アイリス・チャン、チャンと調べてね!


アイリス・チャン著「ザ・レイプ・オブ・南京」の表紙


秦郁彦「南京虐殺」“証拠写真”を鑑定する
全米ベストセラー『ザ・レイプ・オブ・南京』

 アイリス・チャンを正誤する

 実はラーベ日記の本質を見誤ったのは、我が国の運動体だけではない。この日記を発掘したのは、アイリス・チャン(Iris Chang)という29歳の女性ジャーナリストとされている。
 「されている」と書いたのは理由があり、彼女と同じ中国系アメリカ人の政治団体(アライアンス)幹部によれば別の人だと言うのだが、この点については詮索しない。
 チャンが97年11月に刊行した『レイプ・オブ・ナンキン』(The Rape of Nanking ― The Forgotten Holocaust of WWU,Basic Books p.290)によると、彼女の祖父母は南京に住んでいたが、日本軍侵攻の数ヶ月前に田舎へ疎開し、難をのがれた。父親は1949年中国本土から台湾に脱出、ハーバード大学で学んだのちイリノイ大学の物理学教授となった。
 彼女はそこで生まれ、イリノイ大でジャーナリズムを専攻したが、幼時に南京虐殺の話を聞いた事があるという。
 きっかけは不明だが、ラーベ日記を発掘した経過は彼女の説明によると、チャンの手紙を受け取った孫娘のウルズラが伯父にあたるラーベ家の当主オットーの保管していた日記を借り出して読み、『人民日報』の中国人記者と相談して公開を決めたとされる。
 そして複写した日記は、日本の右翼が押し入って破壊するか、大金で買収に来るのを恐れ、すぐに米国へ運びエール大学図書館へ寄託すると同時にマスコミへ発表したと言うが、このストーリー自体がスパイ物小説仕立てではないか。
 ところが彼女はこの本を書くためエール大学へ通ったが、ドイツ語が読めないらしく、バーバラ・ジェフ・ハイネン(朝日新聞社)の2人に英訳作業を頼んだと書いている。
 日本語の諸文献もスギヤマ・サトコなど数名の女性ボランティアに英訳してもらったようだが、日本語もドイツ語も読めず、チェックしてもらう一流の近現代史専門家と縁のない女性がこの大テーマと取り組んだのだから、さんたんたる出来栄えになっても不思議はない。

付表『THE RAPE OF NANKING』の正誤
ページ
 タイサ・イサモ 40 長勇中佐
 1937年8月、上海で
  中国砲兵隊は良子
  (ながこ)皇后のイトコ
  を含む数百人を殺した 
33 該当の事実なし
 裕仁天皇の前秘密警
  察(Secret Police)
  長官中島中将
37 中島は前憲兵
司令官
 谷寿夫中将みずから
  南京で20人の女性を
  レイプした
50 起訴状・判決に
言及なし
 永富ドクターの告白と、
  診療室で患者に南京の
  ビデオを見せていること
  を紹介
59 永富博造は当
時国士舘の学
生、現在は鍼
灸師
 受験戦争下の現代日
  本では子供たちは午
  後9時から午前6時ま
  で勉強させられる
205 意味不明
 民間人の被虐殺者数
  は26〜35万、レイプの
  被害者は2〜8万
4、6、
102
別に検討
 残虐写真13枚のほと
  んどが偽造または出
  所不明
グラビア 同上

付表はパラパラとめくって目についた初歩的ミスの数例を列挙したものだが、たとえば1の「タイサ・イサモ」なる人物は、松井軍司令官の制止を無視して捕虜の大量虐殺を命令したとされる長勇(ちょういさむ)中佐を指すのはたしかである。
 中佐を大佐と間違えるぐらいはご愛敬だが、イサムを姓と思い違いするのは、クリントン大統領をウイリアム(ビル)大統領と書くたぐいで、日本育ちの日本人ならまずやらない。おそらくは3世か4世の日系人あたりの英訳ミスだろうと想像するが、タイサを姓、イサモ(イサムではない)を名と思い違いした可能性も捨てきれない。
 ついでに言えば、この翻訳ボランティアは軍事知識にうとく、「歩兵連隊」(Regiment)を「大隊」にしたり「ウイング」(航空隊)と訳したりもしている。
 付表7では26万、35万という初見の数字が登場する。102ページにはわざわざ26万の積算式まで載せているが、東京裁判の記録から重複を物ともせず目についたものを足してみたという代物で、この種の推計を見なれている私も唖然とした。
 35万のほうの根拠は「ある専門家によれば」とあるだけで、注記を見ても誰なのか触れていない。それでも、秦の4万人説を、ラーベの5〜6万人説と並べて1行ずつ紹介してもらったのは光栄の至りだが、守護神扱いしてきたラーベの数字さえ紹介だけにとどめ、検討を避けたのは、彼女にとって「見込みちがい」に少ない数字だったからだろう。
 2〜8万というレイプの統計も同じように腰だめ計算であるが、彼女が1月11日の米衛星放送に出演した時は、さすがにアナウンサーが「どうしてこんなに差があるのですか?」と聞いた。するとチャンは平然と「事柄が事柄だからはっきりさせるのは無理なんです」と軽くかわしていた。
 最後の写真問題(付表8)は、後でとりあげることにしたいが、意外だったのは、アメリカの読書界が彼女のこの本を熱烈歓迎したことである。
 私が目にした書評は、『ニューズウィーク』(97年12月1日号)、『ワシントン・ポスト』(12月11日)、『ニューヨーク・タイムズ』(12月14日)の3本だがいずれも長文で扇情的な見出しを乱発して持ち上げたから、たちまちベストセラーの座に加わった。

 NYタイムズの熱烈歓迎

 ここでは代表格として、アメリカの良識を支えてきたとされる『ニューヨーク・タイムズ』の例を取り上げてみよう。評者のオービル・シェルは、名門カリフォルニア大学バークレー校ジャーナリズム大学院の院長と紹介されている。
 書評は「近代史で他に例をみない日本軍による大虐殺(マッサカー)」という大上段の定義に始まる。そして東京裁判は26万の民間人が殺害されたと算定したが、「多くの専門家は今や35万と判断している。捕虜全員を殺害せよとの秘密命令は天皇の伯父である朝香宮司令官から発せられ、兵士たちの間に殺人競争が起きた」とつづく。
 チャンが「ある専門家」(some experts)と言葉を濁したのが評者によって「多くの専門家」(many experts)へすり替わり、著者が「朝香宮が自身で命令したかクリアーではないが」と保留し、長参謀の私的命令らしいと示唆しているのに、シェルは朝香宮を犯人と断定しているのだ。執筆者の熱狂を割引きして伝えるのが書評の常識だから、この改変はケアレスミスなんかではなく、故意の歪曲と見ざるをえない。
 書評は、原著のハイライト部分を要約引用して読者に紹介する場合が多いが、シェル教授がチャンの6ページから引いたのは次のくだりである。

 兵士たちはレイプしたばかりでなく、女の腹を断ち割り、胸をスライスし、生きたまま壁に釘で打ち付けた。父親たち(以下はすべて複数)は自分の娘を、息子は母親をレイプするよう強制され、それは家族の面前で実行された。生き埋め、去勢(castration)、器官切開ばかりか、集団的に火あぶり(roasting)するのも日常的シーンとなった。
 より悪魔的な残虐行為――たとえば鉄のフックを人々の舌にひっかけて吊すとか、腰のあたりから下を土に埋め、ドイツ種のシェパードに噛みつかせバラバラに引き裂くのを見物するとか――も見られた。

 さて、中世の魔女裁判も顔負けのこの劇画的シーンを彼女がどこから仕入れたのか、注を引いてみると、簡単に「著者による生き残りからのインタビュー」としか書いていない。
 チャンという女性はよほどグロ趣味の強い人らしく、前後して「南京の死者が手をつなぐと200マイル向こうの漢口まで届く。死者たちの血液を計量すると1200トン、貨車に積むと2500両分、上下に重ねると74階建のビルの高さになる」という奇想天外な試算も登場する。
 私もエンピツをなめなめ何回か試し算をやってみたが、南京―漢口はマアマアとしても、上下に積めば人体の厚みを10センチと仮定して1000人で100メートルの高さになってしまう。計算ミスか?と首をひねっている間に鉄のフックやシェパードの顔が浮かんできて試し算は中止した。
 それにしても、名門パークレー校の大学院長ともおろう学者が、こんなバカバカしいおとぎ話を真に受けるとは。
 だがチャンの本を真に受けたのはシェル教授だけではない。『ニューズ・ウイーク』も『ワシントン・ポスト』も大同小異、書評を集めた『アマゾン・コム』誌には、有名大学の教授やピューリッツァー賞受賞者などが「すばらしい」「迫力がある」「きわめて重要な学術的業績」「20世紀でもっとも重要な本の一つ」などと絶賛ばかり、例外は「情熱は買うが歴史書としては不適切」「中共も同じ事をチベットでやった」とチクリ付言したのを1、2見かけた程度だ。
 お歴々がなぜ彼女にこんなに甘くなってしまったのか?思い当たったのは、書評子たちが一様に「パワーフル」と表現したチャンのカリスマ的迫力とフェミニスト風レトリックである。
 私は97年11月、プリンストン大学で中国系米人組織のアライアンスが主催した「南京シンポ」で、アイリス・チャン本人を間近に眺める機会があった。圧倒的な迫力のスピーチに気圧されたようにシーンとなった聴衆を見やりつつ「誰かに似ている。そうだ上野千鶴子さんかな」と、私は思案していた。
 スピーチが終わったあと、2、3質問してみようかなと思ったが、やめにした。下手をすると、セクハラだと一喝されそうな気がしたからだが、向こうも私に近ずいてこなかったので、ニアミスに終わった。「ホロコースト」に「レイプ」が重なれば、心ある人は沈黙せざるをえないという心理状況は、アメリカも日本も大して変わりはない。
 チャンはその隙間を巧みについて反日イメージを盛り上げ、自著を「ロング・アンド・ベスト・セラー」(ワシントンの友人からの手紙)に仕立ててしまったのだ。

 朝日米総局長の「一読」

 しかしプロパガンダとわかれば、国益擁護の観点からそれなりの対策を講じるのが国際常識と思うのだが、知ってか知らずか外務省もマスコミも傍観しているだけである。
 何よりも、多数の特派員を常駐させている大新聞にプロパガンダの仕組みを速報してもらいたいものだが、音無しの構えに近い。近い、と書いたのは理由がある。
 プリンストンのシンポに中堅記者を派遣していた『朝日新聞』が97年12月26日の紙面に「米総局月月録―不人気だけならよいけれど」というエッセー風署名記事(筆者は岩村立郎アメリカ総局長)で、チャンの本について紹介しているからだ。
 ただし、こんな記事なら書かないほうがマシ、と思わせるレベルの報告である。参考までに一部を引用してみる。

 2年間にわたって、米中日独4カ国の史料を探査し、元日本兵から取材し、生き残った人の話を聞いて、全容を解明しようとした本だ。首切り、性犯罪の記録写真も添えられている・・・・一読して、容易じゃないなあ、と気が重い・・・・重いのは、著者が繰り返し、「虐殺を否定し、歴史をゆがめようとしている日本という国」への怒りをぶつけているからだ。
 「忘れ去られたホロコースト」という副題が示唆的だ。ニューヨーク・タイムズ紙は書評欄で「注目すべき一冊」に挙げた。南京大虐殺を、英語で書いた初めての本、ともいう。米国人が日本を見る目に、「歴史の後始末をしてこなかった国」という見方が、じわり、と広がっていくかも知れない。(強調部分は秦)

 一読して、よくもこれだけ当たりさわりのない作文が書けるもの、と感心してしまうが、逆に言うと、日本がらみの会合をいくつかのぞいたが米人がほとんど来ない状況を延々とレポートした前半部分をふくめ、中味は空虚そのものなのである。
 少なくともチャンの本と、『ニューヨーク・タイムズ』の書評は、「一読」しているようだが、著者の誤った言い分を何の疑問も持たずにサワリ部分をつないで受け売りしているのは、いかがなものか?
 たとえば「虐殺を否定し・・・・・」のくだりは、石原慎太郎や数人の政治家の私的発言をチャンは日本国全体にすりかえているのだが、日本国政府が虐殺を否定した事実はない。少数例外だから話題になったのを日本人記者なら知っているはずだ。
 「忘れられたホロコースト」のくだりも、あくまでチャンの意図的誇張であることは、引用されている多数の公刊文献リストを見ても明らかだ。わが国ではすべての中高校教科書にも出ているし、大虐殺派からマボロシ派まで「南京産業」と呼ばれるほどおびただしい数の本や論文が存在する。そこを指摘しておくのが、ベテラン総局長の役割ではあるまいか。
 長文のタイムズ書評を「注目すべき一冊」だけで片づけたのも、無責任だろう。私は末尾のあたりから拾ってきたのだろうと見当をつけ、原文に当たると「Chang's disturbing book」とある。私なら「お騒がせの本」とでも訳したいが、「注目すべき」とは語感が正反対に近い。
 しめくくりの「歴史の後始末・・・・」は主語の判然としない言い方だが、アメリカ人に持ち出されたら「ごもっともで」と相槌を打ちそうな気配である。「じわり」という副詞の語感が何ともやりきれない。
 前任者なら、そんなときには「それなりの後始末はしてきましたが、まだ足りないと叫ぶ日本人や中国人もいます」と解説するだろうが、この総務局長氏には「ないものねだり」か。
 しかし、岩村レポートの「首切り、性犯罪の記録写真も添えられて」の部分にヒントをもらって、チャンの本に収録された40数枚のグラビア写真を眺め直しているうちに、とんでもないトリック写真ばかりと気づいた点では感謝せねばなるまい。
 歴史家は文書資料やヒアリングには細心の注意を払うものだが、写真はチラと眺める程度、本を書くときには「適当な写真を身つくろってくれ」と編集者に任せる人が少なくない。一般読者のほうも、写真や映像ほど確かな記録はないと信じがちだが、心ある近現代史家は写真ほど危ないものはないと自戒している。キャプションやトリミングでどうにでも料理できるからだ。
 手もとにアラン・ジョベール『歴史写真のトリック―政治権力と情報操作』(朝日新聞社、1989年)という本がある。権力者によって写真がいかに偽造されたか数百枚にのぼる実例を集録し、手口を解説したぜいたくな写真帳で、主役はレーニン、スターリン、ヒトラー、毛沢東など、一番多いのは集合写真から粛清された幹部を消し去るケースだ。
 虐殺シーンの写真で、加害者と被害者が入れかわる二種類の説明文も紹介されているが、「いずれが真実かは永久にわからないだろう」と解説がつく。この種の事例は主として全体主義国家に集中する。訳者の村上光彦氏は「豊富な情報に自由に近づける社会では、苦労して巧妙な偽写真をつくっても検証されてしまう」からだ、と述べているが、アメリカや日本のような自由社会でも偽写真は横行するし、検証してもすぐ次が出てくるという点ではさほど変わらないともいえる。

 「支那女が泣きながら」

写真 (1)
「諸君!」平成10年4月号にて掲載された写真です。

 そこで『レイプ・オブ・ナンキン』の写真を検証してみると、40数枚のうち「首切り」のカテゴリーが7枚、「性犯罪」の関連が4枚である。いずれも、あちこちで見かけるもので専門家には珍しくも何ともないが、初見の人はかなりのインパクトを受けるだろう。
 一応写真の出所は記してあるが、台湾(中国)政府軍事委員会政治部が3枚、新華社通信が4枚、UPI/ベットマンが2枚、アライアンスとフイッチの遺族が各1枚というところで、撮影者の名や日付が記入されているものは1枚もない。つまりクレジットは写真(おそらく複写)の借用先を示すだけで、出所は不明なのである。
 もっとも、昔から出まわっているもので、原写真の出所が突きとめられた事例もある。たとえば生首が10個前後並んでいる写真は(組写真の1つ)は、チャンの本には「南京の犠牲者」と説明してあるが、1930年に中国官憲によって処刑された匪賊の首であることが判明している。
 結論から言えば11枚の写真は「やらせ」「すりかえ」「合成」が多く、1937年の南京周辺と推定出来るものは1枚もないと断言できる。そうはいっても、断言の根拠を知りたいと言う人もいようから、2、3の写真について説明を加えよう。
 写真(1)には、南京陥落直後に数十人の日本兵集団が見守っているなかで、数人の中国兵捕虜が、銃剣で刺殺されているシーンとの説明が付してある。
 チャンの本には「写真の信憑性だが、撮影者は日本兵で、上海の日本人写真屋で現像した際、中国人の助手がひそかに焼き増ししたのを漢口のW・A・ファーマーが入手、米国の『ルック』誌に送ったもの、提供はUPI/ベットマン」と詳しく由来を説明している。
 実は和多進氏が1987年、南京でヒアリングした呉旋から似たような話を聞いた。上海でなく南京の写真屋とのことだが、7枚の写真を終戦直後に国民党政府へ提出、その複製が今も南京の大虐殺記念館に展示していあるという。

写真 (2)−1
写真 (2)−2
「諸君!」平成10年4月号掲載写真 「諸君!」平成10年4月号、掲載写真

 7枚のうち2枚はチャンの本にも集録されているので、同じ話である可能性が高いと思うが、和多田氏は「南京事件の証拠とすることには大きな危険がある」と結論する(洞・藤原・本多編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社、1988年)。
 改めてこの写真を見直すと、見物人の中に上衣を脱いだ白シャツ姿の兵が10人以上はいる。また銃剣をふるっている日本兵の影が短い。真冬の南京でないのは確実で、本物だとしても、季節や場所が違うと断定できそうだ。しかし真偽は別として、迫力に富む構図のせいか、『ニューヨーク・タイムズ』も『ニューズウィーク』も書評にこの写真を添えた。
 次に写真(2)−1は「レイプしたあと被害者とポルノ風記念撮影をする日本兵」(チャン)のキャプション入りで、出所は南京の難民区国際委員会で働いていた米人フィッチの遺族とある。
 この組写真もあちこちで見かけるが、エルビス社の『写真集・南京大虐殺』(1995年)は、これをふくめほとんどが「南京大虐殺記念館提供」と表示している。ところが何枚かの同じ写真を眺めているうちに奇妙な点に気がついた。
 写真(2)−2は、私が台湾で入手してきた『鉄証如山』という写真集に出ていた同じ写真だが、他の版と異なるのは、右方に中国人らしい男が立っていることだ。ついでに中央の兵士をしげしげ眺めると、服装が民間人のジャンパー風で帽子も顔も日本人には見えない。
 ここで思い出したのは、逓信省から派遣され、野戦郵便長として南京戦に従軍した佐々木元勝氏の回想録であった。37年11月22日、司令部で郵便物の検閲に当たっていた憲兵から当時、残虐写真やエロ写真が出まわっていてカツラをかぶってのやらせシーンは内地からの逆輸入説もあり、版元は不明との話を聞いている。
 佐々木はその種の写真を見せてもらい、「支那女が泣きながら立って下半身裸になっているのもある。支那軍か日本軍のどちらが撮ったかわからない」(『野戦郵便旗』1973年、178ページ)と日記に書きとめている。 

 慰安婦連行写真の怪

写真 (3)−1
(アイリス・チャン本)
掲載写真の解説には「The Japanese rounded up thousands of women. Most of them were gang raped or forced into military prostitution(Politburo of Military Committee,Taipei).」とある。
写真 (3)−2
(左のハレーションに注目)
岩波新書、笠原十九司著「南京事件」のキャプションには『日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち。国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』(1938年刊行)所蔵。』とある。
写真 B−3
(アサヒグラフ版)
朝日新聞社発行「支那事変全輯(中)上海戦線」146ページ、キャプションには『硝煙下の桃源境。夕になれば白一面の綿の花畑から嬉々として我が家へ帰る』とある

 佐々木は「憲兵から兵が内地へ送るこの種の写真はすべて焼却処分にしているが、いいのがあったらお取り下さい」と言われているから、問題の写真が(2)とは断定できないにせよ、みやげ用に大量に出まわっていたことらしいこと、適当なキャプションがついていても不思議はないことがわかる。
 だが、写真(3)シリーズともなると、(1)や(2)に比べて一段と悪質の度を増す。幸い手のこんだトリックの過程が明らかになったので、手口分析をやってみよう。まずアイリス・チャン本(A)の写真((3)−1)に付してある説明文は次のとおり。

 「日本軍は何千人もの女性を狩りたてた。大多数が集団レイプされるか、軍用慰安婦にされた(出所は台北の軍事委員会政治部)」
 
 私の知る限りで同じ写真を掲載している文献を列挙しておく。
 B 『鉄証如山』(台北、1982)
 C 『侵華日軍暴行総録』(北京、1995)
 D 笠原十九司『南京事件』(岩波新書、1997)

 説明文の主旨はいずれもAと似たりよったりだが、出所を明示しているのはD(写真(3)−2)だけなので、次にそのキャプションをかかげる。

 「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち。国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』(1938年刊行)所載」(第三章扉)
 どうやらAとDは出所が同じらしいと見当はつくが、疑問に思ったのは写真のトリミングや鮮明度に微妙な格差が生じていることだった。あとで説明する『アサヒグラフ』版の原写真と比較すると、B、Dはトリミングが同じだが、AとCは右端の荷車を引くオバさんをカットしている。鮮明度が全般的に落ちているのは当然だろうが、気になるのは先頭の女児につづく妙齢らしい女性のあたりがDだけハレーションを起こしたようにぼやけている。
 ともあれ、慰安婦の強制連行写真にしては、のんびりとした風情で、赤ん坊を抱いた女性もいれば、子供が少なくとも4人、にこにこ顔の少年も1人見える。兵隊は行軍時と同様に肩に鉄砲をかついでいるが、銃剣はつけていない。
 久しく疑問を抱いていたこの写真が、実は写真週刊誌『アサヒグラフ』の1937年11月10日号に掲載され、翌年3月に朝日新聞社から発売された『支那事変写真全輯−中−上海戦線』にも転職されていることに気がついたのは、今年の1月になってであった。
 問題の写真、「硝煙下の桃源郷−江南の『日の丸部落』」の標題で、熊崎玉樹特派員が撮影した4枚の組写真のうちの1枚である。
 全体の説明文を見ると、日付は10月14日、舞台は上海郊外の宝山県で「我が軍の庇護によって平和に還った2つの部落がある。その1つは『日の丸部落』とといわれる盛家橋部落で・・・・約400名の村民は、我が軍の保護によって敗残支那兵の略奪をまぬがれ、意を安んじて土に親しんでいる桃源郷」とある。
 ここは綿作が盛んで、組写真には日本兵がつきそい老若そろって秋日和のなかで民謡を歌いながら綿をつみ取るシーンも入っている。問題の「連行写真」(写真(3)−3)には我が兵士に護られて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供の群」というキャプションがついていた。
 そう言われて見直すと、先頭の女児も次の姑娘(クーニャン)も、そして兵隊と並んだ少年もニコニコと笑っている。少年の肩にもう1人の兵隊が手をかけている。右端の小肥りのオバさんが引く荷車には、綿が積んであるのも知れる。念のため朝日新聞社のOB会に問い合わせてみたら、このすばらしい構図の写真を残した熊崎カメラマンは3年前に惜しくも80歳で亡くなったことがわかったが、記事の通りにちがいないと私は確信している。
 それにしても、写真のキャプションを正反対に書き換えた犯人は誰なのか。私は熊崎カメラマンに代わって追跡してみようと思いたった。まずはD((3)−2)の写真を使った岩波新書の担当編集者に電話で問い合わせた。やりとりの要旨を次に紹介しよう。

  私が買った新書の写真にハレーションがあるが。
  どの本も同じで、印刷工程上のミスではない。
  何からとったのか。
  著者の笠原氏が中国語の原本からコピーしたものを届けてきたので複写した。キャプションも原本通りだ。
  アサヒグラフに元写真があるのだが――― 
  当社には責任はない。疑問があれば著者に聞け。
  通常は扉写真にコピーから複写した欠陥写真は使わぬと思うが。
  行程上の問題は出版社の自由裁量だ。忙しいから切る(ガチャン)。

 この間の問答は10分たらずと思うが、官僚式受け答えに終始したこの編集者は、アサヒグラフに元写真が――と聞いても何の感心も示さないので私はがっかりした。近所の八百屋でも、この大根の傷は・・・・と聞けばもう少し誠実に答えてくれるのに、編集者のモラルも日本軍同様に頽廃してしまったのかもしれない。  

 もぐら叩きか

 だが、写真にまつわるこの種の不感症的反応は岩波書店だけではない。長崎の原爆資料館や大阪国際平和センター(ピースおおさか)で、南京事件を中心とするニセ写真や偏向ビデオが槍玉にあがっているのに、もぐら叩きのように同種のトラブルが各地の公立博物館で続発するのはなぜか、私は不審に思っていた。
 『産経新聞』(2月6日夕刊)によると、自治体設置の戦争博物館は約20カ所あるが、「設置に当たっては、教科書検定訴訟の家永三郎氏らが呼びかけ人になった『平和博物館を創る会』が深くかかわっていることが分かった」という。つまり運動体、地方政治家、展示業者、偏向教師をつらねたネットワークが成立していて、監視の手薄な公費(つまり税金)を使い教化活動をすすめているのだ。
 約20カ所のなかで、今まで話題にのぼらなかったとはいえ、おそらく最悪の事例は『産経』が「偽写真、やらせビデオ、自虐史観に基づく展示」ぞろいと総括した堺市の平和と人権資料館であろうか。
 よくも臆面もなくこんな館名をつけたものよと感嘆するが、紙数も乏しくなったので、代表的な一例だけを紹介するにとどめる。
 それは、小学校の焼却炉程度のサイズに見える粗末な炉の写真に付けられた説明文で「(この炒人炉)によって焼かれた遺体からとった油が食用として売られた」と読める。有名な平頂山虐殺事件(1932)の遺物で、写真は撫順博物館からの複製パネルらしい。
 炉の真偽はともかく、説明文のバカバカしさに私は失笑してしまった。こんな原始的なミニ焼却炉で人間の死体をむし焼きにしてどのくらいの脂肪がとれるものか、とれたとしても豚油の主産地である撫順地区で誰が食用に買うだろうか。できたとしてもたかが千人前後の材料では、コスト倒れで商売になるはずはあるまい。
 義務教育修了程度の理科知識があれば、成り立たぬ話であることは明白なのに、市の職員も監修者もウノミにして麗々しく展示したのである。
 もっとも、ウソは百の承知のダメモト主義でやっている確信犯の犯行なら話は別だ。公立博物館で偽物のルノアールを買い取ったとか、動物園のツシマヤマネコにイリオモテヤマネコと掲示したら大騒ぎする新聞も、なぜかこの種の写真やビデオには甘い。
 せいぜい水掛け論争風にしか報じないが、この種の自虐的偽展示へ小中学生を狩り出して「刷り込み」教育をやっている連中に、もう少し目を光らせてもらいたいものである。(『諸君!』98年4月号、「写真」批判文のみを抜粋)


チャン氏の著作に“歴史の偽造”

今、全米で話題になっているというアイリス・チャン「南京の強姦−第二次世界大戦の忘れられた大虐殺」を米国から取り寄せ、読んでみた。
 読んでみて多くの疑問を覚えた。ここにその疑問のほんの一端を記したい。
 
 (1) まず、基本的な史実に誤りが実に多い。例えば、昭和12年12月13日の南京陥落が12日夕方の陥落と記されている、などなどである。
 (2) 次に、南京の人口は国際委員会委員長ラーベが記したように、陥落時20万であった。虐殺があったならば、人口が減少するはずだが、翌年1月には25万人に膨張する。
 ところがアイリス・チャン氏はこれを無視して、26万人から35万人が虐殺されたと主張する。数字からしても、おかしい。
 (3) そして「いつ、どこで、だれが写したのか」全く不明の写真が数多く収録されている。その中の1つに戦車が火炎放射器で民家を焼いている写真があり、「虐殺の間、南京の3分の1が放火で破壊された」と写真説明が続く。
 この写真の戦車は調べてみると「97式軽装甲車」と判明した。
 97式軽装甲車は昭和12年(皇紀2597年)に型式が制定されたが、生産開始は早くて翌年以降であった。
 従って、昭和12年、南京に97式軽装甲車があるはずもなく、しかも97式軽装甲車には火炎放射器は装備されていなかった。
南京戦当時は全く使用されていなかった97式軽装甲車 (4) 最後に、日本軍は、捕虜の目玉をえぐり出し、耳と鼻を切り取り、生き埋めにして戦車でひき殺し、虐殺した。また女性を強姦して、被害は2万件に及んだ。その3分の1は天下の公道のど真ん中、公衆の面前で、公然と行われた、と主張されている。
 しかし南京城内は城内の一角の安全地帯がすし詰めで、それ以外は無人であった。南京で犯罪が起きたとすれば人のいた安全地帯で起きたことになる。
 そこで中華民国の国際問題委員会の作成した公式記録「南京安全地帯の記録」を開いてみると、殺人は真偽取り混ぜても25件(被害者51人)で、しかも目撃は2件(すべて合法)であった。
 強姦は未遂を含めても7件であった。
 従って蒋介石は、南京虐殺ではなく広東虐殺なるものを国際連盟に訴えた。毛沢東は南京の日本軍は「包囲は多いが、殲滅(せんめつ)は少ない。まずかった」と講演しているのである。
 チャン氏の言う、強姦2万件、虐殺35万人という記録は当時の記録にはない。これを歴史の偽造というのではないか。(平成10年4月8日『産経新聞』から)


チャン、使用写真のウソ(1) 松尾一郎

写真 1
アイリス・チャン著「ザ・レイプ・オブ・南京」の表紙にも使われている村瀬守保氏撮影の写真。

『南京市民の死体は揚子江岸に引きずられ河に投げ込まれた。(村瀬守保)』 写真1
『 南京の北側の波止場、下関(シャーカン)で処理を待つおびただしい数の死体(村瀬守保)』写真2 

(場所)下関近くの揚子江岸
(撮影時間)特に明記されていない。
(撮影者)故村瀬守保(東京目黒輜重隊)  

 考察  

 この写真は昭和58年(1983)8月16日付けの「毎日新聞」において「南京大虐殺は事実だ/証拠写真を元日本兵が撮影していた」と報道したことにより初めて公表された。 ところが、撮影者・村瀬守保氏(現在は故人)自身は撮影場所を揚子江岸と述べているだけで、どこで撮ったかをあいまいにしている。これらの写真については戦闘後約一週間程度と考えられる。その理由は通常、水死体というのは死体が水を含み、一週間程度で体内に腐乱ガスがたまり、体が風船のように膨らんだのち浮かび上がる。 ところがこの死体はガスが発生した様子は見あたらない。つまり戦闘後数日から一週間以内と言える。(昭和12年12月13日〜20頃までの間と推定できる)

 この写真についてかつて評論した人がいる。昭和12年(1937)南京戦において南京城南方から揚子江岸沿いに進撃し、下関に至るまでの戦闘を経験している鹿児島第45連隊・第11中隊大薗大尉指揮下の元中尉(南京戦時)高橋義彦氏(愛知県在住)である。氏はこの写真を一目見て、 

  「これは新河鎮における戦闘の中国軍兵士の戦死体の写真です」と証言する。 

 高橋氏はこの時の戦闘をこのように証言する。昭和12年12月13日、新河鎮において夜があけたら船にのり、揚子江岸を下り下関に進撃の予定であったが朝6時頃に突然、支那軍による総攻撃を受けた。 「私共は、大砲の弾がある限り零距離射撃を行いま

写真 2
アイリス・チャン著「ザ・レイプ・オブ・南京」に掲載されている村瀬守保氏撮影の写真。解説では『南京の北方の近郊にある下関(シャーカン)の港の波止場で処理を待つ死体の山。(村瀬モリヤサ)』(注:村瀬守保の間違い)

した。1回に100名位の敵兵が空中に吹き飛びますが、敵はここ新河鎮を抜けなければ逃げ道が無いので死にものぐるいでした。朝6時から11時頃まで乱闘となり、道路以外の湿地帯も敵味方の死体で埋め尽くされ、枕木代わりに人体が使われ、死体や負傷者の上での戦闘は地獄そのものでした。勝利を確信したのは、11時頃から敵は裸になって河に飛び込み始めました。それを陸から射撃しました。まるで海水浴場を機関銃で撃つような光景でした。下流を見渡したら、川岸に陸揚げしてあった木材を兵のベルトや馬の鞍の皮などで結んで筏(いかだ)を作り、それに乗って対岸にわたり始めたのです。 我が野戦重砲の15センチ榴弾砲の部隊がその筏(いかだ)を集中砲撃しました。気球を上げて観測しているので百発百中、揚子江は血の河と化し、戦死者や負傷者が視界を埋める水上光景で揚子江は地獄と化しました。」 これら2つの写真について高橋氏はこう述べる。「写真は新河鎮の陸地戦場内のものではない。裸の写真もあるので新河鎮、揚子江上で戦死またはおぼれた者と思われる。死体の方向が一定であり、死体の吹き溜まりと思う。もう一枚の後方に木材が写っている写真は高橋氏が南京での経 験上下関付近か、三叉河と考えられる(材木置き場の景色と写真内容で判断)と述べている。 揚子江に死体が流された可能性が考えられるのは一つは先に述べた、新河鎮であり、もう一つは南京陥落後に行った安全区内での便衣兵の摘発後の処刑である。新河鎮の戦いで河に流れた死体は正規の兵隊のものであるから戦闘服を着ていることは容易に理解できる。だが下関での便衣兵の死体は平服を着ていたが為に国際法違反の罪により処刑された合法行為である。つまり、仮に下関で処刑された便衣兵と仮定したとしても水死体の服装は平服でなければならない。 だが、これらの写真をみると服は戦闘服を着ている、つまり新河鎮の戦闘においての戦死体である。 

 結 論  

 これら写真に写っている死体は間違いなく、南京戦における支那軍正規兵の戦死体である。死体は戦闘服を着ている。つまり、キャプションでは「南京市民」と書かれているが南京戦における正規の戦闘においての戦死体であり、「南京大虐殺」時の南京市民殺害の証拠写真としている「レイプ・オブ・ナンキン」の解説は全くの間違いである。   


チャン、使用写真のウソ2(2)松尾一郎

解説には『日本のメディアは南京の近くで日本軍の殺人競争を熱心に報道した。最も悪名高い例の一つが向井敏明・野田毅という2人の少尉で、この2人はどちらが先に100人を殺せるかを判定するために、それぞれ南京近くで首斬りをやり続けた。「ジャパン・アドバタイザー」は「向井106、野田105.両者とも100人を突破。どちらが先に刀で100人の支那人を殺すかという競争は延長戦へ」という大胆な見出しの下に両人の写真を載せた(「ジャパン・アドバタイザー」)』(注:写真は「東京日々新聞」の記事である) 『日本のメディアによる南京近郊における、日本陸軍の殺人競争(コンテスト)についてむさぼる様に報告した、数多くの悪名高きものの一つ。2人の日本軍中尉、向井敏明と野田毅はどちらが先に南京に至るまでに100人殺すことが出来るか浮かれていた。日本の大胆な広告者の見出しのもとに“2人の兵士が超記録―向井106と野田105人が刀によって100人斬りの競争”と書かれた。(日本の新聞広告)』 

 (場所)常州 
 (撮影時間)昭和12年11月29日(1937年) 
 (撮影者)佐藤振壽(元毎日新聞記者)  

 考察  

 この写真は「南京大虐殺」での当時の兵士が残虐行為を行った根拠としてよく使用されている。この「100人斬り」の記事は3度、東京日々新聞(現毎日新聞)にて報じられた。 第1報(昭和12年11月30日朝刊、「(見出し)百人斬り競争!両大尉、早くも80人」浅海、光本、安田特派員発) 第2報(昭和12年12月6日朝刊、「(見出し)“百人斬り”大接戦 勇壮!野田、向井少尉」句容にて五日浅海、光本両特派員発) 第3報(昭和12年12月13日朝刊、「(見出し)百人斬り“超記録”向井106―105野田 両少尉さらに延長戦」(本文)紫金山麓にて12日浅海、鈴木両特派員発) これら3回の報道の内容は上海から南京までの間に戦闘時に白兵戦において日本刀一本で敵兵を何人斬ったかという事について述べている。つまり兵隊が戦場において戦い、敵兵と勇ましく戦い「100人もの敵兵をやっつけた」という事を述べているだけの内容である。何ら残虐行為とは関係がない。 兵士が戦場において「戦う」という行為は何ら問題はなく正規の戦闘行為である。 しかも、これらの記事には疑問が数多くある。両少尉は白兵戦などは出来ないはずである。野田少尉は大隊副官という任務であり、仮に白兵 戦が起こっている状況下にいたとしても彼は大隊長を助け、その命令を各中隊に伝えるという重要な任務についている。 向井少尉にしても砲兵隊の小隊長である彼は歩兵砲の指揮を行わなければいけない立場である。距離いくら「撃てー」等といった命令を行わなければならないような立場の者がどうやって白兵戦を行ったのであろうか? 通常の戦闘では、敵兵に接近する事はほとんどない。日本刀をふるって中国兵を斬ることができるのは希に白兵戦が起きる時のみであろう。しかも彼ら2人の写真を撮影した佐藤振壽氏も偕行社「南京戦史資料集」の中で「どうやって、中国兵を斬ることができるのか、大きな疑問が残っていた。」と、述べている。 ただ、なぜこのような記事が書かれたのか?それを知る手がかりと言えるものに鈴木明著「南京事件のまぼろし」文藝春秋の中に当時の「南京法廷」において向井少尉の弁護人が提出した上申書が参考となるだろう。 

  (1) 被告向井ノ中支ニ於ケル行動 

 向井は富山部隊の砲兵中隊に所属。丹陽に向かって前進中、12月2日迫撃砲弾によって脚及び右手に盲貫弾片創を受けたため、後続の看護班に収容され、12月15日まで加療した。向井が、富山部隊に担架に乗って帰隊したのは15、6日だが、それからも治療を続けていたので、東京日々新聞にあるように十日紫金山で野田少尉とも新聞記者とも会っているはずがない。 

  (2) 特派員浅海ガ創作記事ヲナシタル端緒(原因)を開明スル処、次ノ如ク解セラル  

 記者は「行軍ばかりで、さっぱり面白い記事がない。特派員の面目がない」とこぼしていた。たまたま向井が「花嫁を世話してくれないか」と冗談を言ったところ、記者は「貴方が天晴れ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集まる」といい、如何にも記者たちが第一線の弾雨下で活躍しているように新聞本社に対して面子を保つために、あの記事は作られたのである。向井は、自分がどんな記事を書かれて勇士に祭り上げられたのかは、全然知らなかったので、半年後にあの記事を見て、大変驚き、且つ恥ずかしかった。浅海記者がこの記事を創作したのは、当時の日本国内の軍国熱を高揚しようとしたためで、また、記者の内容が第一線の白兵戦戦闘中の行動であるから、誰からも文句が来ないと思い書いたものと思われる。 

 中略 
  (4) 犯罪の事実ノ無根ナル証拠、新聞記事ノ事実無根ナル証拠左ノ如シ

 1、向井は白許浦に上陸し、丹陽迄歩いて行き、丹陽から湯水まで担架で運ばれたので、その他の場所へは行ったことがない。
 2、向井は浅海記者と無錫以外で会った事がない
 3、向井は無錫と丹陽の砲撃戦に参加したのみで、他の戦闘には参加してない。
 4、向井は無錫と丹陽で双眼鏡で中国軍を見た以外、翌年1月8日まで、一人の中国人も見ていない。
 5、向井は砲撃の指揮官だったから、第一線の白兵戦に参加しているはずがない。
 6、向井は野田と丹陽で別れて以来12月16日まで会っていない。
 7、記者達は無錫より自動車で行動しているのだから、向井たちを見つけたはずがない。

 結 論

 この「100人斬り」報道は、当時の日本兵は残虐行為を行っていたという根拠としてよく使われる。だが、新聞報道には戦闘行為中に敵兵と戦い銃を使わず「刀で斬った」と述べているだけで正当な戦闘行為を述べているのみである。しかも、この写真撮影を行った佐藤振寿カメラマンは「疑問が残る」と、述べており、しかも彼らの所属部隊の職務を考えても不自然と言わざるを得ない。 極東軍事裁判、南京法廷には先の上申書が提出されたにも関わらず彼らは死刑となった。 それは、当時の単純な報道姿勢による不幸な犠牲としか言いようがない。 この報道写真が「南京事件」における軍記の弛緩とは直接どころか間接的にも関係は全くない。したがってこの報道写真が「南京事件」における虐殺がおこなわれたという証拠には全くならない


チャン、使用写真のウソ(3) 松尾一郎  

解説には『南京では刀による首斬りが盛んであった。カメラが首斬りの瞬間を捕らえている。(新華社通信)』とある。

 『南京では刀による首斬りがもっとも人気があった。これは犠牲者の首が斬られる瞬間をカメラが捕らえたものである。』(新華社通信)
 
 (撮影場所) 不明
 (撮影時間) 不明
 (撮影者)   不明

 考察

 犠牲者とされている男性の服装は中国の一般市民が当時着るような平服ではなく戦闘服である。
 つまり、南京市民という訳では無さそうである。敗残兵、もしくは国際法に乗っ取った処刑とも考えられる。
 詳細は、上の解説のみで分からない。
 見物している日本兵らしき人達の中には色が白いシャツを着ている者もおり、犠牲者の前には青々と茂った雑草が生えている。

12月 1月 2月
気温 4.4C 2.2C 3.9C

 「南京事件」は東京裁判の中で「南京陥落(昭和12年12月13日)から6、7週間の間において行われた・・・・」とある。
当時の南京の温度は詳細には分からないがこれを推察する一つの資料がある。ダイヤモンド社刊『地球の歩き方』95−96年度版の中には左の様な温度条件が書かれてある。以上のように「南京事件」当時、下着のシャツを着て見物を行う等とは常識的に考えられない。

 結 論

 この写真を「南京事件」における残虐行為と言うには少々無理がある。犠牲者は平服でなく、戦闘服であるし、当時の中国兵はゲリラ活動などを行っており日本軍は悩まされた。だが、ゲリラは国際法において交戦資格をもっておらず捕らえられたのち、即時処刑は合法行為である。仮に南京において行われた処刑としてもこの写真撮影時期は間違いなく「南京事件」当時の「冬」とは異なる。
それに、当時の「南京事件」が起こったとされる時期に首を斬った処刑の記録は一切無い。すべて銃殺、又は銃剣による刺殺のみである。結果、この写真は解説にある様な「南京事件」の証拠写真ではない。


偽造のプロだ!アイリス・チャン! 松尾一郎

解説には『12月12日、日本海軍は南京近くの揚子江に浮かぶ米国の砲艦パネイ号を撃沈した。同号は西洋諸国の外交官、ジャーナリスト、実業家、避難民で一杯だった。(国立公文書館)』 中国系アメリカ人、アイリス・チャン著「The Rape of Nanking」には数多くの南京事件当時のモノと勝手に主張している写真が掲載されているがこれはチョットひどいのではなかろうか?右写真の解説にはこう書かれている。
 

 『12月12日、日本海軍は南京近くの揚子江に浮かぶ米砲艦パネイ号を撃沈した。同号は、西洋諸国の外交官、ジャーナリスト、実業家、避難民で一杯だった。(国立公文書館)』

 とのことですが、この写真に写っている写真の軍艦はパネイ号では有りません
真っ赤なニセ写真です。
インチキ写真480枚掲載の本。アイリス・チャンに写真を提供。 アイリス・チャンは同じ中国系アメリカ人の史詠(シ・ヨン)、尹集欽(ジエームズ・ユン)の2人が発刊しているチャンの著書と同名のタイトル本(左の本)。「THE RAPE OF NANKING」という(一見してウソと分かる)インチキ写真480枚掲載の本から転載しています。この本の内容を見たい人は下記へどうそ。

 http://www.bekkoame.or.jp/~ymasaki/03.htm
 
いんちき写真本に掲載されているパネー号のニセ写真。 これらの中にもチャンの写真と全く同じ写真が掲載されてますが、
軍艦全体を写してます。(右2枚目)

 しかも、チャンの本は一見してこの軍艦が判別しづらくするためにわざとぼやかしています。
 これは完全に意図的に行われているとしか言いようがありません。
 
 本当のパネイ号の写真は左下の写真のように煙突が2つですし、まるで遊覧船のような船影をしています。
米砲艦パーネー号の写真(official U.S.Navy photo) この写真はPHP出版「私が見た南京事件」奥宮正武。
22ページに掲載されています。
 一見しただけで全く別の軍艦と分かります。
 
 ところで、アイリス・チャンの写真に使われている軍艦を一体なんだろう?
 と、思われる方も多いのではないでしょうか?
 
 このアイリス・チャンのパネー号とされる写真は実は少数ですが、国民党(蒋介石軍)が保有していた中国海軍の2隻の軽巡洋艦のうちの1隻「寧海」だったのです。
光人社刊「わかりやすい日中戦争」三野正洋227ページ掲載『日本海軍機の攻撃をうけて撃沈された寧海型』右下写真参考)

この右写真が掲載されているのは、
光人社「わかりやすい日中戦争」三野正洋。
227ページに載っています。
 この本の中で、こう書かれています。
 
 「しかしこの2隻(中国軍軽巡洋艦)は、大二次上海事変が勃発した直後の昭和12年9月23日、日本海軍機の攻撃によって揚子江岸で撃沈された。
 沈んだ場所の水深が浅かったので日本海軍はこれを引き揚げ、寧海を五百島(いおじま)、平海を八十島と改名して戦力に加えている。この2隻は日本海軍の輸送・海防艦として活躍したが、いずれも第二次大戦末期、アメリカ軍によって再度撃沈された」

 と、書かれている。ところで、アイリス・チャンの写真と全く同じで鮮明な写真をお見せしましょう。(左下)
インターネット上で公開されている、寧海が撃沈後に対岸から撮影された写真。 
 この写真はインターネット上で鮮明な画像を見る事ができます。
掲載されているHPは下記のアドレスです。
 
 http://www.intacc.ne.jp/HP/atsushin/page09.html

ところで左の写真の横に解説が書かれています。
 
 「我ら爆撃に依り 寧海撃沈の瞬間」
どちらにしろ、アイリス・チャンは明白な、そして確実に歴史の偽造を行ってしまった訳です。いずれこの写真がアイリス・チャンの著作のいいかげんさを証明するでしょうね。(※98年秋に「The Rape of Nanking」がペーパー・バック化した時に写真を反日映画「The Battle of China」の1シーンと差し替えました。)


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