龍山寺

(ばんか)(現在の萬華)は台北市でも開発の最も早かった地区です。更に台北第一の名刹龍山寺は地元住民の信仰、活動、集会及び指揮の中心となりました。

伝説によると、昔ある人が観音菩薩のお守りを一本のガジュマルの大木に掛けておいたところ、夜になると突然に光りだしました。さらに不思議なことにはとても霊験あらたかで願いが叶えられました。そこで信者たちは、その場所に龍山寺を建立しました。1738年に工事が始まり、1749年に落成しました。龍山寺は200年以上の間に何回も修理されたり建て直されたりしましたが、寺の造りは「回」字形をしており、伝統的な寺廟建築の中でも大変に高貴な配置となっています。

広場では、地面に敷いた石材に注意して見てください。その中には切り口が整っていない物があり、とても古い歴史があることがわかります。昔台湾海峡は「黒水溝」とも呼ばれており、風も波も強く、移民たちは船倉に石材を積み船を安定させて安全に海を渡って台湾にやってきました。その後、これらの石材は龍山寺の前の広場を舗装するのに利用されました。前殿から見ていきましょう。まず、目に止まるのが建物の前にある台湾でも唯一無二の銅を鋳して作った龍の柱、軒下の木彫、彩色画で、何れもとても生き生きとしています。特に屋根を支えている「網目斗拱」は台湾の寺廟では初めて創作された物です。その他、大門の左側の石彫の窓の下に、精細な三国演義の物語が彫られており、右側には八角形の竹節窓があり、竹の幹が彫られており、「竹報平安」(以前竹を焼いて破裂させ遠くの人に無事を知らせた)の意味を表しています。

正門は祭典の行われる時にしか開かれないので、ふだんは左側の門から入り、右側の門から出るようになっています。廟の中に入ると、大勢の善男善女が熱心に参拝しながら経文をよむ姿が目に入ります。前殿を出ると、正殿前の広くなった所に香炉があります。香炉には「 番抬廟角」(愚かな野蛮人が寺の角を担いでいる)という興味深い文字が彫られています。広くなった所の両側には、鐘楼と鼓楼があります。朝は鐘をつき、夜は太鼓をたたいて、読経や法会の時間を知らせます。

石段から正殿に上がります。正殿の四方に廊下があります。廊下の壁面や石柱には精巧な石の彫刻が施されており、詳しく鑑賞する価値があります。正殿に入ると、本尊の観世音菩薩が目に入ります。第二次世界大戦中、龍山寺は空襲に遭い、建物は全壊しましたが、神像は無傷であったため、信者から前にもました篤く信仰されるようになりました。

後殿と左殿、右殿に進むと、多くの神仏が目に入ります。「龍山寺神神の集会所」だと言う人がいるように、廟の中にまつられている神仏は非常に多く、主神、従神合わせて約百体以上の神がまつられていると言われています。ここで注意したいのは後殿の前にある一対の人物の石柱です。作りが生き生きとしていて、他の寺廟が「龍」を石柱の題材とするのと違っています。この他左殿、右殿の入口の外側の壁面には「紅毛番吹法螺」(紅毛外人が法螺貝を吹く)と彫られており、香炉に彫られている「 番抬廟角」と同じ様な趣があります。

龍山寺はたくさんの芸術品を蔵しているだけではなく、一年を通して多くの祭典が行われており、とても賑わっています。ぜひ一度ご覧になってみてはいかがでしょうか。

 

孔子廟

大龍街を通ると、孔子廟に着きます。孔子廟の主神は中国で最も偉大な教師・・・・大成至聖先師孔子で、並びに歴代の賢人、儒者をまつっています。

孔子は飾り気のなさを重んじたので、孔子廟の建築は一般の廟のような華麗な装飾とは違い、比較的に簡単で質素なものとなっています。また、門には獅子も置かれていません。孔子廟の建物は大成殿が主な建物で、大成殿の外から、真ん中の屋根の上に、一対の「蔵経筒」と呼ばれる円筒が有るのが見えます。中国の古代秦の始皇帝(紀元前246−210年)は統治をしやすくするために、愚民政策を実施し、書籍を焼き払い、読書人を殺害しました。当時の読書人は書籍を保存するために、屋根の上に煙突に似た倉書筒を造り、書物が焼き払われないようにしまいこんだそうです。よって、孔子廟にも蔵経筒(通天閣)を造り当時の読書人の書物を愛する精紳に敬意を表しています。また、前方の屋根の上にはふくろうの彫刻があります。ふくろうは親不孝者で、残虐な鳥ですが、孔子はふくろうにさえも教化をしたので、ふくろうの彫刻があります。これは孔子の「有教無類」の精神を表しています。

その他、両側の階段の中間に、龍の姿が浮き彫りされている「御路」と呼ばれている斜面になった場所があります。これは当時の皇帝或いは神が殿堂に出入りする際に踏み台にしたものです。さらに、孔子廟の全ての柱、戸や窓には文字が全く書かれておらず、他の寺廟とは違ったものとなっています。これは、大成至聖先師孔子の門前ではあえて文章をひけらかす者は誰もいないということを表しているそうです。また、廟の中には塑像もありません。古代には孔子廟の中には孔子の塑像がありましたが、彫刻の技術の違いによって、塑像によっては孔子の神態度を表現できませんでした。よって明の太祖(1368年−1398年)の時代に、以後新しく塑像にかわって位牌を用いるように命令されました。明の世宗帝(1522年−1566年)の時代には全国の孔子像を撤去し、完全に位牌を使用するように命令しました。それ以後朝廷が代わり時代も変わりましたが、みなこの規定に従い、孔子を神像による神格化をせず、相対的に人格の偉大さを強調しました。

毎年9月28日は孔子の誕生日です。当日の明け方から盛大な祭孔大典が挙行され、大成殿の外の台の上では孔子に対する敬意を表すために、学生によって八 舞(はちいつぶ)が演ぜられます。祭典が終った後に子孫の知恵が増え、学問の成就を祈って、大勢の人が子女或いは自分のために争って智慧毛(牛の毛)を抜きます。

 

行天宮

行天宮(ぎょうてんぐう)は恩主公廟とも呼ばれ、関聖帝君をまつっています。関聖帝君(162−219年)は中国の歴史上非常に有名な部将です。彼は信義を堅く守ったので、武聖と尊ばれ、また財理にもたけていたので、商業の保護神としても尊ばれています。

行天宮は1967年に現在の場所に建立され、廟は質素で飾り気が無く荘厳です。神殿の前に天公炉があり、天公炉の両側には飛び上がる龍の形をした耳が着き、天空に向いている龍の頭が炉の四ヵ所についており、独特な造りをしています。前殿に入ると大勢の信者が神の前でひざまづき、参拝している光景は非常に敬虔な感じです。天井と呼ばれる広場をぬけると正殿に着きます。供え物をする卓上には鮮花、清茶しかなく、他の供え物がないことに気がつきます。行天宮では殺生を戒め、いけにえの家畜を備えるのを禁止し、また特に、金紙を焼くこと、演劇を神に奉納すること、ねんごろに金牌の礼を述べる等の行為を止めるように勧めていることや、持参した鮮花や果物以外は、廟が無料で線香やろうそくを提供しています。同時に廟のお堂の前には賽銭箱が設けられておらず、信者の香油代は不要で、伝統宗教界では初めての純朴なやりかたです。

一般の人は行天宮はとても霊験があらたかだと思っているので、神に占いを問いに来る人が大勢います。行天宮の地下のマーケットもほとんどが占いの屋台でいっぱいで、独特な特色があります。

 

指南宮

「階段を一段登るごとに、二十秒長く生きられる」と言う人がいますが、もしこの話が真実であれば、指南宮に一度行った人は寿命が十時間も増えることになります!

指南宮の俗称は「仙公廟」といい、孚祐帝君をまつっています。孚祐帝君は八仙人の中の呂洞賓のことです。言い伝えによると仙公呂洞賓は仙人になった後、時おり人間界にやってきて、人々を迷いから導いたため、民間信仰の中でとても人々と縁のある神様です。小路には約千二百壇の階段があり、階段の両側にはとても多くの石柱があります。これは日本の植民地統治時代に信者が奉納した石燈籠で、柱の中に油を入れ火がつけられるようになっています。階段を約百段登るごとに平らになった場所があり、休憩をすることができます。

山門を通り拝殿まで来ると、一対の龍柱の龍の頭が上に伸びているのが目に入ります。殿内に入ると、赤い色をした欄干に囲まれた祭壇を詳細に見ることができ、とぐろを巻いた龍が珠を吐いている「龍陛」に気がつくことでしょう。鼓楼へ回ると、孚祐帝君代殿に着きます。三階だてで、一階は香客房という宿泊施設で、以前は祈夢室でした。当時、もし信者に願いがあって、呂洞賓の同意が得られた時には祈夢室に泊まることができ、夢の中で指示を得ることができるとされました。

仙公廟の左後ろの小道を行くと、大雄宝室へ着きます。二、三階が正殿で、釈迦如来がまつられています。その中でもタイの巴博元帥が寄贈したタイの国宝の金の釈迦如来はインドのガンダーラ時代のインド仏像の形態を参照して、九種類の金属の鉱石から鋳造されていて、この廟でも最も特別な仏像です。

仙公廟の右後ろの小道を通り、心がやわらぐような景色の坂道をまっすぐに行くと、凌霄宝殿に着きます。門の軒の上で天兵と天将が護衛をしており、殿内にはたくさんの神仏が祭られていて荘厳で慎み深い雰囲気です。

宝殿の左側の道を行くと、視界か広々とした指南観光楽園です。隣には、キャンプ場があり、その間の山道は孔子廟に通じています。浮き彫りが彫られており、そして周りを一等の麒麟がめぐっていて、鳳毛麟角のように貴重な孔子の精神を象徴しています。

言い伝えによると呂洞賓は八仙人の中で唯一の女神である何仙娘への恋がかなわなかったので、恋人と一緒に訪れると嫉妬をすると言われています。よって、恋人と別れないように恋人と一緒に行かない人もいます。

コース: 1.台北市で最初の観光茶園・・・・・・木柵観光茶園

2.木柵(もくさく)動物園

 

関渡宮

関渡宮は1661年前後に建立され、台湾北部では最も古い媽祖廟です。霊山の上にあるので、もとは霊山廟と呼ばれていました。言い伝えによると、1895年に廟の入口にある三本の古いガジュマルの木が同じ晩に急に枯れてしまいました。住民たちは媽祖が彼らに災難のある事を警告したのだと思いました。やはり、短期間のうちに日本軍が台湾に上陸し、関渡を攻撃しました。住民たちは早くから予防措置を取っていたので、災難から逃れることができました。

関渡の歴史は古く、殿口の龍柱、石の獅子、壁の彫刻等はみな非常に精巧です。特に門神は、浮き彫りで表現されていて、一般の彩色画の門神とは違った趣です。殿の中に入ると、殿の絵天井、屋根の斗拱、はりにはすべてとても豊富な彫像、彩色画が施されていて、大変に美しく華麗です。さらに、多くの伝説がある媽祖(まそ)の神像は正面の壇上に安座し、情け深い様子で、媽祖の部将の千里眼、順風耳の造形と強烈な対比を形成しています。

関渡宮の右側に全長約80メートルの古仏洞があります。入口に鎮洞宝臼があり、一切の邪悪を鎮圧しています。洞内に入ると、両側に二十八天王像があります。奥まで進むと、千手観音があります。その千の手と千の目は「普渡衆生」(人々を迷いから救う)ということを表しています。観音の後ろに回ると、そこは古仏洞の出口で、河口の風景を鑑賞することができます。

コース: 関渡宮の堤防の小道を行くと、「水鳥保護地区」に行くとができます。ここは現在では台北市で最大の湿地で、毎年春と秋の二回、世界の水鳥の群れが渡る際の主要な中継地となっています。また、歩道が士林まで通じていて、散歩にはもってこいの場所となっています。

 

三峡祖師寺

三峡祖師寺は、現代の中国寺院芸術を代表する寺として注目されている。1770年に建立されたこの寺は、第二次世界大戦の際に焼失。その再建に40年以上も費やされ、いまだに完成を見ていない。新しくなった寺は、複雑な彫刻が施された石や胴の柱、彫像、獅子、そして美しい木彫品で飾られている。

 

関廟

台南の南14キロにある関廟は、鄭成功がここに関帝(三国誌の関羽)の廟を建てたのをきっかけに発達した小都市です。都会と田舎を結ぶ中継点にあたり、昔から近郊の農民がここに参集し市を開きます。町の周辺には、パイナップル畑と竹林が広がっており、竹の子や竹細工の産地でもあります。また、藤製品の台湾の大半をここで生産し、日本などに輸出しています。

 

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