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日々の記録 2000年2月


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2000年2月29日 火曜日

最近「美穂の旅」というのにはまってます。登録すると、旅の分身が世界中を旅して旅先からのメールを送ってきてくれます。また、旅行が終わると写真がたくさん入った「旅行記」なるものまで作ってホームページで見れるんですが、結構面白いです。こういったヴァーチャルってのもありなんですね。

我が分身は今までフィリピン、アメリカ、オーストラリアと旅して現在はなんと日本旅行中です。うらやましいというかなんというか・・・

さて、その旅行記の写真は「素人くさい」ってところが売りみたいです。ちょっと構図が崩れていたりするんですが、よく見るとここの写真と一緒です。確かに僕は素人なんで素人くさいのが当たり前ですが自分なりに考えて撮っていただけに・・・

なお、明日からリオのカルナバルに行ってくるのでしばらくお休みします。今回は現地更新できないかもしれません。3月9日頃再開します。




2000年2月28日 月曜日

国やぶれてサンバあり

これどこかで見つけてきましたが、すんごいいいっすね。まさにブラジルを一言で表してます。だってもう町はサンバ一色なんだもん。今もホームページ書いている窓の外からバテリアの太鼓の音がドンドコドンドコ聞こえてきてます。生徒も先生もカルナバル休みを指折り数えて待ってます。そんななか生徒よりも先に先生がカルナバル休みに入るという噂も流れていますが、本当です。水曜日の夜行バスでリオ・デ・ジャネイロに出動です。子供達は金曜日まで勉強しなさい。鬼畜だね。

ところで日本ではプレステ2が発売になったらしい。この一年ほとんどゲームらしいゲームやってないので、少し禁断症状出かかってます。今、目の前に KOEI の「三国志7」があったら、リオのカルナバルのチケットと交換しちゃいそうです。ついでに「信長の野望烈風伝」があったらリオ往復のバスのチケットもつけて交換です。

これを読んだ心あるどなたか三国志一年分送ってくれないかな?もれなくカルナバルチケットと交換だよ。




2000年2月27日 日曜日

結婚式から帰ってきました。想像通りブラジルの結婚式は日本のそれよりもざっくばらんで気楽でした。みんな和気あいあいとしていて「村のパーティ」みたいな感じでしたね。僕も将来はあんな感じの結婚式をしたいです。相手がいれば。

その帰りに弓場農場によってきました。弓場農場とは原始共産主義的な共同生活を送るコミュニティーで、炊事などは大きなホールで協同でおこなっています。生活の基本は農業ですが、弓場農場創始者の考えで、芸術活動にも力を入れておりその「弓場バレエ」は世界でも高く評価され、日本など世界各国で公園を行っています。また、旅人に対しても開放されていて、いつもふらっと立ち寄った旅人が生活しています。日々の農作業を手伝う代わりに食事と寝る場所が提供されると言うイスラエルのキブツのような共同体です。

たった一日の共同生活でしたが、弓場農場の人達とは地区のいろいろな活動を一緒にやっているので知り合いも多く、「おっ、久しぶり」といった感じです。彼らの生活を見ていると、なにか大学の夏合宿のような感じです。それとも世界中にある日本人宿の50年後の姿のような感じもしました。日本人宿に沈没した人達がそこで生活を始め、家族を作り、そこにまた新しい旅人が来て・・・といった具合で、今日来たばかりの旅人もコミュニティーの一員として受け入れてくれる不思議なところでした。

本当は旅行記か生活記にまとめたかったんですが、弓場農場をたった一日で語るには無理がありました。ということで簡単コメントだけにします。

ところで弓場のあるアリアンサ付近は電話回線が悪いらしく、あんまりインターネットができないみたいです。日本語学校の男の先生は「インターネットにつながったらすぐに弓場農場ホームページを立ち上げたいんだけどね。」と言ってました。僕が「じゃあ手伝いますよ」と答えると「実はもう出来てるんだ。あとはアップロードするだけ」とのことなので、弓場農場ホームページも時間の問題かもしれません。

なお、僕が泊まった日曜日には6人の旅行者がいました。ほとんどの人が南米長期旅行者で、これからパラグアイに移住する旅行者もいました。この一年間ブラジルで日本人旅行者を見かけることはほとんどありませんでしたが、やはりブラジル内陸地にやって来る旅行者もいるんですね。

もし行かれる方はサン・パウロ州の Mirandopolis というところまでバスでたどり着いてからタクシーで「Comunidade Yuba」と言えば連れていってくれます。

それから弓場農場の人達はみんな日本語ができるのでご安心を。日系4世ながら第一言語が日本語という恐るべき人達もいます。




2000年2月25日 金曜日

今日、22日付のサンパウロ新聞でおもしろい記事を見かけました。

「Penpal Greeting というウイルスに注意!!」というヤツです。例のチェーンレターもどきのやつで、内容も「Penpal Greeting という添付ファイルを開くとHDが破壊されるので注意!」といつもの内容です。

しかし、ブラジルの邦字紙とはいえ「新聞社がこんな記事を載せるかね?」と思っちゃいますね。それよりもなによりも、「何で今頃になって?」という思いの方が強いですね。まあこういう記事が通るということはとってものどかなところなんでしょう。

なお、明日はブラジルで始めて結婚式に参列します。どんな結婚式なのか楽しみです。さらに、今回は披露宴の場所がかの有名なアリアンサであるので、なおさら楽しみです。夜は「弓場バレエ」で有名な弓場農場に泊まるので、次回更新は来週の月曜日頃の予定です。




2000年2月24日 木曜日

ホームページを書いているPCは窓の前にあるので、毎日外を眺めがらキーボードを叩いているんですが、毎日雷です。

といってもドドーンと落ちるやつじゃなくて雲がピカピカ光るあれです。たま〜に落ちたりするけど、ほとんど光るだけです。今は雨期なので毎日空の上に雲がかかっていて、それが夜になると光るのだろうと思います。かといってそんなに雨は降らないんだよな。

それから今日は暑かったので散髪に行きました。散髪が終わった後は速攻でシャワー。だって終わった後洗ってくれないから。どうもこっちでは散髪の後に洗わないのが主流みたい。もちろん高いところは洗ってくれるんだろうけど、そんなとこ行けないし。僕としては最初に洗ってくれるのをやめて、その分最後に洗ってもらいたいです。

それからこっちは顔剃りもあまりありません。ついでに髪を洗うときは日本の美容院みたいに仰向けになります。時間も早くてひとり30分程度。でも値段がだいたい5〜10R$(500円以下)なんで許す。




2000年2月23日 水曜日

最近調子がいいです。ホームページの方もそうですが、学校が順調なのが何よりです。今年はもうそろそろ二年目になるので今まで我慢してきたことも言えるようになりました。というか、自分の発言で改善できるところと「これはもうどうしようもないな」というところの見極めがついてきたので何でも言いやすくなりましたね。これまでの「いつも旅行ばっかりしている先生」から「旅行もするけど学校も頑張る先生」に変身するぞ!

で、その第一弾で計画しているのが「町の歴史を知ろう!」運動です。といっても授業ですが。この町は古くから日系人が住んでおり、ブラジル中の日系人にとって故郷みたいなところです。ただ、それらの知識を持っている世代がほとんどいないので、最近の子供達はそういったことを知りません。それではもったいないので町の長老達にいろいろ教えてもらおうと考えてます。

今、僕は子供の授業と50〜60歳ぐらいの二世の人達と二つの世代の授業を持っているので、これを利用しない手はありません。まずはこの両者を巻き込んで中心核にして、まわりの人達を巻き込もうと考えてます。

しかも今文協では「移民博物館」を作ろうとしているので、この展示のひとつとしても格好の材料になるでしょう。さらに、今年はコンピューターを買う予算も下りたので、日本語学校ホームページとも絡めて展開できれば最高です。

・・・と、一応本業の方もちゃんとやってるんだよということをさりげなく(全然さりげなくじゃないけど)アピールしたりしてみます。



2000年2月21日 月曜日

最近ちょっとというかとってもうれしいことがあります。「後継者ができそう!」です。今週から学校を始めたんですが、日本語がかなりできる子供(17歳)が、「先生、私日本語の先生になりたいんですがどうしたらいいんですか?」と聞いてきたんです。いや〜もうこれはチャンスということで「じゃあさっそく初心者クラスの先生のお手伝いをしてあげて。」と話はトントン拍子です。

これも僕のこの一年の努力のおかげ・・・と言いたいところですが、その子は前から日本語教師になりたかったようで、歴代の先生も目をかけていた生徒です。今年で高校が終わるので彼女もいろいろと将来のことを考えての決断だと思います。ただ、僕としてはこれからの日本語教育界のことを考えるとなんとか大学までは出て、教員免許とってほしいと思います。最近ブラジルの公教育界でも英語・スペイン語以外の外国語について徐々に関心が高まっているみたいですからね。

日頃は「生徒が減りそう」とか景気の悪い話しばっかり聞かされているので、久しぶりにうれしかったです。こう言ってはなんですが、滅びゆくものを維持していく作業というのは辛いですね。去年よりも今年、今年よりも来年の方が生徒は少なくなって行くんですからね

と考えるのは良くないんですね。実際は「日系人のための日本語教育」から「日系人のための」を取らないといけないんですよね。もちろんこっちの日系人達も分かってはいるんだけど、そのタイミングが分からないんです。それにこれは日本語学校だけの問題だけじゃなく、日系人団体の存在意義に関わってくる問題ですから。




2000年2月20日 日曜日

今日も大漁。

昨日に引き続き、今日も釣りに行ったんですが昨日ほどではないものの、大漁でした。6人で250匹ぐらい釣ったので、40匹ぐらいは釣ったのかな。

ただ、日本と同じで釣り人(ペスカドール)の言うことには誇張が多いです。とくに逃がした魚についてはどんどん大きくなります。今日も、一匹捕まえたんですがその魚が逃げるときに川底に沈んでいる木の下をくぐったらしく、引いても引いても気に引っかかって動きません。で、糸をゆるめるとすごい勢いで糸を持って行かれるので「これは!!」と船の上にいた全員が注目しました。ところが引き上げてみると普通の大きさの魚。もしこれを釣り上げず、逃がしていたら今日の日記に「今日はすんごい大きい魚を逃がした。」と書くんでしょう。ペスカドールあなどるべからず。

という日記を書いている最中に窓を開けたら、バサバサバサと虫が飛び込んできました。よく見るとゴキブリ。僕の部屋は四階にあり、まわりには二階建ての建物さえないような場所です。このゴキブリはどうやってこの四階の窓まで飛んできたんでしょう。まだまだブラジルにはたくさんの謎が残っています。

実は、全く炊事をせず冷蔵庫にビールの缶が入っているだけのこの家にも一匹のゴキブリが住み着いています。彼らは何を食べているんでしょう。それにブラジルのゴキブリは日本のよりも派手に飛び回るような気もします。よって人間に与える脅威は日本のゴキブリよりもはるかに大きいです。



2000年2月19日 土曜日

前・言・撤・回・本・日・大・漁

やったっす。釣れたっす。

今日の昼御飯を食べに文協の人の家に行ったら「今からペスカ(釣り)行くからあんたも行こう」と言われてしまいました。その瞬間両肩にのしかかってきた大きなプレッシャー。野球で言うなら10試合連続先発失敗した投手が「今度ダメだったら敗戦処理だな。」と監督に脅された後の先発試合のような、相撲で言えば角番大関のような、巨大なプレッシャーでした。

今回釣れなかったら釣り仲間に見放されるだけでなく、この町での沽券、いやいや存在意義に関わるような非常事態でした。

釣り糸をたれて、最初の30分。ピラニアらしきやつに餌がつつかれはするものの何も釣れません。「やばいっす。一回表無死満塁っす。」

やがてまわりの人達にあたりが来ます。「さらにノースリーっす。」

そしてついに、ついに久方ぶりのちっちゃいお魚が。「三遊間痛烈なあたりをショートが好捕、本塁転送フォースアウト」ぐらいのギリギリのところでした。

その後なんとか後続を断ちきり、二回、三回と尻上がりに調子をあげていきます。五回からは六者連続三振という気分。

そして終わってみれば完封試合!!2時間半で49匹釣り上げました!!

完全復活!!をらをらをら、どっからでもかかってこい!!




2000年2月17日 木曜日

最近不調です。ブラジルに来て以来、最大の不調かも知れません。ちょっとこれからの一年のことをよく考えないと行けないかも知れません。もしかしたら僕はブラジルには向いていないのかもしれません。

何かって??

釣れんのや!!!

このところ釣れん、驚くほど釣れん!! ブラジルに着いた当初は入れ食い状態で釣れた魚ですが、最近ばったり釣れなくなりました。でも腕が落ちたのでもないみたい。一緒に行った人のなかでは割と釣っているほうなんです。でも僕が釣りに行かなかったときに限って釣り仲間から「今日はバスタンチ(たくさん)釣れたよ」とか「一人で50匹ぐらい釣ったよ」などと聞かされます。

で、極めつけはアマゾン。モンチで釣りに行ったんですがその日も釣果は芳しくありませんでした。それを聞いて「おかしいなぁ、あいつと行ったら必ず釣れるのになぁ。」と言われる始末。

俺が悪いのかもしれん

他の釣り仲間もそう思っているらしく、「先生、pe frio ね。」などと言ってくれます。pe frio とは「冷たい足」と言う意味ですが、「運の悪い人」という意味です。

初めのうちは「そんな迷信みたいなものあるわけない!」とタカをくくってましたがこうも続くとちょっと考えないといけません。縁起担ぎのひとつでもやってみたくなります。連敗続きの監督の気持ちもこうなんだろうなぁと思いながらも「釣りに行きましょう」と声をかけにくくなる pe frio な今日この頃です。




2000年2月16日 水曜日

授業も始まり、また普通の日々が始まります。

ところで、こちらにきて10ヶ月になりますが、今のところホームシックになったりしていません。毎日ブラジル料理ですが日本料理もあんまり食べたいと思わないし。もちろん出されれば喜んで食べるけど、自分から積極的には食べないということですが。

そんな僕ですが、思わぬところで日本が恋しくなってしまいました。というのも今日はまだ授業が始まったばっかりなので、ゲームをしようということで効果音CDを使ったゲームをしました。ガラスの割れる音やドアを叩く音を聞かせて、日本語の文字で書かせようと言うゲームです。そんな細かいことはどうでもいいんですが、その準備中新幹線の効果音を聞いたときに思わずはまっちゃいました。

効果音の最初には新幹線ホームの発車ベルの音(この音は在来線とも私鉄とも違います)がなり、「博多行き、ひかり○○号発車します。」のアナウンスが流れて新幹線が動く音が聞こえてきます。その瞬間日本で新幹線に乗ったときのことを思い出し、思わずジーンと来ちゃいました。日本で新幹線に乗るときはいつも「あ〜これから旅に出るんだ」って気分だったんですが、その時の気分が真空パックから解凍されように急にわき出てきてびっくりしました。

その他にも地下鉄の車内の音なんかもあり、目を閉じて聞いているとしばらく日本にトリップしてしまいました。いつの間にか体も揺れてるし

なにはともあれ思わぬところから日本を思い出し、いい気分になった一日でした。



2000年2月15日 火曜日

帰ってきました。実は1月分のインターネット料金を払っていなかったので2月に入ってからつながらなくなっていました。リンスに帰ってきて、やっと復活しました。

サンタレンで最後の現地更新をしたあと、モンテ・アレグレにほぼ一週間滞在して、その後船でマカパーに移動し、最後はベレーン経由で帰ってきました。

モンテ・アレグレは観光客向けのものは何にもありませんが、とても気さくな日系人の家にお世話になり、怠惰ながら快適な毎日で、ここまでの旅の疲れを落としてきました。町の運動会にも参加し町の人々と仲良くなり始めた頃に帰ることになったのが残念。きれいな山や川や教会なんかなくても人がいれば楽しいということを再認識。帰る頃には自分の家みたいになっちゃって、これからリンスに帰るのかそれともアマゾンの家を出て旅行に出るのか分からないような気分になりました。あのままモンテの日本語学校で日本語の授業をはじめても何の違和感もありませんでしたね。

その後のマカパーはまさに「建設中の町」。最近は豊富な鉱物資源と免税都市という特権に恵まれて発展中のようでいまだ混沌とした町ながら高度経済成長の勢いが感じられました。また、町には200年ほど前の要塞が残っていて、久しぶりに遺跡系の観光地を堪能しました。もともとアジアではそういった歴史のある場所が好きだっただけに、今までのブラジルでは感じたことのない「歴史の重み」をちょっとだけ(なんといってもたった200年ですから)感じることができました。

そして個人的にはマカパー最大のイベントと思っていた赤道横断ジャングル列車に乗ることができました。マカパーはちょど赤道上にあるんですが、そのマカパーの南にあるサンターナの町から赤道を越えてマンガン鉱山のある町までジャングルの中をひた走る列車です。いまだ鉄っちゃんになれるほどは熟達していませんがそれでも鉄道旅行が好きな僕には一番素晴らしい思い出でした。船もいいですが、やはり鉄道の旅が一番旅情をそそります。

その後ベレーンで飛行機の乗り継ぎの間に半日だけ町を歩き無事リンスに帰ってきました。

これでブラジル全27州のうち13州は旅した(宿泊した)ことになります。一年弱でこのペースだったら帰るまでにはブラジル全州を旅することもできるでしょう。


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