大虐殺派のウソ写真と証言



「虐殺派」が用いるウソ写真の解説

 ホームページ上で、「これが南京大虐殺だ」なんて風に発表している様なのがありますけど、実際には南京大虐殺の証拠写真は1枚もありません。どこから、持ってきたのか解らないけど、厳寒の南京に半袖の夏の戦闘服を着た日本兵が死体の側に立っている変な写真とか、ソ連兵を日本兵だと解説してたり、文化大革命犠牲者の大量の骨の写真や当時の中国やアメリカの抗日、反日映画の1シーンをウソの解説をつけて最もらしくさせているだけです。写真雑誌等見て育った世代には単純なヤラセ写真と言うのは簡単に見抜けるもんです。南京大虐殺を宣伝している年齢は大体40代中頃〜60代の人らしく、当然従軍経験、軍事知識は皆無。だから簡単なヤラセ写真にひっかかる。真実は100年立っても200年立っても真実は真実として評価されます。今の祖父達の世代を何とかして悪者にしたてたいという気持ちは全然分からないけど、そういう親を見て育った子供達はそういう親を尊敬なんてしません。いつか必ず、しっぺ返しをくらうはずです。10年後、今の自分たちがどう評価されるのか見ておくことです。

馬賊(匪賊)の写真

 馬賊(匪賊)とは中国で清の末ごろの満州にはびこって、馬に乗って荒らし回った集団的な盗賊で、大正から昭和初期にかけて、中国の北部は群雄割拠する馬賊の時代であった。関東軍に爆殺された張作霖のように大小馬賊群ににらみを利かし、自ら大元帥と名乗った権力者もいた。当時には女馬賊もいた。当時の支那(中国)では農民が作物が不作の時には馬賊に変身して近隣の村々を襲ったりもしていた事もあった。それら馬賊は近隣の街を夜な夜な襲って金品を強奪し、殺人などを行っていた。(当時の中国の町は安全のため城壁で囲んでいたのはここに理由がある。)満州鉄道も度々襲われた。だが、彼らは捕まるとほとんどの者は現地の警察によって処刑され斬首されたりした。見せしめのため首を切りさらし首にしていた。ここが日本人とは文化が違う事を表すポイントである。(注:日本では斬首、さらし首は江戸時代に廃止している。ましてや昭和初期にこの様な野蛮な行為は一切行ってはいない)「南京」の市民なんて根拠のないウソである。少なくとも「虐殺派」は中国の文化について全く知識がないようだ。以下は全てその写真である。

写真1-1 写真1-2
後ろの城壁に「丹仁」とかかれている。ここは華北の街。捕らえた馬賊を斬首して見せしめとした。 馬賊のさらし首
写真1-3
斬首された馬賊の首。写真上部には「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」と書かれているがほとんどの写真は意図的にトリミングして見せない様にしている。

 上の写真3つは馬賊へのみせしめ(写真1-1)もしくは、当時の馬賊の斬首した首を集めて撮影した(写真1-2)だけの何ら南京とは関係のない写真だが(写真1-2:注 これについては正論98年9月号319ページ参照して下さい)実はこの写真には被写体は一緒だが背景が映っている写真が存在しており、後ろに城壁の一部らしきものが見え、その城壁は明らかに南京とは違う。つまりウソ写真。写真1-3は、昭和59年8月4日の朝日新聞に「日記と写真もあった=南京大虐殺」と題し宮崎の元兵士が日記と共に見つかったと掲載した。しかしこれは佐藤進氏(神奈川県藤沢市在住)が昭和6年10月、朝鮮と中国の国境に位置する会寧にて文房具品兼写真屋にてみやげとして、約10枚買った写真の中に入っており「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」との文字が刷り込まれていた。鉄嶺は満州である。朝日はニセモノであることを認め謝罪した。その後「朝日」は日記を公開したが、古くて破れやすいからとの理由で十数メートル下がらせて見させた。だが、見学者の話では日記には「新かなづかい」で書かれてあったそうである(戦後に書かれたという証拠)。

南京戦における戦死者の死体(当然、戦争なのだ)

 よくぞまぁ、と言いたくなるくらいに「虐殺派」は戦闘で死んだ中国兵の死体をこれが「南京大虐殺だ!」などと臆面もなく発表することか。南京戦については別項にて述べた通りだが、戦闘状況においての戦死体がどうして、ああいうキャプションになるのかお伺いしたい。以下は戦闘後の中国兵の死体であり、日本軍側にも多大なる戦死者、負傷兵がいる訳だ。以下は中国軍の正規戦における死体であり、何ら「南京大虐殺」とは関係がない。ちなみに写真が裁判でも証拠として採用される際には「誰が?どこで?いつ?」は最低条件である。これが満たせない場合は証拠とはならない。常識でしょ。最も写真からそれらが推測される場合は別ですが。

写真2-1 写真2-2 写真2-3
村瀬守保撮影支那軍(国民党・現台湾政府)の遺棄死体をこのまま放置すると腐り、疫病の原因となるので焼却した。下関(シャーカン)付近。 村瀬守保・撮影。揚子江を筏や泳いで渡ろうとした兵士が追激戦での死体(戦死体含む) 南京にある「第屠殺記念館」で売られているパンフレットの表紙。当然、ただの戦死体を写した写真で虐殺とは何ら関係がない。
写真2-4
新河鎮近くの遺棄死体。当然単なる支那軍兵士の戦死体。

 とまあ、こういった写真を4つほど例に説明しよう。
 まず、これらは、全て中国軍兵士らの戦死体である。撮影者も解っており、写真2-1、2-2、2-4の写真撮影者は村瀬守保氏(埼玉県川越市在住)であり。これらの写真は「毎日新聞」が「南京事件」の犠牲者のごとく報道したが実際は只の南京戦での戦死者であったことが第45連隊、高橋義彦元中尉その他の人達の証言で解っている。ちなみにこれら死体には全て戦闘服を着ているので一見して兵士と分かる。大体、「虐殺があった」等と発言した元兵士達は行動を同じくした隊の者に訴えられたりウソを見破られたりしている。写真2-1、2-2、2-4は新河鎮における敵の遺棄死体である。ちなみに2-3は単に死体を集めた場所を撮影。はっきり言って、「南京大虐殺」とは何ら関係ない。(もっと、詳しく知りたい人は「南京事件の総括」 謙光社 田中正明著を見て下さい。) 


反日映画「バトルオブチャイナ」と
「中国之怒吼」

 皆さんは、戦前に反日宣伝ヤラセ映画があったのをご存じでしょうか?
 アメリカは日露戦争を日本が勝利するととたんに「未来の敵は日本だ!」とばかりに日本を仮想敵国として「オレンジ計画」を発動した。
 つまり、日本を最初から攻撃するつもりだったのです。そのため国策ヤラセ映画を作りました。
 それが「バトルオブチャイナ」(フランク・キャプラ監督)です。「中国之怒吼」は「バトルオブチャイナ」を、中国語に翻訳されたモノです。
 内容は、中国が「善」とされ、日本は「悪」と決めつけ一方的な映画ですが、現代のようにメディアが発達していない当時の人々でしたら単純に信じていたのでしょうね。長崎の平和博物館にも飾られていたヤラセ写真はこれらの映画の1シーンのものでした。
 写真3-3以外ははヤラセ写真、もしくは「南京」とは全然無関係な写真です。写真3-2の銃剣がワキにある写真は『「一億人の昭和史」(2)二・二六事件と日中戦争』毎日新聞社の中に掲載されている不許可写真の一枚で「胡山付近」、昭和13年5月10日と受領印があり、便衣兵(ゲリラ)の処刑もしくは中国兵の処刑を撮影した写真。南京事件(昭和12年12月)とは全くもって関係ない。写真3-3の刺殺シーンの見物人の中には白色夏服を着ています。ちょっと隠れてますが夏服を着た人が写っているのですから「南京事件」の有ったと言われている12月から2月上旬は時期として真冬です。南京の平均気温は12月(4.4度)1月(2.2度)2月(3.9度)ダイアモンド社『地球の歩き方−中国−』。
 ついでに、簡単な合成写真と解っている写真も2枚だけ混ぜときましょう。 

写真3-1 写真3-2 写真3-3
出所不明!合成写真。見守る兵士は真冬の服装。ところが埋葬作業者は真夏の服装?これいかに。 昭和13年5月、胡山付近で捕らえられて処刑される便衣兵。 昭和13年夏、南京で撮影された処刑風景。
写真3-4 写真3-5 写真3-6
南京には崖は無い。これはやらせ写真。 中国人による、やらせ写真。 左右の色が違う、合成写真。

写真3-1は「生き埋めの現場」との解説ですが、見守っている日本兵らしき人達の後ろに校舎らしき建物が写っています。南京の中に学校の校舎らしき建物は「安全区」以外ありません。安全区は無用の日本兵は入れませんでしたし、わざわざ入って生き埋めを行う訳がありません。不思議な写真ですね。結論を言うとこれは完全な合成写真です。左側の斬れたところに合成が失敗して出来たところがあります。(兵士は半分の体になってます)この写真ではこれらをトリミングして誤魔化しています。
 写真3-6も合成写真で左右別々に撮られ合成しています。簡単なトリックですよ。だって左右の色が違うでしょ。それを隠すために壁を使っていますけど光はごまかせませんね。
 写真3-5の日本兵らしき者の足はゾウリらしきモノをはいており、その上スボンをはき一人はゲートルを巻いてます。刀は士官のみ持ってます。ゲートルは下士官以下。つまり、中国人が日本兵のふりをしてヤラセ写真ですね。
 写真3-4日本刀を持って死体らしきモノの真ん中に立っている写真ですが、日本兵のうしろは崖となっていますが、南京には崖はありません。虐殺が有った。有ったと宣伝している人達はこんないかがわしい写真を「南京事件」の証拠写真として使用されているのです。


暴走族のウンコ座り!?

写真4-1
支那人、エキストラによるヤラセ写真。

 皆さんは、チョットカッコ付けたい、どうせなら自慢の一つにしたいっていう写真を撮ってみたくなった時ってありませんでしたか?
私も、中坊の時に悪友のお兄さんがバイクの前でグラサン、リーゼント、うんこ座り、女物のスリッパで斜め上をにらんでチーズってチョツトだけ悪ぶった写真を撮りました。後日、友達に見せてもらい「はずかしー」と思いました。これと、同じ事が当時の日本軍内であったんです。
 田舎から召集令状一つで中国へ。何とか、カッコ付けようと探した結果が支那(中国)人や、現地の子供達に頼んでヤラセ撮影。だから、その次の写真が無いんです。
しかもカメラは当時家一軒買えるほど高価でした。現代の私たちには理解できませんが、そういう変な風潮もありました。だから、所々変な箇所があるでしょ?子供を斬るつもりで構えてますけど握り方が剣道ではないでしょ?それに、中国兵が日本兵の軍服を着て、「日本軍はこんなに悪いんだぞー」なんてウソ写真もあります。しかも当時国民党軍の中にはこう言った宣伝を専門に行う部隊も存在していました。日本軍の残虐性を宣伝してウソ写真をばらまく部隊もありました。とにかく見て下さい。

写真4-2 写真4-3 写真4-4 写真4-5
剣道を知っている人なら人目で、おかしいと感じます。 南京戦では海兵は戦ってませんよ。 やらせ写真として有名な写真。ちなみに背景の木が茂っており南京戦当時の真冬ではないです。 日本軍将校ではないし、服装が変だし何で刀で処刑なの?

  まず、写真4-1から。これは中国兵が日本兵の軍服を着て撮った写真です。チョット隠れてますが右側に中国人が写ってます。しかも制服が旧日本軍のモノとは多少違う。写真4-2は子供を斬るシーンですが日本人ではない!との説が有力です。なぜなら「手」の握り方が剣道になっていません。これでは絶対斬れません。しかも日本兵の服装が変です。写真4-3、海軍の海兵ですが、「南京」では海兵は戦っていません。それと、よーく見て下さい首の下に腕がクロスしてありますが実は腕と首の間に体がうっすらとあります。実は現像後、体部分をスミで消しています。中国では腕を隠した写真を見せて簡単なトリミングを行っています。写真4-4は鈴木明著「南京大虐殺のまぼろし」文藝春秋刊でも紹介されていますが、単なる現地の苦力(クーリー)に頼んで記念撮影。右後ろの人はスリッパはいてまして、ヤラセと解っているから笑ってます。後ろのひげの人物は付けひげですね。(笑)写真4-5もヤラセの有名な写真ですね。(笑)だって、次のシーンの写真は無いでしょ!兵隊の服装が南京(昭和12年)当時のモノとも全然違います。


百人斬りの大ウソ

百人斬りを報道した当時の東京日々新聞(現毎日新聞) この写真をご存じですか?
これは上海−南京間での戦闘において敵、中国兵を2人とも日本刀で100人切ったという「東京日々新聞」(現毎日新聞)の報道です。
 この2人はこの報道が決め手となって「東京裁判」で死刑となりました。
 この新聞報道は本当でしょうか?
 実は全くの無実なのです。彼らは白兵戦を刀一本で戦い100人切ったと書かれましたが。彼らは歩兵ではなく、砲兵の指揮官と副官なのです。ですから、当然白兵戦等に参加はしていません。自衛隊で言うと特科です。でも、戦意高揚のため書かれてしまい困っていた上に「東京裁判」(南京法廷)で死刑。ひどいもんです。
 しかも、もし仮にこの記事が全部本当だとしても兵隊が戦争で敵兵と戦うのは正当な行為であって決して虐殺行為でも何でもなく当然の行為です。
 戦後、彼らの娘さん(向井)がこれが証拠だと書いた「洞富雄」に会って「うちのお父さんはそんなことしていません」とつめよったら「誠にすいません」と謝ったという。それに、これが事実だったなら中国兵は刀1本の日本兵にバッタバッタやられるほど腰抜けで、弱い。という証拠だ。これが、イギリス、アメリカあたりだったら怒るよ!「うちはそんなに弱くない」なんてね。友人談「でも、当時の中国ってこれが本当に思えるほど弱かったらしいからね」との事。(笑)HP作者より、『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明著、文藝春秋に詳しく載っています。


支那人漢民族食人習慣カニパリズム

支那人の習慣 身体的な苦痛を与えて殺すやり方は支那人の得意技 太ももの肉が一部取られている。これは支那人が食す為に剥ぎ取った証拠
赤ん坊の目をえぐり取り食す。支那人の食文化これらは何ら南京事件とは関係が無い

 「虐殺派」の人々は中国の文化や習慣について皆無と言っても間違いはない。例えば日本では「大虐殺」と言うが中国では「大屠殺」と言う。なぜか?
 これこそ、日本と中国との文化の違いを端的に物語っている。(それについては「南京事件の総括」謙光社 田中正明著を見てね)
 処刑一つにしてもその国の文化があるのだ。例えば世界広と言えども「腹切り」するのは日本人である。それでは、中国人ではどうか?ここで「通州事件」昭和12年7月29日について述べよう。
 通州の日本人居留民に中国保安隊と暴民が襲いかかり、略奪、暴行のあげく、婦人・子供を含む日本人2百余名が虐殺された事件である。
 事件は真夜中に起きた。中国の保安隊はまず日本の特務機関を襲い、応戦した細木中佐と甲斐少佐を銃殺し、喊声をあげて日本人街になだれ込んだ。日本人住宅を襲い、略奪・暴行をほしいままにして、婦女子を含む260人の日本人を城壁のところに連行し、そこで皆殺しにした。見るも無惨な殺し方であった。街の中央にある日本人旅館近水楼を襲った中国兵は、銃声を放って闖入(ちんにゅう)し、数十人の日本人客や女中を惨殺した。ある者は耳や鼻を削がれ、女性は陰部に丸太を突き刺され、乳房を削がれ、ある者は鉄線で数珠つなぎにされて池に投げ込まれた。中国人の言う「屠城」による「屠殺」そのままであった(「日本人が虐殺された現代史<新人物往来社刊>参照)。と言うのを頭において下の写真を見て欲しい。全て中国人の殺人方法である。 「食人習慣」について述べよう。「有名な『三国志』の中で、曹操に敗れ、味方にはぐれた玄徳をかくまった若い主人が、新妻を殺して『狼の肉です、召し上がって下さい』と言って歓待し、玄徳は知らずにこれを食べたが、翌朝別れを告げ発つとき妻がいないことに気づき台所へ行くと妻の死体が横たわっていた。『ああ、これほどまでに我を大切にしてくれたか、ありがたい。』という話がある。このくだりは、三国志の中で最高の美談として中国人が愛読し、語り継いでいる。しかも、昔の中国の城は都市そのものだったから、強敵が攻めてきたときは、軍隊も市民もすべて籠城する。そして、戦争が長引き食糧が無くなると軍隊が市民を食べ始める。あの、孔子でさえ、人肉の醢(シシビシオ、ただの塩ずけでなく、干して麹を混ぜ上 等の酒に漬けて密封して100日で出来上がり)が好物だったことはあまりにも有名。とても、日本人の想像の及ぶ所ではない。(「体験的慰安婦の生態」全貌社 鈴木博雄著より)下段2枚の写真はあるHPでは「おつまみとして食べた」なんて解説している。(「食人習慣」は文化大革命時の内容を書いた本にも当時の中国人の「食人」をどうやったか度々良く出てくる。)
 いかにも、日本兵がやったように錯覚しそうな表現を用いているが以下は全て中国人によるものである。ついでにこういったニセモノ写真を用いようとする「虐殺派」の中心人物達の本、「南京大虐殺の現場へ」という「洞富雄、藤原彰、本多勝一」著がありそれら写真について述べている。本著221ページ掲載の呉氏が拾ったという写真7枚について述べると、「呉さんが断定した7点の写真は即「南京事件の証拠」とすることには大きな危険があると言わざるを得ない」と言ったのち、「南京事件の写真であるかどうか「不明」ということが南京事件の写真でないということにはならない、だから南京事件の写真だと言ってもさしつかえないとする論法もなくはないらしい」との事。つまり、「虐殺派」でさえも写真を証拠として用いることはヤバイが使ってもいいじゃない。と言いたいらしい。以前Nと言うのが「洞富雄等の本を読む義務があなたにはある」と言ったのでほとんどの本を買ったり読んだが、よく「虐殺派」はこれらで「南京事件はあった」と言い切れるもんだ。いや、感心するね。たしかに、「南京大虐 殺」について全く知識のない者にとっては信じやすいと思うが、われわれ「研究者」にとって「バカにするな」と言いたくなるような資料ばかりだ。
 先日「南京の真実」講談社が出版されたが、その本の中にも「20万の非戦闘員」(63ページ)と南京の人口を書いているし、虐殺数は「およそ5〜6万とみています」(317ページ)と書いている。どこかのHPでは「34万虐殺」とか言いながら「南京の真実」が証明だなんてはっきり言って矛盾している訳だ。「虐殺派」はとにかく矛盾していようが何だろうがとにかく「虐殺」はあったと証明出来そうなものは何でも宣伝し、「無かった証拠」は無視し、黙殺する。「ビデオ(平成7年に発見された当時の南京城のドキュメント)」が良い証拠だ。以前、田中正明氏が一橋大学に招待されたとき藤原彰は逃げた。笠原十九司藤岡信勝教授との討論日に逃げた。なぜか?実は以前田中先生と奴らの大ボスである洞富雄が直接討論した時に洞(「ほら」と読 む)がこてんぱんにやられたのを見ていた訳だ。だから「虐殺派」は絶対直接討論はやらない。しかも、全然論理的に証明はしない(そりや、そうだ。無かったモノをあったと言っている訳だから)。


ウソつき証言者(ウソだらけの証拠と証言者たち)

マギー牧師の“南京虐殺”フィルム

 大半は病院の風景。 東京裁判、証拠として提出されず。
国民新聞Tel・03-3311-1683、マギー牧師の「南京虐殺」フィルムは大半は病院の風景!東京裁判で証拠として提出されず、53年前「LIFE」誌に掲載されていた! 今月4日、「幻のフィルム、米で発見」という見出しで、大々的に報道されたジョン・マギー牧師の“南京虐殺”を撮った16ミリフィルムは、実は1938年5月16日付けの『LIFE』誌ですでに公表されていたことが、7月9日、東京・丸の内の日本倶楽部で行った本紙座談会(2面で詳報)の中で明らかになった。また『LIFE』に掲載されていた10枚の写真の大半は中国人が病院で治療を受けている写真で“大虐殺”を裏付けるものは何もなく、さらに撮影したマギー牧師は、東京裁判で証言台に立っているが、同フィルムは証拠としてすら提出されておらず、今回の“幻のフィルム”騒ぎはマスコミの一方的な早とちりの疑いが深まっている。
 マギー牧師(米聖公会)は、当時、南京国際赤十字委員会委員長として、日本軍の南京入城後も同市内にとどまった数少ない外国人とされている。
 今回発見されたのは、マギー牧師の同僚ジョージ・フィッチ牧師(長老派教会)が事件直後にキリスト教青年会(YMCA)の宣教用に編集した映画で、30分間のフィルムのうち後半の約10分がマギー牧師の撮ったフィルムと確認された、という。
 このフィルムに対して藤原彰・元一橋大学教授は「虐殺の事実を裏付けるのに、これだけでも十分」(ニューヨーク3日共同)と手放しの評価を与えている。
 ところが、同フィルムの1部は、「幻」どころか、1938年5月16日号の米誌『LIFE』ですでに紹介されていた。しかもその大半は病院で治療を受ける中国人の姿で、戦争の一場面を示す当時どこにでもある写真であった。
 また、マギー牧師は、極東軍事裁判(東京裁判)の際、連合国側の証人として出廷。2日間にわたって日本軍の中国戦(特に南京事件)について陳述したが、同牧師が直接体験した殺人場面は逃亡する中国人を射殺する1件だけで、その他の証言は、すべて人から伝え聞いた話であった。
 さらに、今回のフィルムの確認の決め手となったと報道されたドイツの外交文書「ローゼン報告」は、日本兵が南京に入城した1週間も前に上海に脱出したローゼン政務書記官(ドイツ大使館南京駐在)がまとめたもの。そのため同書記官の「3万人の死体を見た」という証言は根も葉もないことで、こうした虚構がひとり歩きしている。
 (以上は右、国民新聞の内容。) 


南京事件またニセ写真

平成7年(1995)3月5日、産経新聞掲載。平成6年5月20日付「河北新報」夕刊に掲載された「南京事件」のカット写真の兵士の軍服が当時と違う「日本兵でない?」指摘も 平成7年3月5日、産経新聞より。東北地方のプロック紙「河北新報」の昨年5月20日付夕刊に掲載された中国政府提供の南京事件(南京大虐殺)の写真について、仙台市在住の旧軍人から「日本兵の軍服が当時(昭和12年12月)と異なる。南京事件とは無関係」という指摘が11日までに、産経新聞に寄せられた。専門家によれば、「日本兵ではない」との分析もあり、誤用は間違いなさそうだ。
 問題の写真は、永野茂元法相が「南京大虐殺はでっちあげ」という趣旨の発言で法相を辞任した事件を題材にした特集記事「『戦争責任』問題を考える」のカット写真として掲載された。折り重なる死体を兵士が悠然と見下している構図で、写真説明には「中国政府が提供した『南京大虐殺の際、日本軍に殺害された中国民衆』とする写真=中国通信」とある。
 この写真について「南京事件とは無関係」と指摘したのは仙台市青葉区新坂町の無職、庄司鋭男さん(73)。昭和16年に陸軍士官学校を卒業、主に南方を転戦し、大尉で終戦を迎えた。庄司さんは写真の兵士の軍服を見て、「襟の形と階級章の位置がおかしい。これは改正後の軍服だ」と直感したという。庄司さんによると、陸軍は13年6月1日付の改正令で@「詰襟」を廃止し、開襟にもなる「立折襟」に改めるA肩の階級章を襟に移す―などの軍装改正を実施した=イラスト(小さくてゴメン)。写真はやや不鮮明だが、兵士は「立折襟」を開襟にしているように見え、襟には階級章らしいものも見える。庄司さんは「旧軍人が見れば、これ(写真の兵士の軍服)は改正後の軍服だとすぐに分かる。南京事件は昭和12年12月にあったとされている。13年以降の軍服を日本兵が南京事件当時に着ているはずがない」と指摘する。防衛庁防衛研究室では、「新しい軍服が中国の前線までいきわたったのは13年の後半以降だろう」(原剛・図書館史料専門官)という。
 旧日本軍の軍装などに詳しい拓殖大学海外事情研究所の伊達宗義教授は「襟がベルトにかぶさっていることから、折襟の軍服を着ていることは明らか。庄司さんの言うとおり、昭和12年の時点で折襟の軍服を着ているのは不自然」と分析、さらに「写真の兵士が日本兵とも断定できない」と指摘する。
 その理由として、(1)一般に、旧日本軍で高価な長靴をはくのは将校か憲兵で、歩兵はゲートル(巻き脚絆)をつけている。将校は軍刀もさげている。写真の兵士は長靴をはいているが、軍刀が見当たらない(2)写真は左肩から右腰にかけてベルトをしているが、普通、日本兵はベルトをしない(3)日本軍も、左腰につるす軍刀、銃剣をつり上げるため、まれにベルトをすることはあったが、その場合、写真と逆向きになる―などを挙げる。伊達教授は「中国兵は拳銃をつるすため、写真と同じ向きにベルトをすることが多かったと記憶している。鉄カブトが、日本のものに比べ湾曲しており、やや小ぶりのようだ」とも付け加えた。
 渡辺英亮・河北新報社広報局長の話「写真は東京新聞から配信され、間違いないと思って掲載したが、指摘があれば、慎重に調べてみたい」
 “ニセ物”の独り歩き問題に
 南京事件をめぐっては、これまでも信憑性の疑わしい写真の独り歩きや写真説明の改ざんがしばしば問題になっている。例えば、日本兵が乳母車に荷物をのせて南京城内を行く写真が左翼系の文献には「略奪物資を運ぶ日本兵」という趣旨の説明をつけて使われているが、実際に写真をとった元新聞社カメラマンの指摘で、単に疲れた日本兵が荷物を乳母車で運んでいる写真と分かった。
 昭和59年、人間の生首が並んだ写真が「南京大虐殺」の写真として全国紙に掲載されたが、中国文献(日本侵華図片史料集)では、場所が南京とは異なる会寧(中国東北部)であった。同じころ、死体が折り重なった写真が「南京大虐殺」の写真として週刊誌に載ったが、実は重慶の空襲下の写真だった。今回、庄司さんが指摘した写真も「侵華日軍南京大屠殺暴行照片集」「日本侵略軍在中国的暴行」などの中国文献だけでなく、日本の左翼系の文献にも転載され、独り歩きしている。(HP制作者より、誰がどう見たってソ連兵にしか見えません。どこかのHPでは平然とウソ写真を載せている)


「南京事件の真相」より「南京事件資料」について

 南京事件の研究書を見ていて不思議にたえないモノが1つある。資料批判が全くなされていないのである。その資料批判をうんぬんする前に、昭和7年に初版が出た内藤智秀『史学概論』(昭和36年第4版、福村書店)を紹介する。資料の等級化に言及する必要があろう。
 坪井九馬三博士(安政5年〜昭和11年)と言えば我が国における歴史研究方法の基礎を築いた歴史学者であった。坪井九馬三が創唱し広く人口に膾炙(かいしゃ)されている分類法は、価値判断の上からして、資料を6等級に分類する。内藤智秀『史学概論』の紹介するところによれば、一等資料(史料)とは、ある史実が生じた時に、その生じた場所で、責任者の作成した記録類、たとえば日記、書簡、覚え書き、記録映画等を言う。「南京事件」関係では、中島師団長の「陣中日記」や、南京安全区国際委員会の抗議文書その他が、この一等資料(史料)に当たる。これに対し、南京にいながらも「南京事件」とは少し異なる時期に書かれた記録や、「南京事件」が生じた時期に南京から少し離れた場所で記録された記録、あるいは後日当事者が暇を得て記した文書類などは二等資料(史料)と呼ばれる。要するに記録された時期は同じでもチョットでも記録時の場所が違ったり、場所は同じでも時間がチョットでも違ったりすると、責任者の記録も一等資料(史料)とはならない。南京大学スマイス(スミス)教授の行っ た調査記録「南京の戦争被害 1937年12月−1938年3月」や各種の戦闘詳報などはこの二等資料(史料)に相当する。
 そしてこれらの一等資料ないしは二等資料を素材として作成されたものが三等資料(史料)である。ティンパーリー編『シナにおける日本軍の恐怖』や、阿羅健一『聞き書き南京事件』(図書出版)、China Year Book1938やChina Journal等の年鑑もしくは雑誌類などが、これに相当する。なお南京の外国人特派員の書き送った新聞記事は、その内容に応じて、一級資料ともなれば、三等資料ともなる。以上の一等二等三等資料を総称して「根本資料」と言う。
 その他「作者も製作年代も、また製作場所も判明しない場合」(『史学概論』112ページ)は四等資料(史料)と位置づけられる。世に南京大虐殺の写真と称される殆どの写真が四等資料なのである。「撰者または著者がいかなる資料を手にしたか、いかなる方針で調査、又は審査したか不明なるもの」(同前)は五等資料(史料)となる。戦後南京大虐殺30万人説を創唱した中華民国側の東京裁判提出資料は五等資料なのである。従ってその真偽に関する資料批判が不可欠となってくる。
 なお、以上の四等五等資料を「参考資料」と言う。それ以外の資料を六等資料と言う。
 一等資料だから三等資料よりも優位にあるとは必ずしも言えない。しかしある出来事を論ずる時は必ず一等資料を必要とする。それは最も身近な私たち一人一人の自分史を考えてみればすぐ分かることであろう。
 たとえば今から数年前に参院選に学歴を偽って当選した新間正次元議員(民社党)は格好の実例を提供する。M大学中退と公表された氏の履歴(パーソナルヒストリィ)は、氏の提出した私的な記録によって裏付けられるのではない。その入学という史実が生じた時に、その生じた場所(M大学)で作成された公的な入学記録なのである。氏の学歴が詐称であるかを決定するものは、一等資料の、氏が確かに入学したという当時の公的記録にほかならない。同じように、南京事件に関して言えば、日本軍占領下の南京で確かに虐殺事件があったと言うためには、南京虐殺が起きたと言われる時期に、確かに起きたと言える当時の公的な記録 officialdocumentsを要する。一等資料のなかに、それが有るのか無いのか。戦闘詳報は虐殺詳報ではないのである。仮に戦闘詳報から何百人かの虐殺を帰納的に推定するにしても、その推定を裏付ける一等資料があるのであろうか?
 さて、資料には「多数の偽作物(ヤラセ、ニセモノ)」がある。歴史の研究に際しては資料の真偽の批判が不可欠となってくる。資料は、「その同一事件、同一時代、同一人物としてはあまりに突飛で信用できないような点がないかどうか、時間的にも、地域的にも、不合理の点がないか?」(同116ページ)を見極めなくてはならない。「時代的に見ても、場合からしても、又、その事柄においても矛盾のない」(同書)ことを確定しなくてはならない。南京事件に即して言えば、南京事件が生じたとされる時期に南京で記された記録と比較して、当該資料が矛盾がしていないかどうかを見ると、それが「ニセモノの場合は、傍系的内容において暴露される」(同書)ことになるのである。


秦郁彦氏への忠告「ザンゲ屋・曽根一夫」への信仰
板倉由明

 一見本筋の論争ではないように見えるが、視点を変えると重要な問題になる場合がある。「南京事件」でいえば、中国の虐殺宣伝に有力な武器を与えているのが、一連の曽根一夫著作であり、秦郁彦氏の強力な推薦である。 

渡部−秦論争のあらまし

 『新潮45』10月号に、秦氏が書いた「借用の人・渡部昇一の厚顔」のそもそもの経緯は、秦氏が渡辺氏の『ドイツ参謀本部』を「大幅無断借用」の本と断定した(初出『正論』平成元年2月号、再出『昭和史の謎を追う』「論争史から見た南京事件」文芸春秋、平成5年)ことに端を発している。これに遅まきながら気がついた渡部氏が『正論』本年3月号に「専門家の仕事を見かねる素人の立場について−秦郁彦氏に与う」を書き、それに対する秦氏の再反論である。筆者には渡部対秦論争に介入する資格はないが、この論争で脇役を務める「曽根一夫論」(他に中村粲氏との「乃木虐殺論争」)については、秦氏から筆者が名指しで批判されており、中国では「大虐殺」の重要資料となっていることもあるので、無視できなくなる。以下【 】内は秦氏の文章又は要約である。

曽根一夫を信ずるもの

 曽根一夫氏は、昭和59年に『私記・南京虐殺』、続いて『続私記・南京虐殺』、『南京虐殺と戦争』』と、連続3部の日本軍残虐告発本を出版している。この曽根氏を最初に絶賛したのが秦氏で、『諸君!』84年10月号「松井大将は泣いたか」の中で、曽根氏を静岡連隊の分隊長・軍曹と紹介し【略奪、強姦、殺人を含む自身の残虐行為を率直すぎるほどの姿勢で語ると共に、そこに至る兵士達の心情を冷静に記録している点で、類書にない特色を持つ】と高く評価している。この所属連隊について秦氏は、「新潮45論文」では【豊橋歩兵18連隊】と書いているが、この豊橋連隊は、筆者が曽根氏の出身地(御前崎)から「大井川以西は豊橋部隊」と調べての話である。結論としては、秦氏はこの所属連隊の誤りだけを認めて著書を修正し、肝心の曽根氏の体験談?は【削除する必要は認めない】と曽根支持の主張を繰り返している。ここで「繰り返して」と書くのは、初出、再出のいずれも、出版直後に『正論』編集部、文芸春秋に抗議の手紙を出し、秦氏本人とも話した(特に平成5年末には強く)が、常に修正を拒否されているからである。
 曽根著書については、筆者が『諸君!』1988年12月号に「『南京虐殺』のザンゲ屋、『曽根一夫』の正体」と題して、徹底的に論破してある。その結果、藤原彰氏は岩波ブックレット『南京大虐殺』の新版から削除する旨をT・M氏を介して返答している。また平成5年の一橋出版『世界史B』に、『私記・南京虐殺』からの「軍命令による略奪」部分が引用されたことに対し、出版社、著者に抗議すると共に、『諸君!』94年2月号に「世界史教科書に出現した曽根一夫氏の亡霊」という小文を掲載した。その効果があったのか該当部分は削除されたが、これは「大虐殺派」学者でも、曽根著作を信じて頑張る者はいなくなった、ということである。
 日本で曽根著作を今でも支持する“学者”は千葉大学教授・秦郁彦氏のみである。しかし中国では、曽根著作はまだ東史郎日記(虚偽記載による名誉毀損が東京地裁で認められ、高裁での控訴審が進行中)と並んで、「南京大屠殺」の有力な資料として使われている(『悲憤・血涙』1988年・吉林人民出版社など)。中国が「南京大屠殺」の資料として、日本軍兵士の著作を使う際に、日本の学者の保証は極めて有効なことであろう。

秦氏の誤りとごまかし

 少ない紙数なので大所だけ指摘しよう。
(1)秦氏が豊橋連隊の戦友会に問い合わせて書いたというのは前述のようにウソである。藤原彰氏は秦氏の著作からそのまま引用したから「静岡連隊」と書いている。
(2)さらに、所属連隊さえ修正すればそれで済む問題ではない。曽根氏は、歩兵の分隊長・軍曹だと書いて、その身分だから出来たことを記しているが、本当は、野砲兵第3連隊の初年兵で、砲車を曳く馬の馭者(ぎょしゃ)であった。部下(初年兵に部下はいない)を指揮して集落を包囲し、放火して逃げてくる住民を機関銃(砲兵は持っていない)で射殺するとか、監視司令になって部下の虐殺を見る、あるいは伍長を怒鳴りつける、などは初年兵には出来ないことである。
(3)秦氏は、曽根氏の部下が徴発先で若い中国女性を輪姦した後、【若い兵から「分サン(分隊長のこと)の男はよう立たんのか」と軽蔑され、にわかに反発心がおきて最初の強姦をやってのけた、というたぐいの迫力ある体験談がいくつも並んでいる】とやたらに感心して何度も引用している。秦氏の目は節穴か。こういう時、分隊長には先ず「分隊長殿お初をどうぞ」と言うもので、そうしなかったら、ハリ倒してやるくらいの迫力がなければ部下にナメられてしまう。こんなウソが見抜けないのでは困る。
(4)ところが、秦氏は次のように、歴史家として正気を疑わせるような主張をする。【曽根はこうした諸悪行の正確な日時や場所を記している訳では無いのに、板倉が所属部隊の戦闘日記などから初年兵は多忙でそんなことをする暇はなかったはずだ式に論じているからだ。】馭者は行軍中馬にまたがって手綱を握っているのが仕事である。初年兵は馬の手入れから吉兵の世話まで一切せねばならないから、筆者は連日8時間以上の強行軍の中で、昼間(戦場の夜は危険)女を犯しに出かける余裕など無いはず、と書いたのである。食糧が間に合っていたことは、同時に行軍していた師団衛生隊主計の日記で明らかにしてある。行動については、第1大隊戦闘詳報と第4中隊陣中日誌などを中心に推定した。
(5)【考えてみると、真偽のほどはともかく、本人が「悪いことをしました」と告白しているのに、当時まだ生まれていず、中国の土を踏んだこともない「南京事件研究家」が事件から50年後に「悪いことはしていなかったハズだ」とたたく風景ほど珍妙なものは他にあるまい】秦氏は吉田清治の従軍慰安婦強制連行をウソだと断定したが、考えてみると、本人がやりました、と告白しているのに、慰安婦を買ったこともない現代史研究家が「やってない」とたたく風景も珍妙なものではないか。CDにおける秦氏の論理は、「本人の告白」を「資料」より重視する、実証史学の否定である。このような基本姿勢の“学者”には、歴史家としての資格がない、と言われても仕方がないのではないか?なお、筆者は秦氏と同年で南京陥落の時5才であった。
(6)秦氏は、曽根著を【戦闘経過の部分には一切使わず、本人が追撃戦の途中で姑娘をレイプしたシーンと、その種の非行に至った戦場心理の部分だけを、他の参戦者からも傍証をとって使った】と主張している。
 待てよ、秦氏は曽根氏を静岡連隊と記している。では本人(曽根氏)のレイプを証言したのは誰か?まさか静岡連隊の「戦友」が野砲3連隊まで曽根氏のレイプ見物に来る訳がない。秦氏は4年後まで曽根氏が野砲3連隊とは全く知らなかったのだから、野砲3連隊関係の戦友を調査できるはずがなく、結局傍証などないのである。このような見え透いた嘘をついては恥になるばかりである。

秦氏への3回目の忠告

 秦氏は、結局曽根氏の「告白」を真実として、【削除する必要は認めない】と居直っている。以下は公刊物発表としては3回目の忠告(同文)で、何度も言うつもりである。「この考え方は、数学で言えば、式はデダラメ、計算も間違っているが、答えだけは正しい、と言うのに等しい。しかし『学問』なら、正しい式、正しい計算で出した正しい答えを採用すべきで、仮に、たまたま答えが合致したとしても、このようなウソにウソを重ねた体験談を学説に採用すべきではない」
 曽根支持と擁護の強弁は、学者としての秦氏の生涯に、汚点として残るであろう。この他にも中央新書『南京事件』には、「近代戦史に珍しい慰安婦随伴の日本軍」とか、「日本軍は悪名高い『三光作戦』・・・・」とか「松井大将は泣いた」など訂正していただきたい記述が多い。(月曜評論、平成9年10月5日より)


「東史郎の日記」と「長崎原爆資料館」のニセモノ

田中正明(念法時報より)

サンケイ新聞 平成8年4月26日夕刊より

産経新聞夕刊・(?年)5月30日掲載。長崎原爆資料館に展示していた・南京事件の写真、やはり「やらせ」!弾帯、背のう、軍服、かぶと…兵士の服装に矛盾、伊達宗義拓大客員教授指摘。 「客観的証拠無い」、東京地裁判決、原告の元兵士勝訴。南京虐殺、旧日本軍が中国人捕虜や市民を虐殺したとされる南京事件に関する「南京事件京都師団関係資料集」など三冊の本で「虐殺者」の一人のように書かれ、名誉を傷つけられたとして、元従軍兵士、橋本光治氏(80)が、出版元の青木書店と橋本氏の元部下で著者の東史郎氏(83)とジャーナリストの下里正樹氏(59)の二人を相手取り、200万円の損害賠償と謝罪広告掲載を求めた訴訟の判決が26日午前、東京地裁で言い渡された。
 江見弘武裁判長は「残虐行為を裏付ける客観的証拠はなく、描写を真実と信じる理由もない」などと述べ、三冊のうち実名、階級、年齢などが具体的に記されている「資料集」一冊について名誉毀損を認め、東、下里氏らに50万円の支払いを命じた。
 問題の書籍は「資料集」のほか、東氏の「わが南京プラトーン」と東氏の日記などをもとに書かれた下里氏の「隠された連隊史」。「西本」という仮名や「橋本」の実名で、「中国人を袋の中に入れ、ガソリンをかけて火を付け、手榴弾を袋のひもに結びつけて沼の中に放り込んだ」などと書かれている。江見裁判長は「やけどや手榴弾の爆発によるけがを負わずにどう実行したのかという点で、合理的説明がない限り描写は不自然」とした上で、「東氏がこうした点で具体的な供述ができず、当時の同氏の日記にも記載がない。残虐行為を裏付ける客観的証拠もなく、真実とは認めるに足りない」と結論付けた。南京事件に関する論争については、江見裁判長は判断を避けた。(ありもしない虐殺を立証できるはずなく、裁判では妥当な判決が下された。産経新聞H8.4.26夕刊)

大虐殺の写真などどこにもない

 いわゆる「南京大虐殺」なるものは、デッチあげであり、作り話であるという証拠がこのところ相次いで2つ出てきた。1つは長崎原爆資料館が展示した「虐殺直前、日本軍に連行された中国の人々)の写真は結局、戦争中の反日宣伝映画のひとコマだったことが確認されたついに長崎市までがそれを認めたことだ。問題の映像を『日本を守る長崎県民会議』が追跡調査したところ戦時中の、昭和19年(1944年)、米国でも上映されたことが判った。題名は「ザ・バトル・オブ・チャイナ」(フランク・キャプラ監督)である。この監督は第二次世界大戦中に応召して陸軍映画班に所属し、国策に沿ったドキュメンタリーや宣伝映画を手がけている。この『日中戦争』もその一つである。第二次世界大戦中、蒋介石の国民政府とそれを支援するアメリカとが共同して、反日宣伝のため「やらせ」を交えてのフィクション映画を作った。このフィルムがそれなのである。実は、この映画は昭和58年に上映された記録映画「東京裁判」(小林正樹監督)の中で、南京大虐殺の場面を放映し画面の片隅に「中国の怒吼より」と字幕を入れたが、この映画も、前記のアメリカ製の「やらせ」映画であることがわ かった。私は当時、小林監督に面接して「中国の怒吼」フィルムの入手の経緯について追求したことがある。小林氏は文京区小石川の林泉寺住職江田和雄氏とドキュメンタリー作家井上勝太郎氏が台湾からもたらしたフィルムだと言う。私はさらに江田氏に面接して尋ねた。江田氏はこのフィルムを入手するため、台湾に9回も足を運んだと言う。つまり台湾の中華民国政府は対日感情をおもんばかり、この出来の悪いやらせフィルムを容易に手渡そうとしなかった。ついには著名人の紹介状を持って何応欽将軍にも会ったが、中国側にはフィルムや写真はおろか大虐殺を証明するような資料は何もないことが判ったという。それもそのハズである。昭和12年12月13日、南京陥落と同時に入城した日本の新聞雑誌記者・カメラマン約150名(外人記者5名を含む)の誰一人として大虐殺の場面はもとより死体の山も血の河も撮ったものはいないのである。南京虐殺記念館に飾られている写真はそのほとんどがヤラセであり、戦死体であり、ちがう戦場の写真などの寄せ集めなのである。
 南京城内外の戦場を自由に視察することを許されていたマギー牧師のフィルムの大部分は、戦傷者が治療を受けている場面で、大虐殺を思わせるものは何一つ無いことを見てもわかろう。
 話を長崎の原爆資料館に戻す。一体、原爆と南京事件や「パターン死の行進」がどういう関係があると言うのか?平和団体と称する原水禁や社共両党の市議が「加害者・日本」の写真も展示すべしと強く主張した。これに対し自民党議員団や良識ある市民の反対があり、二転三転した。結局、長崎市は中国共産党の圧力に屈して、中国総領事館の言いなりに従って、前述の写真を掲載したと言うのだ。「今度の出来事で同市と同館が犯した罪は決して軽くない」と産経抄は次のごとく言う。
 《日本の近現代史を暗黒一色にぬりつぶす侵略史観に汚染されて歴代首相も反省につぐ反省と、謝罪につぐ謝罪を繰り返した。歴史認識を改めよと強要されれば、へへーっとはいつくばって恥じることがない。何と情けない民族に成り下がってしまったものだろう。◆「原爆」と関係もない「南京」の資料を要求されれば、これもまたヘナヘナと屈して外圧のいいなりになる。長いものには巻かれろの事なかれ主義で、だれも責任をとろうともしない。だれもが日本人としての誇りを持とうとしない時代になったらしい》(4・24)
「武士道」も「大和魂」も「恥の文化」もこの50年の間に跡形もなく消えてしまったのである。日本人の誇りや名誉は一体どこへ行ってしまったのか?こんなふぬけな民族は世界中から蔑視されるのは当然である。全く情けない国家に成り下がったものである。

『東日記』は虐殺派の作り話

 南京事件に関する今一つのニュースは、さる4月26日、東京地裁において江見弘武裁判長は、南京大虐殺を記述した3冊の本の中にある、中国人を残虐な方法で殺害したという「虐殺遊び」は全くのウソの記述であるとして、「虐殺者」の一人のように書かれた元従軍兵士の名誉毀損は成立する、著者と出版社に損害賠償金50万円を支払え、と命ずる判決を下したことである。
 被告の執筆者東史郎は、京都第16師団歩兵第20連隊(福知山連隊)の原告橋本光治小隊長の部下の上等兵である。東史郎は帰還してから3〜4年後、回想記を書きこれを『東日記』と称してあたかも戦場でのごとくみせかけ『わが南京プラトーン』と題する本を書いた。その内容たるやあることないこと日本軍隊の残虐無法ぶりを書き殴った本で、これが大虐殺派の反日学者や評論家・一部マスコミにもてはやされた。被告下里正樹は元共産党機関紙「赤旗」の編集員で前記『東日記』等を土台にして『隠された連隊史』および『南京事件京都師団関係資料集』と題する本を執筆編集した。被告青木書店は左翼の出版物を専門とする出版社で、前記の3冊の本を出版した。原告の橋本光治伍長はこれらの3被告に対して名誉毀損の賠償金200万円と謝罪広告を求める裁判を、高池勝彦弁護人を通して東京地裁に提訴した。平成5年4月から20回の口頭弁論を経て8年4月26日、前記の江見裁判長は「記述には客観的証拠がない」として原告側の主張を一部認め、損害賠償金50万円の支払いを命じたのである。3冊とも、内容はほとんど同じであるが、『東日記』を土台にして被告下里が書いた「橋 本の残酷な虐殺遊び」というのは次の通りである。 

残酷な「虐殺遊び」

 東史郎上等兵の陣中手記には、この時に目撃した一事件を次のように書いている。
 法院の前にぐしゃりつぶれた自家用車が横倒れていた。道路の向こう側に沼があった。何処からか一人の支那人が引っ張られてきた。戦友達は、子犬を捕まえた子供のように彼をなぶっていたが橋本は残酷な一つの提案を出した。つまり袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ、火を付けようと言うのだ。泣き叫ぶ支那人は郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり締められた。彼は、袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。袋はフットボールのように蹴られ、野菜のように小便をかけられた。ぐしゃりとつぶれた自動車の中から、ガソリンを出した橋本は袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり廻せるようにした。心あるものは眉をひそめて、この残酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。橋本は火を付けた。ガソリンは一度に燃え上がった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、こん身の力で袋が飛び上がった。袋は自ら飛び上がり、自ら転げた。戦友のある者達は、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげ火玉のように転げ回った。
 手榴弾を2発、袋の紐を持っていた橋本は紐に結びつけ、−オイそんなに熱ければ冷たくしてやろうか−と言うと、手榴弾を2発袋の紐に結びつけて沼の中に放り込んだ。火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。水がごぼっと盛り上がって静まり、遊びが終わった。東上等兵は、このあと「次の時にはこのような事は少しの記憶も残さず、鼻歌を歌って歩いている一隊であった」と自分たちのことを書いている。(『隠された連隊史』100〜101ページより)

判決文のあらまし

 さすが判決文は犀利(さいり)な観察で、このデタラメ記述の虚妄をあますことなく突いている。その概要を列記すると次の通りである。(1)『東日記』は陣中日記ではなく、昭和15年、16年頃に創作した作文で、戦場で記載された第一次的資料ではない。
(2)上官の森英生元第3中隊長はじめ多くの戦友からもこの『東日記』は誤りが多い旨を指摘されている。(3)厳重に管理されている郵便袋が道ばたに落ちていたとされること。(4)郵便袋に大人を詰め込むことが出来るのか?(5)ポンプ、バケツ等を携帯していないのに、どうやって自動車からガソリンを抜いて郵便袋にかけたのか?(6)瞬時に燃えるガソリンが長時間燃えていたとされること。(7)袋の中にいる人間は飛び上がることは出来ないはずである。(8)長時間燃焼して袋が焼けたら、中の人間は袋から出られるはず。(9)耐熱服なしに燃える袋をかかえて沼に投げ込む事が出来るか?(10)燃焼中の郵便袋に手榴弾を結びつけるという危険極まりない行為を行ったとされること。(11)手榴弾は4、5秒程度で破裂するのに、これを袋の紐に結びつけ、燃える袋をかかえて沼に投げ込んだなど、客観的に不自然である。
 さらに裁判長は「東被告はこうした諸点に関して具体的な説明も出来ず客観的な証拠もなく、真実とは認めがたい」と述べている。まことに判決書が指摘している通りである。このような大デタラメの、日本軍の虐殺行為をならべたてた『東日記』なるものを「虐殺派」の大御所と言われる洞富雄元早稲田大学教授はじめ反日評論家センセイ達は信憑性ある貴重な文献であると高く評価した。『東日記』の一部が中学の歴史教科書にまで引用されたことすらある。反日マスコミは彼を講師として講演させ、テレビ局もしばしば彼を出演させるなど東史郎は一躍“時の人”としてもてはやされた。そのバケのカワが今度の裁判ではがされたのである
 この2つの事実、つまり長崎の原爆資料館の南京の虐殺写真が完全に「ヤラセ」のニセ写真であったことと、続いてこの度の裁判で東史郎や下里正樹が書き殴った南京虐殺事件がウソの記述であることが暴露されたことこの2つが重なったことの意義は大きい。

2つの突破口をひろげよう

 もともと「南京大虐殺事件」は東京裁判から始まった“事件”である。南京陥落後、松井大将は上海で2回も中国・日本を含む外人記者団と会見しているが、誰一人、この虐殺事件について発言する者も質問もなかったという。それが東京裁判において、突如この“事件”が大々的に取り上げられたのである。約3ヶ月間にわたって、30数万人の中国人の女・子供や捕虜が虐殺されたという残酷物語を聞かされ、日本国民は愕然とし、ひたすら身をちぢめ頭を垂れてこの日本軍の蛮行を恥じるほかなかった。裁判中はこれに反論したり抗議することはもちろん許されなかった。
 マッカーサーの厳重なる言論統制によって占領期間中の7年間は東京裁判に対する批判や抗議は絶対に禁止されていた。その間、占領政策のマインド・コントロールは国民の間に浸透していった。そのため、東京裁判における検察側の主張とその判決文を絶対に正しいとする、いわゆる東京裁判史観と称する歴史観が今日の日本をダメにしているのである。ところが、南京大虐殺などというものはもともとなかったのだ。あれはアメリカが、広島・長崎に原爆を投下し、東京をはじめ日本全国44都市を爆撃して非戦闘員100万人以上も殺傷させた、その相殺のためのデッチあげである。また、東京裁判は「平和に対する罪」「人道に対する罪」という新しい罪名を作って裁いたが、日本にはドイツのアウシュビッツの大虐殺に匹敵するような殺人工場も非人道的行為もないというので、デッチあげたのが「南京大虐殺」であったのだ。
 そのことが判れば、謝罪につぐ謝罪の自虐的歴史観も一掃されるであろうし、民族的気概も日本人としての誇りも名誉も失せてしまった現在この亡国的風潮も一変するであろう。
 その突破口が、前述の長崎原爆資料館の中国政府に押しつけられた南京大虐殺の写真が「ヤラセ」の映画フィルムの一コマで、これ以外に大虐殺を証明する写真は何もないということ。
 さらに「虐殺派」にとって貴重な資料と称賛され、多くの本や雑誌に引用された『東日記』なるものが大デタラメの作り話であるということが裁判で明らかにされたこと。この2つの証明は小さな証明かも知れない。しかし、“蟻の一穴”であることには間違いない。
 われわれの一層の努力と、良識ある国民大衆の協力を得て、この一穴をさらにさらに拡大して「南京大虐殺」なるものが全くのねつ造であり、デッチあげであることを大々的に証明する日の来ることを私は信じて疑わない。
 そのことは同時に、東京裁判史観の崩壊につながることである。なぜならば、虚妄の南京大虐殺事件なるものは国際法を踏みにじって強行した理不尽極まる東京裁判の象徴的存在だからである。
 そこで私は東京裁判の11名の判事中ただ一人、この裁判は「裁判の外貌をまとった復讐の儀式である」として全員無罪の判決を下したインド代表判事ラダ・ビノード・パール博士の、判決書の最後の有名な言葉を想起するものである。
 「時が熱狂と偏見をやわらげ、また、理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取ったあかつきには、そのときこそ正義の女神はその秤(はかり)の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。」その「とき」が、いままさに来つつあるのである。良識ある国民の一層の努力を期待したい。(5月3日記、念法時報 電話06−911−2101)


広田弘毅(当時、外務大臣)電報のウソ
松尾一郎

 数年前からアメリカの学者、特に中国系アメリカ人を中心に当時(1937年)の日本の広田弘毅外務大臣が現地を視察して「30万人が虐殺された。」とする報告書をワシントンの日本大使館に送った。とする電文が広く流布されています。
 現在、これを根拠に「南京大虐殺はあった。」と主張する中国系アメリカ人、中国人、台湾人がいます。
 ですが、この報告書は中国人が仕掛けた真っ赤なウソで、歴史の改ざんなのです。
 この報告書(電文)は2枚あります206号電227号電の2枚がセットとなっています。
 それはどういう事かと言うと・・・・206号電の最初には「From : Tokyo(Hirota) To Washington January 19, 1938・・・」で要するにここにはどういう事が書いてあるかと言うと・・・「現地においてティンパーレー(JapaneseTerror in China「中国における日本軍の恐怖」著者マンチェスター・ガーディアン記者)が本社に送ろうとしていた電報を1月17日に差し押さえた(中略)・・・とにかく差し押さえたもの(電文)を送る・・・・」と言うのが206号電なのです。
それとセットになって206号電に続くモノが227号電です。これにはティンパーリーの本の原文となる内容が報告されており、227号電だけを見るとまさに「30万人虐殺があった」と勘違いしてしまう内容です。
 中国系アメリカ人、台湾人、中国人達はまさに意図的に最初の206号電をわざと隠して「虐殺があった」と都合よく解釈出来る227号電を沢山配り流布したのです。これこそ中国人が意図的に日本を貶(おとし)める為に行った歴史の改ざんです。
  この電文は容易に証拠能力が無い事を証明出来ます。それは、当時日本の外務省が出先機関に送るのは全部日本語で送りました。ところが当時ティンパーレーについてはアメリカ側が暗号解読する際に日本語で送られて来た電文を英語に直した時にティンパーリーのつづり(スペル)が分から無かったため注釈を一番下に記載しています。「ジャパニーズ・スペリング・オブ・ネーム(これは日本語によるつづり)」と書いてある。
 したがって227号電に書かれている I investigated reported atrocities committed by Japanese Army in Nanking の "I "は広田弘毅では無く、ティンパーリーの事なのです。
 先日、スタンフォード大学のアメリカ史のケネディ教授がアイリス・チャンを叩く論文を出しましたが、非常に残念な事にこの227号電を使っている。彼はこの論文で「広田弘毅の上海への視察旅行(?)によれば、彼も30万という事を認めている。」と言ってしまっている。全く惜しい。
 (HP作者より:広田弘毅は南京へ直接出向いていません。ですから、別にこの電文を常識的に考えれば南京虐殺が有ったとする証拠にはなり得ないと考え、今まで掲載しませんでした。ところが虐殺アリ派の方からこの電文が虐殺の根拠として提示されました。どうするか悩みましたが今回の掲載は「北の狼」さんのご意見を取り入れさせて頂きました。ありがとうございました)

227号電(抜粋)

From : Tokyo (Hirota)
To : Washington
January 17, 1938

#227, Received from Shanghai as #176

Extra message.
"Since return (to) Shanghai (a) few days ago I investigated reported atrocities committed by Japanese army in Nanking and elsewhere. Verbal accounts (of) reliable eye-witnesses and letters from individuals whose credibility (is) beyond question afford convincing proof (that)Japanese Army behaved and (is) continuing(to) behave in (a) fashion reminiscent (of) Attila (and) his Huns. (Not)less than three hundred thousand Chinese civilians slaughtered, many cases (in) cold blood.
206号電(抜粋)
From : Tokyo (Hirota)
To : Washington
January 19, 1938

#206, Received from Shanghai as #175

The night of the 16th,Toinpare*, special correspondent of the Manchestar Guardian, was disoccvared by our censors as he was about to send a communication as given in separate message #176**.




高橋義彦さんからの手紙

 あまりにも有名な写真。それを唯一証言してくれている方がいます。それが高橋義彦さんです。田中正明先生の著書「南京事件の総括」では度々登場し明確な回答をされています。そこで私は田中先生にお願いして住所と電話番号を教えて頂きました。これは、その高橋さんから頂いた貴重な証言と資料を多くの人達に見て頂きたくて掲載しました。

3枚の写真と質問状

写真1 写真1019 写真3
死体の個々の容態から見て、江上砲撃等の戦死者又は遺棄死体と思う。 新河鎮の視界内にはこの様な材木集積場は無かった。又死体の高が一定でその数も少ないので新河鎮の情景内でない。(注:写真1019というのは実はインターネット上で写真が公開されていた時にフロッピーにセーブする時に付けた名前をプリントアウトした為にその用紙に残りその番号を見た高橋さんがそう読んでしまった為にこうなりました。) これについては分からない。

注:写真の上へをポインタを置くと高橋さんが写真にそえたコメントが見えます。

 平成10年3月上旬、夜8時頃だったと覚えているのですが高橋義彦さん宅へ電話をかけました。夜にもかかわらず高橋さんは快く当時の南京戦について話して下さいました。ご年齢はもう80歳半ばを越えておられるにも関わらずはっきりとした口調でした。後日、改めてこの3枚の写真と質問状を送らせて頂きました。そして帰ってきた手紙が以下の内容でした。


 拝復
 
 南京事件御研究の由、喜んでおります。
自虐で全てが悪いことにして喜んでおる日本人離れの者が戦史を曲げてしまい憤慨しております折り貴所の如き青年が真相を求めて探求の精神を知り、日本の為に慶賀に存知ます。どうぞ頑張って勉強して下さい。
 ご承知と存じますが、郵便袋虐殺裁判が3年前から行われその指導をされており南京戦史の研究委員もされた方、板倉由明様はお近くであり、分からぬことはどしどし聞かれたら何でも教えてくださると思いますので是非ご訪問下さい(tel or手紙連絡でも可)。
 板倉由明先生 〒**** 神奈川県********************** TEL/FAX **********
この方は田中先生と共に、日本最高の南京事件研究の権威者です。また南京に関する研究資料も「南京事件の真実」その他沢山出しておられます。

 私の南京戦における所属部隊?と、戦闘。
 私は独立山砲兵第2連隊本部観測班長が正式の任命された職務です。つまり、砲兵連隊の火力をいかに集中発揮するか、火力運用の責任者であり、砲兵の運用に就いて連隊長を補佐する職務です。
 私は抗州湾上陸以来、南京に向かいましたが、総攻撃の日が早まりそうになったので、連隊長は一部を指揮して南京に急進されました。私は「先遣隊の残り2500名の部隊を指揮して連隊に急追せよ。」との命令を受け、12/11夕方、綿花地(別紙。私が書いた略図の南端の地名)に到着しました。その時、連隊長から特別命令を貰った。
 「決死隊を編成中だから、高橋中尉は山砲小隊長として45連隊第11中隊長、大園大尉の指揮に入り13日(12月)の夜が明けたら配属工兵の折畳舟に乗り、揚子江の河上を下り下関方面に攻撃することにして夜明けを待っていたら、6時頃、敵の総攻撃を受け、太鼓、鐘や洗面器等を打ち鳴らし突撃してきました。
 私共は、大砲の弾がある限り零距離射撃を行いました。パチンコ弾のようなバラ弾を200発を1コの砲弾で打ち出します。1回に100名位の敵兵が空中に吹き飛ばされますが、敵はここ新河鎮を切り抜けないと逃げ道がないので死にもの狂いの戦闘になりました。
 朝6時から11時頃まで乱闘になり、道路以外の湿地帯も彼我の死体で埋めつくされ、枕木代用に人体が使われ、死体や負傷者の上での乱闘は地獄そのものでした。
 「これで勝った」と思ったのは、11時頃から敵は裸になって河に飛び込み始めました。それを陸から射撃しました。まるで海水浴場を機関銃で撃つような光景でした。下流を見渡したら、川岸に陸揚げしてあった材木を兵のベルトや馬の鞍の革などで結んで筏(いかだ)を作り、それに乗って対岸に渡り始めたのです。
 我が野戦重砲の15糎(センチ)榴弾砲の部隊がその筏を集中砲撃しました。気球を挙げて観測しているので百発百中、揚子江は血の河と化し、戦死者や負傷者が視界を埋める水上光景で揚子江は、地獄と化しました。累図を見て想像して下さい。

 3枚の写真について
 写真1019の写真は新河鎮の陸地戦場内のものでは無い。裸の写真もあるので新河鎮戦揚子江上で戦死又はおぼれた者と思われる。死体の方向が一定であり、死体の吹き溜まりと思う。その場所は累図A、Bではないかと思う。(材木置き場の景色と写真内容から判断)正確な位置は撮影者・村瀬守保氏に聞かないと分からない。

 督戦隊について
 別紙パンフ(大虐殺は無かった No6)南京の世界日報社の昭和58年又は59年頃の取材記事を見て下さい。
(私見)私は中国軍の戦死者の10%〜20%は見方同士の督戦隊が殺したものと思います。10%は下らない。

 その他
 万人抗とか死体橋の事も読んで下さい。

 むすび
 貴意に沿う回答が出来ず、申し訳ありません。前にも述べた様に板倉様には是非お会い下さい。ご健勝を祈ります。

高橋さんから頂いた地図
高橋義彦さんから頂いた新河鎮累図

「南京大虐殺」はなかった(世界日報社No.6)
攻略戦参加者の証言

死体乗り越え突撃

 ”南京大虐殺派”の本多勝一氏の主張する日本軍の残虐行為を象徴するものとして「万人抗」「死体橋」といった言葉がある。それらに関する同氏の記事を引用してみよう。
 「昨年(昭和58年)12月13日南京市は南京大虐殺(中国語「南京大屠殺」)の46周年を期して記念碑の定礎式をおこなった。(中略)石碑の周辺には、最近になって一部が試掘された万人抗(犠牲者たちの大量の骨の堆積)があり(中略)また、石碑の近くにある幅4、50メートルの運河の橋は、日本軍の南京占領直前に国民党軍(蒋介石)が爆破したが、占領後このあとが大量の虐殺死体で埋められて”死体橋”となり、その上を日本軍のトラックが往来していたという」(「朝日新聞」59年3月30日付)
 万人抗及び死体橋の跡といわれる江東門は、第6師団歩兵45連隊が戦闘し、南京を去って太平府に移動するまでの1週間滞在した所である。
 本多氏の主張に対し、当時同師団左側支隊の山砲小隊長として南京攻略戦に参加した高橋義彦氏(71・久留米在住)は全くのでたらめだと反ばくする。《万人抗は、戦死した中国兵の死体を1ヶ所にかき集めて埋めた場所にすぎません。日本軍の場合には死体を火葬にして内地に送り届けますが、中国軍の場合は兵隊の死体の引き取り手がないし、死体を出身地に送るといった組織もありませんでした。こういうわけですから、中国軍の死体は、大体野ざらしです。戦闘が一段落して、戦場だった所に中国人居住者が戻り、死体を一ヵ所に集めたのです。死体があちこちにころがっていては仕事も出来ないからでしょう》つまり南京郊外の江東門の万人抗なるものも、結局江東門付近での戦闘で戦死した中国兵を埋葬するため現地の中国人が一ヵ所に集めた場所に過ぎないというのである。
 この点について当時同じ第6師団の通信隊小隊長(原隊・歩兵45連隊)の鵜飼敏定氏(71・東京都在住)も、江東門付近の万人抗は「江東村の大通りに面した一角で戦闘が行われ、遺棄死体された中国軍の戦死者が埋められている所である」と断言する。
 さらに同氏によれば、微に入り細をうがった「中国近代史研究南京大屠殺」にも江東門周辺での虐殺についての記述は一行もないという。
 次にもう一度高橋氏に証言してもらう。《私が山砲小隊長として配属された歩兵第45連隊左側支隊(総兵力250)は、昭和12年12月12日夜から江東門より約1キロ北西のすでに廃墟となった新河鎮部落に待機していました。13日朝6時ごろ、敵の斥候の信号弾とともに南京城内から脱出してきた中国兵約2万の総攻撃を受けました》
《そばには揚子江が流れており、まわりは湿地帯で、歩くとひざまでつかるような所でした。そこに突撃してきた中国兵の死体や負傷者が横たわり、湿地帯は枕木を敷いたようになりました。その死体を乗り越えてくる敵がまた倒れるということで、死体は重なり合い、最後にはその上を走って通れるくらいまでなりました》
 戦闘とはいえ大変な修羅場が展開されたのである。まもなく敵の戦意が喪失し始めた。その時、高橋氏は中国軍の「督戦隊」を初めて見た。
《督戦隊は「督戦」という腕章をつけ、大型けん銃を構え、約4歩間隔で横に並んで中国兵の後ろにいました。中国兵の突撃部隊を日本軍の方向へと押し出すのが彼らの任務で、後ろへ逃げ出そうとする中国兵はようしゃなく撃ち殺されていました》

死体を1ヵ所に集める習慣

世界日報の特集記事「南京大虐殺はなかったNo.6」昭和59年の記事から高橋義彦さんが送って下さったモノです。 では中国軍の死体はどうなったのか。
《昭和17年12月、私は南京城内の軍官学校に駐屯していた第15師団の野砲連隊の大隊長として再び南京城に戻ってきました。その時、戦闘のあった新河鎮に行ってみましたが、死体は全くありませんでした。あれだけ多くの死体をよく片付けたものだと思いました。これらの死体も、おそらく新河鎮付近のどこかまとめて埋葬されたと思います》
 さらに高橋氏は、中国人が戦死した死体を1ヵ所に集める習慣があることを証明する興味深い事実を目撃している。
《昭和12年12月17日、南京の中山門を通った時、城外には約60ほどの中国人の死体がころがっていました。昭和17年に再びそこを通ると、白骨化した死体がそのままあったのですが、どう見ても数が多くなっているのです、少なくとも白骨死体が500くらいはあると思われました。戦争当時よりも死体が6倍以上も増えるなんておかしいと思いましたがすぐ合点がいきました。死体がすべて中国人によって集められてここに置かれたのでしょう》本多氏の言う”万人抗”なるものは中国兵の戦死体を中国人が一ヵ所に集め、あとで埋葬した場所にすぎないようだ。では江東門付近の「死体橋」は事実なのであろうか。
《本多氏は当時12歳くらいの中国人の証言をそのままうのみにしています((注)本多氏は孫殿炎さん=59歳=の目撃談を引用)。そもそも江東門と江東村の間に流れていた運河は幅20メートルくらいでした。しかし本多氏が引用する目撃者は幅4、50メートルの運河の橋と言っています。運河の幅からしてそもそも記憶が間違っているわけです。それに日本軍は工兵隊がいましたから、2〜3時間あれば、20〜30メートルの橋はわけなく造ることが出来ます。わざわざ運河に死体を重ねて死体で橋を造り、その上を通る必要など全くないわけです》
 また前述の鵜飼敏定氏もこう断言する。
《江東門の警備を担当したのは第3大隊ですが、警備期間は7日に過ぎず、12月15日、師団長、旅団長の戦場視察、17日軍の合同慰霊祭、続いて太平府への出発準備と部隊は多忙を極めていました。わざわざ死体を積み上げて”死体橋”をつくるなど考えられません》(「南京大虐殺」問題取材班)


高橋義彦さんからの手紙2

平成10年(1998年)9月17日、消印の手紙を頂きました。


   松尾一郎様                        平成10.9.17高橋義彦

 台風5号の為か急に涼しくなって参りました。この前からお世話になり、御疎遠の手紙失礼いたしました。
 先般写真判定の件でその死体が虐殺か戦死体かと迷われているのではないかと察しこの筆をとりました。
 明かに新河鎮戦闘の死体であることは確定的であり疑う予裕(ママ)はありません。
 先づどの位の数の敵の死体がどうなったかを再考してみますと
 私達を攻撃してきたのは2コ師団でした。(戦場で確認)
 1コ師団を7500人として2コ師団では15000人第6師団長はその兵力20000人(別紙賞詞を見て下さい)
 敵の戦死者 新河鎮私共の目の前で2200人
 私は5000人位かと思っていましたが、45i/III(HP作者注:45歩兵連隊第3大隊の意味)が数えたら2200人でした。
 裸で飛び込み或いは筏で逃亡した内で国崎支隊に捕まった者  2300人。  逃亡したもの  3000人。
 わが砲撃で戦死した者  :  推定  7000人。  
 即ち敵の戦死者を15000とみても7000人は死体で押し流されています。
 あの写真はこの1部に相違ありません。参考として検討下さい。

 (尚私の賞詞の写しを同封したのは師団長が敵の兵力戦死数をどうみていたかの判断資料として同封したもので、功を誇る等の意図は全然ありません。)


高橋さんから頂いた累図2
この累図の中に点線が見えますが、これは高橋さんがFAX用紙を使ってコピーされたからです。

高橋さんは去年(平成10年)12月に具合を悪くされて入院後、手術を受けました。自宅にて順調に回復されていましたが1月にインフルエンザにかかり一時は再入院されていました。HP作者は3月下旬に何度も連絡を取らせて頂いていました。どうやら順調に回復されたらしくホッとしています。今年はもっと詳しくお話をお聞きする予定です。まだまだ「南京事件」の真実解明を続けます。期待して下さい。


 この様に、「南京事件」の証拠とされるモノはウソデマばかり。そうまでして日本をおとしめたいのか?私にはさっぱり理解出来ない。

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