[真夏の夜の、夢のまた夢]


 真夏の夜の、夢のまた夢

横森 健一

 

 ぴんぽーん。
 五年前から住んでいる、そろそろ築ふたケタ年に達しようかとしている、仕事場兼住居であるところの賃貸マンションの一室に、あるクソ暑い夏の夜、お気楽な玄関のチャイムの音が鳴り響いた。
「……?」
 俺、横森健一――いちおーえっちマンガ家なんつーものをやっている――は、その音に思わず(思わずだ!!)、〆切間際の原稿に対する集中力を切らされてしまった。かほどさよーに、クリエイターとゆー人種の神経はしごく繊細で細やかなのである。わはは。
 ふと、さっきからずっと画板にうつむけになっていた顔を上げて、スタンドの上に置いている時計を見上げる。
 かしゃ。
 まさにその瞬間、十五年モノのディジタル時計の下一ケタが、音を立てて切り替わった。ちょうど、午後十一時十八分になったところだ。
 それを見て俺は、ちょっとだけ眉をしかめた。
 気のせいかもしれんが、なぜだか時計ってのは、人が見てる瞬間だけまぢめに働いてて、それ以外ではてきとーに時を刻んでるよーな気がする。それも、〆切を何とかクリアしてつかの間の休息を取っている時とか、〆切間際でひーこら言ってる時とかは、特に早く。その癖、担当が原稿をチェックしてる時なんかは、妙に遅いのだけれど。
 ひょっとしたら時計って仕事は、だるまさんがころんだ免許の第一種くらい取得していないと、やってけないほどのハードな職種なのかもしれない。
 ……ま、そんな資格があるかどーかはともかく。
 〆切まであと三日あるとはいえ、まだペン入れしてない原稿も何枚かあるこの現状、その上、仕上げをしてるのが今んとこルーシアなだけなもんだから、けっして余裕なぞあろうはずがなかった。
 もっとも〆切っつっても、今、俺が言ってる〆切っては表の〆切の事である。この後に裏の〆切、ホントの〆切、そして、激ヤバまぢヤバ、『作者急病のため休載いたします、なお印刷の都合上、表紙には名前が掲載されていますが、その旨ご了承ください』寸前の〆切が控えてるって事は、経験上、よっく分かってはいる。だもんで俺も、そんなに焦ってはいなかったのだが――それでも予定が狂うってのは、話が別だ。
 それにしても、こんな時間に人が尋ねてくるなんて、誰だ?
 いちおー家賃はちゃんと払ってるはずだし、国営放送にせよ新聞にせよ、こんな非常識な時間に集金に来ようはずもない。
 ここに入居当初は、よく宗教関係者が押しかけてきたもんだが、そん時にさんざイビってやったせいか、とっくに俺の名前はブラックリストに載っているはずであった。何せ、少なく見積もっても二、三人は転宗ばせてやったはずなのであるから。けっけっけ。
 敬介――大学時代の友人、兼、今では某社での俺の担当――も、〆切前に俺んとこに原稿を取りに来るほど、殊勝でも無謀でもない事は、よく分かっている。
 となると、奴らか!?
 俺の脳裏に、数人の男のむさい顔が思い浮かんだ。
 奴らとは、大学時代に所属していたサークル、そして今も付き合いのある、母校のプロレス研究会『環太平洋プロレス観戦同盟』、略称、環観同の面々の事であった。実は、敬介もここのOBであったりする。敬介は、文系に似合わぬその巨漢ぶりを活かして、学生プロレスなんかもやっていたりしたのだ。
 俺? 俺はもっぱら観戦専門だったけどね。今でも月に一回くらいは、奴らとつるんで観戦に行ったりもしている。でも、確か今日は、俺の記憶では特にビッグマッチはなかったはずなのだけれど……。
 ひょっとしたら奴らはどっかのインディーでも見に行って、その勢いでウチに乗り込んできたのかもしれない。ったく、奴らだって今は勤め人だろーに。明日の会社、どーすんだよ?
 何て、つらつらと犯人探しをやっていたら。
 ぴんぽぴんぽぴんぽーん。
 返答がないのに焦れたのか、奴ら、ピンポン連打をしてきやがった。
 おいおい、ただでさえウチ、夜中までうるさいって近所評判よくないのに、これ以上悪評を立てられたらどーするつもりなんだよっ!!
 俺は、思わず一人ごちた。
「ったく、るっせぇなぁ。こちとら大事な〆切前だってーのに」
 その癖、一日に数時間は必ずネットに接続して、ページのメンテナンスやら掲示板への書き込みやら、さらには仕事とはまったく関係のないえっちCG描きをしている事なんかは、しっかり棚に上げている。
「誰だろーね」
 ちゃぶ台でベタを塗ってるルーシアも、小首をかしげた。
 え? こいつは誰かって?
 えーとこいつわ、何てゆーか、その、同居人……じゃないか、ゆーなれば、同居悪魔だ。少なくとも本人――めんどくさいんで、呼称は以後『人』で統一する――はそう言っている。五年ほど前から俺んとこに住み着いている、いわゆる一つの居候だ。
 ま、俺とてこいつとの今までの出来事から鑑みるに、こいつを悪魔と認定するのはけっしてやぶさかではない。性格はともかく、少なくとも外見は、そうだ。それこそ、ステロタイプと言っても過言ではないほどに。
 まずは羽根。
 ルーシアの着てる、背中ぐりの大きく空いたオレンジ色のタンクトップからは、ご丁寧にも手のひらくらいの大きさの羽根が、ぴらぴらとはためいている。これが純白の羽毛とかだったら、まだ天使に誤解してやらん事もないのだが、しっかりとそれは、コウモリっぽい黒灰色をしていた。
 そして、極ミニのカットジーンズのすそからは、今度はしなやかなムチみたいな尻尾が、ぴょこんと可愛らしくはみ出している。先端がスペードのマークみたいにとんがった、長さ一メートルほどの、エナメルっぽく黒光りしてる奴だ。
 これを、悪魔と言わずして、何と言おうか!?
 そのくせ当のルーシアの顔は、ちょっぴりあどけない幼顔だ。髪は、透明とも見まごうほどに細い、ふわふわとした金髪の巻き毛。瞳の色はエメラルドグリーン。ほっぺたはぷにぷに系。
 羽根や尻尾はこの際無視するとしても、それらのパーツからして、はっきり言ってルーシアが日本人に見える訳はなかったのだが、その割にルーシアの顔からはバタ臭いという印象は受けなかった。どっちかってーと、毛並みのふさふさした子猫ってな感じだ。
 そう、子猫……ね。
 確かにルーシアは、五年ほど前に俺んとこに現れてから、それこそ無邪気な子猫のように――本人に悪気はないのだろうが――いろんな騒動を引き起こしてくれた。そもそも俺がこーゆー職業をやっているとゆーのも、ある意味ルーシアのせい、いや、おかげなのだ。
 ま、そんなこんなで、ルーシアが来てから一年ほどは、何やかやだのてんやわんやだのあったのだが……それ以後は比較的――〆切に追われるだけの――平穏な日々が続いていた。しかしそれはそれで別のお話。
 今のルーシアは、俺のアシスタント――つまりは下僕――みたいなもんだ。
 だもんで、俺は言った。
「おい、るー。わりーがちっと見てきてくれ。で、もし沢木とか敬介とかだったら、おりゃーいないと……あ、待てよ、敬介ならついでにトーン張りでも手伝わせるか?」
「うん、じゃ見てくるねっ」
 ルーシアは無邪気にそううなずくと、面相筆を折りたたんだティッシュの上に置いて立ち上がった。
 え? るーって何だって? うーあー、その……こいつがそう呼べってうるさいんだよ。いーじゃねーか、別に。そーゆーところに突っ込まなくっても。
「頼む……って、だから飛んでいくなって!!」
 黒い羽根をひよひよなびかせながら、玄関の方に飛んで行こうとするルーシアの背中に、俺は思いっきり叫んでいた。いつもの事ながら、まったく重力を無視した奴である。ったく、知らない人に見られたら、どー言い訳するつもりなんだよ?
 などと、ぶちぶち文句を言っていたら。
 がちゃ。
 あっさりと玄関のドアが開く音がした。思わずちっと舌打ちをする。
 ったく、ルーシアの奴。あれほど、誰が来たかを確認してからドアを開けろって言ってんのが、まぁだ分かんねーのか。おめーのおかげで買わされたゴムひもやらコンドームやら――ま、コンドームは使ってるからいーけど――いったいいくつあると思ってんだよ。
 案の定るーの奴、何やら玄関口で話し込んでる様子だった。それも、きゃらきゃらと声を上げたりして、比較的和やかな雰囲気である。
 この分だとどーせ、沢木かブルかにいいよーに丸め込まれてるに違いない。口の巧さじゃ奴ら、るーの敵う相手じゃねーからなぁ。たくもう、このクソ忙しい時に。
 それにしてもルーシア、てめー、いつまで話し込んでんだよ。てめーが塗らなきゃいけないベタ、まだたっぷり残ってんだぞ!? えぇい、俺までイラついてきて、線が安定しねーじゃねーか。このっ、くそっ。ルーシア、てめー、俺のペン入れまで邪魔する気かっ!?
 などと文句を言ったって、描けないものはしょうがないんで、俺はやむなくペン入れを断念せざるをえなかった。ペンのお尻で、神経質に画板をこつこつ叩く。
 こつこつこつこつ。
 メトロノームのように規則的な音が積み重なるたびに、俺の神経にも少しずつイライラが積み重なっていった。
 しばらくたってよーやく、ルーシアがドアから顔だけ出した。
 言った。
「あのー、健一?」
「何だよ?」
 俺は、意識的に思いっきり不機嫌のオーラを言葉にまぶして、ルーシアに言った。
 その俺の迫力に押されたのか、ルーシアが少しばかり言いよどむようにして、答えた。
「えと、その……お客さまみたい……なんだけれど」
 お客さま!?
 ルーシアのそのセリフに、俺の左脳の毛細血管が、二、三本まとめて吹っ飛んでいた。
 ぷっつん、ってな感じだ。
 てめー、人のゆー事、全然聞いちゃいなかったなっ!? 今のこの状況、〆切三日前の修羅場って事を、てめーはちゃんと把握してんのかよーっ!? こっこっこの、トリ頭ネコ娘があぁっ!!
 俺は、叫んだ。
「いってー誰だよっ!! おらー忙しーんだ。邪魔すんなら後にしてくれっ」
「それが、親戚みたいなもんだってゆってるんだけどぉ……」
 ――その『親戚』って単語に、俺の高ぶり切ったテンションは、一気にマイナスへと位相変化していった。
 ひやりと背筋に冷たいモノが走る。
 実は俺は、実家が遠方にあって、めったに帰省しない事をいー事に、実家や親戚筋にはいちおーまぢめなサラリーマンをやってるとゆー事になってるのだ。授業料のバカ高い私学を『五年も』かけて、さらに『横に』出て、しかも今は『マンガ家』やってますなどとは、とてもじゃないが親の前では言えなかったのだ。意思の弱い俺ではある。
 それも、メジャー誌に載ってるようなマンガ家ならともかく、こちとらしがないえっちマンガ家なのだ。言える訳がない。まさに、下層階級の悲哀って奴だ。
 ましてや、るーと一緒に暮らしてる事など、一言たりとも言ってはいない。何と言って説明すればいーか思いつきゃあしねーし、大体、本当の事を言ったって、信じてもらえるかどーか。
「あー、いや、ルーシア。おまい……」
 つー訳で俺は、空回りしてる頭を何とか整理しようと努力しながら、必死に次にゆーべきセリフを探そうともがいていた。
 と、その時。
「あーもーじれったいわねっ」
 そんな甲高い声とともに、いきなり何人かの足音が、どやどやとフローリングの床を響かせてウチの中へと入ってきた。その数、二、三人? いや、四、五人か?
 俺はいきなりの闖入者に、思わず反射的に身構え――そして。
「……」
 あんぐりと、口を開けた。
 俺のアゴが床まで落っこちてかなかったのは、ほとんど奇跡に近かった。まるで、機械仕掛けの神が空から降ってくるかのよう、ご都合主義ここに極まれりとゆー感じだ。
 そう。
 そこにいたのは、俺のまったく見覚えのない、数人の美少女だったのだ。

 

「あの……ちょっと……きゃっ!!」
 そいつら――とゆーよりも、先頭に立っていた小柄な少女だな――は、ドアの所に立っていたルーシアを押しのけると、強引に部屋の中へと侵入してきた。
 たちまち部屋の中が、数人の闖入者で満たされる。ちゃぶ台が広げてあるせいか、五、六人も入るといささか狭い。
 そして先頭のその少女は、大上段に構えて言い放ったもんだ。
「いーじゃないの。子供が親の所に訪ねてきて、いったい何の問題があるってのよ?」
 大威張りで、そう言った。
 ……よく分からんが、問題大ありだっての。
 ともかく、そう言い切った少女――とゆーより、これは小学生か? ――は、ぷりぷりほっぺを怒らせながら、大仰に腕を組んで、ない胸を反らして立っていた。よく見れば、肩の下くらいまである黒髪も艶やかな、なかなかの美少女である。肌の色も、抜けるように白い。どことなく雰囲気が、日本人形っぽいような感じがする。
 見れば、その後ろに続いている数人の女の子も、それぞれタイプは違うにせよ、みんなかなりレベルの高い美少女であった。下は目の前の小学生くらいの娘から、上は大学生――いや社会人か?
 それにしても。
「こど……も?」
 さすがの俺も、点目だった。まったく身に覚えがないとは、この事だ。
 思わずルーシアの方を見るが、るーもふるふる首を振っている。
 そりゃそうだ。
 大体、ちゃんとケアしてるせいか、るーには今まで当たった事はないし、万が一当たったとしても、一緒に暮らしてるんだから、そんなの今まで分からないはずがない。
 んで、その前になると、そもそも肌を合わせた事のある相手っつったら、香奈しかいないはずなんだが……しかしそれも五年以上も前の事だぞ!? 何で今さら俺んとこに来るんだ? それにありゃー、俺の方が振られてるんだ。今さら、俺に責任取らすなよなー。
 とゆっか。
 そもそも、よくよく考えてみるまでもなく、万々が一に香奈で当たってたとしても、最後にしたのは確か五年ほど前のはず。で、そん時には、特に香奈に変わった様子はなかったんで、どこをどー頑張っても、こんなに大きな子供ができるはずがない。しかも、ひのふの、六人も。
 はっきり言って、全然分からなかった。
 しかし、脳みそウニ状態で固まってしまっている俺に対しても、件の美少女たちは、一切容赦しなかった。
「まーだ分かんないの? ホント、我が親ながら情けないんだからぁ」
「でも見てみて、この情けない顔。きゃはは★」
「ま、しょーがない、っか。いきなりっつったらいきなりだったし」
 三方から取り囲む――まるでフクロにする――よーに、立て続けに嬌声を浴びせ掛けてくる。まったく、姦しい事この上ない。ホント、文字通りに。
 なんて書くと、まるで俺が正確にこの事態を把握し、冷静に対処しているよーに見えるが、もちろんそんな事はカケラもあろうはずがなかった。人間、あまりの極限状態に置かれると、思考回路を思いっきりすっ飛ばして、何も考えずに事態をそのまま受け止めてしまうものなのかもしれない。
 だもんで俺は。
「うあ……え……あの……えぇ?」
 きっと今の俺って、傍から見たら怯えたトガリネズミそのものなんだろーなー、などとバカな事を頭の端で考えながら、ひょこひょこ顔を動かしていた。周りを囲んでいる女の子と、俺の間抜け面を突き合わせては、ひょいと次に目を反らす。ひょこひょこひょこ、その繰り返し。
 かえるひょこひょこひょこひょこみひょこひょこ。
 あわせてひょこひょこひょこひょこむひょこひょこ。
 あああだから俺はパニくってんだよー。
 右手にいる少女は、さっきから一人でぷんむくれになっている小学生だった。仁王立ちになって腕を組んで、俺をじろりと睨み付けている。
 左に視線を移すと、そこには高校生くらいの、ちょっとつり上がり気味の目をしたショートボブの娘が、鋭い八重歯を光らせてチェシャ猫っぽい笑みを浮かべていた。
 そして正面からは、髪を兎の耳みたいに両脇に跳ねさせた少女が、くるくる回るいたずらっぽそうな瞳で、俺の顔を見つめている。
 三方一両損……じゃない、四面、いや三面楚歌だ。
 そりゃー俺だって男だから、何人もの美少女に囲まれるとゆーこのシチュエーションは――ルーシアさえここにいなければ――望むところなのであるが、なにぶん、あまりにもとーとつ過ぎた。
 それも、相手の娘らは、どーやら俺の事を知っている――あまつさえ、親とまで呼んでいる――のである。いくら身に覚えがなくとも、そーゆー状況に追い込まれた場合、男として本能的に背筋が寒くなるとゆーのはしょーがない事ではあろう。と、経験者は語る。
 それはさておき。
 ひょこひょこと何度も顔を突き面合わせていくうち、俺は、何とも名状しがたいもの――ハスター――既視感のようなものに捕われていた。
 確かに、俺の薄桃色の脳細胞に誓って、俺はこの三人――ぷらす後ろの三人――には、今までの人生で会った覚えはないのだが、それでもどことなく、どっかで見かけたよーな気が、しないでもないのだ。どことなく見覚えがあるというか……。
 そー言えば、この兎耳ってどっかで……。
 兎……耳?
 ふと、何かが記憶の端に引っかかってるよーな気がする。考え込む。
 その眉をひそめるとゆー、俺の表情の変化に気づいた正面の少女が、わずかに肩をすくめながら、くすっと笑った。
 そして言った。
「よーやく気が付いたみたいね、パ・パ★」
 一瞬、俺のシナプスに電撃が走った。
 このセリフっ!!
 そうだ、思い出した。
 間違いない。こんな事をゆー奴を、俺は一人しか知らない。
 俺は、叫んだ。
「おっ、お前、ひょっとして螢かーっ!!」
 こいつら、俺のキャラだっ!!
「そゆこと」
 螢のこぼれるような満面の笑みが、俺の問いへの何よりの回答であった。
「つー事は、お前がサヨコで、紅葉!? あっあっ、茉莉に咲に未沙までもっ!!」
 興奮覚めやらぬままに、彼女らをいちいち指差し確認する。
 それを冷ややかな視線で見つめながら、あきれたような声で、サヨコが言った。
「叫ばなくても聞こえてるわよ。もぉ、このきんに……じゃないか、バカは」
「あ、あの、サヨコさん……仮にも作者さんに向かって、バカってのはあんまりじゃないかと……」
「茉莉ちゃん、そんなの気にしなくてもいーよぉ。別にあたし達、他人どーしじゃないんだからさぁ」
「そうそう、咲ちゃんの言う通り」
 次々と俺の周りで声が弾けるのを、俺は半分夢心地で聞いていた。
 黄色い声が辺りで華やいでいる。その響き一つ一つがみずみずしい感覚を伴って、俺の耳へと届いてくる。
 そうだよ、こいつら……俺の――だよ。
 実感としてこいつらの存在を感じている、俺以外の奴には、俄かには信じがたい事ではあるのだろうが、『その事』に気づいてから俺には、何の不思議もなく、それこそまるで砂に水が浸み通っていくかのように、今の状況がすぅんと呑み込めていった。
 他の誰が何と言おうと、こいつらは俺のキャラ――雑誌や単行本やらで描いてきた、紛う事なき俺のキャラ――だ。特に紅葉なんか、まさにさっきまでそこで描いてたところである。
 懐かしさが胸いっぱいに広がっていった。甘酸っぱいような、ほの甘いようなこの気持ち。
 今の俺を、俺たらしめてくれた、こいつら。
 大学をやめて、これ一本で生きてくしかなかった俺を精一杯支えてくれた、俺のキャラクター達。こいつらがいなかったら、今ここでこうやって生活してるなんて事も、あったかどうか。
 俺は、万感の思いを込めて言った。
「お前ら……いったいどうやって……何しに、来たんだ?」
 いつでも俺の胸に飛び込んできていいんだよとゆー感じで、両手を広げる。バックには、点描の花びらがひらひらと舞っている。
 まさに、感動の再会とゆー奴であった。
 ……。
 ……。
 ……である、はずだったのだが。
 俺の意に反して、彼女らは一人としてそこを動こうとはしなかった。それどころか、一様に醒めた目付きで俺を見つめている。
 それどころか。
「これよ、これ」
 おもむろに螢が、いつの間にか後ろ手に持っていたプラカードを、俺の目の前に突きつけていた。
 おれもしげしげと目をこらす。
 そこには、白い地に黒い文字で、どっかで見た事があるよーなド派手な極太明朝体で、こう、書いてあった。

 待
 遇改善


 今度こそ、俺のアゴの落っこちる音がフロア中に響き渡ったのは、もちろんゆーまでもない事であった。
 合掌。

 

「で、だ」
 と、場所はさっきからのリビング兼仕事場、ルーシアがさっきまでベタを塗ってたちゃぶ台をどかしてスペースを作って、全員、車座に座り込んだところで、まずは俺が口火を切った。
 俺の隣には、ルーシアがよく訳が分かんないよーな顔をして、ちょこんと女の子座りで座っている。
 車座の中心には、氷を目一杯ぶっこんだアイスティーのポットとガムシロップ、それとおせんべやらおかきやらを山盛りに盛った菓子盆とを置いた。定番だと、紅茶にはケーキといきたいところだが、あいにくウチにはここまでの人数分の買い置きはないんで、乾き物で我慢してもらう。お茶は、各人、最初の一杯までは配給したが、後はセルフだ。
 葉っぱは、アールグレイをベースにアッサムを少々。ガラスのポットに入れて、濃い目に煮出してある。氷が溶けたくらいで、ちょうどよくなる按配だ。
 ちなみにここまでのサーブは、全部まとめて俺がやった。そばではルーシアが、やりたそーに指を咥えて見てはいたのだが、またこないだみたいにまとめてカップを割られても困るんで、俺がさせない。
 ホントは俺は――こーゆー状況でもあるし――アルコールが欲しくない訳でもなかったのであるが、いちおー大半が未成年ではあるし、たまたまビールを切らしていてアルコールっつったら冷凍庫にぶっ込んであるウォッカしか思い浮かばなかったんで、やむなく諦める事にした。
 だもんで俺は、代わりにシロップ抜きの紅茶を一口飲んで――ちょっとまだ濃すぎた――苦虫を噛み締めたような顔をして、言葉を続けた。
「もっかい聞くが、おめーらいったい、何しに来たんだ?」
「だから言ったでしょ。待遇改善」
 座ったまま、螢がしつこくプラカードを揚げた。
「そらー俺にだって、そこに書かれた漢字くらい読めるわい」
 もう一口、苦い紅茶をぐびりと飲み込む。
 そー言えば、寝室の本棚に貰いもんのブランデーがあったんだっけ。ちっとばかし、それを垂らしてもよかったのかも。高校生んときは、ブランデー抜きの紅茶なんて、飲んだ事なかったんだけどなぁ。
 俺は、言った。
「よーは、いったい何が不満で、わざわざ〆切前でひーこら言ってる俺んとこに、キャラクター総出で押しかけてきたのか、その訳を聞いてんだよ」
 目一杯ぶすったれた口調で言った。
 相手がみんな自分のキャラ、つまりは身内みたいなもんだからなのか、すっかり俺は態度をおーへーに変化させていた。いつの間にか、口調までしっかりべらんめえ調になっている。
「……あっきれた」
 そんな俺の態度を見て、大仰にサヨコが天を仰いだ。
 思いきり俺をぎろりと睨みつけて、一語一句、物理的に刻み付けるようにトゲトゲしい口調で、言った。
「このバカ、まさかとは思ってたけど、自分があたし達に対して非道い事をしてるって、そーゆー自覚が、全っ然ない訳ね?」
 おい、サヨコ。さっきもそーだが、仮にも作者に向かってバカはないだろう?
「それに、ゆーに事欠いて〆切前ねぇ。うぷぷ」
 と、サヨコの向かいでおかきをぽりぽり食べていた紅葉が、なぜだかおかしそうに含み笑いをした。
「何? どうしたの、紅葉」
「言っていーのかなぁ?」
 まだ、くっくっと喉の奥で笑っている。そー言えばこいつ、けっこう性格悪くキャラ設定したよーな気がするぞ? ちょっとだけ、何かヤな予感がする。
 紅葉が顔中に、いやし笑いを浮かべて言った。
「だってさー、このヒト、ついさっきまで原稿なんて描きもしないで、自分はネットに入って掲示板に書き込みとかしてたんだよぉ?」
 ぎっくうぅ!!
「げっ、紅葉。お前、何でそんな事知ってんだよ!?」
 お前っ、どっから見てたっ!!
 じゃないって、俺。ったく、自分でゲロってどーすんだよ!?
 紅葉が軽く肩をすくめて、顔を俺の机の方に向けた。
「だって、あたしそっから見てたもんねっ。それも、るーちゃん一人にベタ塗らせてさー」
「えっ? えっ!?」
 いきなり話を振られたルーシアが、きょときょとと辺りを見回す。
 その途端、示し合わせたかのように一斉に、周囲から俺を非難する声が巻き上がった。
「――さいってー」
「やっぱり鬼畜さんだったんですね……」
「まったく、作者の風上にも置けないわね」
 次々と、俺の愛しいキャラ達から、冷たい声と視線が投げつけられてくる。ぷすぷすと俺のやわなハートに突き刺さっていく。それって、ぐわっ、と、うめき声がでちゃうくらいだ。
 俺は、彼女らのその勢いに押されながらも、ろれつの回らない口調で、何とか無駄な弁明を試みようとした。
「いや、あれはだな、その……きちょーなファンとのコミュニケーションとゆーか……」
「下手な言い訳は止めてよね、パ・パ」
 俺のセリフをぶった切るように、一刀両断に螢が斬った。ざっくり、袈裟斬り。
 そして言った。
「大体、あたし達がここにいる事自体、パパ――えと、ややこしいな――おとーさんに問題があるって証拠でしょ?」
 どう? ってな感じで腰に両手を当てて、胸を突き出す。普段はガキっぽい螢だが、こーゆー格好をすると、あれでなかなか迫力がある。
 俺は、実に情けない表情で螢を見上げた。哀れな子羊への救済を求める。しかし、螢の表情には一切、変化はなかった。
 問答無用とゆー言葉の意味を、この時ほどひしひしと感じた事はなかった。
 ――沈黙が降りた。
 十二個の瞳が、俺の次の言動をじっと見つめていた。二つばかり俺の横で、状況がよく飲み込めずにきょろきょろしてる瞳があるが、それはこの際、何の助けにもなってくれない。
 まさに、視線の圧力とゆー奴だ。それって物理的な力の事なのだと、俺はこの歳になって、初めて気づいた。ちくちくと、痛い。
 その沈黙の痛さに、俺は一分、保たなかった。
「……分かったよ」
 不承不承、俺はうなずいていた。
 それ以外俺に、どーしろとゆーのだ!?
「ともかくおめーら、何かかしら不満があって出て来たっつー訳なんだな?」
 一同、そろってうなずいた。
 おいこらルーシア、お前までつられてうなずくなよっ。
 そう文句を言おうとしたが、ルーシアに、相変わらずの罪のない笑顔を見せられると、怒る気すらもどっかに霧散してしまう。
 俺は、真横の悪魔のその無邪気な笑顔に、深いふかいため息を一つ、吐いた。

 

 とゆー訳で俺は、目の前にいる悪魔と天空のどっかにいるはずの神と天使に、心の中でひとしきり悪態を吐いてから、ぐるりと俺を取り囲んでいる少女らに向かって、自ら問いただしていった。
「んじゃ、おめーらのゆーその問題っつーか、要求っつーのは何なんだ? ほれ、まず螢から言ってみそ?」
「あっ、あたし?」
 いきなり自分に話を振られるとは思っていなかったのか、螢が少し慌てた表情を見せた。ちょっとだけ、飲みかけた紅茶にむせかける。
「えと、あたしは……その……」
 ん? どーした。
 螢、さっきまでの勢いはどこへやら、うつむいて床に指で『の』の字を書いている。
「何よぉ、螢。あんた、さっきまでさんざ愚痴ってたじゃない」
「だってサヨコぉ……いざ、口に出して言うとなると、ちょっと……ね」
 螢の態度の急変ぶりに、さっきからの急先鋒であるサヨコが、唇を尖らせて文句を言った。しかし当の本人の螢は、顔を真っ赤に染めて照れているだけである。
 よっぽど、螢の要求ってのは恥ずかしいものなのかもしれない。
 と、そこへ。
「螢は、パパとの夜の生活が悩みなんだよねー」
 紅葉がのーてんきにもとゆーか、無責任に螢に茶々を入れた。
「ちょっ、ちょっと紅葉っ!!」
 螢はわたわたと手を振ってごまかそうとするが、ポットを挟んで対岸にいる紅葉には、もちろんそんな事をしても効果はなかった。紅葉は形のいいあごに手をやって、にやにやとチェシャ猫っぽく笑っているだけである。
「もうっ」
 やむなく螢は、紅葉へのそれ以上の追求を諦めざるをえなかった。
 膨れっ面をしながら、どっか明後日の方向を向いて、まるで一人言でも言うかのようにとつとつと要求を話し始める。
「その……何てゆーか、ほら、あたしのだけ、二冊、単行本化されてるじゃない? だからその、他の娘達と比べて、よけいにえっちのバリエーションが必要だって事は分かるんだけど……でも、もうちょっとふつーでもいーんじゃない?」
 螢はその『ふつー』というところに、かなりの感情を込めて言った。
「特に、二冊目。あたしいつも、あんなえっちな事ばっかり考えてないよぉ? あれじゃ、まるで変態さんじゃない。ぶうぅ」
 そう言って螢は、さらにほっぺたを膨らませた。
 うぅむ。自分のキャラに言うのも何だが、こいつは拗ねたところも結構かわいい。なかなかにオヤヂ心をくすぐるものがある。敬吾がめろめろになる訳だと、しばし感心。
 もっとも敬吾とは、幼少時からの付き合いだっけか。
 とゆーのはともかく、ジッサイ螢の言う通りかどーか、俺はたまたまそこらに積んであった『GE・N・JI』の単行本を取って、螢のえっち遍歴を調べてみる事にした。
 ぱらぱらと、めくる。
「どれどれ……んーと、無印のほーが、お帰りなさいのフェラから始まって、乳幼児のフェラに幼稚園児、小学生とのロリコンプレイ、ラストはキッチンから寝室への雪崩式でのロストバージン、と」
「ちょっとおとーさんっ!!」
 いきなり声に出して読み上げ始めた俺を見て、螢が顔を真っ赤にして抗議するが、とーぜん俺はしっかり無視した。
「んで、二冊目に入ると、妄想中に痴漢されて、学校で友達がしてるのを覗き見しながらの一人えっちに、ホテルに入ってからは放尿にマット洗いに二穴責めかぁ。うーん、自分で描いといてゆーのも何だが、これってかなりえっちぢゃのぉ」
「……確かにマニアックかもねー」
 あきれたようにサヨコが言った。
「もうっ、サヨコも冷静にうなずかないでよっ!!」
 螢もサヨコに文句を言うが、それもどこ吹く風とゆーところである。そういえばサヨコって、基本的に他人事には冷たいよなー。
 そんな二人のやり取りを微笑ましげに見つめながら、俺は言った。
「しかし俺がゆーのも何だが、別に螢の嫌がる事は描いてないと思うのだがなぁ……」
 むしろ螢は、喜んで敬吾とのえっちシーンをしてる気がする。
「そーそー、あたしも健一の原稿のお手伝いしてるけど、敬吾パパとえっちしてて感じてる時の螢ちゃん、とっても可愛く描けてるよ?」
「やだ、ルーシアちゃんったら……」
 あまりにも素直なルーシアの言葉に、螢が照れて、頬をぽっと赤く染めた。
 よし、さすがルーシア、俺のアシだ。見るべきところはちゃんと見てるな。
 俺はここぞとばかりに、かさにかかって螢に攻め込んだ。
「んでだ、そーゆーシチュエーションになってしまうのは、多分に敬吾の趣味だと思うんだが……螢、敬吾のそーゆーとこ、嫌か?」
「そっ、そりゃあ別にヤじゃないけど……」
 螢が思わず口を濁す。俺の問いに対して、言いよどみはするが否定もしない。
 それを見て俺は、にかっと笑って決め付けた。
「だろ? ぢゃあ問題ないぢゃん」
「でっ、でもでも……」
 螢も必死に反論しようと試みるが、どうにもうまい言葉が見つからないよーだ。
「そー言えばこの男、どっかで『愛の前に変態はない』とか何とかほざいてたわねー」
 と、思いっきりあきれた口調で、サヨコが言った。
 俺もその言葉尻に乗って、したり顔で付け加える。
「そーそー、これも螢を愛するが故なんだよ」
 きっぱりと、言い切った。
「敬吾も俺も、螢に幸せを感じて欲しいから、あーゆーシチュエーションを作り出す訳なんだな。全ては螢のためなんだよ。よかったな、螢」
「わー、螢ちゃん、おめでとー」
 ぱちぱちとルーシアが拍手をする。よし、お前にしちゃあナイスタイミングだ。
「あ、ありがと……」
 力技で、強引に丸め込んでしまう。まだ螢は何となく納得がいかなさそうではあったが、逆さ押さえ込みだろーが、ジャパニーズ・レッグ・クラッチ・ホールドだろーが、スリーカウント入っちまえばこっちのもんだ。
 よしよし、まずは一人目。
 そう思って、にんまりとした俺に向かって。
「ふぅん」
 サヨコが妙に醒めたような半目をして、俺の方を見やった。
「何だよ、サヨコ。何か言いたい事でもあるのか?」
「別にー。ただ雷太の産みの親だけあって、さすがに詭弁がうまいなって思っただけ」
 心臓が、どきりと一つ、跳ね上がる。おっと、ちょうど五・七・五だ。もっとも、季語がないから俳句じゃないが。
「きっ、詭弁たー何だ、人聞きの悪い。知らない人が聞いたら誤解するだろ」
「ここにいるのはみんな知ってる人だから、きっと誤解しないわよ」
 うっ。
 さすがにあの雷太と一緒にいるだけあって、サヨコは実に口が悪い。
 聞かなかったふりをして、俺はおもむろに話をそらした。
「それはともかく、そーゆーお前は何が不満なんだ?」
「あたし? 決まってるじゃない」
 そんな事も分からないの!? ってな感じで、サヨコは腕を組んでふんぞり返った。まったく、産みの親に相対しているとは思えないような、偉そげな態度である。
 んな事言われても、おりゃー読心能力なぞ持っとりゃせんわい。わしゃあ、ただの人間だからよ。
 だもんで、俺は素直に訊き返した。
「決まってるって、何がだ?」
 その言葉にサヨコが、いきなりがうぅと噛み付いた。
「もうっ、あたしが文句言うとしたら、あの筋肉バカの事に決まってるでしょっ!? それっくらい作者だったら、見当つけなさいよねっ!!」
 打てば返すのリターンエースで、サヨコの文句がピンポイントで俺に跳ね返ってきた。その球の勢い、二倍三倍当たり前である。
 言うだけ言って、サヨコは思いきりぷんむくれた。
 それにしても、相変わらず無茶を言いおるわい。『決まってる』ってセリフだけで、雷太の事だなんて誰が分かるかいな。
「あのぉ……その筋肉バカって、いったい誰の事なんですか?」
 流れのあまりの性急さに話に付いてこれてない茉莉が、おずおずといった感じで口を挟んだ。
 その言葉を待ってましたとばかりに、サヨコが口の戸の水門を全開に開け放っていた。怒涛の勢いそのものといった感じで、文句の噴流がサヨコの口から溢れ出していく。
「雷太よ雷太っ。あのぬりかべに頭付けただけの唐変木の事よっ。茉莉ちゃん、あーゆーの見た事ある? ないでしょ? ほんっと人並みじゃないんだから、あのバカ。もう、ゴリラと大して変わんないわよ。知能も身体も。ほら、よく言うじゃない、何とかの総身に知恵が回りかね、って。きっと脳みそはジュラ紀よ、ジュラ紀」
「はぁ……」
 勢いに押されて、分かったような分からないような顔で茉莉がうなずいた。
 それにしても、ぽんぽんとまぁ威勢よく、雷太の悪口が出てくるもんだ。
 俺はサヨコのその態度に、ちょいとばかしいたずら心を刺激された。わざと下卑た顔を作って、いやらしそーな言い方でサヨコに言う。
「その割にサヨコ、おめー、そのジュラ紀とずいぶんと相性はいいじゃねーか? へっへっへ」
 途端、サヨコの顔が真っ赤に染まった。リトマス試験紙だって、こーはいくまい。
 サヨコは思いっきり動転しながら、必死に俺のセリフを否定しようと慌てまくった。
「だっだっ誰があいつなんかと相性がいいってーのよっ!! あああれはあれはね、えっえっえーと仕事、そーよ仕事だからしょうがなく、しょーがなく我慢してぴーしてやってるだけなんだからっ!! このあたしがあいつなんかと好きでぴーしてる訳ないでしょ!? ばばバカ言わないでよっ!!」
 その、あまりにも思い通りのサヨコの反応に、俺は思わず苦笑した。
「おいおい、誰も『身体の』相性がいいなんて言っとらんぞ?」
 かあっ。
 俺のセリフにサヨコの顔が、耳の先までより一層赤く染まる。
「知らないわよっ、もう!!」
 パニクったサヨコが、下手するとムチウチでも起こしかねないような速度で、ぶんとそっぽを向いた。
 と、そこへ。
「あー、サヨコちゃん、照れてるー」
 ――この馬鹿。
 ルーシアが無邪気に、言わずもがなの一言を口にした。
「うっさいわねっ、ルーシアっ!!」
 ぎろっ!!
 案の定、サヨコがぶっ殺しかねない視線でルーシアを睨み倒す。その眼光の威力たるや、ドレッドノート級戦艦の主砲の破壊力に匹敵する。
「ひぐっ」
 とーぜんながらその勢いに、瞬時にルーシアが目に涙を浮かべて怯えた。慌てて俺の後ろに隠れて、べそをかきながら顔をそっと覗かせている。
 ま、自業自得っつやあそれまでなんだが。
「よしよし、何も噛み付きゃあしねえって……おいおい、るーを脅すんじゃねーよ、サヨコ」
 一応、サヨコの方もたしなめておく。
 もっともサヨコが、俺のゆー事を素直に聞くはずもなかった。ふんっ、私が悪いんじゃないからねっ、とゆー顔をして、顔をこっちから背けている。
 やれやれ。
 俺は軽く肩をすくめて、俺の腰にしがみついているルーシアの、ふわふわの髪の毛を撫でてやった。まったく、ガキじゃねーんだが、ルーシアを落ち着かせるにはこれが一番なのだ。
 サヨコはそれをちらりと横目で見ながら、少し拗ねたような、それでいて吐き捨てるような感じで俺に言った。
「だいたいねー、実際にあんたの姿を見て納得したけど、雷太って完っ璧に、あんたってゆーか――男の願望、そのものじゃない。筋肉質で、逞しくて、強くて、その……大きくて」
 その『大きくて』とゆー言葉を口にする時、サヨコはわずかながら顔をはにかませていた。
 その態度に俺は、逆に憮然とした表情をする。
 むすっとした声で、ぼそりと、言った。
「……悪かったな、小さくて」
「あたし、健一の可愛くて好きだもんっ!!」
 俺の言葉を受けて、間髪を入れずにルーシアが答えた。まるで俺をかばって、サヨコに張り合うかのような、真剣な顔付きである。
 もっとも俺は、ルーシアのそのセリフに力なく、がくっと肩を落とすだけであった。いや、好意から出た言葉だとは分かってるんだけどね。
 ため息を吐きながら、俺は言った。
「おい、るー、何度も言うが、それってフォローになっとらんぞ?」
 世にも情けない声を出す。
 それを聞いてサヨコが、勝ち誇ったかのように鼻でせせら笑った。
「あれ、あたし、『背丈』の事を言ったつもりだったんだけどぉ?」
 ふふん、ってな感じだ。ルーシアより、よっぽど悪魔っぽい笑みを浮かべる。
 くっそー、さっきの意趣返しとゆー奴かぁ。
 確かにさっきのは俺が悪かったから、やり返したくなる気持ちは分からんでもないが……てめー、作者をからかうたー、いー度胸ぢゃのお。
 サヨコは続けて言った。
「ともかく何にせよ、いくら自分のが小さいからって、雷太のを大きくすりゃーいーってもんじゃあないわよ。ホント、雷太のぴーって冗談じゃなくバカでかいんだから。あんたも人の親なら、ちっとは子供の身体の事も考えなさいよね、このバカ作者っ!!」
 ここぞとばかり、サヨコはいーたいほーだい文句を連ねてきた。
 こっ、このやろー。やっぱり人のナニを小さいって決め付けてるじゃないかっ!! そらー確かに大きいとは言わんが、人並みくらいはあるはずである――あって欲しい。
 それに、人の事をよくもバカバカと……。
 さすがの温厚な俺も、このサヨコの態度にはいささかぷっつんきた。
「サヨコ……おめー、作者に向かってよくもまー好きほーだい言ってくれやがって……覚悟はできてんだろーなぁ?」
 俺は、うっそうと繁った声で、サヨコに言った。恨みがましそーな目付きで、サヨコを見つめる。背後にはおどろ線がどろどろって感じだ。
「な、なによぉ」
 そんな俺の態度の変化に、心持ち、サヨコが引き加減になった。さすがに強気で出てはいても、相手が作者――しかも俺だ――なだけに、何をしでかすか分かったもんじゃないとでも、思ったのかもしれない。
 ま、ある意味それは真実だ。
 俺は、ひじょーに生気のない暗い目をしながら、サヨコに聞こえるかどーかぎりぎりの声量で、ぼそっと、言った。
「年増」
 瞬間、サヨコのコメカミにひきっと一筋、青筋が走った。
 サヨコはまるで、聞きうべからざる言葉を聞いたかのように、わなわなと唇を震わせていた。顔面そーはくといった感じである。
 必死に顔色を変えないように努力している事は認めるが、けっしてその驚愕の表情は隠しおおせてはいない。
 サヨコは、そんな自らを落ち着かせるかのように、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。コップを掴む手が、ぷるぷると震えている。二、三回、深呼吸をする。
 そしてそれから、一語一句、はっきりと区切るように、俺に言った。
「――あんた、今、何てった? あたし、よく聞こえなかったんだけど? もし――そのセリフによるけど――事と場合によっちゃあ、いくら作者でも容赦しないわよ?」
 目が、マジだった。世にもぶっそうな声である。
 けして今のセリフが冗談ではない事が、その眼光の鋭さからもうかがい知れる。
 それでも俺は、今度もきっぱりと言い切った。
「俺は『年増』と言ったんだが。やーい、年増年増年増」
 すでに、子供のけんかレベルであった。いや、それ以下か。
 部屋の中はいつしか、痛いほどの静寂が支配していた。誰一人として、言葉を発する者はいない。ルーシアでさえも、俺の腰にしがみついて固まっているだけである。
 サヨコの顔色は――ただでさえ透き通るような白さなのに――今や白磁と見まごうばかりに蒼白になっていた。肩がふるふる震えているのは、けして目の錯覚ではない。
 いきなり音も立てず、すっとサヨコが立ち上がった。
「そっ……命がいらないって言ってんのね?」
 そう一人言のように言いながら、サヨコは幽鬼のような足取りで、俺の前へと足を運んだ。きっかり三十センチ手前で止まる。見下ろす。
 虫けら――いや、無機物でも見るかのような、冷たい視線だった。
 霊能力者でない俺にも、サヨコの身体全体が青白いオーラで包まれている事が、はっきりと分かった。
 そしておもむろに、サヨコがゆっくりと右手をしごき始めた。包丁を研ぐかのように、四本の指をきれいに揃えて、鋭利な手刀を形作る。爪の先が、わずかに鋭さを増して光った気がするのは気のせいか。
 そういえば、今夜は月夜だったっけ。
 まさしく絶体絶命のシチュエーションでありながら、俺は残された時間を、そんなよしなし事を考えては過ごしていた。
 それから一転、サヨコは思いきり感情を剥き出しにしたよーな、ぶっ殺しそうな目で俺を睨みつけて。
「死になさいッ!!」
 一挙動で俺の喉笛を掻き切ろうと、右手を振りかぶったその瞬間!!
「タケゾウ」
 ――ぴたっ。
 ぼそりと言った俺の言葉に、サヨコの爪先が、俺の喉元数センチの距離を置いて止まった。
「あんた……今、何て言っ……」
 サヨコの揃えた指先が、ぷるぷると細かく震えていた。目も、異様に大きく見開かれている。
 なぜだか今、サヨコの身体を、先ほどとは異なった種類の驚愕が襲っているかのようであった。
 それでも俺は、努めて平静な声をして、言葉を続けた。
「ん? どーしたんだ、サヨコ? ……っと、あぁ、どーゆーこったい? なぜだかおりゃー、無性に『何か』を雷太に言いたくってたまらなくなってしまったなあぁ。不思議だなあ。どおしよう?」
 セリフの途中から、俺はすごい棒読みになった。我ながらひじょーにわざとらしい。
「ひ、卑怯よ……」
 サヨコは奥歯をぎりぎり噛み締めながら、まるで親の仇でも見るような顔で、俺を睨みつけていた。身を震わせながら、立ちすくんでいる。固く握り締められた両の拳に、血の気はない。
 俺は、思いきり開き直って大上段にサヨコに言った。
「えーい、作者に向かって卑怯もくそもあるか。どーしたサヨコ、そんな所に突っ立って? 何か、俺に言いたい事でもあるのか? ん?」
 アゴを突き出し、サヨコを挑発する。
 しかし、サヨコは。
 サヨコは。
「……何でもないわよ」
 普段のサヨコからはまったく考えられない行動であったが、サヨコは俺のセリフに悔しそうに顔を歪めると、吐き捨てるように、そう、言った。肩を落としながら、打ちひしがれたようにすごすごと、自分の座っていたところに帰っていく。
 その後ろ姿、もともと非常に小柄ではあるが、さらに小さく感じられる。
 ふうっ。
 もっとも俺は俺で、肺に思いっきり貯めていた息を、皆に気づかれないようにそっと吐いていた。
 実は緊張のあまり、手のひらびっしょり心臓ばくばくもんだったのである。もし見境なくサヨコがキれていたりしたらと思うと、我ながらぞっとしてしまう。
 結構、無謀なギャンブルだったのかもしれない。
「サヨコ……ちゃん」
 俺の腰にしがみついたままのルーシアが、サヨコのその様子を見て、心配そうに声をかけた。
 サヨコは――ため息を一つ吐いてから――無理やりっぽく笑顔を作って、首をふるふる振りながら、ルーシアの言葉に答えた。
「あたしなら大丈夫。それよりルーシア、さっき、脅かしてごめんね」
「うぅん、別にいーけど……」
 歯切れが悪そうにルーシアが言い、俺の顔をちらっと見上げた。
 俺、何だかルーシアと目を合わせづらくて、明後日の方向を向いて口笛を吹く真似をしている。
 と。
「てっ!! ルーシア、いきなり何すんだよっ!!」
 急にルーシアが、怒ったような顔をして、俺の太ももをつねってきやがった。そしてぴょんと飛び跳ねるようにして、俺の身体から離れて、自分の席へと戻る。
「別にっ」
 つんと膨れてそっぽを向いた。
 ったく、ルーシアの奴めぇ……。
 俺は、ルーシアのその態度の急変に苦笑いをしながら、とりあえずは進行を続けた。
「とゆー事で、サヨコは特に俺にゆーべき事はないそうなんだが――次は、座ってる順番からすると――咲か。咲は何かあるのか?」
「あっ、あたし!? えとえと……」
 俺とサヨコとの、丁丁発止のやり取りに固まってしまっていた咲だが、俺のセリフでよーやく現実世界へと戻ってきたようだった。
 わたわたしている咲を尻目に、俺は言葉を続ける。
「言っちゃあ何だが、俺は咲には、ずいぶん作品中で自由にさせたつもりでいるんだがなぁ? えっちシーンだって、咲の場合は自業自得っつーか、自爆そのものだし。他の娘達からはともかく、咲に恨まれるよーな筋合いって、ないよーに思うんだがなぁ」
「それって、咲以外の娘からは恨まれる筋合いがあるって、自白してるよーなもんじゃないのよぅ……」
 それを聞いてサヨコが、恨みがましそーにぼつりとつぶやいたが、もちろん俺はあっさり無視した。
「んで、どーなんだ、咲?」
 見れば咲は、少し頬を赤らめていた。ひょっとしたら、自分のえっちシーンでも思い返していたのかもしれない。
 咲が、俺の問いに対して、つぶやくように答えた。
「そっ、そりゃあ確かにそーなんだけどぉ……でも、あたしだって好きであんなえっちシーンやってた訳じゃないんだけどな……」
「それも、相手が俊ちゃんだったし?」
 紅葉が鋭くツッコミを入れる。
 咲も目を閉じて、軽くうんうんとうなずく。
「そう、それが問題なんだよね……じゃないって!! あっあっあれは『たまたま』頭ん中に俊が浮かんだだけなんだからっ!!」
 咲も必死に否定しようとはするが、紅葉は笑って取り合おうとはしない。
「まーまー、あたしも兄貴が相手なんだから、咲ちゃんの気持ち、分かんないでもないよ?」
「もう、紅葉ぃ……」
 紅葉の言葉に、咲はますます顔を赤くするばかりであった。
 これって咲、完璧に紅葉に遊ばれてるなぁ。作者である俺も知らんかったが、紅葉と咲ってこーゆー仲だったのか。うーむ、奥が深い。
 などと、しきりに俺が感心していたら、いつの間にか紅葉のからかいから立ち直った咲が、顔を紅潮させながら、俺に文句を言い始めた。
「それよりあたし、作者さんに言いたいんだけど、ひとりえっちのシーンってものすっごく恥ずかしいの、分かってるのかなぁ? それもあんな、ありもしないそーぞーまで描写されてさぁ」
 ありもしないかどーかはともかく、どーやら咲の要求は、オナニーシーンの描写によるものらしかった。
 それを聞いて俺は、少しだけほっとした。どーやらあの事は気づかれてないらしい。もっともアレに気が付かれてたら、これっくらいの抗議ですむはずがないものな。
 そんな作者の内面の一人言にも気づかずに、咲が続けた。
「そーゆーのって、ふつー彼氏――そっ、そりゃあ、『いたら』だけどさぁ――にだって絶対、見せたくないものじゃない? それをあーゆーふーに実況されるのって、何かヤな感じだったなぁ……」
「――咲ちゃんのぜーたく者」
 螢が誰にも聞こえないほどの小さな声で、ぼそっと言った。
 もっとも本人はそのつもりなんだろーが、俺の耳はしっかりそれを聞き逃さなかった。ま、螢の気持ちは分からんでもないけどな。
 それはともかく、咲の抗議を受けて、紅葉があっけらかんと事実を口にした。
「そっか。よく考えてみたら、咲ちゃんのえっちシーンってオナニーだけなんだっけ」
 紅葉のあまりに露骨なセリフに、咲は思わず、ったまいてーとゆーよーな顔を作って、自分のおでこに右手をやった。眉根を揉み揉み、苦虫を噛み潰したような表情で、咲が言う。
「……だから紅葉、そーあからさまに言わないでよ。恥ずかしいじゃない」
「まっ、しょーがないじゃん。だって咲ちゃんって、このメンバーの中で唯一、処女なんだしさー」
 その、紅葉の何気ない一言に、咲は、ひくっと唇の端を引き攣らせていた。
 冷や汗たらりと左頬に垂らして、ゆっくりと咲が紅葉の方へと向き直った。いつしか咲の目の回りには、おどろの斜線が入ってきている。対して、その――咲にとっての――爆弾発言をした紅葉は、相変わらず、のーてんきな笑顔のままだ。
 そして咲は、聞きたいよーな聞きたくないよーな神妙な顔付きをして、紅葉に向かって今の言葉の意味を問い返していた。
「え……そうなん……だっけ?」
「うん、そーだよん。知らなかったの?」
 咲の微妙な心境を知ってか知らずか、あっさり紅葉がその事実を肯定した。まったく、身もふたもないとはこの事だ。
 恐る恐るといった感じで、咲が順次にみんなの顔を見回す。咲と目が合うたび、皆の顔がこくりとうなずく。
 最後に咲の顔が、一番幼そうな雰囲気を持った茉莉の顔で止まった。
 泣き笑いのような顔を浮かべて、まるですがりつくかのように、咲が問うた。
「あの……その……茉莉ちゃん……も?」
 ここでもなぜか、紅葉が横から口を出した。
「えっとね、茉莉ちゃんって確か、一番ロストバージン早かったんじゃなかったかなぁ? ねーねー茉莉ちゃん、いくつの時だったの? 最初にしたの」
 紅葉に問われて、茉莉は恥ずかしげに下をうつむくと、ぽつりと一言、つぶやいた。
「……十二歳の時、お兄ちゃんと……」
「じゅっ、じゅうにさい……」
 ごがっ!!
 うめくように、咲が茉莉の言葉を繰り返した。そのまま、ぴしぴしと音を立てて固まる。
「どっ、どーした咲っ!!」
 慌てて俺が声をかけたが、それは一足ばかり遅かったようであった。咲は口をあんぐりと開けたその格好のままで、コーチョクしたっきり、ぴくりとも動きはしない。
「――って、おいおい、固まって塩の柱になっちまったぞ?」
 まるで、ソドムとゴモラの住人だ。
「あれでけっこう咲ちゃん、お子ちゃまだからねー」
 すました顔で紅茶をすすりながら、螢が結構シビアなセリフを吐いた。おいおい螢、お前、ちっと咲に冷たいんでないかい? たくもう。
 俺は、腕組みをしながらつぶやいた。
「うーむ、咲にはちょっと今の茉莉のセリフは、刺激が強すぎたのかもしれんなぁ」
 俺も、室温くらいまで温くなってしまった紅茶を、ぐびりと飲み干した。紅茶を入れなおすついでに、海苔巻あられを一掴み取って、包み紙を剥いで一個、口の中へと放り込む。
 ぽりぽりとそれを噛み砕きながら、俺は言った。
「しかしそーか、俺もつい今しがた知ったんだが(おいおい)、茉莉って、そんな小っちゃな頃からお兄ちゃん――えっと、正哉っつったっけ?――としてたのかぁ。ふむふむ」
「……だから、会いたかったのに」
「あ……」
 ぽつりとつぶやいた茉莉の一言に、ヤバいと俺はマヂで思った。
 俺は以前から、他の娘らにはともかく、茉莉にはまずい事したなぁと、常々思っていたのだ。さっき、キャラからクレームがあると聞かされた時も、真っ先にこいつの事を思い浮かべてしまったくらいだ。
 何せ、こいつには――。
 ぽつり、ぽつりと茉莉が続けた。
「あたし……お兄ちゃんに会いたかっただけなのに……それなのに……あんな目にあって……死んじゃったんだよね?」
「あー、いやー、そのー」
 返す言葉がなかった。下手な茶々でも入れようもんなら、怒ったルーシアに瞬殺される事、必至だ。
「それも、嫌だってのに……無理やり襲われて……しっ、縛られたりもして……お兄ちゃんにも……あたし……あたし」
 目の端に涙をうっすらと盛り上げて、とつとつと語る茉莉。それ以上はもう、言葉にならない。しゃくり上げながら、嗚咽を漏らすだけである。
 涙の雫がぽたりと、床に落ちた。
 ――しぃん。
 さっきまでのおちゃらけた雰囲気とはまったく異なる、目一杯重っ苦しい空気が辺りを包み込んでいた。誰もが口をきかない、いや、きけない。
 俺も、誰とも目を合わさずにただうつむいているだけであった。
 当然のごとく、非難の冷たい視線が、まるで集中線のように集まってきているのを、俺は全身で感じていた。それでも俺は、身動き一つする事ができない。
 何て言ったらいいのか、分からないのだ。
 そこへ。
「健一」
 突然、ルーシアの声が沈黙を破った。打たれたかのように、俺ははっと顔を上げる。
 目が合う。
 そこには、真摯な表情で俺を見つめる、ルーシアの顔があった。
 責めている訳でもない、蔑んでいる訳でもない。ただ、あなたはどうしたいのかと、それ以外に何の意味も付加せずに、じっと俺に問うているルーシアの表情が、そこにあった。
 それを見て俺は、心を決めた。
 俺は、茉莉の方を向くように正座をして座りなおすと、うつむいている茉莉の顔を正面から見つめた。
 そして、神妙な口調で言った。
「あー、茉莉。まずは、すまん。謝る、このとーり」
 深々と、頭をたれる。おでこを床に擦り付ける。早い話が土下座する。
 これが今、俺にできる精一杯の謝罪だ。
 やってしまった事はすでに取り返しが付かないから、俺には誠心誠意、茉莉に謝る事しかできない。今さら、茉莉の話が載った本をすべて回収して回る事もできないし、仮に俺がそうしたとしても、一度俺が描いてしまった時点で、それは厳然たる事実として茉莉の身体と記憶に刻み込まれてしまっている。
 もはや、作者の俺にもどうする事もできないのだ。
「健一さん……」
 茉莉は目に涙を浮かべたまま、泣き笑いのような表情をした。
 俺は身体を起こして、本当にすまないと心の底から思いながらも、それでいてきっぱりと、茉莉に言い放った。
「けどなぁ、茉莉。俺は、お前にはひじょーに悪い事をしたとは思っているんだが、あれはもう、どーしよーもないのだよ。俺個人の力では」
「どう……して?」
 不思議そうな顔で、茉莉が俺を見つめる。いつの間にか涙は止まっている。
 俺は腕組みをしながら、苦みばしった顔で、言葉を続けた。
「あれは、メインテーマが方程式モノなものでなぁ……。そもそもあーゆーシチュエーションが大前提の話だし、極限状態での人間の行動がどーゆーふーになるかってゆーのも方程式では大事なテーマだし――ま、少々やり過ぎたかもしれんが――全ては元ネタを作ったトム・ゴドウィンが悪いって事で、勘弁してくれ」
「とむ、ごどうぃん?」
 聞き慣れない名前に、茉莉が小首をかしげる。
 俺は言った。
「『冷たい方程式』ってSFを書いた、アラジン並みの一発屋の事だよ」
 ツッパリはいすくーるろっけんろーらっ。
「――アラジンだなんて、きょーびの若い子は絶対知らないわよ」
 それまで黙って、俺と茉莉とのやり取りを聞いていたサヨコが、一人言のようにぽつりとつぶやいた。
 俺は軽く口の端を歪めると、すかさずサヨコにツッコミを入れる。
「そーゆーサヨコはよく知っとるじゃないか。さすがは年の功」
「何ですって!!」
 きいぃっ!!
 案の定、サヨコが牙を剥いて噛み付いてきた。
 ホントにこいつは、歳の事を言われると見境がなくなる。とてもじゃないが、十二、三にしか見えない外見をしてんだから、黙ってりゃ分かんねぇだろーのに。
 とはいえ、小学生っつっても怒るんだよなー、まったく。女心ってーのは秋の空と一緒で訳が分からんわい。
 なんて、ぎゃーすかわめいてるサヨコをBGMに一人ごちてると。
「まぁまぁ、サヨコも抑えておさえて」
 螢がそう、とりなしてきた。
「もうっ、今のはおとーさんが悪いよ?」
 そう言って、めっ!! てな感じで俺を睨んできた。普段はいたずらっぽく光らせてる目をつんつんに尖らせて、これって結構な迫力である。
 うぅ、それにしても螢の奴、普段から敬吾と接してるせいか、年上を叱り慣れとるわい。
 俺は螢のその勢いに幾分押されながらも、何とか言い訳の言葉を口に出した。
「おっ、俺は、この沈んだ場を少しでも盛り上げよーとしてだなぁ……」
「だから、それがよけいな事だって言ってんの!!」
 うぐぅ。
 取り付くしまもないとはこの事だった。ぐぅの音も出ない……とゆーか、ぐぅの音しかでない。
 口をぱくぱくさせながら、何とか次のセリフをひねり出そうとしてると、そこへ。
「――分かりました」
 とゆー落ち着いた声が、静まり返った部屋の中に、凛として響き渡った。
 ほぇ? とゆー表情で俺は、そっちの方を見る。今の声、ひょっとして……。
 ひょっとしなくても、それは茉莉の声だった。
 茉莉は、顔をきりりと引き締めて、毅然とした態度できっぱりとこう、言い切ったもんだ。
「要は、健一さんじゃなくて、そのとむ何とかさんって人が全部悪いんですね? それじゃあたし、今からその人のとこに行って、文句言ってきます」
 そう言って、おもむろにすっくと立ち上がる。まるで、今にも駆け出さんばかりの勢いだ。
 その表情に、一点の曇りも迷いもない。
 逆に、俺の方がいささか慌てていた。
「あ、あのな、茉莉?」
 俺の、あまりといえばあまりの屁理屈に対する、茉莉のこの素直すぎる反応は何なんだっ!?
 俺の声に、一歩踏み出しかけた茉莉の足が止まった。くるりと振り返る。
「え? 何ですか?」
 心底不思議そうな顔をして、茉莉が言った。
 その意外そうな茉莉の顔を見ると、何か、呼び止めた俺の方が間違ってるよーな気が、しないでもない。
 俺は、しどろもどろにつっかえながら、茉莉に言った。
「あー、えと、お前は、それでいーのか?」
 そんな俺の問いに、あまりにもあっさりと茉莉が答えた。
「だって、起きちゃった事はしょうがないじゃないですか」
 実にあっけらかんとした顔付きである。
 そらー確かにそーだが、とうなずきかける俺に、さらに茉莉は、トンでもないセリフを口にした。
「その、無理やりされたのはちょっと嫌でしたけど、あれはあれで気持ちよかったし――えっちするのってすごい久しぶりだったから、あたしもけっこう楽しんじゃいましたしね★」
「……」
 茉莉、今、何てった?
 俺が今の茉莉の言葉を全て理解し終えるまで、しばらくの間、俺の聴覚と思考とにタイムラグが発生した――理解した瞬間、口が勝手にあんぐりと開く。
 茉莉は、そんな俺の様子などには気にも留めずに言葉を続けた。
「特に、最後の瞬間!! お兄ちゃんに、してる時の声を聞かれるのってすっごい刺激的で、あたし、すごく燃えちゃったんですよ?」
 そらー大気圏に突入すれば燃えるだろーと、ほーけた頭で空虚なツッコミを入れてしまう、俺。
「それに――」
 点目になってる一同を尻目に、茉莉は一人でぽっと頬を染めた。とっくに自分だけの世界に入り込んでしまっている。
「天国だと、お兄ちゃんとずっと一緒にいられるんだもん。健一さんは知らないかもしれないですけど、あそこ、けっこう居心地いいんですよ? 食べ物や飲み物も美味しいし、みんなきれいで親切な人ばっかりだし」
「はぁ……」
 『天国よいとこ一度はおいで〜』とゆー、懐かしくも力の抜けるフレーズが、俺の右脳から左脳にかけて、ほんわかふんわかとよぎっていった。
「それに、天国って無重力みたいにふわふわ浮く事もできるんです。それであたし、あれ以来浮かんでするのがクセになっちゃって……だって、いろんな格好でお兄ちゃんとできるから――って、やだもぉ、何言わせるんですかっ!!」
 自分で言っておいて勝手に照れながら、茉莉が隣で固まっている咲の背中をばんばん叩いていた。
 そしてふと真顔に戻ると、急に何かに気づいたかのように天空を見上げた。
「あっ、こんな事してる場合じゃないよ。早く、とむ何とかさんとこに行かないと、お兄ちゃんが天国で待ちくたびれちゃってる!! それじゃ皆さん、すいません、お先に失礼しますっ!!」
 言うだけ言って、茉莉はぺこりとおじぎを一つ、かき消すようにふっと消えた。
 後に残るは、ぼーぜんと輪になって座り込んでる一同。
 それと、耳が痛いほどの静寂と、からっ風。
 まるで全員、仕上げを忘れたかのよーな、ツヤもベタもトーンもなし、まっ白けっけの状態である。
 そーやってたっぷり三十秒ほど、みんなでそのまま固まった後――よーやくつぶやくよーにして、サヨコが言った。
「……そー言えば、茉莉の密航してた宇宙船って確か、茉莉のおにーさんのいる探検隊に毒蛇の血清を持ってくために、射出されたんだよねー」
「じゃ、じゃあ、それが墜ちたって事は……」
 サヨコの顔をまじまじと見つめる螢。
 うーんとサヨコ、しばし考え込むように首をひねって、ぽつりと言った。
「……それって結構、ヒサンよねー」
「あは……は……は……」
 俺はもはや、乾いた笑い声を上げる事しかできなかった。
 脳みそつるつるの状態で、何気なしに不用意なセリフを口に出した。
「でも、茉莉も茉莉のおにーさんも、元気そうだったからいーじゃないか」
「おとーさんにはそーゆー事ゆー資格、ない」
 さすがに見逃してくれるはずもなく、螢にぎろりと睨まれてしまった。思わずしゅんと萎れてしまう、俺。
「どーせ俺は鬼畜ですよー。いぢいぢ」
 膝を抱えていぢけてみるが、みんなにあっさり無視される。おいおい、お前ら、ちょっと作者に冷たくないか?
 しょうがないから自力で立ち直って、腕を組みくみ、俺は言った。
「それにしても、茉莉ってあんなキャラクターだったか? 何か性格変わってねー?」
「な……何か、凄かったよね……」
 よーやく現実に復帰した咲が、息も絶え絶えとゆー感じで言った。
「うーむ、実は茉莉って、このメンバーの中でも最強だったのかもしれんな」
 しみじみと、俺は言った。
 と、その時。
「――いーなぁ、茉莉ちゃんは」
 ぽつりと一人言のように紅葉がつぶやいたのを、俺の耳は聞き逃さなかった。
「ずうっと、おにーちゃんと一緒にいられて……」
 それは、さっきからのはしゃいでいる様子からはいささか考えにくいような、妙に沈み込んだ紅葉であった。
 膝っ小僧に顔をうずめて、どこか遠くを――手の届かないどこかを――見ているような、諦めと嘱望とが混じった、そんな表情をしている。わずかに、唇の端を噛んだりもしている。
 思わず俺も、まじまじとそんな紅葉の顔を見つめてしまう。
 見入ってしまう。
 しかし、そんな俺の不躾な視線に、カンの鋭い紅葉が気づかないはずがなかった。
 はっといきなり顔を上げて、ごく一瞬、ヤバ、という表情をしかけ――すぐに苦笑い未満で止める。
 次の瞬間には、もうさっきまでの紅葉だった。
 合ってしまった俺の目を反らす隙を与えずに、その艶やかに濡れた瞳でしっかり捉えて逃がさないまま、紅葉が言った。
「もちろんあたしも、兄貴と二人っきりで住んでるけどさっ」
 声の調子まで、さっきまでの明るい感じに戻ってきていた。まるで、つい今しがたの紅葉の様子が、嘘か幻だったみたいだ。
 そんな訳はないはずなのだけれど。
「それに――」
 そこで紅葉が、いったん言葉を切って、にやっと自悪っぽい笑顔を浮かべた。
「作者にいきなし傷モノにされたおかげで、兄貴も何かと気を使ってくれてるしねっ★」
 ぱちん。
 そう言って紅葉は一つ、俺に可愛らしいウィンクをした。
「うっ」
 そうなのだ。
 紅葉はちょーどたった今、とゆーかついさっきまで描いていた原稿『傷痕の塩味』のキャラなのだが、冒頭一ページ目でいきなり俺は、紅葉の身体に傷痕を刻み込んでしまったのだ。それも、左の肩口から右の腰あたりまでかかった、深いふかい傷痕である。
 ちなみにその一コマ目は、紅葉の兄である衛が、その傷痕をゆっくりと舐め上げているシーンである。はっきり言って、かなりヤバい。
「……」
 どう言ったらいいかよく分からなくて、目を白黒させている俺を見て、紅葉がくっくっと、喉の奥だけで笑った。
 そして、実に可笑しそうに言った。
「ほんっと兄貴、あたしが何か一言ゆーたびにびくびくしちゃって、ホント馬鹿みたいなんだもの。……それに」
 ふっと、紅葉の視線が俺の右足に向けられた。
「作者さんも、事故で何針か縫った事あるそーだから分かってると思うんだけど、これっくらい深い傷痕だと、一生、消える事はないんだよねー?」
 そう言って紅葉は、ちらっと一瞬、おへそのあたりまでTシャツを捲り上げた。一瞬、赤黒く引き攣った線状のものが、垣間見える。
 それは本当にごく一瞬だっただけに、逆にフラッシュの光条のように、俺の目に灼き付いて離れなかった。
 紅葉が言った。
「もぉ、ビキニ一つ着れないじゃない。ったく、年頃の娘を傷モノにして、どー責任取ってくれんのよ? ってね。くふふっ」
 言葉はキツいが、そー言ってる紅葉の顔は、今にも笑い出しそうであった。
 それにつられて、俺はつい――本当に、つい――軽口を叩いた。
「そっ、その割に紅葉、お前、さっきからずいぶん元気そうじゃないか」
 口に出した瞬間、俺はそれを心から後悔した。
「そう、見える?」
 紅葉はさっきからの笑顔を一切崩す事なく、ほんの少しだけ、すっと目を細めた。
 間違いなく、紅葉のその顔は笑顔である。それも、どちらかとゆーと、天真爛漫っぽい笑顔に近い。
 それなのに。
 紅葉が目をそっと細める――それだけで、俺の心臓はきゅっと縮み上がる心地がした。部屋の温度も一気に数度、下がった気がする。周りのみんなも、紅葉のその迫力に押されたのか、誰も言葉を発するものはいない。
 そういえば紅葉は、さっきからじっと俺の顔だけを見つめていた。俺の目を、真正面から捕えては離さない。まるで、草食動物を狙う肉食獣のように。
 紅葉が軽く舌なめずりをして、唇をしとらせていた。濡れてピンク色に光ったリップからは、八重歯――牙――が顔を覗かせている。
「あ……ぅ……」
 俺は、言い知れぬ恐怖を感じて、思わずうめき声を上げていた。全身に悪寒が走る。
 このぐるぐる回る寂寥感が、永劫に続くような気さえしてくる。
 永遠の――煉獄。
 しかしそれも、実際の時間にしてみればほんの数秒の事だったようだ。
「――なんてね」
 紅葉が顔の緊張をふっと緩めた途端、一気に部屋の雪が融けていった。そして今度こそ、紅葉は間違えようのない笑顔になる。
 そして、妙にサバサバした口調で言った。
「別にあたし、今日はその事について文句言いに来た訳じゃないの。今の兄貴との生活だって、あれはあれで結構気に入ってるしね。ずっとあのままでもいいって思ってるくらいには――。それより」
 紅葉がいきなり、底意地の悪そーな笑顔を『作って』、言った。
「さっさと続き、描いてね。〆切、明々後日なんでしょ?」
「……」
 ひょっとしたら、今の紅葉の攻撃が、今までの彼女らの要求の中で一番クリティカルヒットだったかもしれない。せっかく人が忘れていたのにぃ。
 俺はあえて、何事もなかったかのような平静な声で、言葉を継いだ。
「さて、これで一通りお前らの要求を聞いた訳だが……」
「……ひどい」
 と、その時、どこからか少し恨みがましそうな声が聞こえた。慌てて声の先を探る。
 そこには。
「いくらあたし影が薄いからって、無視するだなんてあんまりですよぉ。セリフも、よーやくこれで三行目だしぃ」
 訳の分からない事を言いながら、怨めしそーにこっちを睨んでいる未沙が、そこにいた。心底情けなさそーな顔して、うぐぅ、とべそをかいている。
 しまった。さっきから未沙って話に絡んでこなかったんで、作者の俺もすっかり存在を忘れてたぞ? いかんいかん。
 慌てて俺は、未沙に謝った。
「すまんすまん、そー言えば未沙もいたんだっけ……あわわ」
 ついつい言わずもがなの事を言って、さらに未沙をいぢけさせてしまう。
「……ひどい、健一さん」
 未沙がさらに顔を歪めて、ぐすんと鼻をすすり上げた。
「どーせあたし、キャラが立ってないですもん」
 ほら見ろ、拗ねちゃった。って、俺のせいか。わはは。
 照れ隠しに頭をぽりぽり掻いてたら、それを見た未沙が、はぁ、と一つ、嘆息した。
 上目遣いに、俺の顔を睨み上げる。
 そして、呆れたような、諦めの混じったような声で、こう言った。
「あたし、健一さんのごく初期の作品だから、ぜんぜん描写もちゃんとされてなくって――大体、作者の健一さんだって、全然イメージが浮かんでないんでしょ?」
 思わず俺は、当時を思い返しながら、いつごろ未沙を描いていたのか、指折り確認していた。
「確かに未沙を描いたのって、ひのふの……八年前だもんなぁ。うーむ、我ながら線が全然安定してないぞ? もっとも、あんときゃまだ学生だったしなぁ」
 ただでさえ俺は飽きっぽくて、数ヶ月前の自分の線だって、見返すと嫌になる時があるくらいなのだ。それを考えると八年前の線なぞ――まぁ、若いなりの味はないでもないが――目の前の未沙には悪いが、とても見られたものではなかった。
 いちおー未沙の作品も、唯一かつ初期の作品を集めた短編集に収録されてはいるが、めったな事でもなければ、俺はそれを見返す事はけっしてなかった。
 言わばそれは、すでに俺の中では閉じてしまった作品であるとも言えた。
 とは言え……。
 俺は、ゆっくりと未沙と目を合わせると、けっこう真面目な顔をして、けっこう真面目な声で、けっこう真面目に言った。
「とは言え、未沙。全てはお前が始まりなんだよな」
「……え?」
 未沙が、俺の妙に真面目そうな態度に、少しだけ不思議そうな顔をした。
 俺は続けた。
「俺は……お前の作品を描いた時――描き上げる事ができた時、初めて、どーにかこの世界でやってける自信とゆーか、えっちマンガを描いててもいい自分――そーゆーものを見つけられたような気が、したんだよなー。もちろんそん時ゃ、まだアマチュアだったけど……でも、そん時の気持ちがなきゃ、今だってこーゆー仕事、してるとは思えないし……」
「……」
 未沙は、目を大きく見開いて、俺の顔をじっと見つめていた。他の娘らも、じっと黙って俺の話を聞いていて、誰も茶々を入れるような事はしてこない。
「当然、それ以降のマンガも描く事がない訳で……ある意味、未沙はここにいるキャラみんなの原点とゆーか、お母さんみたいなもんかもしれんな……」
 最後ら辺は、薄っすらと目を閉じながら、しみじみと、言った。
 ――しぃん。
 しばしの間、沈黙が流れた。ちょっと場が、しんみりとしてしまっている。
「健一……さん」
 見れば未沙は、両手を口元に当てて、今にも感極まって泣き出しそうな表情をしていた。瞳うるうる唇ぎゅってな感じ。これでバックに点描の花びらでも散れば、まったくもって少女マンガの世界かと思うくらいだ。
 うぅむ、しまった。ここまでシリアスな展開になってしまうと、俺はちょっと苦手ぢゃなぁ。背筋がかゆくなってしまふ。
 俺は、わざとらしくテンションを高めて、未沙にいった。
「つー訳で、未沙。お前は、ここにいるみんなの礎になったってゆーか、縁の下の力持ちってゆーか……ま、とにかく今の俺の基礎を固めたって事で、そん時の俺の技巧については勘弁してくれ。ほれ、誰しも童貞の時ってあるもんだし」
 それを聞いた未沙は、まだ鼻をぐすぐすさせながらも、どーにか笑顔を作って、俺に言った。
「そう言えば健一さん、あたしのを描いた時って、まだ童貞だったんですよね……」
 途端、周囲から怒涛のツッコミがきた。
「えっ? そそそ、そーなの?」
「八年前ってーと、ひのふの……えっ? あんた、とっくに二十歳過ぎてるじゃない!? それで、その、ぴーだった訳?」
「そりゃーテクニックもないわよねー。うぷぷ」
「やだもぉ、紅葉ったら露骨ーっ」
 きゃらきゃらと嬌声を上げながら、まるで変態か珍獣でも見るよーな目付きで、俺の方を見て笑っている螢達が、そこにはあった。ちなみに、ゆーまでもないが、順に、咲、サヨコ、紅葉、螢のセリフである。
「うるへい」
 俺はぶすったれた顔で、それに力なく答えた。
 ふん、どーせ俺はヤらずに二十歳を迎えましたよ。それがどーしたってゆーんだよぉ? おめーら――しかも、事もあろうに俺の『キャラ』に、だ――に、どーこーゆわれる筋合いはないわい。ふんだ。
 そんな、いぢけてる俺を慰めるかのように、未沙が言った。
「だから、あたしのもしょうがないんですよね……。いいです、あたし。健一さんが最初に描いてくれたって事、それだけでいいですから」
 この未沙のセリフに対しても、容赦なく紅葉の茶々が入った。
「ぢゃ何? 未沙さんって、作者の初めての女って事っ? きゃは★」
「……何か紅葉、さっきからオヤヂ入ってるよお?」
 心底呆れたよーな顔をして、咲が言った。
「ごみんごみん。でもいーじゃん、咲ちゃんも作者に比べりゃ、まだまだチャンスあるって事でさぁ」
「もぉ、紅葉ぃ……」
 紅葉の逆襲に、咲がぽむぽむと紅葉をぶつ真似をした。笑い声が湧き上がる。
 交渉開始時とは異なった、和やかな雰囲気がそこにはあった。
 そこに。
「でも、みんないーよね……」
 さっきから、しばらく黙ってみんなの話を聞いていたルーシアが、一人言のようにぼそりとつぶやいていた。
「みんな、ちゃんとお話になって完成してて。あたしなんかまだ、謎の場所にだって、名前すら出てないんだよぉ……?」
 ルーシアが、真顔でよく訳の分からない事を言った瞬間、なぜか俺は、うなじの辺りに強烈な視線のようなものを感じた。背筋に凍るような寒気が走る。
 俺の背後には、机と、描きかけの原稿しかないはずなのに、である。
 その事は、俺にもよーく分かっていた。
 分かっては……いたのだが。
 それでも俺は、なぜだか振り向きたい衝動を、必死で押さえ込まなければいけなかった。振り向いたが最後、何か、恐ろしいもの――例えば、ワク線とか――が目に入ってくるような、そんな恐怖感さえ感じていたのだ。
「おい、ルーシア、おまい……」
 俺は唇をわななかせながら、ルーシアに向かって声をかけた。
 途端、ルーシアが夢から覚めたように、びくっと身体を震わせた。
「えっ!? あっ、何? 健一、あたし、何か言った?」
 きょとんとした顔で、俺の方を見る。
 ルーシアは今、本気で何を言ったのか、意識していなかったかのようだ。
 俺は、ルーシアのその顔をまじまじと見つめ――。
 ほぅ、と一つ、ため息を吐くと、首を左右に振って、今のシーンを頭から追い払ったのであった。

 

「ともかく、だ」
 そして、俺は言った。
 車座に座っている一同の顔を順々に見回してから、俺はこほんと空咳をして、言葉を続けた。
「今度こそ本当に、一通りお前ら全員の要求を聞いた訳なんだが――とりあえずは現状維持って事で、異議はないな?」
 その、『現状維持』という単語が出た瞬間、圧倒的な物量のブーイングが、たちまち周囲から沸き上がってきた。ついさっきまでの和やかな雰囲気が、まるで嘘のようである。
 俺は、四方八方から投げつけられてくるブーイングを、スウェイだのダッキングだので必死にかわしながら。
「わっ、待てよお前らっ。どーしてだよっ!? みんな、納得してたぢゃないかっ!?」
 と、慌てて彼女らに言葉を返した。
 言った途端、怒涛の反撃が来る。
「あんなんで言いくるめられても、全然納得できないわよっ!!」
「あれは脅迫ってーのよ、きょーはく。さもなきゃ詭弁よっ」
「もうっ、あたし、あれほど恥ずかしいって言ってんのにいっ」
「このヒト、さっきから一体何聞いてたのよっ!!」
「そーよそーよ」
 等々諸々エトセトラ。
 もはや現場は、誰がどー文句を言っているのかも分からないほどに、ぎゃーすかと罵声と悲鳴が飛び交っていた。
 おいおい、もう真夜中近いんだぞ? そんなに騒いだら近所迷惑だろーがよ!?
 そんな俺の心の叫びも、奴らには一切、届いていないようであった。もっとも、心の叫びであるから、当たり前ではあるが。
 やむなく俺は、横でおろおろしているルーシアを尻目に、両手で耳を塞いで、目と口も閉じて、必殺の見ざる聞かざる言わざるモードへと突入した。嵐はじっと辛抱強く我慢して、通り過ぎるのを待つのが、船乗りであった伯父から聞かされた海の男の鉄則でもある。って、俺はしがないマンガ家だけどな。
 つっても、手の隙間からは声が漏れてくるので、多分にそれはパフォーマンスの意味合いが強かった。
 そして、このままの状態がたっぷりと三分間は続いたであろうか。始まった時と同じように、それは急に収まっていた。怖いくらいに突然、辺りが静寂で満ちる。
 俺は状況を確認するため、こっそりと薄目を開いた。
 ずん。
 いつの間にか俺の目の前には、いつ席を立ったのか、えらいぷんむくれの表情をした螢が、腰に手を当てて立っていた。つんつんにつり上がった目で、俺を見下ろしている。その刺すような視線に、俺は思わず――見ていない事になっているはずなのであるが――まぶたの下で目を反らしていた。
 螢はそんな俺のミエミエの行動をふんと鼻で笑って、それから、わざとらしく声を張り上げて、言った。
「どーせ聞こえてないんでしょーけど」
 いったんそこで、間を置いた。
「おとーさん、ほんとーにあたし達に、非道い事してるってゆー自覚がない訳ね?」
 あるわきゃねーだろ、と、ぼそり、心の中でつぶやく。
 まるでそれを読んだかのように、にやりと一つ、螢が悪い笑みを浮かべた。
 そして言った。
「なら、身体で分かってもらうしかないよーね……サヨコっ!!」
「よいしょっと」
 がしっ!!
「!?」
 螢の掛け声と同時に、いきなり俺の腕は、すごい力で後ろから羽交い絞めにされていた。俗に言う、フルネルソンの状態だ。このまま反って投げれば、ドラゴン・スープレックスである。
 俺も、聞かざるモードを発動するために、腋を空けて両手で耳を塞いでいたもんだから、はっきり言って鴨を背負ったネギ、マグロの上のまな板状態であった。
 それにしても、凄まじいパワーだった。さすが、サヨコだけの事はある。
 仮に俺が、女に手を上げられないとゆー徹底したフェミニスト――こらそこ、笑うな――ではなかったとしても、サヨコにこー締め上げられては、身動き一つ取れなかった。身体つきは細っちいくせに、まぢで人間離れした膂力である。
「あわわっ、何すんだよっ、サヨコっ? 螢っ!?」
 俺は慌ててぢたばたと暴れた。目を大きく見開く。
 薄目をしていたのと、螢の身体で陰になっていたので気が付かなかったのだが、てっきり座ったままでいたと思っていたサヨコらは、とっくに誰も元の位置にはいなかった。
 咲と未沙は、何とか呪縛を逃れよーとする俺の手足を押さえるのに一所懸命になっているし、見ればルーシアも、紅葉に口と手とを押さえられてもがいている。えぇい、この役立たずめがぁ!!
 そー叫んでみても、全ては遅きに失していた。
 それでも俺は、何とか数分間は抵抗を続けたのであったが、ついには多勢に無勢、俺はガリバーよろしく、床に取り押さえられてしまったのであった。

 

「ぜー……はー……」
 わざとらしく声に出して、息を吐いた。
 もっともそんな事をしなくても、十分に俺は疲れていた。
 さんざ暴れまわったせいか、身体中にうっすらと汗をかき、息も荒くなっている。
 無駄な抵抗とゆー言葉の見本が、ここにはあった。
 そこに、すっと影が落ちた。
 見上げる。
 そこには、さっきから唯一、肉体労働をしていない螢が、底意地の悪そーな笑顔で俺を見下ろしていた。
 俺は、きっと螢を睨みつけた。
「螢、おめー、こんな事してどーするつもりなんだよ?」
 精一杯、凄みを効かせた口調で、そう言った。
 しかしこんな自由を奪われた格好では、いささか凄みが足りないようだった。
 そんな俺の声にも、ちっとも顔色を変えずに、螢が言った。
「だから、さっき言ったでしょ? 聞こえなかった?」
「聞こえなかったって、何がだ?」
 俺は、何やら得体の知れない悪い予感に、冷や汗だくだく流しながら、螢に言った。
 にんまり。
 実際にそんな擬音が聞こえてくるような笑みを浮かべて、螢はもう一度、さっきのセリフを繰り返した。
「言ったでしょ。身体で分かってもらうしかないようね、って」
「おまい……それって」
 もちろん螢は、俺の言葉を聞いちゃいなかった。
 指揮官よろしく、号令一発!!
「それっ!! 剥いちゃえーっ!!」
「うひゃあっ!!」
 その瞬間、咲と未沙とが俺の下半身へと襲い掛かってきた!!
 抵抗しようにも、両腕はサヨコにがっしりと固められたままであるし、いくら俺のキャラとは言え、仮にも女の子を蹴っ飛ばす訳にもいかない。せいぜいが、腰をひねって抵抗するくらいである。
 つっても、この不自由な体勢、それに頼みの綱のルーシアも紅葉に押さえられたままとあっては、俺の貞操(きゃー)が陥落するのも時間の問題だった。
「うわっ、バカ、止めろって!! 触るなっ!! あひっ、揉むなっ!!」
 咲と未沙とは、暴れる俺の腰を押さえながら、試行錯誤しつつも確実にベルトを外し、俺のジーンズをずり下げていった。
 あっとゆー間に、俺の下半身はトランクス一つになる。
 そしてそこは――。
「うっわー!! 見るなっ!!」
 恥ずかしながらもそこは、今までの攻防と、そしてこれからされる攻撃への不安――そして一抹の期待――に、俺のナニは、トランクスの上からもはっきりと分かる程度には半勃ちになってしまっていたのであった。
 まさしく、穴があったら入れ……いや、入りたかった。
 顔面が、かあーっと紅潮するのが分かる。
 螢が、ゆっくりと俺の広げられた両足の間にしゃがみ込んだ。
 そして、にやにやといやし笑いを浮かべて、俺に言った。
「ふぅん。やっぱりおとーさんも男なんだ」
「しげしげ見るなって!! 螢、おとーさんはお前をそんな風に育てた覚えはないぞっ!!」
 半ばヤケになって、俺は叫んだ。
 螢は一瞬、それを聞いて恥ずかしさに少し頬を染めたようであったが、逆に開き直ったのか、かえって強い口調で俺に反撃してきた。
「何言ってんのよっ!! こーゆーふーに育てたのがおとーさんなんでしょ!!」
「……」
 それを言われると、ぐぅの音も出なかった。
 はい、確かに私は、螢をこんな風に育てましたです。もっともっと、えっちぃ事も描きましたです。あまつさえ、これからもあんな事やこんな事をしようと思ってます。
 まぢに俺は心の底から反省したが、それも後の祭りだった。
 螢が言った。
「だいじょーぶ。痛いよーにはしないから」
 何がどーだいじょーぶなのかはよく分からんが、螢はそう言うと、俺の股間に四つんばいになって、こわばりかけている俺のモノにそっと手を伸ばしてきた。そのまますっと撫で上げる。
「あひいっ!?」
 びくびくびくっ!!
 瞬間、俺の身体全体に電流が走った。眩暈にも似た衝撃が、ちかちかと網膜を刺激する。
 たったそれだけの攻撃で、俺のモノは限界近くまでに膨れ上がっていた。
 それにしても、恐ろしいまでの快感、螢の指戯であった。さすがに十何年のキャリアは伊達ではない。
 それに最近のルーシアは、どっちかっつったら受身だから、こーゆーのも新鮮でなかなか――あ、いや、俺は何も言ってないぞっ!?
「おとーさんってけっこう感じやすいんだぁ。ひょっとしたら、パパより敏感かも」
 螢はそう言って、くすくす笑った。
 そしておもむろに右手を伸ばすと、トランクスの前開きからそれを侵入させてきた。
「うひょおおおっ!!」
 間違いなく俺のモノが、螢の手でしっかりと握られていた。触れられた瞬間は少し冷たいような感じがしたが、それもあっとゆー間に俺の体温と同化する。
 螢はそれを、あっさりとトランクスの前開きから取り出しては、軽く二、三度、しごき立てていった。それだけで、俺の腰がびゅくんびゅくん跳ねる。
 おいおい、螢、お前、うますぎるぞっ!!
 螢の刺激で俺のモノが、またさらに一回り大きくなった。天を突いてそそり立つ。
 それを見て。
「わぁお」
 螢は、その俺のモノの変化に、大きく目を見開いたようだった。ちょっとだけ意外とゆーか、驚いたような表情である。そんな螢を見て、柄にもなく、俺はちょっとだけどきどきする。
 それから螢は、何か言いたそげな表情で、きょろきょろと辺りを見回した。みんなと目を合わせては、お互いにうなずきあっている。
 ふと、過去の記憶が脳裏をかすめた。
 待てよ、そー言えば、こーゆーシチュエーションってどっかで……。
 俺がそれを正確に思い出す前に、俺を取り囲んでいる全員が、同時ににかっと笑みを浮かべた。何だか、ヤな予感がする。
 螢がせーのと音頭を取った――そして、一斉に。
「かーわいい★」
 声を揃えて、そう言った。弾けたように、きゃらきゃらと、笑う。
 一方、俺は、その笑い声に深くふかく傷ついていた。があぁん、ってな感じだ。
 ばーろー、何もそんなに笑う事ないじゃんかよぉ。いぢいぢ。それに、俺のをそーゆーふーに言っていーのって、ルーシアだけなんだぞっ!!
 っすん、だ。俺は拗ねた。
 そんな俺を慰めるかのように、螢が顔を近づけて言った。
「ねぇねぇ、おとーさん。ここをこんなにして、どーして欲しいの?」
 真顔っぽい表情ではあるが、目が明らかに笑ってるぞ、螢。
 窮鼠の俺は、それでも精一杯の虚勢を張って言った。
「ばっ、馬鹿やろー!! 仮にも自分のキャラに向かって、そんな事が言えるかいっ!!」
 作者としての最低限のプライドであったが、もっとも下半身丸出し、上半身羽交い絞めの格好では、説得力などまったくなかった。
「ふぅん」
 そんな俺を小馬鹿にするように、螢が笑った。
 そして言った。
「じゃ、どーされてもいいって事ね?」
「ゑ?」
 そんな俺の返事を待たずに、螢は右の指先二本で、つつつっと俺の裏筋の辺りを擦り上げていった。その、触れるか触れないかの絶妙なフェザータッチに、俺のナニは激しくコーチョクする。
「あひっ!!」
 恥ずかしい声とともに、ぴゅくっ、と先端に透明な球が浮かんだ。
 すっ、凄すぎるぅ。何でこれだけでこんなに気持ちいいんだあぁ? これわ地獄の、いや、天国の責め苦だわわぅん。
 息も絶え絶えの俺をいたずらっぽく見下ろしながら、螢は人差し指の先で、俺の先をつんつんと突いた。ぷるん、と球が揺れる。今にも垂れて、竿にこぼれ落ちてしまいそうなくらいだ。
「これ、舐めちゃおっかなぁ?」
 螢がそんな事を言いながら、唇をぎりぎりまで近づけてきた。舌先をちろちろそよめかす。先端からほんの数ミリの距離で、螢の舌が踊る。熱い息が、もわっとかかる。
 その、ちりちりと灼くような微妙な刺激に、さすがに俺の理性もぶっ飛びかけて、思わず螢の声にうなずきそうになった――その時。
「だめえっ!! それあたしのっ!!」
 そんな切実な叫びが、かろうじて俺の意識を現実に引きとどめていた。
「わっ、きゃっ!! そんなに暴れないでよおっ」
 見れば、ルーシアが必死にもがいて、何とか紅葉の拘束から逃れようとしていた。手足をばたばた振り回して、なりふり構わぬ様相だ。紅葉もルーシアを押さえかねるようで、わたわたしている。
 その勢いに、螢はちょっと気圧された様子だった。
 ちらりと、俺の背後にいるサヨコと目を合わせて、肩をすくめて、言った。
「分かったわよ。じゃ、ルーシアちゃん、お願い」
「うんっ」
 と、よーやく紅葉の拘束を解かれたルーシアが、いそいそと俺の前に回りこんできた。螢と場所を交代して、俺の股間にひざまずく。紅葉も俺のそばへと寄ってくる。
 両手でしっかりと俺のモノを包み込みながら、ルーシアが言った。
「あ、いや……ルーシア、おまい……」
「健一、気持ちよくしてあげるね」
 にゅろんっ。
「うおっ!?」
 うなずく間もなく、俺のモノが生暖かい口腔にすっぽりと含まれていた。
「うっ……おっ……」
 じゅぷっ……ぐちゅ……。
 いつもどおりの、心から安心できる舌使いが、そこにはあった。
 技巧的に稚拙――かどーかは、比較の対象がごく少ないためよく分からなかったが、一所懸命してくれるルーシアの口戯は、いつも、とてつもなく心に気持ちよかった。先ほどからの螢のテクとはまた異なった、ルーシアとでしか味わえない、最大限の快楽だ。
 ルーシアは、歯を立てないように唇で歯をカバーしながら、喉奥深くまで俺のモノを含んでは、顔を上下させていた。時折、包み込むかのように竿に舌を絡めては、じゅるじゅると音を立ててすすり上げている。
 そして先端をぷっくり咥えた時には、カリの裏側を集中的に、尖らせた舌先で丁寧に舐めほぐしていく。滴った唾液を指先に絡め、袋をやわやわと揉み上げていく。
 ルーシアもさすがにコレとは付き合いが長いだけに、適切にポイントを突いて、俺を攻める事ができるようであった。
 俺も、このルーシアから与えられる快楽に身を投じ、全てをゆだねるかのように力を抜いていった。ゆっくりと目を閉じていく。
 空想の、二人だけの世界に堕ちていく。
 ルーシアの指が俺のモノをしごき上げて、唇がぺちゃぺちゃと俺のモノにしゃぶりついてきていた。そっと指先が内ももをさすり、わき腹を撫で上げていく。うなじに顔を寄せ、耳たぶをぷにぷにと甘噛みする。同時に喉元に唇を這わせては、両の乳首を背後から摘み上げていく。その先を舌先でついばんでいく。
 身体中が、ピンク色の真綿で包まれるような、柔らかい快感であった。まるで、子宮の中の、無数の襞々に包まれているような――。
 あれ……? それにしてもルーシア、いつの間に後ろに回ったんだ?
 それに、俺のモノを舐めている口、これがルーシアだとしたら、さっきから耳や乳首をついばんでいる、この唇は何なんだ?
 俺は快感の雲にずぶずぶと溺れながらも、ぼんやりと薄目を開けた。
 そこには――。
「うわわっ!?」
 信じられないよーな――お約束としてもあんまりな――光景がそこにあった。
 そこには、微妙に服をはだけさせては、いつの間にか俺の攻めに加わっている、螢達の姿があったのであった。
 前面から左右の乳首をついばんでいたのは、実はそれぞれ未沙と紅葉であった。
 未沙も紅葉も、自分から攻めるのには慣れていないせいか、少しぎこちなさそうな感じで舌をそよがせている。二人、顔を寄せ合うように頬を合わせて、ちろちろと乳首を転がしている。
 セミロングの未沙とショートボブの紅葉とが、目を細めて一心に舌先を蠢かせている光景は、奇妙にアンシンメトリカルで、それを上から見下ろすのは、何とも言えないエロティックな感じがした。
 一方サヨコは、いつしか俺の腕の拘束を解いて、顔をうなじの辺りにしなだれかからせていた。まるで仔犬のように、鼻先でふんふんと熱く湿った息を吹きかけてきては、耳の後ろをぺろりと舐める。ぎゅっと後ろから抱きつく。
 これだけ密着されると、わずかとはいえ背中に、ある程度の柔らかな圧力がかかってきていた。サヨコはそれを、緩やかに、円を描くようにくねらせていく。先端の固く尖ったぽっちが、肩甲骨に触れる感触が確かに伝わってくる。
 咲は、恥ずかしそーに頬を上気させながら、そっと俺の頬に顔を寄せてきていた。ほっぺたに軽いキスを何度も繰り返している。咲も、それだけで感じるものがあるのか、時々、ひくんっ、と身体を震わせたりもしている。手をあそこに伸ばそうかどうか、必死に我慢しているかのような感じだ。
 そして螢は。
 螢は腕をしなやかに俺の首に絡ませては、鎖骨から首筋、あごの辺りにかけて、つつつっと濡れた舌先で舐め上げていた。さすがに螢、狙う所もマニアックである。
 そのまま螢は、あむあむとあごの先端を甘噛みし始めた。さらには噛みながら、舌先で下あごの裏をくすぐっている。無精ひげがじょりじょりとねぶられる。はっきり言って、こんな攻撃は生まれて初めてであったが、それでも俺は、螢のその攻めに確かに悶え、悦んでいた。
 ――なんて、冷静にいられたのは、せいぜいここぐらいまでだ。
 すでに俺は、いったい今、身体に何本の指が這い回っているのか、何枚の舌に舐められているのか、まったく訳が分からなくなっていた。大きなピンク色のいそぎんちゃくに捕われては、微弱な毒を注入されて、生きながら痺れているような、そんな感じだ。身体中が熱に浮かされたように熱く、火照っている。
 どこか遠いところで、ちゅぽんという水音がした。ひんやりと、身体の一部の粘膜が外気に触れた気がする。
 それでも何だか、まだ全身が、ぼおっと熱いもやか何かで包まれている感じだった。快楽の雲にふわふわと浮かんではゆらゆら漂っている。脳髄の髄の、芯から芯まで、じんわりと快楽のエキスで痺れている。まさに夢幻の境地、桃源郷だ。
 だから俺は。
 健一、入れるよ?
 そんな声にも何も考えずに、ただただうなずいただけであった。
 うなずいた途端。
 ――にゅるっ。
 俺の中心が、熱くぬかるんだ柔らかく湿った『何か』で包み込まれた。びぃんと一瞬、緩み切った身体に芯線が入り、それが一気にくにゃくにゃと溶ろける。それとともに俺の口から、熱くこもったため息が出る。
 身体のすみずみまでに根を下ろすかのような、深い快感が全身に走った。
 目を開けて見るまでもなく、その感触で俺は分かっていた。
 ルーシアだ。
 見ればルーシアが、いつの間にか床に横たわっていた俺の上に跨っていた。それも、俺のムスコ全体に、ねとねと吸い付くこの感触。間違いない、久しぶりの、生だ。
 ルーシアは、両手と膝とを床に突いて、器用に腰でリズムを取っていた。そのたびに、湿ったぐじゅぶじゅという音が、部屋の中に響き渡る。
 ルーシアはこの体位が、ことのほか好きだった。ルーシアは羽根や尻尾があるせいか、普段からも正常位よりは騎乗位、女性上位、バックなどを好む。
 だから俺も、いつものようにルーシアの腰を掴んでは、容赦なく腰を突き上げていった。
「ひぐっ!! ……ひっ!!」
 悦びの声を上げながら、ルーシアの身体が宙に浮いた。先端が、子宮の入り口をノックする。硬く尖った欲棒で奥をずんずん突いてやると、ルーシアがさらに甲高い悲鳴を上げる。いやいやをする。それでも俺は許さずに、腰を宙に浮かせたまま、ぐりんぐりんと回し込むように捻りを入れる。ルーシアの腰を逃さない。
「あああああっ!!」
 ルーシアはこれをされると、いつも、狂ったようによがり悶える。
 そんな俺の激しい動きにも関わらず、まだ螢達は、俺の身体に絡んできてるようであった。身体のあちこちの熱を持った熟みが、その事を如実に伝えてくる。
 だが、そんな事は俺にとっては、もはやどうでもいい事であった。俺の今の望みは、ただルーシアとの快楽に溺れる事、それだけである。
「ひやああぁ!!」
 あまりの快感に、ルーシアが自分の身体を支えきれなくなった。俺の胸板に倒れ込んでくる。俺はそのままルーシアを抱きしめ、抉るように腰を前面に突き上げてやる。
 ずくっ!! ずくっ!! と芯棒が打ち込まれるたびに、ルーシアの身体が快感にうち震えていった。身をよじらせていく。ルーシアが、意味をなさない言葉を上げる。
 俺の目の前で、ルーシアの唇が、俺を求めて彷徨っていた。二人ともそれを合わせようとするが、動きが激しすぎるせいか、なかなか重なろうとはしない。何度も唇を掠めては、お互いに熱いため息を吐く。ついに触れたが最後、互いに貪るように舌を絡め吸い合う。
 そしてそれは突然に来た。
「いやっ!! 健一っ!! だめ……くる、くるっ!!」
 びくん、びくんっ!!
 いきなりルーシアが激しい悲鳴を上げると、俺の腕の中で何度も何度も身体を震わせて、いった。瘧のように痙攣するルーシアを、俺は力いっぱいに抱きしめてやる。俺のモノが、ルーシアの中でぎゅいんぎゅいん締め付けられる。絞られる――臨界点を突破する。俺ももう我慢できない。
 越える――今越える――今――ルーシア――っ!!
 息を呑んだ瞬間、白い噴流がどくどくとルーシアの中にぶちまけられた。
 気が遠くなるような圧倒的な量の快感が、俺の細胞全てを粟立たせていた。じんわりと俺の精が、ルーシアの中に浸み込んでいくのが分かる。
 そんな真っ白に染め上げられた頭の中に、ふっとルーシアの甘い汗の香りがよぎった。力の抜けたルーシアの身体が、俺の胸にどさっと落ちてくる。気を失ったようだ。
 俺は、細かく震えるルーシアの身体を抱きしめて、その重みに幸せの余韻を感じながら――すっと吸い込まれるように、俺自身も意識を失っていったのだった……。

 

 と、ここで。
 突然、ぱちりと目が覚めた。俺にしては珍しく、瞬時にして意識が鮮明になる。
 明かりの消えた部屋。真夜中。寝室。俺のベッドの中。見覚えのある天井。適度に効いたクーラー。
 そして、俺の上には――。
 そこには、俺の胸に顔を寄せて穏やかに眠っている、ルーシアの姿があった。いつもの可愛らしい寝顔をして、すうすうと気持ちよさそうに寝息を立てている。腕枕をしている右腕がいい加減、痺れていないでもないが、それはそれで心地よい重みだ。
 そんな、いつもと変わらない風景になぜかほっとし――その瞬間、記憶がよみがえった。
 一瞬、身体がびくっと硬直する。
 ――が。
 俺は、軽く首を二、三度振ると、詰めた息をゆっくりと吐いていった。緊張の糸を解いていく。わずかに微笑みを浮かべながら、寝ているルーシアの頭を撫でてやる。
 ぼそりと、一人言のようにつぶやいた。
「夢……か」
 最近、ちょっと仕事を押し込め過ぎちまったからかロクに睡眠時間が取れてなくって、その上、仕事で興奮した頭で寝たもんだから、あんな夢を見てしまったのかもしれない。それに、ま、紅葉の話の〆切が近いってのも事実ではあるし。
 戦士にも休息が必要だな。
 この仕事が終わったら、何とかヒマを作って、ルーシアとツーリングにでも行こうか。紅葉の季節にはちっと早いけれど、どっかの温泉で二、三日、露天風呂にゆっくりつかるってのもいいかもしんない。
 そんな、取らぬ狸を数え始めた俺の耳に。
 ふふふっ。くすくす。
 と、リビングの方から、かすかな笑い声のさざめきが聞こえたような気がした。冷や汗がたらりと一筋、頬をよぎる。
 俺はぎぎぎと、まるで機械がきしむような音を立てながら、ゆっくりと首をそっちの方に巡らせていった。開けっ放しのドアを凝視する。
 そこには。
 顔、顔、顔……。
 月明かりに照らされて闇夜に映える白い顔が五つ、まるでだんごのように横一列に並んでいた。表情まではよく見えないが、間違いなく、にやにや笑っている波動が伝わってくる。
 そしてそいつらは、なぜだか聞き覚えのあるよーな声で、声を揃えてこう言った。
「夢って、なぁに?」
 それはそれは見事なまでの、ハモり具合であった。
 その声に、顔面をこわばらせて固まってしまった俺に。
「ふにゃあぁ……健一ぃ……」
 半分寝ぼけまなこのルーシアが、腕を絡めてしなだれかかってきた。
 俺は、その重みに押しつぶされながら、幸い――か、どーかは分からんが――襲いかかってきた睡魔に、もう一度、意識を失っていったのであった……。

おしまい


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