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オペラ『LIFE』リポート。

20世紀音楽の総括としての坂本龍一オペラ『LIFE』。


18世紀からはじまった大きな意味でのモダンな時代も終わってしまった現在にあっては、他の芸術分野と同様、音楽を書くことも非常な困難を伴うはずです。しかしこの千年紀の区切りの時期につくられた"LIFE"と名付けられた「オペラ」は、とくに20世紀の音楽を総括するという意味において、たいへん興味深い作品となっています。

オペラの第一部では、まずサティの『ヴェクサシオン』による客入れからはじまって、20世紀の音楽をディケイドごとにピックアップして繋いでゆくという方法がとられています。ドビュッシー『雲』、ストラヴィンスキー『春の祭典』、ヴァレーズ、バルトーク『オーケストラのための協奏曲』、シェーンベルク『ワルシャワの生き残り』、メシアン『世の終わりのための四重奏曲』、ジョン・ケージ『シー・イズ・アスリープ』、ヴェーベルン『ピアノのための変奏曲』、リゲティ『レクイエム』、ペンデレツキ『ヒロシマへの犠牲者に捧げる哀歌』、武満徹『レクイエム』、ブーレーズ、シュトックハウゼン、クセナキス、『イリアック組曲』、テリー・ライリー『in "C"』,etc。
むろん、それらは実際的にサンプリングされているわけではなく、それらの潜在構造を彼の耳がピックアップし、その結果ストラヴィンスキー以上にストラヴィンスキーらしい音楽、バルトーク以上にバルトークらしい音楽をつくっている。坂本龍一という人物が実に耳の良い音楽家であることをあらためて納得させられるとともに、この作品の大きな魅力となっています。

上記の「潜在構造引用」=リファレンス・リストには、一定の傾向が見られます。ひとつには、ベートーベン以来18,19世紀のヨーロッパ音楽を支配していたトニック-ドミナントを中心とするドイツ的な…実際にドイツを中心とした…弁証法的な調和構造をもつ音楽に対して、周縁的な場所からインパクトを与えた人が多いということ。ストラヴィンスキー、バルトークら「東方的異国」からの音楽家たち、もしくはケージら、アメリカという「歴史的異国」からの音楽家たち。

さらに、それらの音楽からは、色濃い戦争の匂いが浮かび上がってきます。「20世紀は戦争の時代であった」ことは、誰もが首肯していただけることでしょう。美術においてシュールレアリスムがなぜかファッショに吸収されていったように、ストラヴィンスキー、バルトークらの音楽は来るべき戦争の時代を色濃く予感させます。このオペラでもACT1-SCENE1のテーマを"WAR AND REVOLUTION"と設定し、それを扱っています。面白いのは、オッペンハイマー(核兵器開発【マンハッタン計画】の指揮をとった物理学者)らの実際の声がオペラ内に挿入されること。これらの言葉は、一般のオペラのように「セリフ」として編集し、高らかに歌い上げるのではなく、実際に録音された音声及び映像そのものを使っている。これについて坂本氏が「20世紀は録音技術の時代でもあった」とさらりと言ってのけるあたり、ニクイというほかありません。内容的に20世紀の総括を含んでいるとともに、手法の上でも20世紀を参照しているわけです。

"Jezt kommer, Feuer!" (今こそ来たれ、火よ!)というヘルダーリンの詩の一節が宣言され、それにデリダの"Il y à la cyndre"(そこに灰がある)という語が呼応する。「アウシュヴィッツのあとに詩を書くことは野蛮である」と書いたアドルノの亡命先であった「歴史的な周縁地」アメリカにおいてはしかし、同時代にかかわらずケージの『She is asleep』のような非常に静かな曲が書かれていることも対比的に取り上げられています。また、やはりアメリカにおいて、ロックを中心とするポップソングの発生に影響を受けたミニマリズムの発生。テリー・ライリー(去年名古屋に来ていたようですね)の『イン・C』に載せてオッペンハイマーの"the destroyer of worlds."(世界の破壊者)という語がポップに繰り返される部分などは、前半の聴きどころといえるでしょう。
20世紀の音楽は「クラシカルな」音楽構造の解体と再構築とを、まさにモダンな意思によって行おうとしていたはずだったのに、それに対してポップ・カルチャーの発生というのはやはり強力な事件だったわけです。それによって音楽が再びドミソ構造に揺り戻されてしまったわけです。

第二部では、「共生」をテーマに、第一部のヒストリカルな概観に対して、同時代的なジオグラフィカルなテーマが取り上げられます。垂直軸から水平軸へ。ここでは具体的に沖縄の音楽、モンゴル、スウェーデン、アフリカの歌が引用され、その背景に自然のいろんな音があり、マーラーの『交響曲第9番』をリファレンスとする音楽に乗ってラブロックのガイアのエッセイが挿入されたあと、絶滅した生物種の名前を読み上げられてゆく。第三部の「救い」に通じる、「祈念」の気持ち、「レクイエム」の意味というものを考えさせるものです。

第三部「救い」。
宗教的な要素も含んでいる構成だけれども、そこにはしかしいわゆる「抹香くさい」感じはありません。ダライ・ラマ14世が出てくるからといって、チベット仏教をことさら意識しているわけではなく、引用されるベルトルッチの言葉"Discovering there is no salvation is salvation"(救いがないことを発見することこそが救いである)という言葉に代表されるように限りなく「オープン・エンド」になっているところが魅力です。埴谷雄高のエッセイも、ローリー・アンダーソンのそれも、ピーナ・バウシュのそれも、そしてダライ・ラマ14世のそれも、"Une autre voix, encore, encore, une autre voix"(もうひとつの声を、さらに、もうひとつの声を)というデリダの言葉によって、「音楽的に併置」される。何も強制的な部分を感じることはなく、ただ開かれた「祈念」の思いが残るのみ。
そして最後にそれらを締めくくるのは、第一部においてジュネによる死の告発のあとキング牧師の演説に移るところで初めて登場し、その後幾度か繰り返されきたバッハ風のコラール。美しい終末というべきでしょう。

オペラ終演後、客出しのさいには、アポロ11号が月に行った映像を背景にジミ・ヘンドリクスが流れる。これは勿論、客入れのさいにメリエスの『月世界旅行』の映像に載せてサティ『ヴェクサシオン』が流れていたのに呼応しているわけです。なんと洒落た演出ではありませんか。

●参考
坂本龍一 『RAW LIFE + SAMPLED LIFE』 ワーナーミュージックジャパン
坂本龍一+浅田彰 「20世紀音楽史の終わりに」 雑誌『批評空間』II-23号

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最終更新日00/11/09

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