これは15くらいの時に書いた小説です。
賞に応募しましたが、落ちました。(笑)文章なってませんが読んで見て下さい。
最後の部分が・・・保存してなかったみたいで消えてます。(爆死)
そのうち・・・書きます・・・。それか、想像して下さいませ。

FISH TANK


僕にはパパが六人いる。もちろん本当のパパじゃない。本当のパパは二年前に離婚したきり音さたもない。
六人のパパはママの男だ。彼らは日替わりで僕の家にやってくる。
みんな、自分なりに時間を決めているらしく、いつも来る時間はだいたい決まっていた。
月曜日のパパはいつも酔っぱらっていて、ママよりも一二、三歳上らしき四十代位のおじさんだ。
このおじさんが来る時間が午後三時三十分頃で、よく学校帰りの僕と家の前でばったり会う事が多い。
そして僕に会うといつも、
「よお、坊主。お前何年生になったんだ?確か…二年生だったよな。」
と言って、赤い顔で笑う。僕が、
「違うよ、小学五年だよ。いいかげん覚えろ よな!」
と、不機嫌な声で言うと、そのおじさんは肩をすぼめて、
「怖い、怖い…・。」
と言いながら、僕の家の中に入っていく。僕もその後から少しむかつきながら家に入る。
家の中に入ると、おじさんは戸棚から勝手にママの洋酒を出して飲み出す。
そんなおじさんを横目でちらりと見て二階へ上がって部屋へ入る。
そして、必ず鍵を掛けてベッドに横になる。
なぜ鍵を掛けるかというと、下にいるおじさんが二階へと上がってくるからだ。
そして僕の部屋のドアをたたいて叫んだり、壁を殴ったりして暴れる。
一度この時に、ドアを開けた事があって、僕がドアから顔を見せたのを見つけると、
おじさんは僕の首をつかんで、部屋から引きずり出し、僕を殴った。
僕は無我夢中で何とか逃げようとしたけれど、結局またつかまってしまい、
今度は首を絞められた。僕はさすがにヤバイと思って、思いっきり反動をつけておじさんの腹を
蹴りつけた。おじさんは、うめき声をあげて座りこんだ。
(やった!)と僕は思った。だけどその瞬間、僕の体は宙を飛んで階段を転げ落ちた。
僕があまりの痛さで、半ば気を失いかけていた時、玄関のドアが開く音が聞こえた。
「ママあ…」
最後の力で、そう呟いて僕は気を失った。
次に気が付いた時には、僕は病院のベッドの上にいた。
(後からママに聞いたんだけど、僕が階段の下で倒れているのを見た時、
いつかこういう事が起こるんじゃないかと思っていたんだって。『だったら僕の事を心配して、
こんな奴とは別れていれば良かったのに。』って僕が言ったらさ、ママは笑って、
『本当にこんな事が起こるなんて思ってなかったのよ。』なんて言うんだもん。
さすがに僕はムッとして三日間ママと口を聞かなかった。しかも、僕にケガをさせた張本人のおじさんは
一度も見舞いに来なかった) 
  月曜日のパパはこんな感じだ。

火曜日のパパは、やせ細っていていつもオドオドしてる三十歳位の、顔の青い売れない作家のおじさんだ。
このおじさんは、朝早くから僕の家に来るから、(七時の朝食の時には、すでに来ていてちゃっかり一緒に
食事をする。)ママは午前中会社を休んで、午後から会社に出勤する。
僕にはママの気持ちが分からない。どうしてこんなにつまらない男のために、大切な会社を休めるのか?
だって僕がカゼで寝込んだ時にも、会社を休んだりしないキャリアウーマンのママなのに、ボサッとした男と
過ごすためだけに午前中休むなんて…。まったく理解できない。
僕はこのおじさんが、時々ものすごく憎らしく感じる。なぜだかわからないけど、こいつが六人のパパの中で
一番嫌いな人物だ。別に暴力を降るわけでもないし、酒もタバコもしない、性格も良い方だ。
けれど、どうしても僕は好きになれない。だから僕は、よくこのおじさんに嫌味を言う。
「おじさんがいると楽しいはずの朝食が、お通夜の席で食べてるみたい。」
「おじさんの青い顔を見ると、僕気持ち悪くなっちゃう。」
とか、色んな事を言う。そうするとママがものすごく怒って、僕を家の外に出して鍵をする。
僕は黙ってドアの前に座って開けてくれるのを、いつも待っていた。
そして、いつもそのドアを開けてくれるのは、僕の嫌いなおじさんだった。
おじさんは、とても優しい笑顔で僕を迎えてくれる、嫌味のない愛情に満ちた笑顔で。
僕は、その悪意のない笑顔に腹が立って、いつも急いで階段を駆け上がり部屋からランドセルを持つと、
走って学校へ行った。学校から帰ってきても、おじさんはまだ僕の家にいてママが来るのを待っている。
ママは帰ると、二階の部屋に隠れる僕を無理矢理引っ張り出して、必ず三人で夕食をとる。
これが済むと、やっと僕の火曜日が終わる。

そして水曜日。水曜日は僕にとって一番楽なパパが来る。
水曜のパパは、どっかの会社の社長なんだけどすごく若い。確か二十四、五歳だってママから聞いた。
この人だけは僕『お兄ちゃん』って呼んでる。(だって『おじさん』って呼ぶと、ぼくのことにらむんだもん。)
 このお兄ちゃんは、いつも夜の七時頃に僕の家に来て、ママと二人きりで食事に行く。
僕が玄関まで見送りに行くと、お兄ちゃんが僕の手に一万円札を数枚握らせて、
「いい子にしてろよ。」
と、笑いながら言ってママの肩を抱いて出て行く。その後僕は、一万円だけ持って近くのコンビニまで行き、
手当たりしだい買い物をして、家で一人夕食を食べる。
テレビの音だけが僕を包み、この世界にたった一人だけ取り残されてしまったような時間を過ごして泣く。
家には六人のパパ以外めったに人が訪ねて来る事はないし、ママ達は12時を過ぎないと帰ってこないから
誰にも邪魔されずに泣く事ができる。
この時、初めて僕は本当の子供に戻れる。
一週間、ママの相談相手になり冷静かつ客観的なアドバイスをしたり、家の事や六人のパパの世話をして、
張り詰めた僕の心がやっと解放された瞬間、僕は空を飛ぶ。
空を飛んでいると色々な人達が僕に会いに来てくれる。いつも最初に会いに来るのは僕の本当のパパだ。
飛んでいる僕を下からじっと見上げている。
そして、しばらく僕の後をついてくるんだけど、いつの間にかいなくなってしまう。
次に会いに来るのは、僕が小学校二年生の時に一ヶ月だけ飼っていた、雑種の白い小犬『ネル』だ。
ネルは確かメスだったと思う。
なぜ一ヶ月だけしか飼えなかったかというと、買い始めて一ヶ月目にネルが死んだからだ。
交通事故だった。僕が公園へ散歩へ連れていった帰り道に、それは起こった。
いつもと同じ様に僕等は家へと歩き始めると、曲がり角からいきなり赤いスポーツカーが飛び出して来て
僕達に襲い掛かって来たのだ。僕の足は石の様に固くなり、一歩も動かなかった。
『もう死ぬんだ。』
そう思って目を閉じた瞬間、僕の体に何かボールみたいな物が当たり僕は突き飛ばされた。
一体何が起こったんだろう?
次の瞬間、目の前には電柱に突っ込んでメチャクチャになった赤い鉄の固まりがあった。
僕は何も出来ずに道に座り込んで呆然としていた。一体この一、二分の間に何があったのだろう。
すべてが早く進みすぎていて、まだ幼い僕には理解する事が出来なかった。
周りにどんどん人が集まって来ても、僕は立ち上がる事が出来ず、ただ周りにいる人達の声を聞いていた。
突然、女の人のかん高い声が響いた。
「あっ、あの電柱を見て!」
僕は、その声に導かれるように、ゆっくりと電柱を見上げた。
電柱から突き出ている銀色の棒に、何かがぶら下がっている。(なんだろう?)
一瞬、真っ赤なぼろ布のように見えたけれど、目を凝らしてじっと見つめると、
それは血に赤く染まって変わり果てたネルだった。
僕の頭の中は、何かを探してぐるぐると回っている。
「…うそだ・・ねえ、誰か・・あの犬を降ろしてっ!お願いだから…早く、降ろしてあげて…・」
無我夢中で叫ぶ僕の声が、空に響く。
しかし、その僕の願いを叶えてくれる人は誰もいなかった。涙が、僕の頬を伝う。
どうしてこんな事になったんだろう?僕は何も出来ずに、ただここにいる。
涙ばかりが溢れて、僕の心を埋めようとする。
遠くから、パトカーと救急車のサイレンが聞こえる。もう少しでここに着くだろう。
パトカーと救急車が着くまでの間、僕はただネルを見つめる事しか出来ない。
パトカーと救急車が着くと、救急隊員の人が駆け寄って来た。
「大丈夫かい、坊や。どこか痛い所はある?」
隊員のおじさんは、僕の顔に手を当てて優しく聞いた。けれど、僕はおじさんの質問には答えずに叫んだ。
「ねえ、お願い!あの電柱にいる、僕のネルを降ろしてあげて…」
隊員のおじさんは、僕が急に叫んだので少し驚いた様だったけど電柱を見上げると
すぐに登ってネルを降ろしてくれた。
おじさんが、僕にネルをそっと渡してくれた。ネルは、まだ暖かくて生きているみたいだった。
けれど、ネルの真っ白な体は血で赤茶色になっていて、まるで違う犬みたい…
「元気出すんだぞ。」
犬を抱いたまま、動かない僕に、おじさんがゆっくりとした声で言う。…周りの馬鹿が話す声が聞こえる。
「まあ、かわいそう。」
「あんな所に引っかかってねえ。」
「もう死んでるよな。」
うるさい…黙れ。お前等はみんな汚い。もう、すべてが嫌だ。人間も、世界も、僕自身も…みんな殺したい。
早くこの世を終わらせて、みんな消して。ネルを胸に抱きしめて、僕は心の中でそう叫ぶ。
鳴咽を押し殺している僕の肩を、隊員のおじさんがそっと抱いてくれた。
「さあ、病院へ行こう。」
隊員のおじさんが、僕を救急車に乗せようとする。
「ネルも一緒にいい?」
少し心配になり、おじさんに聞くと、おじさんは笑顔でうなずいた。
救急車に乗る時、ふと突っ込んで来た赤いスポーツカーを見ると、車体はぐちゃぐちゃになって
フロントガラスから、男の人が頭を突き出していた。首が切れていて、どす黒い血が流れている。
「もう死んでるね。」
車を見ながら呟く僕に、おじさんは静かにうなずいた。
救急車の中で、僕はずっとネルを見ていた。茶色くなり、だんだんと固まり始めたネル…。
ネルはどうして僕を助けたのだろう?こんな小さな体で、僕を守ってくれたネル。
けれど、僕は助けられてまで生きなければならない人間じゃない。助けられる価値もない人間だ。
それなのにネルは、自分の体を犠牲にしてまで僕を助けた。
「…何でだよお…どうして…僕の事を助けたり…したんだよ…。」
僕はそう考えたら、急に胸が苦しくなってまた涙が出てきた。
今までこんな痛みを感じた事は一度もなかったのに。
その時、初めて僕は心の痛みを知った。隣にいたおじさんが、そっと僕の涙を拭いてくれた。
「おじさん、どうして…どうしてネルは、僕の事を助けたんだろう…僕にはわかんないよ…。
こんな僕の為に死んじゃうなんて、ネルは馬鹿だ、大馬鹿だよ…。」

そんな僕の様子を見ながら、おじさんはなだめる様に言う。
「この犬にとって、坊やはとても大切だったんだよ。自分の命よりもね。」
「…そんなの嘘だよ、みんなっ…一番大切なのは、じぶんだろっ…」
「じゃあ、どうしてこの犬は坊やを助けたと思う?…難しい事じゃないだろ、簡単だよ。
坊やの事が好きだったんだよ、坊やの事を死なせたくなかったから助けたんだよ。」

僕は、黙っておじさんの言葉を聞く。
「まあ、確かにみんな自分の事が一番大事だと思う、もちろんおじさんもそうなんだけど。
でもな、いつの日にかきっと自分よりも大切な人…人だけとは限らないけど、そういう物に出会える日が
来ると思うんだ。…けどまあ、そういう物に出会わずに死んでいく人が多いんだけどな。」

そう言っておじさんは笑った。僕は、その時初めておじさんの笑った顔を見た。
だけど、その笑顔は僕の目に歪んでみえた気がする。その後、僕等は一言も言葉を交わさなかった。
別に話したくなかったからではなく、何も話さなくても僕等はすべて理解しあえていたから…。
病院に着いてからも、僕はネルを離さなかった。廊下ですれ違う人達が、驚いて僕を見つめる。
その視線を背に受けながら、僕はおじさんと長い廊下を歩いた。
それから僕は、一通り検査を受けて、迎えに来てくれたママと一緒に帰った。
帰り道、僕等は何も言わずただ歩いた。ママは、僕の手を握り締めて空を見ている。
「…せて。」
急にママが何かを言った。けれど、あまりにも小さな声だったから、ほとんど聞こえなかった。
「えっ…?何、ママ。何て言ったの?」
僕はママを見上げて聞いた。ママは空を見上げたまま、静かに言う。
「…私にも、抱かせてくれる?」
一瞬、自分の耳を疑った。だって、ママは動物が嫌いで、僕がネルを飼い始めた時嫌がって側に
よらなかったのに。一番ネルを嫌っていたママが、自分からネルを抱きたいなんて…。
僕は何も言わずに、そっとネルをママに渡した。
ママは、優しくネルを抱きしめる。
水色のブラウスに血が付いても、ママはネルを優しくなでた。夕陽が、ママとネルを包む。
その時、僕は急に怖くなった。ママとネルがこのままどこかへ行きそうで…。
「ママっ…。」
僕はママを呼んだ。ママは僕の顔を見ると、優しく笑いそっと手を差し伸べた。
僕は急いでその手にしがみつき、ママを見上げる。
ママはさっきと同じ様な笑顔で、僕を見つめている。その時のママの笑顔を、僕は絶対に忘れない。
多分、この時のママの笑顔よりきれいな笑顔を、僕はこの先見る事はないと思う。
それから僕等は、手をつないで夕陽の当たる道を歩いて家に帰った。
家へ着いてから、僕等はネルを庭に埋めて上げた。
(懐かしいなあ。)今、改めて思い出すと色々な事が頭の中を駆け巡る。
(あれからもう三年もたったんだ…)
僕は下にいるネルを見ながら、そう呟いた。ネルはそんな僕を見つめて、まるで哀れむように
『クウーン』と鳴いた。
「何だ、ネル?僕の事を励ましてくれるのか?」
僕がネルにそう聞くと、ネルは尻尾を振ってうれしそうに、『ワンッ!』と吠えた。
「んじゃ、またいつものように遊ぼうか。」
静かに僕は下へ降りて、ネルの近くへと寄っていく。ネルも僕の方へ駆けて来る。
ネルの舌が僕の頬をなめる。すごく暖かい。
「さあ、おいでネル。」
僕は笑いながら、ネルと一緒に自分の世界を駆け回る。誰にも邪魔される事なく、自由に。
気が済むまでネルと思いきり遊んでから、僕は現実へと帰る。
帰り方は簡単だ。そのまま眠ればいい。
そうすると、次に目が覚めた時には朝になっていて自分のベッドの中にいる。
(自分でベッドに入ったのか、それともお兄ちゃんがベッドまで運んでくれたのか全然わかんないけど…。)
たいてい、その日の朝は学校に遅刻してしまう。
(だって、体が異状にだるくて目が覚めてから二時間は動けないんだもん。)

木曜日のパパ。
つまんない学校からやっと帰って来て、家のドアを開けた僕を迎えるのは、
長い金髪の若いのか年取っているのかわかんないバンドマン。
このバンドマン…カズて言うんだけど、この人はママの恋人って言うよりも、
僕の事を理解してくれる数少ない大切な友人なんだ。
カズは僕にギターを教えてくれる。僕はものすごく覚えが悪いんだけど、
カズは何度も何度も優しく教えてくれる。
今日もまた、ギターを教えてもらう。教室は、二階の僕の部屋。
僕は、自分の部屋に人を入れるのはすごく嫌なんだけど、カズだけは別。
「ねえ、カズ。今日はどんなやつを教えてくれるの?あんまり難しいのはやめてね。」
階段を上がりながらカズに話し掛けると、
「何言ってんだよ、簡単なモンばっかりやってたら上手くなんないぞ。」
と、僕の頭を軽く小突いた。ぼくは、
「冗談だよ。」
と言って、階段を駆け上った。カズも、僕を捕まえようと駆け上る。部屋のドアを開けた瞬間、
後ろからカズが僕をかつぎ上げた。
「うわああっ。」
天井と床が逆転して、頭に血が流れてくる。僕は足をバタバタさせて、何とか逃げようとしたけれど、
カズは細い割に力があってビクともしなかった。
「どうだ、まいったか!」
カズが高い声で、おもしろそうに言う。僕は、ものすごく苦しかったから思わず叫んだ。
「まいった、まいったよ、パパ。」
その言葉を言ってしまった瞬間、二人の体は凍りついた。僕の頭は血が上って、くらくらしていたのに、
どんどん血が引いていくのがわかった。カズが僕をそっと床に降ろしてくれる。僕は自分が何を言ったのか
どうしてそんな事を言ってしまったのか理解できず、ただ呆然としていた。
「大丈夫か?」
ピクリとも動かない僕を心配して、カズが声を掛ける。僕は、自分が動揺しているのを知られるのが嫌で、
どうにか平静を保とうとしたけれど無理だった。
何か話さなければいけない、そう思っているのに言葉が出てこない。
その上、体がコンクリートでも流し込んだみたいに動かない。
カズは、そんな僕を見てさすがにおかしいと思ったらしく、僕を抱き上げてベッドに寝かせてくれた。
「ちょっと待ってろよ、今、お前のママに電話してくるから。」
早口でこう言うと、カズは部屋を出ていった。(どうして…どうしてパパって言葉が出ちゃったんだろう?
カズは,カズは僕の事をどう思ったのかな。すごく自分に腹が立つ、この体は一体どうなってしまうのだろう。)
天井を見ながら、僕の頭は色々な事を考える。
考える事しか、今は出来ないのだ。頭の奥から言葉が噴き出る。
今までの僕の感情とはまったく違うものが、僕を飲み込み恐怖へと落としていく。
(僕はこのまま死ぬんだろうか?…きっと死ぬんだ、でも死ぬってどんな感じなんだろう?
死ぬ瞬間に何を思うのだろう?痛いのかな?気持ちいいのかな?その先には何があるんだろう?
…ママは、僕が死んだらどう思うのかな…僕の為に泣いてくれるだろうか?…カズはどうだろう?
僕の死んだ後、彼の心に僕はいるんだろうか?いつまでも僕を忘れないでいるのかな?
…きっと、すぐに忘れちゃうよ…。
「業、大丈夫か?しっかりしろっ!」
突然、自分の名前を呼ばれて気が付くと横にカズの顔があった。
カズが僕の手を握って、心配そうに僕を見ている。
「何処か痛いのか?何度名前を呼んでみても、目を開かないからあせったぞ…。」
ベッドの向かいの窓から風が流れ込んで来て、カズの金色の髪がさらさらとなびく。
きらきらと光ってとてもきれい。カズの手はとても暖かくて、僕を安心させた。
(切れ長の目。細い顔。とんがった鼻。薄い唇…パパとは似ても似つかない顔なのに…)
僕は自分に問い掛けた。(どうしてパパなんて言ったんだろう?)
考えても考えても、ただ頭が痛くなるだけで何も答えは出てこない。
「業、どうしたんだ?そんなに眉間にしわを寄せて…」
考える僕の顔がよほどおかしかったのか、カズは吹き出しそうになりながら言う。
(僕は真剣なのに…)僕は少しふくれたけど、内心はカズが笑ってくれてホッとした。(
よかった、怒ってない。)
そして、気の抜けた僕の耳に玄関のドアが開く音が聞こえた瞬間、かん高いママの声が家中に響いた。
「業------------っ!大丈夫なのぉっ…」
思わず、僕等は顔を見合わせて笑った。(実際には僕は声が出せず、顔を歪めただけだったけれど。)
「ほら、お前のママがすっ飛んでかえって来たぞ。俺は下に行ってるから、何かあったらすぐ呼べよ。」
と、僕の頭を軽く撫でてカズは部屋を出ていった。
そして、カズと入れ替わりになってママがすごい勢いで部屋に飛び込んできた。
「業、一体何があったの?何処か痛い所ある?」
ママが心配そうに僕の頬に手を当てる。
「ママ…」
氷が溶けたみたいに、僕の口から言葉が流れ出す。
それと同時に、ボロボロと熱い涙がこぼれて頬をぬらした。
ママは僕が突然泣き出したので、困ってオロオロしていたが、しばらくすると僕の手をしっかりと握って、
僕が泣き止むまでずっとそばにいてくれた。
「…だめだ、僕。最近泣いてばかりいる、全然男らしくない。」
すぐ泣いてしまう自分がものすごく恥ずかしくて、僕は布団に潜り込んだ。
「別に泣く事は恥ずかしい事じゃないわ。業は、ずっと自分の感情を押し殺して生きて来たのね。
我慢なんてしなくていいから、思い切り泣きなさい。」

布団を軽く叩きながら、ママが優しく言葉を掛ける。布団の中は真っ暗で、暖かい。
上の方が少しぼんやりと赤くなっていて、不思議な感じがする。ママの声が、外から曇ったように聞こえて、
まるで母親のお腹の中にいるみたいだ。
「そうやって、業が我慢するのは私のせいだわ。
私がパパと別れた時も全然涙を見せずに、ずっと黙ってた。
私は、いつもそんな業に気付かず甘えてばかりいたのね。」

ママは独り言を言うように小さく言った。その声は、いつも聞くママの声とは全然違う声だったから、
僕は驚いて布団から顔を出した。そこには、いつもと変わらぬ姿のママがいる。(よかった…)
胸をなで下ろした僕に向かって、ママが真剣なまなざしで問い掛けた。
「ねえ、一つだけ聞いてもいい?」
静かに僕はうなずく。
「パパがいないと寂しい?」
その言葉が終わらないうちに、とっさに僕は窓の方へと視線をそらしていた。なぜだか、とても息苦しい。
「どうしても、答えなくちゃだめ?」
僕の声は、驚くほど冷静だった。しかし、僕が布団を握り締めている手からは、汗が噴き出している。
「深く考えないで、素直に言ってくれればいいの。」
いつにもなく真剣なママの声。僕もはぐらかしてはいけない、そろそろ本音を話すべきだ。
僕はベッドから体を起こし、真正面からママに向かい合った。
「…僕、はっきり言って、パパの事どう思っているのか自分でもよく分かんないんだ。
普段は別にパパの事思い出さないし、そんなにパパに会いたいとか思わない。
だから、パパがいなくて寂しいなんて思った事ないよ。
だけど突然、ほんの一瞬だけパパの顔が思い浮かぶ時がある。
ものすごく悲しそうな顔をして、僕の心に入り込んで来るんだ…
その時に、僕はとてつもなくやりきれなくなる…だから、はっきりとした事は言えない、
だって自分でも分かんないんだもの。」

「そう…。」
ママが小さく溜息をついた。その時のママの顔はとても悲しげだった。
「ねえ、ママ…」
僕は、ある決心をした。今を逃したら、これから先ずっと聞けない重要な事を、ママに聞く。
もしかしたら、それは僕の思い過ごしかもしれない…それならそれで別に構わない。
とにかく、今僕の中にある疑問をママにぶつけるだけ。
「…今度は、僕の質問に答えてくれる?」
「えっ…ええ、いいわよ…」
驚いた様に顔を上げて、ママは歪んだ笑顔を見せる。僕は、大きく深呼吸してママに聞いた。
「…パパはもう死んでるの?」
ママの笑顔が引きつり、どんどん顔が青ざめていく。
「やっぱり…そうなんだ。」
引きつった顔のママを見て、僕はそう呟いた。窓の外から暖かい風が流れ込んで、僕の体を包み込む。
「どうして…そんな事を言うの?」
ママの声は震えている。
「別に…・ただそんな気がしただけ。」
震えるママの声を聞くと、何だか自分がとても悪い事をしてしまったような気になった。
「僕が、今聞いた事はいけない事だった?悪い事なの?」
僕は聞いた事を後悔して、ママに救いを求めた。
ママは手で顔を覆って黙っている。僕の心は後悔の念で押しつぶされて、今にも倒れそうだった。
ママがゆっくりと、顔を上げる。その顔は、化粧と涙が混ざり合ってぐちゃぐちゃになっていた。
(ママが泣いてる。)
今まで、僕の前では涙を見せた事のないママが、パパと別れた時も泣かなかったママが、
今ぼろぼろと泣いているのだ。僕は、もうどう接したらいいのかわからずに、ただママを見つめていた。
僕の前で泣いているママ、今まで一番辛かったのはママだったのかもしれない。
そう思うと、ママを泣かせてしまった自分がとても情けなくて仕方ない。
「ごめんね、業…・。」
ママが、僕に謝る。その声はさっきと違って、とてもしっかりしていた。
「業の考えている通り、あの人は死んでるわ…私たちが別れてからすぐに。
…黙っていたのは悪いと思ってる。だけど私、信じたくなかったの。
もし、業にこの事を話してしまったら…あの人が死んだ事を受け入れてしまうような気がして、
言えなかった。…だって、あの人はまだ生きてるのよ、私の心の中で彼はしっかりと生き続けているの…」

ママは最後の言葉を、まるで自分自身に言い聞かせるように力強く言った。
(もしかしたら、パパとママは嫌いあって別れたんじゃないのかもしれない。
愛し合うがゆえに別れを選んだのかも…
そう言えば、昔、パパが僕にこう言ったのを覚えてる。
『もし、自分が死ぬ時に死に場所を選べるとしたら、こんな狭くて汚い街じゃなく、
外国の広くてきれいな自然の中で死にたいな。…例えば、アイルランドの森の中とかさ。』
その時、僕は冗談だと思っていたけど、パパは本気だったのかもしれない
…パパの体は、今何処にいるんだろう?)
僕の頭の中には,あの時のパパの笑顔が浮かんで離れない。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。僕は、パパがとてもスキ。
大切な事はいつも最後に気付くんだ。途中では、決して気付かない。
…いや、本当は気付いてたのかもしれない,でも…きっと怖かったんだ。
その事に気付いてしまったら、僕はパパが恋しくなって、どうしようもなく辛くなるのが
わかっていたから。…じゃあ、ママはどうだろう?
僕に、本当の事を伝えてしまって、これから先どんな風に毎日を過ごすのだろう?
パパの事を忘れて、再婚するのだろうか?…そうなったら、僕はどうしたら良いんだろう?
(僕等の生活は、変わってしまうのかな?)
もしママが再婚して新しいパパがきたら、この家の僕の居場所がなくなってしまうんじゃないか…
そんな不安が浮かんできて僕の頭をよぎった。
「…ママはこれからどうするの?」
まともにママの顔が見れず、うつむきながら小さく聞く。
「どうって?」
ママは、僕の心を知っているくせにわざととぼけた。…こんな時のママは、意地悪だ。
僕は、顔を真っ赤にしながらやっとの思いでこう言った。
「…再婚するの、しないの?」
すると、ママは待ってましたとばかりに、にっこりと微笑んで、
「私が、あの人意外に人を愛せると思う?」
と一言。僕は思わず苦笑いしてしまった。(やられた…。)そうだ、ママの心の中にはパパがいるんだ。
例えこれから、ママがパパ以外の男を愛したとしても、ママは決してパパから離れられない。
ママがその男を愛すれば愛するほど、ママの中にいるパパの面影が大きくなり、
最後には男を飲み込んでしまうだろう。それが、パパからママへの愛であり、ママからパパへの愛なんだ。
もしかしたら、これは愛とは別の物かもしれないけど、僕が愛だと思っているから、多分愛だと思う。
だって、愛なんて物は形がないし、決まりもない。自分が愛だと思えば、それは愛になるんだ。
僕には、愛がどんなものかまだわからない。別にわかりたいとも思わない…
ただ一つだけわかる事は、僕が生まれたのはパパとママが望んだからという事だけ。
「…ありがとう、ママ。」
今日はママと話が出来て本当に良かった。
ママも静かに笑っている、お互いに心の中にあったモヤを吐き出したから、気分がとても良い。
僕は安心したせいか、何だか急に眠くなった。きゅう・・に…ねむ・け・・が…ぼくを…・ 

         次に目が覚めると、暗闇の中だった。
目を開けた瞬間、真っ暗だったから一体何が起こったのか理解できなかったけど、
僕はすぐに昼間あった事を思い出した。
「…ああ、僕あのまま眠っちゃったんだ…」
まだボ  っとしている頭を無理矢理たたき起こして、僕はベッドの横にあるライトをつけた。
部屋の中をぼんやりと見渡せるくらいの明るさの中、僕はゆっくりとベッドから降りた。
立ち上がると少し頭がクラクラする。倒れそうになるのを必死でこらえて、僕は部屋を出た。
そして、下の台所へ降りた。
蛇口をひねって、コップに水を注ぐ。
コップから、水がどんどん溢れる。
一瞬、自分の耳が聞こえなくなったのかと思うほど、周りは静まり返っている。
僕は、一体何処に居るのだろう?すべてが夢のように思える。
いや、もしかしたら、本当はまだ僕は眠っているのかもしれない…。
そんな妄想を打ち消すように、僕は水が溢れ出しているコップを手に取り、一気に飲み干した。
体の中を水が流れ込む、とても冷たい。そっとコップを頬につけると、やっぱり冷たい。
(…僕は現実の世界にいる。)ほっと溜息をついて、静かにコップを置く。
今の僕には、すべての事が理解出来なくなっている。現実と幻想の線が見えなくなっているのだ。
(部屋へ戻ろう…。)よろよろと歩き出して、僕は部屋へと戻った。
部屋の中は、ライトの灯りに照らされて白く浮き上がって見えた。
その薄暗い白い部屋を、ぼんやりと見ていると一ヶ所だけ異様に明るい所があった。
「…あれっ?」
不思議に思って、近づいてそっとカーテンを開けてみる。
そこにあったのは、夜空に浮かぶ大きな丸い月だった。
「…月の光だったんだ。」
僕は、音を立てないようにゆっくりと窓を開け、身を乗り出して月を眺めた。
「こうやって月を見るの、久しぶりだなあ。」
夜風が僕の頬を撫でると、カーテンが何かの生き物みたいにフワフワと動く。
月は黙って僕等を見下ろしている。
しばらく月を眺めて、僕はベッドへと戻った。
カーテンと窓を開けっ放しにして、月が見えるようにしてから…。
「明日は、早く起きなくちゃ。」
そう呟いて、僕は目を閉じた。

金曜日のパパ。
朝、目が覚めると、昨夜窓を開けっ放しにして寝たせいか、頭が痛かった。
(学校どうしようかなあ…)ちょっと考えて、僕は学校を休む事に決めた。
(ママに何て言おう?)僕の心の中には、もうママへの言い訳が並んでいた。
どうして学校を休む時って、こんなにもドキドキするんだろう?まるで悪戯を計画するみたいな気分になる。
そして、この悪戯が成功すると、何ともいえない優越感に浸れるんだ。
この優越感は、テストで学年一番を取った時より、マラソンで一位を取った時よりも心地よく、深い。
僕はそんな事を考えてウトウトとしていた。突然、階段をパタパタと上がって来るスリッパの音が聞こえた。
(ママだ…)僕は大急ぎで布団をかぶり、寝ている振りをした。
「業、起きてるの?…入るわよ。」
部屋のドアをノックして、ママが僕の部屋へ入って来た。
僕は何だかおかしくなり、布団の中で必死に笑いをこらえた。
「もう学校へ行く時間よ、早く起きて。」
ママが、僕を起こそうと布団に手を掛ける。
僕は枕に顔を埋め、笑っているのがばれないように苦しそうに言った。 「ママ…頭が痛い。」
「あら、カゼかしら?」
ママが、僕の額にそっと手を当てる。
「…別に熱はないようだけど。」
「けど、すごく痛いんだ…」
ママは額から手を離して、僕をじっと見詰めた。
僕は、少しオドオドしているのがばれないように、枕に顔を寄せた。
「昨日の事で、疲れが出たのかもしれないわね。…今日はゆっくりと休みなさい。」
ママは立ち上がってそう言うと、部屋を出ていった…部屋のドアを閉める時に、
「窓は閉めなさいよ。」
と、一言付け加えて・・・。
     ママがいなくなると、部屋が急に広くなった気がして悲しくなった。
(疲れているんだ、少し眠ろう。)
悲しさを忘れようと目を閉じたけど眠れない。
…怖い、まるで僕一人だけ他の世界に置き去りにされたみたい。
(どうしたら良いんだろう?)僕は必死に、自分自身に大丈夫だと言い聞かせた。
(ここは、いつもと変わらない僕の部屋なのに…。)
僕は何を怖がっているんだろう?ここには、別に恐れるものなんてないのに…しかし苦しさは増すばかりで、
僕の心は破裂しそうになる。(もうだめだ…。)そう思った瞬間、僕は布団を跳ね飛ばし、
階段を転げ落ちるように降りていた。ママの姿を探して、僕は走り回った。
(ここじゃない、ここにはいない。)何処にいるんだろう?僕の体から、汗が流れる。
「…業?業なの?」
向こうの方からママの声がした。
一体何処にいるんだ?あたりを見回すと、包丁で何かを切っている音がする。
(台所だ。)いつもなら簡単に分かるはずなのに、何でわかんなかったんだろう?
僕は、ママへ向かって駆け出した。
ママの姿が見えた瞬間、僕の不安と孤独感は吹き飛び、安心した…と同時に僕はそのまま倒れ込み、
床に頭をぶつけた。僕の体には、もう力は残っていない。立つ事さえ出来ないんだ。
(可哀相な僕の体。自分の体が哀れに思える。急に緊張が解けて、腰がぬけちゃったんだ…。)
「…っ、業?どうしたのっ!」
ボーっとしている僕に、ママが駆け寄る。
「…ママ。」
僕には、そう言うのがやっとだった。ママは、僕を近くにあったソファーに座らせて、
『病院へ行きましょう。』と言った。
「…何でもないんだ、ただ少し不安になってて、一人になりたくないだけだから。」
昨日今日と、僕の心は色々な事を考え続けている。
(だから、今は少し周りの物に敏感になってしまうんだ。)
「大丈夫、少し落ち着いてきたし、体も楽になってきた。もう心配いらないから。」
僕の言葉を聞いたママは、少し笑顔を見せてほっとしたようだった。
ママの側にいるからか、僕の体は徐々に普通に戻っていく。
僕の体に、血が通い始めたのがわかった。体がどんどん暖まってきて、僕が生きている事を実感させる。
「良かった、顔に赤みが差してきた。」
ママが僕を抱きしめると、ママのにおいが僕の鼻をくすぐり優しい気分にさせた。
「今日はずっと側にいるから、安心して眠りなさい。」
ママの声は、心が和む。ママのその声を耳元で聞くと、僕はそのまま眠りへと堕ちていった。
気がつくと、僕は暗闇の中にいた。
(ここは何処だろう。)
 僕は何かを見つけようと歩いた。しかし、あるのは闇ばかりで、何も見えない。
(この先、お前はどう生きてくんだ?)
突然、誰かの声がした。
僕は後ろを振り返ったり、前に歩いたりして声の主を探したけれど、何処にもいない。
(この先どうすれば自分を救えるのか?)
また声が聞こえた。今度は、何処から聞こえたのかしっかりと理解できた。
あの声は、僕の体の中から聞こえてくる。
そう、あれはもう一人の自分の声。僕は、もう一人の自分に叫んだ。
(誰かが僕を救ってくれる。)
すると、もう一人の僕がまた問い掛けた。
(救われる為にはどうしたらいいんだろう?)
(何かを信じなければ。)
(何を?)
(神様を。)
(神様なんて人間の作った虚像でしかないよ。)
(人間は?)
(わからない。)
(自分自身を信じればいい。)
(僕の何を信じろって言うんだ?
僕には何もない、信じる物も、生きていく目標も、やりたい事も、何もないんだ。
これから何を求めていけばいいんだろう?…誰か教えて。
僕をここから救ってほしい、助けて…ここから出して、早くっ!
…何かが僕を捕まえようとしてる!…嫌だっ、来るな!…くるなぁ  。)
誰かが僕の肩をつかんだ。
「うわああ-------っ!」
「業っ!しっかりして、業?」
気がつくと、ママが僕の肩をつかんでいた。
「え…ここは?」
「業の部屋よ、あなたはずっと眠っていたの。」
 どの位、眠っていたのだろう?
ぼんやりと宙を見詰めている僕に、ママの声が聞こえた。
「…ママ、僕…」
さっき、夢で見た事を話そうかと思ったけれど、なんとなく話せなかった。
「…何でもない。ねえ、今何時?」
「もう、お昼過ぎよ。…業、お腹空かない?
私、お腹空いちゃって…何か作ってくるけど、何が食べたい?」

そう言えば、朝から何も食べてなかったんだ。…それに気が付くと、僕のお腹は鳴り始めた。
「僕…オムライスが食べたい。」
小さい頃、いつもママが作ってくれたあのオムライスが、急に食べたくなった。
「オムライスね、まかしておいて。でも、作の久しぶりだわ。」
ママは、少し首をひねりながら部屋を出ていった。部屋の中には、まだママの余韻が残っている。
(一体、あの声は何だったんだろう?)
僕は、またあの夢の声を思い出した。確かにあの声は、僕の中から聞こえてきたんだ。
(僕の体は、おかしくなったんだろうか?)
僕の頭の中では、何が起こっているんだろう?
まるで、せき止めていたものが一気に流れ出るように、今まで知らなかった自分が見えてくる。
(これって、僕がずっと我慢していた事なのかな?)そんな意識は全然なかったんだけど…
僕は、自分の顔をそっと撫でた。
(…じゃあ、この僕は誰なんだろう?僕は今考えている他にも、別の感情を隠し持っている。
僕は僕で良いんだろうか?本当の僕は、何を考えているのかな?)そっと、天井に向かって両手を挙げる。
確かに、僕の思った通りに体は動く。指だってちゃんと曲がる。
(僕はここにいるんだ。)
僕は存在している、確かにここに…。
 僕の知らない自分も、確かに存在している。
目まぐるしく時間は流れ、世界は回る。そんな中、確かに僕は生きていてここにいる。
当たり前のように生活して、僕は生き続ける。…何となく、すべてを受け入れられるような気になった。
自分の知らない自分がいて、初めて僕になるのかもしれない。
そっと自分を抱きしめた。(僕はずっと自分が嫌いだった、でも本当はずっと愛しかったのかもしれない。)
あの声は、僕が自分自身に求めていた救いの声だったんじゃないかな…。
階段を上がる足音が聞こえた、ママがお昼を作って持ってきたんだ。
ママがドアをノックして、
「業、もし起き上がれるならドアを開けてくれない?」
と、急かす様に早口で言った。僕は急いでベッドから跳ね起きて、
「待ってて、今行くから。」
と言い、すぐさまドアを開けた。
ドアの向こうには、今出来たばかりのオムライスをトレイに乗せたママが立っていた。
「調子良さそうね、良かった。」
僕の笑顔を見ながら、ママも笑顔でそう言った。
「さあ、出来立てのおいしい所を食べましょう。…冷めちゃうともったいないから。」
ママが、僕にオムライスを渡してくれる。久しぶりに作ったとはいえ、その料理の腕は衰えてはいなかった。
「いただきます。」
と、一口ほおばると昔のままのあの味が口いっぱいに広がる。全然変わらないママの味。
「どう、おいしい?」
ママが少し心配そうに、僕の顔を覗き込んだ。僕は、ただ頷いてオムライスを食べ続ける。
ママはそんな僕の様子を見て、くすくすと笑った。
「久しぶりに作ったから、少し心配してたのよ。でも、業の顔を見たらそんな心配いらないみたいね。」
ママもやっと食べ始める。
「…ほら、業。口の周りにケチャップが付いてるわよ、だめよっ、ちゃんとふきんがあるんだから…」
手で口を拭こうとする僕に、ママがふきんを持ってきて僕の口を拭こうとした。
僕は、自分が赤ん坊になったみたいで、何だか恥ずかしくなりママから逃げ出した。
「別に恥ずかしがる事ないじゃないの。親子なんだから…」
ママは、つまらなそうにオムライスを口に入れた。
「そういう問題じゃないよ、僕はもう小学校五年なんだから、そんな事一人で出来るんだよ。
…まったく、いつもママは変な所で子供扱いするんだから。」

僕は、ティッシュで口をごしごしと拭きながら、ママに文句を言った。
僕の方が恥ずかしくなる事を、ママは平気でやってしまうんだから…。
「何、赤くなってるの?最近の子供はませてるんだから、もう嫌になっちゃうわ。」
ママは一人ですねている。…ママの方が、ずっと子供みたいだ。今の僕は、色々な発見をしている。
自分の本当の気持ちを見つけたり、今まで知らなかったママの顔を見る事が出来た。
今までの僕とママの関係だって、そんなに悪いものじゃなかったけれど、
何処かお互いに線を引いていた気がする。それは、誰が悪いとかそういう問題じゃなく、
お互いがお互いの事を思いすぎていたからなんだけど…。
(でも…僕も悪かったんだ、もう少しママに本当の事を言っていれば、
もっと早くこの事に気が付いていたのに…。)けど、もう大丈夫。もう何も心配いらないんだ。
「…何笑ってるのよ、変な子ねえ。」
ママが、不思議そうに僕を見ている。
「何でもないよ、ただ久しぶりに食べたママのオムライスが昔の味と変わってないから…それが嬉しくて。」
 僕は、もう何も残っていない皿をママに差し出しながら、子供みたいに笑った。
(これから、僕はもっとママの事を知らなくちゃいけない。ママにも、もっと僕の事を知ってもらいたい。
いや、ママだけじゃなくカズや、僕が心を許せる人達にもっと僕の事を知ってもらいたいって思う。)
ママは僕の手から皿を受け取ると、
「また、二人でオムライスを食べましょう。」
と、小指をそっと差し出した。僕も手を伸ばして、そっとママの小指に指を絡ませた。
陽の光が窓から差し込んで、僕の部屋を金色に染める。
まるで時間が止まってしまったかのように、僕等は動けない。
「きれい…」
ママが、目を細めながら呟いた。ママの目が陽の光と同化して、ガラス玉のように光を受けきらきらと輝く。
その瞳は、まるで今、作られたばかりの小さな人形のように、を見つめている。
「…きれいだ…。」
僕の口からも、思わず声が漏れた。
しかし、その言葉は金色に染まった部屋へ向けたものではなく、
陽の光に透けたママの瞳に対して出た言葉だった。
心が歪む…・・
…僕は彼女から目をそらす事が出来なかった。彼女の瞳は僕をがんじがらめにして、僕を惑わせる。
…僕をどうにかしてくれ。心の奥で誰かが叫ぶ。…いや、しっかりしなければ。
目を閉じそうな僕が、必死に抵抗する。この人は…僕のママなんだ!心をねじりながら僕はもがいた。
…光り輝くあの部屋にいるのは、確かに僕のママなんだ。
深い霧が晴れて行くみたいに、僕の視界がはっきりと物を映し出していく。
ああ、早く僕の目を覚ましてくれ・・・・・。
「…そろそろ、お皿を洗ってこなくちゃ。…心配しないで、またすぐに戻って来るから。」
その言葉は、すぐに僕を地の果てから救い出し、現実へと引き戻してくれた。
僕の背中には、途中で魔法を失敗した悪魔の爪痕がだらだらと流れ落ちている。
ママが部屋を出ていった瞬間、僕はそのままベッドに倒れ込んだ。
体全体が心臓になってしまったかのように、脈打っている。僕は、一体何を考えていたんだ?
あまり深くは考えたくない。…信じられない!僕は最低だ。
頭が疼く。ついに僕は狂ってしまったのか?何とかしなければ…これはあってはいけないことなんだ。
落ち着こう、そうまずは落ち着くんだ。…ママが部屋に戻ってきたら、気まずくならないように話をしよう。
そう、話をするんだ。…けど、僕が話をしたらまたおかしくなりそうだから、ママの事を話してもらおう。
…さっき、ママは僕が何を考えていたか気が付いたかな?
絶対に気付かれちゃいけない…あんな事知られてはいけないんだ。
僕の頭はその事だけで、もう破裂しそう。僕は堕ちた獣だった、人間じゃない。
ああ、こんな時パパがいてくれれば良かったのに…。誰か、僕の気持ちを消してくれ…。
僕はベッドの上でじたばたともがき、頭を抱えた。
そんな僕の気持ちも知らず、階段を軽やかに上がってあの人はやって来る…。
「あら、何してるの?」
と、笑顔で僕を苦しめながら…。
「…別に、何でもないよ。」
僕はママに背を向ける。ママは僕に近づいて、デザートのりんごを食べないか?と聞いた。
今の僕には、真っ直ぐママを見る自信がない。
けれども、何とか右手をママの方に差し出して、りんごを一切れもらう事が出来た。
「今度はそっぽ向いちゃって、変な子ね。」
振り向かない僕に向かって、ママが不思議そうに一言。(ああ、パパ僕を助けて…)
心の中で、僕は叫ぶ。(どうか、僕に力を与えて…。)と・・・・。
「ねえ、ママ…。」
体が震えそうになるのをこらえて、僕はやっとママに声を掛けた。
「…なあに?」
ママの声は僕の苦しみを知らず、明るい。
僕がこんなに悩んでいるのに…僕は溜息をつきながら目を潤ませた。
(もういいよ、ママ。)
「何か、ママの話をして。」
今の僕は不様だ。ものすごくカッコ悪い。さあ、早く何か言ってくれよ、ママ。
「…私の話?そうねえ、どんな話が良いの?」
「…別にっ、どんなのでも良いよ。」
とにかく早く話をして…。僕の額から汗が流れる。時間の感覚が上手くつかめない…
「…じゃあ、パパとママの事を話そうかな…。」
ママは、静かに話し始めた。

「ママがパパと初めて出会ったのは、真夏の砂浜だった。
その日、私は付き合っていた男の人に捨てられて、一人で海を眺めてた。
その砂浜は、夏だというのに誰もいなくて泣くにはちょうどいい場所だった。…でもね、」

ママは、突然くすくすと笑い出した。
「っ…ごめんね、でもおかしいのよ。
ボロボロ一人で泣いてた私に、突然何かが後ろに乗っかってきたの。…それ、何だかわかる?
…犬だったのよ、しかも大きなセントバーナード。振り向いた瞬間、体が凍り付いちゃったわ。
犬は嫌いじゃないけど、突然知らない大きな犬に飛びつかれるんだもの。
私は動けず、声を出す事も出来ずに、犬に転がされるだけ。犬は尻尾を振って私に甘えて来るけど、
私にはそんな余裕持つ暇がなかった。そうしてるうちに、後ろの方から男の人の声がして駆け寄って
来るのがわかったの。私は犬の下敷きになっていて動く事が出来ず、ただ声の主がくるのを待ってた。
『すみません、大丈夫ですか?』それが彼の最初の言葉だった。
彼は、すぐに犬を引き離して、砂浜にうつ伏せになっている私を起こしながら、何度も謝ったの。
『すみません、すみません…』って、そして私の顔を見た途端に、彼はものすごく動揺して土下座まで
しちゃったのよ。だってそこには、砂と涙でぐちゃぐちゃになった顔の女がいたんだもの。
私は、彼が土下座したからびっくりして急いで、『違うんですっ…』って、彼に泣いてた理由を話したの。
その後、二人で大笑いして、しばらく二人と一匹で海を見てた。
別に何を話すわけでもなく、黙って海を見てた。
その時、私の体の中で…これってどう言ったら良いのかなあ…予感がしたんだよね。
『この人と結婚するかもしれない。』って。…不思議でしょ?」

「…会ったばかりなのに?」
 自然に声が出た。
僕は、いつの間にかママの顔を見詰めていた。
心はすでに落ち着いていて、僕はママをママとして見てる。
「そう、会ったばかりだったのに、もう、この人と結婚するかも知れないって思ったの。
その日は、ただ彼に家まで送ってもらって終ったんだけど、次の日、彼が家にやってきたのよ。
昨日、彼の犬が私のワンピースをよだれで汚したから、お詫びに新しいワンピースを持ってきたって。
彼はワンピースを私に渡しながら一言、『結婚してください』って言ったの。もちろん私は喜んで頷いた…」

「嘘だあっ!」
僕は、叫んだ。
「会った次の日にプロポーズするなんておかしいよ!
それに、そのプロポーズを受けるママもどうかしてるっ!」

興奮して叫んでいる僕を、ママはニコニコ笑って見ている。どうしても納得できない、僕は続けた、
「そんな風に結婚しても良いの?相手の事も知らないのに、そんな簡単に結婚できるものなの?
そして…僕はそんな結婚から生まれたの?…僕なんて必要無いじゃん。
何でパパと結婚したんだよ、何でプロポーズ受けたりしたんだよ!
…失恋したからもうどうでも良かったの?それとも、その場の勢い?」

僕は、愛から生まれたわけじゃなかった。じゃあ、何で僕を産んだりするんだよ。
僕なんて別にいなくても良いじゃないか。
「…業、聞いて。」
落ち着いた声でママが話す。
「私がパパと結婚したのは、失恋のせいでもその場の勢いでもないのよ。
…ママはね、人間って元々二人で一人の体だったんじゃないかって思うの。
…男と女が求め合い、魅かれ合うのは自分のもう一つの体を探してるからじゃないかって。
…でも、この世界にはたくさんの人がいて、なかなか自分のもう片方を見つける事が出来ない。
時には間違った相手を選んでしまう、だから離婚とかあって…。あの、運命の赤い糸ってあるでしょ?
あれって、男女が切り離された時に流れ出た血液だと思うの。
男の左手の小指から女の右手の小指まで、ずっと続いてる。…私、あの人にそれを感じたの。
会った瞬間に、私が探していたのは、この人だって。
そう、今まで人を好きになった事は何度もあるけど、彼のとは全く違っていた。
言葉では上手く伝えれないんだけど、彼は私の一部なの。彼は私でもあり、私は彼でもある。
これはもしかしたら、愛じゃないかもしれない。けど、そんな事はどうでも良いの、
私が愛だと思えばそれは愛になるんだから。」

その言葉を聞いて、僕は泣きそうになった。ママは、やっぱり僕のママなんだ。
僕の中には、しっかりとパパとママの血が流れているよ。
「…私、あの人が死ぬってわかった時、一緒に死ぬつもりだったの。
だって、あの人と私は二人で一人なんだもの・・・片方の体が死んだのに、
もう片方が生きてるなんておかしいでしょ?」

 僕は自分の耳を疑った。死ぬつもりだったなんて…。
そう言うと、ママは少し黙って遠くを見詰め、そして、また話し始めた。
「けど、私は死ねなかったの。
だって、私には守らなくちゃいけない大切なものがあったから。
…これって、業…あなたのことよ。」

僕の顔は、恥ずかしさと嬉しさで真っ赤になった。
だって、そんな歯が浮くようなセリフを、ママは真顔で言ったんだもの。
「…僕、何て言ったら良いのかな?」
うつむく僕の頬が火照る。
「僕、すごくうれしい。…パパもママも僕は好きだよ。」
僕も、ものすごく恥ずかしい事を言ってる。
ママは、そんな僕を誇らしげに見つめて微笑んでいる。もう、僕にはあの汚れた感情はない。
「もう大丈夫、僕一人で眠れるから。」
僕の心には、もう何の恐怖も無いんだ。
「…そうね、」
ママもうなずいてくれる。僕は布団の中へ潜り込み、笑った。
ママが、二、三度布団を軽く叩き、
「きっと、夢の中でパパとネルに会えるわ。」
と、優しく言う。
「うん、きっと会える…。」
そして、僕はそっと目を閉じた…。
目が覚めると、いつにも無く気分が良かった。(どの位眠っていたのだろう?)
部屋の中が暗くなっているから、夜だという事はわかるけど…。
体を起こして、ライトの横にある目覚し時計を見た。
「七時十二分、か。」
ちょうど夕食の時間だから、下へ行こう。ベッドから降りて、思い切り体を伸ばす。
(ママは、今、夕食の用意をしてるのかな?)
ぼんやりと、ママの事が頭に浮かんだ。
部屋を出て、階段を降りていくと台所の方から灯りが見えた。(やっぱりママがいる。)
そう思って、ドアを開けた僕を迎えたのは、一人の男だった。
「やあ、具合はもう良いのかい?」
僕の体は、ドライアイスを抱えたみたいに芯から一気に冷たくなった。
「…こんばんは、中山さん。」
中山は、金曜日のパパだ。僕はこいつが気に入らない。こいつには、奥さんと子供が居る。
それなのにママと付き合っているんだ。
ママも、こんな男なんて捨てれば良いのに…僕はいつも、そう思ってる。
「どうしたんだい?さあ、こっちにきて座って、座って。」
へらへらと笑って、あいつが手招きをする。(ここは、お前の家じゃないんだよ。)
ああ、むかつく。そうだ、今日はこいつが来る日だったんだ。もっと早く気が付けば良かったのに…。
でも、そんな余裕無かったから仕方ないか。
「ママは何処ですか?」
椅子に座りながら、僕は少し小さな声で聞いた。僕は、どうしてもこいつに慣れる事が出来ない。
だから、話し掛けようとすると緊張して、どうしても小さい声になってしまう。
「ああ、さっき買い物に行くって出ていったよ。そろそろ帰ってくるんじゃないかな?」
「そうですか…」
僕はうなだれた。この状態をどうしよう。ママが、早く帰ってくるように願うだけ。
「業君、テレビでも見るかい?」
僕に気を使うように、あいつが聞いた。
「…ええ。」
別にどうでもいい。けど、このまま黙り込んで気まずくなるよりは、テレビの画面を眺めてる方がいい。
静かな部屋に、テレビの音が響く。
「業君、カゼひいたんだって?悪いなあ、こんな日にお邪魔しちゃって。」
(そう思うなら帰れよ。)心の中で呟いた。別にこいつと話さなきゃならない事なんて、一つも無い。
「どうだい、ママと仲良くしてるかい?大切にしなきゃダメだよ。」
(その言葉、そっくりそのまま返してやるよ。人の家の心配する前に自分の奥さんと子供の心配しろっ!)
僕の心は怒りに震え、呆れ返っていた。黙り込む僕を見て、あいつはやっと話すのをやめた。
どの位時間が過ぎたんだろう?玄関のドアを閉める音が聞こえた。(ママが帰ってきた。)
僕は、すぐママの所へ駆け出したかったけど、そんな事をこいつの前でやったら、きっと僕の事を
子供だって笑うだろうと思い、僕はじっと椅子に座っていた。台所のドアを開けて、ママが入ってきた。
「おかえり、ママ。」
「おかえり、遅かったね。」
僕の後から、あいつが甘えた声を出す。こういう所が気に入らない。
「あら、業。ゆっくり眠れた?」
ママが僕の顔を見る。僕は何度もうなずいて、静かに笑った。
「そう、良かった。あ、夕飯は今、コンビニから買ってきたお弁当なんだけど、食べる?」
ママが、大きなビニール袋をテーブルの上に置いた。
僕が袋をがさがさとやっていると、あいつも寄ってきて、袋の中に手を入れ様とした。
その時、鞭のように鋭くママが叫んだ。
「中山さんっ、お話があるの。」
あいつが、驚いたようにママを見た。あいつだけじゃない、僕もびっくりしてママを見つめた。
ママは驚いているあいつに向かって、こう言った。
「中山さん、別れましょう。」
あいつが驚いて叫ぶ。いや、あいつだけじゃない。僕も驚いて、呆然とした。
「どうしてっ、冗談だろ?君は僕を愛してたじゃないか、何かあったのかい?」
あいつは興奮して、ママに詰め寄った。しかし、ママはそんなあいつを冷たく鼻で笑い、「嘘付き。」
と、言っただけ。あいつはまだ納得できず、ママに理由を聞いた。
「うるさいわね、あなたは私に嘘を付いた。それが許せないのよ。ああなた、こう言ったの覚えてる?
『実は、僕の子供は妻が浮気して出来た子供で、僕の子供じゃないんだ。
それでも僕は、あの子を育てようと思う。でも、時々どうしてもやりきれなくなるんだ。』
そう言ったわよね?」

ママがあいつに聞いた。
すると、さっきまで顔を赤くして叫んでいたあいつが、急に青ざめて荷物をまとめ始めた。
僕は何がなんだかわからないまま、ただその光景を見詰めていた。
僕には話の内容が、今一つ理解出来ない。
ママは、あいつを見下すように見つめている。中山は荷物をまとめると、何も言わずに出ていった。
僕は、ママになんて話し掛けたらいいのか、考えた。でも、何も言葉が浮かんでこない。
ママが溜息をついて、僕の方を向いた。
「ごめんね、業。びっくりしたでしょ?あいつね、私に嘘をついてたのよ。
奥さんとの間に生まれた子供は、実は僕の子じゃなくて、奥さんが浮気をして出来た子供なんだ、って
私に言ってたのに、本当は自分の子供だったのよ。しかも、自分が他の女に産ませた子だったの。」

僕は、開いた口がふさがらなかった。
一体、あいつは何なんだ?最低の男じゃないか。そんな男が、ママと付き合っていたなんて許せない。
「全く信じられないわ。奥さんがかわいそうよ。コンビニで偶然あいつの知り合いに声を掛けられて、
ちょっと話したら、『いやあ、実は…』って事になったの。
あの人に声掛けられなかったら、ずっと騙されてたわ。」

ママは怒りがおさまらないらしく、カナキリ声で僕に説明した。
「ああいう男にだけはなんないでね。」
ママが横目で僕に言う。僕は、汗を流しながら無言で頷いた。
その夜はママと一緒に、あいつの悪口を言って時間が過ぎた。
そして、ベッドに入ってから僕はこう心に誓った。(僕はああいう男にはなんないぞ。)

土曜日のパパ。
次の日、僕は目覚し時計のベルで目が覚めた。
昨日の夜は、ずっとママと話し込んでしまって、ベッドに入ったのは十二時過ぎだったから、まだ眠い。
だるい体を無理矢理起こして、カーテンを開けると朝日が顔に当たった。(眩しい。)
目を細めながら、外を眺める。何にも変わらない、いつもと同じ街がそこにはあった。
…幸せって、こういう事を言うのかもしれない。密かに僕はそう思った。
(自分が幸せだなんて、考えた事なかったなあ。)幸せの境界線は何処にあるんだろう?
喜びと幸せは違うのかな?…やめた。考え始めると、きりがない。早い所、着替えしてご飯食べに行こう。
くるりと窓に背を向けて、僕は着替えを始めた。
着替えが終わって部屋のドアを開けると、下の方からいい匂いがただよってきた。
(今日の朝食は何だろう?)胸が高鳴る。ママの料理は、いつも手が込んでいてとてもおいしいんだ。
朝食の事を考えながら、僕は階段を降り、台所のドアを開けた。
「おはよう、ママ。」
「おはよう、業。」
お皿をテーブルに運んでいたママが、微笑む。とても素敵な朝が、ここにはある。
「学校は週休二日制で休みでしょ?いいわねえ、ママが子供の時にはそんなの無かったのに。」
ママが羨ましそうに言う。
僕は椅子に座って、テーブルの上に置いてあったホットミルクを一口飲んで、こう言った。
「そうでもないよ。それより、今日は健ちゃんが来る日だよ。お弁当ちゃんと出来てる?」
健ちゃんとは、土曜日のパパ。年は二十歳位で、有名な大学に通ってる学生だ。
パパというより、木曜日のカズと同じ様に友達といった方が正しいかもしれない。
(多少、ママの顔を見たくて家に来る部分もあるけど。)
「心配しなくても、ちゃんと用意してあるわよ。」
ママが棚の方を指差すと、きれいに包まれたお弁当が二つ並んでいた。
健ちゃんは、いつも僕の面倒を見てくれる。始めのうちは、ママに会いに来ていたんだけれど、
だんだんと僕と仲良くなって、今では土曜日になるといつも二人で出かけるんだ。
行く所はいつも同じなんだけど…。
「ほら、ボーっとしてないで早く食べちゃいなさい。」
ママがトーストを置きながら、僕の背中をぽんと叩いた。
今日のメニューはトーストとハムエッグ、ママのお手製サラダにホットミルク…そしてママが作った
オレンジのシャーベット。見てるだけでよだれが溢れる。
「いただきますっ!」
僕はトーストにかじりついた。バターの甘い香りが鼻をくすぐり、口いっぱいに広がる。
「そんなに急がなくても、まだパンはいっぱいあるんだから。」
ホットミルクを注ぎながら、ママが呆れたように言った。ママはいつもゆっくりと食事をする。
時間をかけて、ゆっくりと味わう。しかし、僕にはそんな食べ方は出来ない。
途中でいらいらしてきて、どうも気に合わないんだ。
「ねえ、私ずっと気になっていたんだけど、いつも健ちゃんと何処に行ってるの?」
トーストをちぎりながら、ママが聞いた。
今まで僕が何処かへ行っても、何も聞かなかったママが突然そんな事を言ったので、
僕は驚いて食べていたパンを喉に詰まらせた。
せき込みながら、近くにあったホットミルクを流し込んで、何とかパンを押し込み、ママを見つめた。
「なによ、なんかおかしい?」
少し頬を赤くして、ママが口を尖らせる。ジーンと胸が熱くなって、僕は涙が出そうになった。
「ほんとのお母さんみたい。」
目をごしごしこすりながら、僕は呟いた。
「みたいとはなによ、私は業の正真正銘の母親よ。失礼な子ね。」
ママに聞こえたらしく、高い声が返ってきた。僕は何だかうれしくなって、一人で笑った。
(ママってこんな人だったっけ?)
「ほらほら、笑ってばっかりいないで、早くしないと健ちゃんが来るわよ。」
呆れ返って、頬杖をつくママ。そうだ、健ちゃんがもう少しで迎えに来る。早いとこ準備しなくちゃ。
急いでテーブルの上にあったおかずをたいらげ、僕は洗面所へ駆け込んだ。
歯磨きを終え、顔を洗っていると、
「おはようございます。」
と、健ちゃんの声がした。
「健ちゃんっ、ちょっと待ってて!」
少し焦りながら大声で叫ぶ僕。
「ねえー、ママ、二階の僕の部屋から財布を持ってきて、机の一番上の引き出しに入ってるから。」
自分で取りにいける余裕はもう無い。
バタバタと顔を拭きながらダイニングへ行くと、髪をきっちりと整えて眼鏡をかけた青年がソファーに
座っていた。僕が『おはよう』と、声をかけると、彼は左手を軽く上げて白い歯を見せた。
健ちゃんは、物静かな人だ。だからといって、暗いわけじゃない。余計な事を話さないだけなんだ。
そんな健ちゃんに、密かに僕はあこがれる。
「…業っ、はいお財布。健君、いつもありがとうね。
迷惑だったら無理しなくてもいいのよ、勉強大変でしょ?」

二階から、パタパタとママが降りてくる。
僕に財布を手渡すと、ママはさっき僕に聞いた質問を、今度は健ちゃんに繰り返した。
「いつも二人は何処へ行ってるの?」
相当気になっていたらしい…。そんなママの質問に、健ちゃんは少し吃りながら答えた。
「いや…別に。いつも図書館とか、水族館とか…そういうとこに行ってますけど。」
「たまに、カズも一緒に行くよね。」
財布の小銭をカチャカチャ鳴らしながら、健ちゃんに付け足すように、僕も続けた。
カズと健ちゃんは、仲がいいんだ。見た目正反対だけど、何処か似てる。
ママは納得したのかしないのか、『ふーん』とうなずいてから、台所の方に行ってしまった。
「何かあったのか?」
健ちゃんが、心配そうに僕を見る。
「ん…別に、何もないよ。」
僕は、手を頭の後ろに組んだ。(あの事は、まだ話さないでいよう。)
「それより、そろそろ行こうよ。」
話をそらすように、僕は健ちゃんの手を引いて、玄関へ向かった。
僕等が靴を履いて、家から出ようとしたその時、ママがどたどたと廊下を走ってきた。
「ちょっと、待って!…お弁当忘れてる!」
はっとして自分の背中のリュックを降ろしてみる。…入ってない。
「良かった、間に合って。一番大事なものを忘れちゃだめよ。」
ママはそう言って、リュックにお弁当を入れてくれた。
「今日も図書館行くの?」
「…うん。」
「業は本が好きなの?」
「うん、嫌いじゃない。」
僕がそう答えると、ママは小さな声で『パパにそっくりね。』と言った。
ぱっと顔を上げた僕に向かって、ママが悲しそうに微笑んだ。
(ママ…)心の中で、そう呟いて僕等は玄関を出た。
さっきのママの言葉が、聞こえていたのかいないのかわからないけど、健ちゃんは僕に何も聞かなかった。
「健ちゃん…ちょっと聞いてもらいたい事があるんだけど。」
ちょうど公園の近くを通りすぎる時、僕は健ちゃんに話し掛けた。
健ちゃんは僕の方を見ると、近くにあった公園のベンチにゆっくりと座った。
僕も、健ちゃんの横に座る。ちょっとどぎまぎしながら…。
「あのね、僕、カズに悪い事しちゃって…」
先日あったあの時の事を、僕は細かく健ちゃんに伝えた。
カズの事も、パパの事も、そして、僕がママに抱いた感情の事も…。
でも僕が話し終っても、健ちゃんはずっと黙っていた。
僕が少し戸惑い始めた時、静かに健ちゃんの声が公園に響いた。
「業は、ずっと寂しかったんだよな。」
本当の気持ちを見透かされて、僕の胸はズキッと痛んだ。
(健ちゃんには、僕の心が読めるのかな?)
「今、業は変化しているんだよ。両極端な精神状態から、少年へと。
少し前の業は、知らず知らずのうちに自分で自分を押さえつけてたんだ。
無理に背伸びして、大人になろうとしてた。ほんとは甘えたり、泣いたり、怒ったりしたかったのに、
その感情を押し殺してきた。…けど、今の業はそれが間違いだって気付いて、それから逃れようとしてる。
それで良いんだよ…辛かったろ、今まで。」

泣きたくないのに、だらだらと涙が出てくる。健ちゃんには、ずっとわかっていたんだ。
僕は…本当の優しさを、二年かけてやっと知る事ができた。
「…っく、僕…ほんとは、パパとママが別れた時…泣きたかった。
…パパに付いて行きたかった、でもっ…僕、ママもすごく大事だったから…ママを選んだ。
…パパの事大好きだったけど…ママは女の人だからっ、男の僕が…ママを守らなくちゃいけないと思って。
でも僕っ、パパを裏切ったようで…自分が許せなかった。
…パパと別れたママが、家に六人のパパを連れてきた時…はっきり言って、みんな嫌いだった。
…けど、そんな事をママに言ったら、ママに嫌われそうで怖かった。
…だから、もっと大人にならなきゃいけないって、自分に言い聞かせてきたんだ。
…本当の僕は、弱虫で臆病なのに…」

小さな自分の姿が見える。心の奥底に、ひざを抱えておびえる、僕。
何て寂しいんだろう、悲しいんだろう。彼はずっと一人でここにいたんだ。
…ほんとの僕がそこにいた。やっと、あの声に出会えた。
これが、僕の求めていた答えなんだ、僕を救ってくれる答えが今そこにある。
顔を歪める僕を、健ちゃんは風のように静かに包み込んだ。
「…僕も業と同じだよ。」
小さな声で囁く健ちゃんの声が、頭の中を何度も駆け巡る。
僕等は同じ傷を抱えていたんだ…健ちゃんはそれに気が付いていた。
「急ぐ必要はない、その時を待つのも大事なんだ。」
健ちゃんの言葉は、獣が傷を舐めるように、僕の心を癒してくれた。
僕には、健ちゃんに何があったのかはわからないけど、きっと僕より辛い思いをしたんだろう。
…健ちゃんは僕が泣き止むまで、そっと僕を抱いていてくれた。
(パパも、僕をこんな風に抱きしめてくれるのかな?)涙を流しながら、頭の隅でパパの事を思い出した。
もう、なにもいらない。もう、こわくない。僕を縛り続けたあの感情は、もうどこにもない。
僕はやっと、暗闇の泥の底からはいだす事が出来たんだ。これが、目覚めというもの何だろうか?
健ちゃんの顔を見上げると、彼は僕の思ってた事がわかったのか、笑顔でうなずいた。
そして僕の涙が乾く頃、健ちゃんはカズに電話をしてくれた。
僕がどうしても自分でかけれなかったから、代わりに健ちゃんが公園の側の公衆電話からかけてくれたのだ。
あの時の事を謝りたい、そう思っているのに、自分で電話をかける勇気もない。
健ちゃんは、カズと長い間話をしていた。
始めは少し離れたベンチにおとなしく座っていたけど、二人の話が長いので
僕はベンチに横たわり空を仰いだ。
少し肌寒い感じがするけど、空は晴れ渡り鳥が飛んでる。
このまま眠ってしまいそう…目を閉じかけた僕の耳に、健ちゃんの声が届いた。
僕を呼んでる、行かなくちゃ。よろよろと立ち上がり、健ちゃんに駆け寄る。
「カズに大体の事は話したから、あとは業が自分でやらなきゃな。」
軽く肩を叩いて、健ちゃんが励ましてくれた。僕は唾をごくりと飲み込んで、恐る恐る受話器を受け取った。
「…もしもし?」
上手く声が出ない。息が詰まりそう…カズは僕に何て言うんだろう?
クラクラする体を、必死でこらえる僕に返ってきた声は、驚くほど明るかった。
「よお、業。お前、綾子さん見てHな事思ったんだって?」
僕はあまりの驚きで、受話器を落としそうになった。電話の向こうでは、カズがげらげらと笑い転げている。
はっとして健ちゃんを見ると、僕から目をそらしてわざとらしく口笛を吹いた。…カズにしゃべったな。
(ああ…どうか僕を救ってください。)これじゃあ、謝るなんて所の騒ぎじゃない。
今度は別の意味で、頭がクラクラしてきた。
「やっと、業も大人になってきたじゃないか。
俺はこの日を、どれほど待ち望んだか…くぅ〜っ!それでこそ本物の男だ!
業っ、俺はお前を応援するぞ、これからガンガン行けっ!他でもない、この俺が許すっ…」

受話器の向こうのカズは、一人で盛り上がっている。呆然と立ち尽くす、僕。
電話から流れる声が、右から左へとすり抜けていく。
「くっ…くっ…あははっ…」
突然、僕はおかしくなり笑いだした。(やっぱり、二人とも最高の友達だ。)
こんな友達、他の何処を探したって絶対にいないよ。
僕のそんな姿を見て、今度は健ちゃんが青ざめはじめた。
「おいっ…業、しっかりしろ!」
慌てて駆け寄る健ちゃん。それでも、僕の笑いは止まらない。
止めなくていいんだ、だって今の僕は最高の気分なんだから。好きなようにさせて。
別に気なんか狂ってないから。受話器を放り投げて、笑い転げる僕。
健ちゃんは、受話器の向こうのカズに顔を青くして、必死にこっちの説明をしている。
…健ちゃんが取り乱してる。健ちゃんのその姿を見た瞬間、僕の笑いはピタリと止まった。
僕の目に映っているのは、一人の動揺している青年
…健ちゃんがこんなに取り乱す姿を、僕は目の当たりにした。
彼は、僕の笑い声が止まった事に気が付くと、話の途中だったのにも関わらず
電話を切って僕に駆け寄った。
「よかったあ…」
彼はそう言うと、僕をぎゅっと抱きしめた。体が震えてる…。健ちゃんの体は、小さく震えていた。
…健ちゃんも、僕と同じだったんだよね。心の中で、呟いてみる。
今度は僕が、健ちゃんの傷を癒してあげるから…。
「今日の予定が狂っちゃったね。」
木陰でお弁当にぱくつきながら、健ちゃんがすまなそうに頭をうな垂れた。
今日の予定では、午前中水族館に行くはずだった。
けど、公園での一幕があったせいで、気が付いてみると時計の針は、もう一時を回っていた。
「健ちゃんが悪いんじゃないよ。僕がいけなかったんだ…
僕、健ちゃんに謝らなくちゃいけない…ごめんね。」

「いや、僕が調子に乗って業をからかったのが悪かったんだ。
…せっかく予定立ててたのに、ごめん。」

二人で頭を下げあいながら、僕は少し嬉しかった。
(公園で健ちゃんが見せた姿、僕は一生忘れない。)
太陽がじわじわと輝きを増して、僕等を柔らかく包み込む。
「あ、あとでカズに電話しなきゃ…。」

右手をポンと叩きながら、健ちゃんが渋い顔でそう言った。(あ…カズの事、すっかり忘れてた。)
今頃、何がなんだかわかんないまま、ぶつぶつ文句言ってるんだろうなあ。
文句言いながら、ギターを弾くカズの姿が目に浮かぶ。
「帰ってから、僕が電話するよ。大丈夫だよ、健ちゃん。
…それより、お弁当食べ終ったら、いつもの通り図書館へ行こう。」

僕は立ち上がり、胸いっぱい夏に近づく空気を吸い込んだ。
健ちゃんは、まだもごもごと口を動かしている。
「わあ、健ちゃん牛みたい…」
きゃっきゃと面白がっている僕を、健ちゃんは捕まえようと手を伸ばした。
が、そんな事で捕まえられる僕ではない。ひょいと体をねじって、簡単にかわした。
健ちゃんが意地になって、僕を捕まえようとする。僕は飛び跳ねて、健ちゃんに向かって舌を出す。
「健ちゃん、あそこの大きな木まで競走しよう!」
健ちゃんもすばやく立ち上がり、僕を追いかける。
「足の速さなら絶対負けないっ。」
太陽の下、僕等は力いっぱい走り出した。光を浴びた僕達の目の前には、大きく広がる道が見える。
長い長い道が、僕が進むのを今か今かと待ち構えてるんだ。
 僕は…。  

       FISH TANK(最後の日)

朝、僕は誰かが部屋のドアを閉める音で、目が覚めた。
昨日、健ちゃんと走りすぎたのか足が筋肉痛になっている。(でも、昨日はほんとに楽しかった。)
布団に包まりながら、夢心地で気持ちよく昨日の思い出に浸っている僕にママの重い声がのしかかった。
「業、今日…一緒に行ってもらいたい所があるんだけど。」
どうしたんだろう、ママの声は何処かおびえているような、弱々しい感じがする。
普段のママの声とは、全く違っていた。
僕は、何処か変だと思いながらも、別に断る理由も無かったから素直に受けた。
「どうかしたの?」
筋肉痛の足をかばうように、僕は静かにベットから這い出る。
しかし、ママは何も答えずそのまま部屋を出ていってしまった。一体、何が起こってしまったんだろう?
昨日まであんなに優しかったママなのに、今日のママは人を寄せ付けたくないみたい。
(僕、悪い事してないよなあ…。)気持ちがそわそわして、どうも落着かない。
昨日一日でママに何があったのだろう?ふに落ちないまま、僕は着替えを済ませて台所へ降りていった。
いつものように朝食のメニューを考えながら、ドアを開けた僕を待ち構えていたのは、素敵な朝食ではなく
血のように赤い口紅をつけたママだった。この人は、僕のママなんだろうか?
僕は自分の目を疑った。それ位、ママは変わっていたのだ。
元々、ママはきれいな人だったけど、今、僕の前にいる人は、ママじゃない…一人の女の人だ。
一歩も動けない僕に向かって、ママが『準備は出来たのか』とゆっくりと訊ねた。
「やっ…あの、まだ…顔洗ってない…」
きつい香水が鼻につく。この香りは、ママがいつもつけてる香水じゃない。
(どうしちゃったんだ、ママは?)
ママの、あまりの豹変ぶりに僕はついて行けず、倒れそうになりながら、どうにか洗面所へ向かった。
ばしゃばしゃと水で顔を洗い流しながら、これがどうか夢でありますようにと、
誰に頼むわけでもなく僕は願った。ママは何を考えているんだろう?
今の状態では、さっぱり理解出来ない。服だって、口紅に合わせて真っ赤なスーツを着ている。
僕を何処に連れて行く気なんだ?スーツを着ているという事は、遊びに行くわけじゃない。
じゃあ、何処…?いくら悩んでみても、結局答えは出てこない。
あきらめの溜息をつきながら、仕方なく僕は台所へ戻った。
「準備できたよ。」
ママの顔から視線をずらして、少し無愛想に僕は言った。
ママは何も言わずに立ち上がり、玄関へと歩きはじめた。(なんだよ…。)
僕は少しムカムカと腹が立ってきた。(あんな態度とらなくても良いじゃないか。)
ママの機嫌が悪いからって、僕に当たる事無いのに…。
イライラするのは構わないけど、そのホースをこっちに向けられるのは困る。
靴を履きながら、横目でママを見る。
ママは僕にお構い無しで、自分が履き終るとさっさと出ていってしまった。
(こんな事、今までなかったのに…。)
少し前なら、こんな時ママは必ず僕を待っていてくれたはずだ…。
ママのあまりに冷たい態度に、僕は一気に地獄に突き落とされた感じがした。
(これから、どうしよう…。)僕の、この先の課題はこれだ。
愕然としながら外へ出ると、ママが車を回してきていた。無言で乗り込む僕。
しかし、乗った後、僕はあるミスに気がついた。僕はいつもの癖で、助手席に座ってしまったのだ。
よりにもよって、僕は自分から火の海へ飛び込んでしまった。これから長い沈黙がやってくるというのに…。
相変わらず、ママはずっと黙ったまま静かに車を出した。僕は窓に顔を向けて、流れる景色を何となく見た。
つまらない…。退屈だ…そしてついに耐え切れなくなった僕は、車のカセットプレーヤーに手を伸ばした。
カチャッと音がして、音楽が始まる。ふう、と小さく息をつく。
ママに文句を言われるかと思ったけど、ママは黙ったまま車を運転してる。
だいぶ気が楽になった僕は、静かに目を閉じた。これなら何も気まずくならない。
次に目を開いた時、僕の目に映ったものは大きな白い建物だった。
「着いたわ、降りて。」
ママはきびきびと行動する。僕はママの速度についていけずに、のろのろと車から降りた。
(ここは、病院じゃないか…。)車から降りると、白い建物に大きく書かれた名前が見えた。
(こんな所に僕を連れてきて、どういうつもりなんだろう?誰か入院したのかなあ…。)
でも、お見舞いに来るにしてはママの格好は派手すぎる。
それに、ただのお見舞いならば、別に僕に隠す必要なんて無いじゃないか。
(ママは、一体僕に何を見せようというんだ?)…でも、今はそんな事を考えてる暇はない。
早くママを追いかけなくちゃ。ママは僕を連れてきた事を忘れてしまったかのように、一人で歩いて行く。
病院の中へ入ると、ママはエレベーターに乗り込んだ。胸が詰まってゼイゼイする。
病院独特の、あの消毒の匂いが鼻につんとさす。
ママの顔には何の感情もなく、赤い口紅だけが鮮やかに咲いている。
重く冷たい空気が、箱の中を駆け回り僕を孤独にさせた。
エレベーターは五階でやっとドアを開いた。
ママはドアが開くと、息もつかぬうちに目的の場所へと進んで行く。僕も遅れないように、早足で駆け出す。
長い廊下を進み、ママはある病室まで来ると足を止めた。
「さあ、業いらっしゃい。」
乾いた声で、ママが僕に手を伸ばした。僕の手を優しく引くママ。
…このドアの向こうに、僕を待ちわびてる何かが潜んでる。カタカタと僕の心は震えはじめた。
それは好奇心から出てきた高鳴りか、見知らぬものに対する恐怖なのかわからないけれど、
とにかく僕の心は震えている。
数回小さくノックして、ママがドアを開ける。(あ、誰かベットにいる…。)
逆光でよく見えないけれど、人がいるのは確かだ。僕は、半分ママに押されるような形で、病室へ入った。
ベッドには僕等に背を向けて、外の景色を見ている男の人が一人いた。
(誰だろう?)後ろ姿に覚えはない…。
「こんにちわ…。」
ママがその人に話し掛けると、彼はゆっくりと振り返った。
「…うそだろ。」
僕は、全身稲妻に打ちのめされたようなショックを受けた。
なぜなら、そこには…あの売れない小説家、火曜日のパパがいたのだ。
彼は僕等を見ると、優しく微笑み手を伸ばした。体の力が抜け、僕は床に膝をついた。
冷や汗がだらだらと流れる。
「大丈夫かい?」
座り込んだ僕に向かって、おじさんが心配そうに声をかける。
僕は、なかなか立ち上がる事が出来なかった。(僕の事より、自分の方を心配しろよ…。)
おじさんを見上げ、僕は胸の中で叫んだ。
…おじさんのお見舞いに来たのが、ショックだったわけじゃない。僕が驚いたのは…
「ほら、業、こっちの椅子に座って。」
ママが抱きかかえるように、僕をいすに座らせた。体のバランスが上手く取れない。
「気持ち悪いだろ。」
僕の気持ちを察したのか、おじさんが悲しそうに笑った。
僕が驚いたのは、おじさんのあまりにも凄まじい肉体の変化だった。
一週間もしないで、人間がこんなにも衰弱するなんて…。
もともと痩せこけて、青白い顔のおじさんだったけど、今僕の目の前にいるおじさんは、
目ばかりがぎょろぎょろして、死人よりも真っ青な顔をしている。頬がすっかりこけ、ミイラのようだった。
(おじさんは、もうすぐ死ぬんだ…。)
病気の事なんて全くわからない僕にも、その事だけははっきりとわかった。
ママは、おじさんの手を握り締め、黙って顔を伏せている。その姿はとても痛々しく、愛に満ち溢れていた。
…僕は、この光景を前に一度見た事がある。あれは…誰だろう?ずっと忘れていた…だめだ、思い出せない。
…あ、金木犀の匂いがする-------。
その香りに触れた途端、目の前で風船が割れたみたいに、僕の頭は何も映さなくなった。
     僕はここにいる。
二人の姿は、まるで昔のパパとママみたいだ。心の奥で密かに重ねあわせてみる。
…ママがとてもかわいそうだ。大切な人を二度も失ってしまうなんて…。
もし、神様という人に出会えたなら、僕がママの代わりにそいつを懲らしめてやる。
ママにした事と同じ様に、神様の大切な人を奪い去ってやる。
ふと、僕はおじさんの顔に安らぎを感じた。
自分の終わりが近いのを知っているはずなのに、おじさんはとても幸せそうだ。
(…なんでだよ…。)僕は唇を噛みしめた。
自分がもうすぐ死んでしまうのに、彼はどうしてこんなにも冷静でいられるんだろう…。
胸の奥に何かが詰まって、僕は思うように息が出来ない。目頭がじんとして、熱い涙がこぼれた。
(僕がなく事無いじゃないか…。泣きたいのはおじさんの方なのに…。)
拳をぎゅっと握り締め、僕は泣いてるのがばれないように、うつむいた。
僕は、自分がどうして泣いているのか、わからない。
あんなに嫌いだったおじさんなのに、今はそのおじさんの為に、涙を流してる。
「…業、こっちに来てくれないか?」
 おじさんが弱々しく、僕の名前を呼んだ。僕はうつむいたまま、よろよろと彼の側まで行った。
彼は、僕に向かって静かに手を伸ばした。僕は、その手をしっかりと握り締める。
彼の手は、氷のように冷たい。いきなり、彼が僕の手を自分の方に、力いっぱい引き寄せた。
僕の体は、とっさの事に反応できず、僕はそのまま、彼に抱きしめられた。
枯れ木のような彼の体が、かすかに震えている。
僕も、思い切りおじさんを抱きしめ、そっと目を閉じた。
(僕、おじさんの事嫌いじゃないよ。…僕、ずっと怖かったんだ。
おじさんの雰囲気が、あまりにもパパに似ていたから・・・・。
おじさんと仲良くなってしまったら、パパの事忘れちゃいそうで…。)
  いくら後悔しても、今こうして胸の中でそんな事を思っても、時間は戻らない。
(どうして、こうなっちゃうんだろう…。)
僕の耳元に、必死に押し殺そうとする嗚咽が聞こえる。
「…ごめん。」
しゃくりあげながら、僕はおじさんに謝った。
おじさんは、うなずく代わりに僕を強く抱きしめた。僕は、すべてが憎らしくてたまらない。
おじさんの命を奪う病気、過ぎ行く時間、馬鹿な自分。この先、僕はどうしたら良いんだろう?
一番大切な人が死んでしまうのに、何も出来ない。僕は、愛すべき人を失うんだ…。
「俺、あんたの事すごく好きだよ…今まで色々言ったけど、俺、あんたが好きだ。
大丈夫、すぐに退院できるよ。
そうしたらさあ、一緒にキャッチボールしたり、遊園地や水族館に行こうよ。」

お互いに、その約束は叶わないとわかっていたけど、おじさんは笑顔でうなずいた。
僕は、彼に父親を求めていたんだ。…ママは、その事を見抜いていた。
だから、いつも僕等を引き合わせようとしてたんだ…。
やっと分かり合えたのに、残酷に時間は過ぎて行く。…おじさんの笑顔が、心に焼き付いて離れない。
「業君、君に渡したい物があるんだ。」
耳元で、そっとおじさんが囁く。
「そこの引き出しの二番目に入っているから、ちょっと開けてくれないか?」
言われた通りに、僕は引き出しを開けた。
「…これ…」
そこには、おそらく書き上げたばかりの、小説の原稿があった。
「業君に、読んでもらいたいんだ。」
「…でも、これ出版社とかに持っていかなくていいの?」
少しとまどいながら、僕はおじさんを見つめた。
「いいんだよ、この小説は君の為に書いたんだから。
他の人に読んでもらうよりも、君に読んでもらいたいんだ…読んでくれるかい?」

おじさんはそう言うと、静かに微笑んだ。
「もちろん読むよ、俺、本読むのすごい好きなんだ。ありがとう、大切にする。」
おじさんの目は、とても儚げで何処か遠くを映している。
今、おじさんの心の中には、どんなものが存在しているのだろう?
それを考えると、僕の胸はちくちくと痛んだ。
「業、そろそろ家へ帰りましょ。
あんまり長居すると疲れさせちゃうから、少し休ませてあげなくちゃ…」

ママが僕の肩に手を当てた。確かに、あんまり疲れさせてはいけない。
ほんとは、もっとおじさんと話していたかったけど、そこの所は素直にひいて僕等は家へ帰ることにした。
「今日は、ありがとう。」
おじさんが少し寂しげに、僕の手を握った。
「俺、これから毎日来るよ。」


ここで、途切れてます。最後、自分で書いたの忘れました。(爆笑)
どんなラスト書いたんだっけ???もう3年も前の事なんで忘れました。



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