアーも精力的に続けたが、セールス的には成功に程遠く、JoeはこのAlbumでColumbiaとの契約を失ってしまう。

Bradの方は、Album「Whitford/St. Holmes」をリリースしてツアーを開始した所で、合方のSt. HolmesがTedに呼び戻されてバンドに戻ってしまう。
いきなりプロジェクトが消滅したBradは、同じ仲間だったJoeに接近。
Joe Perry Projectに何度かゲスト出演をした。
この時の2人の活動は、この後の2人の流れを決定させる重要な布石になる。
後にBradは「お互い一緒にやる事に対して、まだ新鮮味が失ってない事に、そしてやり残した事がある事に気づいたんだ」と言うような事を語っている。
そしてJoeはバンドの顔触れを一新させ、新たにMCAより「Once A Rocker, Always A Rocker」をリリース。 ツアーも行ったが、結果はまたしても惨敗であった。

そして1984年、JoeとBradはボストンで行われたAerosmithのギグに姿を見せた。
その2ヶ月後、「オリジナルメンバーにおける再結成」が発表された。
ソロ キャリアが苦戦を続けるJoe、プロジェクトが消滅したBrad、そして停滞する一方だったAerosmithにとって、この話は十二分に魅力的であったろう。

そして、新たな飛翔の伝説は世界を駆け巡る!!


〜 Aerosmith Album Review 〜



「Aerosmith」


Aerosmithの記念すべきデヴュー作。 その曲調は、全体的にシンプルなRock'n Rollを主体としている。
StevenのVocalもストレートに効いているのだが、まだ自分のVocal Styleを確立していないせいか、今とは違ったVo.を聴かせる。
3曲目の”Dream On”発売当初59位に。 そして1976年の黄金時代に6位にまで再浮上している。
”Mama Kin”はGunsもカヴァーしたので、知っている方は多いだろう。
クセが少ない分、可も無く不可も無くと言った印象を受けるAlbumだ。 まだ「黄金期」と言われた頃のノリは薄く、まだ自らのスタイルを模索している頃なのではないだろうかと思われる。。
だがその楽曲の数々は、決して駄作ではない。
まとまり感もあり、シンプルなロックが好きな方にはお薦めだが、私個人としては、イマイチ盛り上がり感に掛ける所が拭い切れない。





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