(以下写真は載せていません)
I 各寺廟の見学内容の記録
1 福済寺
長崎駅に最も近いことから、最初に見学したのですが、残念ながら伽藍全体が原爆にやられたとのことで、現在は1970年代に建築されたいささか俗っぽい建築があるのみでした。
しかしながら堂内に数葉展示されていた古い境内の写真を見ると、伽藍も比較的大規模であり、本堂に当たる「大雄宝殿」は、2層で一間吹き放し、持送りの存在など、後に見る他の黄檗寺院との共通した特徴を持ち、偉容を誇っていたようです(写真1)。また当時の瓦等が展示されており、大小・模様含め数種有りましたが、滴水瓦等も若干の角度は存在するものの、ほぼ直角といってよい角度で作られていました。
2 興福寺
東側に山を控えて寺院の立ち並ぶ「寺町」の一角に位置し、立ち並んだ寺院のなかでもその山門の大きさがひときわ目立っていました。
・山門(写真2)
道路沿いにある山門は比較的大規模で、石段上にあって仰ぎ見るせいもあるでしょうが、非常にプロポーションの良い建築でした。中央の虹梁の中心に出組の斗拱を置き、出桁を組み、色彩はベースが弁柄、斗拱や蟇股などに彩色跡(緑青、黄色?)が見られました。
・媽姐堂
一層の建築でこれもプロポーションが大変美しく、鼻先を白く塗られた垂木は二重軒の繁垂木であるなど日本的な印象を与えますが、各部意匠としてはやはり中国的あるいは黄檗宗的であり、面白い建築でした。
間口3間奥行き5間で手前一間が吹き放し、吹き放し部分には隅木根元が露出し、中央部分はヴォールト状に格縁を折り上げた天井(便宜上黄檗天井と呼ぶ)でした。内部は化粧屋根裏で、虹梁・桁・小屋組内に斗拱を使用しているのが意匠的に面白く特徴的でした。
床は外部が石、内部は煉瓦風の赤茶色の焼き物の四半敷き、後に見る建築を含め柱礎石の大きくデザイン化されているのが特徴的ですが、この建物では壁周りの礎石について、その上端レベルまで地覆石が立ち上がっていました(写真)。
色は外回りは弁柄が基調、唐草類が薄い緑色、扁額受けや虹梁鼻が彩色でした(持送りは存在せず)。内部は扁額類の他は殆ど白木でした。
・唐人屋敷門
唐人屋敷にあった門をここに移築してきたものとのことで、小さな門であるにも拘わらず、細部の意匠(斗組の形状、破風板彫刻、懸魚彫刻、欄間等)に凝っており中国風数寄屋といった風情に仕上がっていました。肘木が差し肘木となって出桁を支えますが、その肘木が非常に縦長の断面であることが印象的です。
・大雄宝殿
大雄宝殿(重文)は現在屋根の葺き替え改修中とのことで素屋根がかかっており、ご住職に内部を案内していただきました(写真)。昭和16年に改修工事を行った直後にやはり原爆の爆風を受け、背後の山に向かって倒れかかる格好となり、礎石に1-2cmしか載っていない柱があるという状況だったそうで、その建て起こしのみをしたのが現在の状況とのことでした。
大きな建築で、二層で柱は上下貫通しており、内部空間も二層分吹き抜けているため、非常に大きなボリュームを持っていました。そのボリュームのためと思われますが、ご住職もこの空間の音響効果が良いという話をされていました。見学時は暗くて上部は見えませんでしたが、後に写真で見ると、やはり桁の類は非常に縦長の断面です。また、入口の列の建具に組子の透かしがあり、正面が西面しているため、夕刻に光が入るとまるでステンドグラスのように美しいとのことでした。木部はかなりの部分がケヤキで、吹き放し部分の独立柱など、かなりの程度にあばれていましたが、その状態で安定しているとの話でした。
足場があるため上層部分に登ることが出来ましたが、上層ではかなりの遠目になるにもかかわらず、斗拱や蟻壁に詳細な彫刻が施されていました(写真)。ところが妻壁については板壁になっていたのですが、それを剥がしてみると、そこに斗拱等を仕上げぬまま放置したものが露出したとのことでした。
屋根勾配について、初重・上重ともに矩勾配に近いと思われるほど非常にきつく、また軒反りの点で、初重隅部が非常に大きく反り上がっているのに対して上重では反りが殆ど存在しないという特徴がみられました。
内部床は媽姐堂と同じ煉瓦系の焼き物で、一ヶ所剥がしてある場所をみると、厚みは30程度、下地として砂の上に並べていました。
3 孔子廟
・建築
現本堂はまだ30年ほどしか経っていない新しいもののようでした。本堂(大成殿)の屋根面は照り起りを目指したものの失敗かと思われるような湾曲を示しており、桁と梁の組み上げなども興福寺媽姐堂などに比較すると単純で大まかな構成になっていました。重層で初重軒先隅部の反りがきつく、上重のそれが殆ど無い点、及び上重の壁面に透かし彫りがあり内部からそれが見える点などが興福寺大雄宝殿と共通しており、逆に、吹き放し部分がないという大きな相違点も見られました。
・塗装
ペンキの赤色や黄色もきつく、塗装の面ではあまり良い参考にはなりませんでした。
・屋根瓦
本来は緑であるべきかと思われる瓦は黄色のそれで葺かれており、目視でその1割程度に釉薬の剥離が見られました。
・床石
本堂内部は赤い煉瓦系の石、外部はグレイの御影石でした。
4 崇福寺
龍宮門と俗称される山門をはじめとして長崎のシンボルのひとつとなっており、修復工事を終えて間もないこともあり色彩も非常に質の高いもので、今回の視察旅行中最も良い参考となりました。
・山門(写真)
一層目を弁柄色漆喰でアーチ型に塗り込めた、俗に竜宮造りと呼ばれる形式で、垂木は扁平で鼻隠しはなし、垂木下端・丸桁・柱・斗拱等に極彩色、3スパンのうち中央は照り屋根で両翼が起り屋根、中央天井に龍絵様、扉の釘隠しの獅子(龍?)等、非常に装飾要素に富む楼門でした。
・第一峰門(写真)
「崇福禅寺」の文字が黒地に鮮やかな金箔で浮かんでいる第一峰門は瓦が境内で唯一オレンジ色であり、それを扁平な扇垂木、肘木を斜めに突き出して支える密な斗拱、様々な装飾で支える、非常に華やかな建築でした。彩色について、調査時の状況が分かるよう、一部意図的に塗り残している部分が見られました。
・大雄宝殿
重層で前面一間吹き放しという特徴は共有しているものの、特徴的なのは初重と上重とで意匠的に大きく異なることです。初重は扁平な垂木、上重は木口を白く塗った縦長断面の二重垂木ということに代表されるように、初重は中国式、上重は日本式に建てられています。実際のところ、上重は後に増築されたものであるとのことです。
ほぼすべての木軸部が弁柄に塗られており、そのなかにある「大雄宝殿」の扁額や柱に取り付いた額は群青地の金箔文字で、息を呑むほどの美しさでした。弁柄は色そのものは抑えられたものであるはずなのに、このように全体に塗られてしまうと、相対的に鮮やかな赤に見えてくるということがわかります。そのほか上層の扁額は緑青地の群青色、上層の花頭窓状のものを緑青、内陣須弥壇の4面を金箔押しとし、持送り等の装飾材を、金箔も多く含む鮮やかな彩色としていました。
・護法堂(関帝堂又観音堂)
建築…正面3間で中心のスパンが異様に短い特徴をもち、それが内部須弥壇にも反映されていました。また関帝像が中心でなく向かって右に位置しており、中心は観音像、向かって左が韋駄天菩薩像が配置されるという特徴が見られました。祭壇は左右対称でなく、関帝像の前のみ一間分突き出して作られていますが、これは後代の改築とのことです。
各部特徴…四隅の隅木が丸桁の交点をその支点としており、その直下に柱がありません。これは意匠的には面白いのですが、「構造的欠陥である」との指摘もあります(修理工事報告書)。実際に修復前には隅部軒はかなり垂れ下がっていたようです。
また、礎盤が西列(最も奥の列)のみ存在しません。これは、西列は石垣上端の葛石を礎石として用いているためだということです。垂木は扁平で、敷桁の交点より先のみが扇垂木となっていました。出組の斗拱が縦一列しか存在しないタイプのものでした。妻面意匠が独特で面白いものでした(写真)。
彩色…内部は基本的には白木であり、欄間に相当する部分や持送り等に控えめに色が付けられているのみで、持送りにしても内部のそれは外面のみが彩色され、内面は白木のままとされていました。
5 唐人屋敷街内各建築
・天后堂
比較的新しい建物でしたが良く作られていました。正面は吹き放しがなく、護法堂と同様に縦一列しかない出組斗拱の並びが特徴的です。屋根が方形で、化粧屋根裏となっている内部天井は垂木が弁柄、天井板が白でコントラストが美しく、斗拱の構成も含めて綺麗な意匠となっていました。
石造の厨子があり、こちらは古くからのものだそうですが、これは入母屋で妻面に狐格子があるなど雰囲気は日本的ですが、垂木がやはり扁平となっているあたりに様式を感じます。
・福建会館
「唐人屋敷街」で見学したなかでは最も見応えがありました。中国の住居等によく見られる、切妻で妻面を大きな一枚の壁面とした構成で、正面の軒反りのラインが印象的でした(写真)。建物各部に凝った彫刻が配置され、特に正面吹き放し部分のそれは見応えがあるほか(写真)、内部虹梁も花もあしらって彩色し、扁額も金地部分にさらに模様を描くなど、品のある豪華さを持っていました。正面は3間ですがその4つの列すべてについて壁が通っており、外壁は煉瓦仕上げ、内部壁は恐らく煉瓦下地の漆喰仕上げです。ただし戦災でやられた写真資料を見ることが出来たので、現在の壁は戦後ということになります。
・天后堂
構成は福建会館と似て正面3間の切り妻の形式で、入口の列も煉瓦壁となっているところが違っていました。その壁には丸窓やアーチの開口があき、福建会館と雰囲気を異にします。彫刻も大人しめで、彩色もあるものの地味なものでした。
6 聖福寺
見学したなかでは最も日本的に咀嚼された形式を持っていましたが、逆に他で見なかった山門・中門の形式等が見られ、興味深い物件でした。
・山門
3間で、中国の楼門によく見られるように中央スパン部分の屋根が高く架けられるという特徴を持っていました。建築としては8脚門で日本的なのですが、その屋根の形態や取り付いた大きな持送り等、一見して中国的印象を与える面白いものでした。
・中門
階段を登り詰めたところに位置し、3間なのですが、最前列は1間しかなくそれを非常に大きな成の虹梁が繋ぎ、内側の3間ある部分で囲まれた中央部分に祭壇をつくり像をおさめるという面白い構成になっていました。隅木について、丁度神戸関帝廟のそれのように2材の継ぎで作られていて、先の方の材はその継ぎ部分からすでに水平を越える上り勾配をもち、跳ね上がる格好になっていました。
・鐘楼
重層で、上重の垂木は中央からの扇垂木でした。桃の意匠が正面建具にありました。
・大雄宝殿
雰囲気はやはり日本的なのですが、重層・正面一間吹き放しという特徴は共有しており、黄檗天井を持っていました。興福寺の媽姐堂では礎盤上端まで地覆石が立ち上がっていましたが、ここではそのレベルまで、地覆の木材が通っていました。
(II)全体に共通して見られた特徴
以上の8件の寺廟を見てまわったなかで、その多くに共通する諸特徴がありましたのでそれについて記します。
1 建物の形式
黄檗宗寺の大雄宝殿については、重層であり、正面一間が吹き放しで黄檗天井をもつという形式が全てに共通して見られました。ただし崇福寺の大雄宝殿については、上重は後に増築されたものであり、特殊なケースです。黄檗天井の意匠については各物件で異なりますが、頂部がラウンドになっていることでは共通しています。
上重には高欄は回らず、壁には目くらの意匠(崇福寺)または内部への明かり取りを兼ねた透かし彫りがはまっていました(興福寺等)。
初重と上重とで柱芯が一致しないものが殆どで、興福寺のみが上層まで貫く大きな柱を持っていました。
これらは、「黄檗天井」こそ持たないものの、神戸関帝廟に共通する特徴です。
2 礎石・狭間石・礎盤・地覆
基本的な構成は、礎石と狭間石が床とツライチに配置し、その上に礎盤が置かれ柱立てをし、建物入口等の場合には礎盤レベルに地覆石を立ち上げる、というものです。崇福寺大雄宝殿では、礎盤や柱の載っていない礎石が一対床面に露出していました。
礎盤には様々な形状があり、球形に近いもの(興福寺大雄宝殿)、石毎に彫刻を施しているもの(崇福寺護法堂)等があり、そして福建会館に見られたように、円筒形をベースに加工した神戸関帝廟のものに近い形をしたものも見られました。
3 床石
建物の周囲が石敷き(灰色)で、内部は赤い煉瓦系の焼き物の四半敷き、という構成が多く見られました。これらは割れや角の飛びなど多く見られるものの、味わい深く良いもので、神戸関帝廟の長楽寺時代のものと思われる床に赤いものがあったり、解体前の床が赤御影石であったのも謂れのないものではないかもしれぬと思われました。
4 柱の根巻き
柱の雨掛かり部分を保護する根巻きが木で出来ているものが多く見られました。
5 持送り
日本建築にあまり見られない大きな特徴の一つでしょう。横長で動物(特に龍)または植物の彫刻が施されており、植物の場合多くが透かし彫りでした。構造的意味はなく、装飾部材です。
6 柱に取り付く額類
垂木
通常の日本的な縦長断面の繁垂木のほかに、扁平の垂木が多く見られ、中国の直接的影響の強い建物ほどその傾向にありました。鼻先については木口を見せるものと鼻隠板で隠すものと両方ありました。隅部の扇垂木についても様々で、扇にしないもの、桁の交点を中心に扇にするもの、全体を扇とするもの、それぞれありました。
内部天井
内部は天井を張らずに化粧屋根裏としています。内部の小屋組が意匠的にも工夫が施されており美しいものです。ただし崇福寺大雄宝殿については、建物内部に見かけの化粧屋根裏を作っていました。 |