共同通信ニューヨーク支局の今井記者は、本年1月13日、「南京大虐殺の新資料発見」と称して、昭和12年の南京事件当時「南京安全区国際委員会」の委員長であったジョン・ラーベ(ドイツ人)の当時の日記が発見されたことを伝え、次のような見出しで報道した。「南京の惨状詳細に/ヒトラーに報告/ナチ現地幹部の遺品発見/非戦闘員虐殺5〜6万と推定」という記事である。
共同通信と契約している日本の地方紙はこのショッキングなニュースにとびつき、無批判に大々的に報道したらしい。友人から送ってきた関西の某紙のごときは、秦郁彦千葉大教授の次のようなコメントまで掲載して資料価値の高い報道だと評価した。「日本の友好国だったドイツ人が客観的に当時の状況を描写している。その意味で、当時から日本への反感が強かったとされる米人牧師の証言よりも資料的な価値は高いと思う」という評価である。また例の大虐殺派の笠原十九司宇都宮大教授の話として「当時、現地にいたドイツ人による初めての記録としての資料価値だけでなく、ヒトラーに訴えていたことの意味も重要だ。ラーベのような立場にある人間が、日本の同盟国の最高指導者にあえて訴えたこと自体、大虐殺の存在を裏付けるものだ。ラーベは一般人の死者を5、6万としながらも根拠は示していないが、市民25万人を世話していた人物であり信頼性は高い」と、これまたその資料価値を高く評価している。筆者はこの2人の教授と違って、ジョン・ラーベの日記なるものを、むしろマユツバものでないかと見て、全然信用しようとは思っていなかった。日記は1937年の9月から翌年2
月までの約5ヶ月間といわれるが、今井記者の報道はその要記であり、全釈またはその詳細が発表されるまではその批判をひかえてきた。ところが講談社発行「現代」の本年11月号に、ジョン・ラーベの日記の詳細が編者のエルヴィン・ヴィッケルトの解説で、24ページにわたって発表された。標題は『発掘スクープ「南京のシンドラー」と呼ばれたナチ党員の日記を発見/南京大虐殺「60年目の真実」/「殺戮・強姦・略奪」をジーメンス南京支社長ジョン・ラーベは克明に記していた』とある。私はこれを精読して、その批判を書き始めた。ところが同じ講談社から『南京の真実』と題してジョン・ラーベの南京当時の詳細な日記の全文が10月9日付けで発売された。解説によると、「帰国後ラーベは日記を清書し、資料とあわせて800ページからなる3巻本にまとめ『南京爆撃』と名付けた。本書はこの『南京爆撃』から、最も重要と思われる部分を抜粋したものである」という。私はこれも精読した。
つまり、両著ともにいわゆる「日記」ではなく、ラーベが目撃した事実をそのまま記述したものでもない。その多くは、他人から聞いた内容、あるいは推測等によるラーベの後日の「創作」なのである。それよりもまず第一に、日記と称しながら肝心な事項が欠落している点である。それも虐殺否定につながるような重要事項をことさらに避けているかにみえる。
1、国際委員会は安全区を「非武装中立地帯」にするよう日本軍に申し入れたが、12月5日、日本軍は米国大使館を通じて、公式にこれを拒否した。その理由は次の3点である。
A、南京自体が1つの要塞と化しており、しかも安全区はその中心部にあたるが、そこには何らの自然の障害物もなく、境界も判然としない。
B、政府要人や高級軍人の官邸が多く、いかなる兵器や通信機器が隠匿されているやもはかり難い。
C、委員会自体が何ら実力を有せず、武装兵や便衣兵を拒絶するだけの厳正な中立態度を望むことは困難である。(注1)
ラーベ日記には、このことは全然触れていない。ただ12月3日の日記に、『安全区内の三ヶ所に新たな塹壕や高射砲台を配置する場が設けられている。私は唐生智の使者に、「もしただちに中止しなければ、私は辞任し、委員会も解散する」とおどしてやった。するとこちらの要望通りすべて撤退させると文書で言ってきたが、実行には少々時間かかるという但し書きがついていた』とある。日本軍の危惧を裏付けている。
2、12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に「降伏勧告のビラ」を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した、そして唐生智司令官の使者を中山門で待った。しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える・・・』全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。
3、「支那軍による焼き払いの狂宴」と題してニューヨーク・タイムズのダーディン記者は次のようにレポートしている。「12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。(中略)南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。・・・農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた(中略)支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい・・・」要するに蒋介石の「空室清野作戦」である。同じ国際委員会の一人である金陵大学教授のベイツ博士(米)も東京裁判の証人として出廷し、この城壁外市街地の焼き払いのすさまじさについて述べている。(AT=212ページ)しかるにラーベの日記にはこれについてほとんど触れていない。
4、日記には、蒋介石や馬超俊市長が12月7日に飛行機で逃亡し、守備司令官唐生智が12日に逃亡したことは記述しており、20万の市民と約5万の敗残兵を置き去りにして逃亡したその無責任ぶりについては若干ふれている。松井軍司令官は、安全区を中立地区とは認めなかったが、この安全区の砲爆撃を厳禁し、占領翌日の14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可無き者の入区を禁止して庇護した。このこともラーベ日記にはない。南京一番乗りで有名な脇坂次郎大佐が、14日、安全区視察のため入区しようと思ったが、歩哨に峻拒されて果たせなかったことを、大佐は東京裁判で供述している。それほど厳しく安全区内への出入りを管理していたのである。しかるにラーベの16日の日記によると『今ここで味わっている恐怖に比べれば、今までの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区外にある店で略奪を受けなかった店は一件もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区内にも及んできている、外国の国旗があろうがなかろうが、空き家という空き家はことごとくこじ開けられ、荒らされた。』とその暴虐ぶりをるる述べている。
ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと「局部に竹を突っ込む」などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。また、ラーベは『日本兵はモーゼル拳銃をもっていた』というが(318ページ)当時日本軍にはモーゼル拳銃など一丁もない。支那兵の間違いである。アメリカの南京副領事館エスピー氏は東京裁判への提出書類の中で次のごとく述べている。
「ここに一言注意しおかざるべからざるは、支那兵自身、日本軍入城前に略奪を行いおれることなり。最後の数日間は疑いなく彼らにより人および財産に対する暴行・略奪が行われたるなり。支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行いたるべし」(AT=290〜1ページ)
ラーベの日記にはこうした数千人の敗残兵が安全区内に闖入(ちんにゅう)し、常民の衣服を奪うため殺傷したり、略奪・暴行のかぎりをつくし、殺人まで犯した、などという狼藉のことなどは記述してない。
もう一つ重大な欠落がある。国際委員長であるジョン・ラーベは委員会を代表して次のような感謝の書簡を日本軍司令官におくっている。(12月14日)
「拝啓、私どもは貴下の砲兵隊が安全区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下(松井軍司令官)と連絡を取り得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」(速記録210号)
ラーベの日記には、この自分が書いた日本軍に対する「感謝の書簡」について一行もふれていないということは、一体どうしたことか?反対に日本軍は暴虐の限りを尽くしたと言い、編者ビッケルトはこれを補足して『便衣兵狩りが一般市民を多く巻き込み、大虐殺を生んだとの見方がある。ともかく、日本兵は安全区まで入り込み、殺戮を繰り返したのである』と書いている。
ところが残留せる住民には、日本軍来たれば待望の秩序と統制との回復あるべしとの意味にて、日本人を歓迎する気分さえありたることは想像せらるるところなり。(速記録210)
また金陵大学病院医師マッカラム氏は、「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。/私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」と、東京裁判に提出した日記の中に書いている。(速記録210)
日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」(注2)とさえ述べているのである。安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。・・・難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。(速記録210)
ところがラーベ日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いたという“地獄絵”が描かれている。一体どちらが本当なのか?当時、同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外のニュース社発行の『世界と日本』の中でこう述べている。「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2〜30万という数は別としても、主として住民婦女子を虐殺したというものだ、ところが殺されなければならない住民婦女子は、当時全部“難民区”内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には、私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして、取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずはなかった。すなわち“捕虜・便衣兵の処刑・殺害”はあったがそれは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺などはなかった。それがさ
も事実あったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか?それは戦後の東京裁判史観によるものだろう。」この前田氏の証言は、100パーセント信用して良かろう。当時、反日的な報道をしていた米紙「タイム」でさえ「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と、評しているほどである。
当時、朝日新聞は入城した12月13日から12月30日までわずか1ヶ月足らずの間に、5回にわたって半ページ大の組写真の特集を連載している。その第1回が『平和甦る南京』(17日)、早くも避難民が続々と帰り、畑では野良仕事が始まっている。第2回が『きのふの敵に温情』(22日)、支那軍負傷兵を治療、投降兵に給食などしている写真、第3回が『南京は微笑む=城内点描』(25日)、子供と遊ぶ兵隊さんの姿、賛美歌を合唱する50人ほどの女性など。第5回『手を握り合って越年』(30日)、支那人の靴屋さんが日本兵の靴の修理、ヒゲの隊長が婦人にミルクを配給するなど、『日に深む日支親善風景』が写されている。これらは当時現地で撮影した第一級資料である。
南京陥落と同時に入城した新聞・雑誌記者、カメラマンは約150名といわれる(外人記者5名を含む)。その他に大宅壮一、野依秀一、杉山平助、木村毅、西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった著名な評論家、詩人、作家等が入城し、東京都世田谷区よりも狭い南京城内外(約40平方キロ)を取材し、視察しているのである。
そのうちの誰一人として非戦闘員の虐殺などは見ていないのである。松井大将は12月23日、平穏に復帰した市内を視察して上海に帰り、2回にわたり外人記者団と会見をしているが、その席でも“虐殺事件”など話題にものらなかったのである。しかるに、日本の高校・中学の歴史教科書、最近は小学校の教科書にまで、20万、30万という膨大な数字まで並べて、日本軍の「南京大虐殺」をはやしたてているのは一体どうしたことか?このような反日・自虐というより、祖国日本を敵視した虚妄の教育を続けるならば「亡国必定」と憂慮するのは私ばかりではあるまい。
さて、話題をもとにもどす。ラーベが委員長を務める国際委員会(米7、英5、独2、デンマーク1、計15名で構成)は、紅卍字会やYMCAの青年らを配下にして、日本軍の南京占領後の犯罪調査に乗り出している。すなわち12月13日の入城から翌年の2月9日まで、その間、日本軍将兵が犯した犯罪行為を克明に記録し、これをタイプして日本大使館および米、独等の大使館にも伝達した。
この日本軍非行の告発書とも言うべき「公文書」は全部で61通、件数にして425件である。この61通の文章の背景には、次の4つの要素があることを留意しておく必要がある。前述の笠原、秦両教授とも、ラーベのことを、当時日本とドイツは同盟国であった、その同盟国人の指摘であるだけに信憑性が高い。と言った評価をしている。しかし日独が真に同盟関係に入るのは、リッペントロップが外相に就任した昭和13年以降である。現にドイツは米、英と共に蒋介石を援助する軍事顧問団を置き、第二次上海戦の陣地構築を指導している。このため我が軍の犠牲は大きかった。ラーベの所属するジーメンス社は、兵器や通信機の有名な製作会社である。ラーベの納めた高射砲は当時日本にもない優秀なもので、ラーベはこれらの兵器を売り込むため、南京出張所を勤めていたのである。
@、従ってこの委員会を構成する15人の委員はいずれも当時の言葉で言う「敵性国民」であること。
A、しかもこの15人の委員は、安全区以外の戦場を自由に通行・監視出来る許可証を日本軍から交付されていたこと。
B、この委員会の配下には紅卍字会やYMCA及び支那側第5列の抗日宣伝部が活動していたこと。
C、委員会が作成した資料の中には、伝聞ないし噂話が多く混合していること。
この61通の告発書の日本側の受取人は主として日本大使館の福田篤泰(とくやす)氏である。福田氏はのちに吉田首相の秘書官を務め、代議士となり、防衛庁長官、郵政大臣を歴任した信望ある政治家で、筆者とも昵懇であった。すでに6年前故人になられたが、生前福田氏は当時を回顧して私にこう語った。
「当時ぼくは寧海路の委員会本部に行くと、若者が次々と駆け込んできて、今どこどこで日本兵が輪姦しているとか、商品をかっぱらっているとか告げる。それをマギー牧師やフイッチがタイプに打つ。そこで僕は、『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』と幾度も抗議したことがある」
現に福田氏自身が検証におもむいたところ、その倉庫には鍵もかかっており、盗難や略奪の痕跡すら無かった事もあったという。なお、福田氏は「例のティンパーリーの『中国における日本軍の暴挙』の原資料はフイッチやマギーがこうしたデタラメをタイプしたものの集積であると僕は見ている。」と述べていた。さて、国際委員会が告発した日本軍非行の425件の中には、非行でも何でもない事件もあり、前述のように伝聞、噂話、憶測もあるがこれらをすべてクロとみて分類すると次の通りである。
殺人 49件、傷害 44件、強姦 361件(多数3件、数名6件)、連行 390件(多数1件、数名2件)、略奪その他170件
この数字は、南京占領の12月13日から翌年2月9日までの南京における日本軍非行を記録した国際委員会の総トータルである。(注3) 殺人わずか、49件。大虐殺などどこにもない。これをラーベ日記は、虐殺5〜6万、強姦実に2万件というのである。その根拠は何ら示していない。
分 類 |
資 料 | 昭和 年・月・日 |
人 数 | 備 考 | |
国 際 委 員 会 公 式 文 書 |
T6号 T9号 T14号 T19号 T22号 T24号 T26号 |
J20号 J26号 J41号 J43号 J46号 J47号 J49号 J54号 J68号 |
12.12.17 12.12.21 12.12.27 13.1.14 13.1.17 13.1.18 13.1.19 13.1.22 13.1.28 13.2.10 |
20 20 20 25〜30 25 25 25 25 25 25 |
T : ティンパーリー「戦争とは何か」・(外国人の見た日本軍の暴行) J : 徐 淑希「南京安全区襠案」 |
統 計 |
国際救済委員会調査南京地区における戦争被害 | 12.12 〜 13.3. |
221150人 | スミス博士と助手による統計 | |
報 告 |
アメリカ大使館報告 ドイツ大使館報告 |
13.1 13.1 |
20〜25 20 |
エスピー報告 ラーベ報告 |
|
証 言 |
許伝音 M・S・ベイツ |
21.7.26 21.7.29 |
20〜30 221000人 |
極東国際軍事裁判 検察側証人 |
|
参 考 |
R・O・ウィルソン | 21.7.25 | 戦前100 12月初め50 |
同上 鼓楼病院医師 |
日本軍の虐殺によって、南京の人口が減少したというのならわかる。ところが実際には減少したのではなく、逆に増加しているのである。別項表をごらん願いたい。これは事件当時の記録で、第一級の同時資料である。すなわち南京安全区国際委員会が、日・米・独等大使館にあてた61通の公文書の中から人口問題にふれた箇所を抽出したものである。
国際委員会としては、難民に給食するため、人口の掌握が必要である。12月17日、21日、27日にはそれぞれ20万と記載していたのが、1ヶ月後の1月14日になると5万人増加して25万人になっている。以後2月末まで25万人である。すなわち南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が続々と帰還し始めた証拠である。
中国民衆は不思議なカンを持っており、テレビ、ラジオがなくとも、独自の情報網があるから市内の治安回復が分かるのである。正月を控えて、郊外に避難していた民衆が誘い合って続々と帰り始めたのである。前述の朝日新聞の写真特集にはその写真まで出ている。東京裁判によれば《南京占領後、虐殺・暴行・略奪・強姦など悪魔の狂宴は6週間にわたって続いた》とあるが、真っ赤なウソであることが、この一事をもってしても証明されよう。
南京警備司令部は、12月24日から正月にかけて、安全区に潜入している便衣兵と常民を分離するため、中国人立ち会いのもとに「良民証」を給付した。その給付された「良民証」の数は16万に達した。しかしこれは「10才未満の子供と60才以上の老人を除外した数字である。従って総数は25万から27万とみてよかろう」と金陵大学教授で委員会の書記長ルイス・スマイス博士の推測である。この時摘出された約2千の便衣兵は、全員捕虜収容所に送られている。(AT=143ページ)
松井軍司令官の『陣中日誌』にも12月21日「人民モ既ニ多少宛帰来セルヲ見ル」とある。占領から1週間目である。東京裁判によれば「日本兵は5、6名づつ集団をなして、人を見れば射殺し、女を見れば強姦し、略奪、放火は勝手次第、死体はいたる所に山をなし、血は川をなし、地獄絵さながらであった」東京裁判は占領から一週間目の南京市街をこのように告発している。こんな恐ろしい市街にどうして民衆が帰って来るであろうか?ラーベ日記には、この増加した人口問題には全然触れられていないのは一体どうしたことか?
ラーベ日記の12月30日には『新しく設立された自治委員会は、5色旗(北京政府時代の中国国旗)をたくさん作った。1月1日に大がかりな公示がある。そのとき、この旗が振られることになっている。・・・・』とある。実は、陶錫山を委員長とする南京自治委員会の結成式は、1月3日、中山路の鼓楼で行われたのである。この日、鼓楼を中心に市民約3千人が、5色旗と日の丸の旗で盛大な旗行列を行い、結成を祝福した。画期的な出来事である。
しかるにラーベは、このことを一行も記述しないばかりか、こう書いている『きのう(1月3日)またしても近所で3軒放火された。いまこうしているうちにも、南の方で新たに煙が立ち上っている。それはそうと市内は相変わらず闇に包まれている。下関(シャーカン)の発電機は無事なはずなのに。幾度も日本側に抗議しているが、さっぱりだ。取り締まりのため軍事警察がおかれてからは、治安は全体的にたしかによくなったといえるであろう。けれども警察官の中にもいかがわしい連中がいる。そいつらは見て見ぬ振りをするだけではない。いっしょになって悪事を働くことさえあるのだ』(1月4日の日記)
ラーベという男は、よほどヘソ曲がりの男とみえる。市民3千人が旗行列で、自治委員会の結成を祝福しているのを目の前に見ているというのに、こんな日記を書いているのだ。別なところでラーベは自治委員会への職務移譲をを反対している。そればかりではない。実は1月元旦から南京全市に、電燈がともり、水道がよみがえったのである。ラーベは日記でウソをついているのである。
朝日新聞は1月3日付けの新春号に5段抜き凸版見出しで、「南京・今ぞ明けた平和の朝」と大きく報道し、「建設の首途(かどで)を飾り/光と水のお年玉/萬歳・電燈と水道蘇る」と題した1月1日発の近藤特派員の電報をのせている。
そのリード文には「光と水の不足から苦しい喘ぎを続けていた首都南京も新春を迎へて蘇ったやうに力強い息を始めた。大晦日の夕方5時から南京市内の主なる街々に思いがけない電燈がつき、それと同時に水道まで景気良く迸(ほとばし)り出たのである」とある。つまり唐生智軍が敗退時に破壊していった水道や変電所など電源を、日本軍と中国の労務者が協力して年末ぎりぎりに復興したのだ。近藤記者によると、南京は12月10日から水道は止まり、電気はつかず、水飢饉と暗黒の都市となった。
日本軍は入城と同時にこれの復活に着手した。技術将校以下80名と、中国人電工70名の班編制で、水道も同様に150名の編成で不眠不休、激烈な戦闘の疲れも忘れて取り組んだ結果であるという。
朝日新聞はその日本軍技術者と中国人技術者が協力して電気・水道の復旧作業に取り組んでいる半ページ大の組写真を掲載しているのである。こうした日支の協力体制とか、日本軍の和平への努力等についてラーベ日記は全然無視している。その反面、日本軍の暴虐・非道については、はなはだ誇張的な筆致である。私が最初にこの日記はマユツバが多いと言ったのは、このゆえんである。ヒトラーがジョン・ラーベの原稿に信をおかず、彼を逆に入獄せしめた理由が、私にはわかるような気がする。(鰍j&Kプレス、月刊日本平成9年1月号掲載より)
(注1)日高参事官の東京裁判における口供書の要約
(AT)『日中戦争史資料』第8巻・南京事件T(河出書房新社)
(速記録)東京裁判法廷における速記録のこと
(注2)秦郁彦著「南京事件」84ページ
(注3)このトータルは板倉由明氏が細密に分類せるもの
「正論」98年4月号より
ラーベの日記『南京の真実』が出版されて五ヶ月になる。南京安全地帯(セーフティ・ゾーン)国際委員会委員長ラーベの日記であっただけに、話題を呼び、多くの評論が出た。既に六氏が詳論しているが、しかし未だ完全に論じ尽くされていないように思う。
一口にラーベの日記と言っても、それは大きく見て二つの部分から構成されている。
一つが日記そのものであるが、これは南京からベルリンに帰国したラーベが、南京で記した記録を、『南京爆撃』と題する二巻本に、1942年10月にまとめたものである。ラーベの南京離任は昭和13年(1938年)2月であったから、『南京爆撃』脱稿までの間に、4年半の歳月が流れていた。
書き直しの際に、加筆と、削除はなかったのか。これがまず思い浮ぶ疑問である。
ラーベ日記のもう一つの部分はヒットラー宛て上申書である。日記と上申書が同じ内容であれば問題はないが、両者は同じ内容なのか。これが次に検討されなくてはならない問題であろう。
さて、本論に入り、ラーベの日記をどのように検証するのか、その方法について、日記(1月9日)の中に出てくる唯一の目撃された処刑の例を取り上げて、具体的に例示しておきたい。
「十一時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目にするはめになった『小規模』の死刑について報告した。日本人将校一人に兵士が二人、山西路にある池の中に中国人(民間人)を追い込んだ。その男が腰まで水につかったとき、兵士のひとりが近くにある砂嚢のかげにごろりと寝ころび、男が水中に沈むまで発砲し続けたという」
これと同じ記述が他の本にも有る。そこで、見落としがないように完全に並べて立ててみると、次の三冊に同じ記録が出てくる。
@H.Timperley,The Japanese Terror in China,Case No. 185, 1938, 1969,
p.159f. (ティンパーリー編『支那における日本軍の恐怖』1938年)
AShuhsi Hsu(ed), Documents of the Nanking Safety Zone,Case No. 185,
1939, p.78.(徐淑希〔前外交部顧問〕編『南京安全地帯の記録』1939年。本書はラーベの署名する国際委員会の抗議文書を徐教授が「重慶の国際問題委員会の主宰の下に作成」したもの)
B洞富雄編『日中戦争南京大残虐事件資料集第二巻英文資料編』に所収されたティンパーリー編『戦争とは何か――中国における日本軍の暴虐』(上の@の訳本)
この三冊の中にクレーガーとハッツの目撃が事例185として記録されている。では上の三冊とラーベの日記は全く同じ内容であったかと言えば、そうではない。
上の三冊の注には、南京安全地帯国際委員会の行った調査結果が注記され、ラーベの言う「死刑」は「日本軍の行う合法的な処刑」であると明記された。ところが、その肝腎な調査結果を、ラーベは日記に記さなかった。つまり日記から削除することにより、ラーベは合法的な処刑を非合法的な虐殺と暗示したのである。
なお事例185に触れたついでに言えば、@Aの中の「処刑する」executing という言語が、Bの和訳では、「虐殺する」と誤訳されている。
このように本稿は、多くの記録の中から見落としのないよう同じ事例を全て抜き出し、その異同を比較検討するという手法を採用する。中華民国が当時宣伝した英文の記録や、南京在住アメリカ人の記録、南京ドイツ大使館公文書綴り「日支紛争」(マイクロフィルム)が今も残っている。それを活用しないという手はないであろう。そこで結論から言えば、ラーベの『南京の真実』は、
(1)事実あるがままの記述、
(2)事実を過度に脚色した記述、
(3)肝腎かなめの事実を削除した記述、
(4)支那人の流言蜚語を事実と信じた記述、
の4点から成り立っている。以下の指摘は上のいずれかに属する事になろう。
さて、ラーベは日記(98貢)の中で安全地帯に榴散弾が落ち死者が出たと次のように記した。
「榴散弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後ろだ。12人の死者とおよそ12人の負傷者。(略)さらにもう一発、榴弾(こんどは中学校)。死者13人。」
このように、死者が兵士か市民か、明言されなかった。巧妙なのである。しかし安全地帯では「流れ弾による破壊は実に僅かであった」。そう、明記するのはほかならぬラーベの署名する国際委員会九号文書である。市民が流れ弾で死んだのであれば、上のようには言えなかった。ラーベの言う死者とは兵士の事なのである。肝心要の事が省略されている。ウィルソンが手紙(12月14日)にも記したように、「日本軍は特に大砲の射撃に際して、安全地帯を尊重しているように見えた」から、そこでラーベ委員長は日本軍に感謝を表明した。秦郁彦教授は日本軍に感謝を表明した。
秦郁彦教授はその種の感謝状がないと言うが、渡部昇一教授の言うように有る。それが一号文書の冒頭に出て来るのである。
「貴軍の砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかったみごとなやり方 the fine
way に感謝(略)するため、我々は筆をとっております。」
一号文書はこの書き出しを以て始まるである。ご注意いただきたいが、邦訳では何故か強調部分が削除された。そのため秦氏は見落とされたのかも知れない。
さて、ラーベの12月13日(陥落初日)の日記は随分と考えさせられる内容である。
「我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いてしまったが最後、ふっとんでしまう。上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。
ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は2日後に来ると言った。」(109貢)
多くの死体が有ったというが、紅卍字会の埋葬記録が正しければ上海路では20体の埋葬であったから、死体は20体しかなかったことになる。では、ラーベの言うように「市民」の死体であったのか?
支那軍正規兵は、敗戦の際は常に軍服を脱ぎ捨て便衣(平服)をまとっていた上、逃げようとする友軍兵士を督戦隊が背後から撃っていた。支那兵に武装解除を勧めるラーベの近くで、支那軍将校がカービン銃を撃っていた。死体は、撃たれて死んだ兵士の死体だったのではないか。
他方、12月8日、唐生智の安全地帯避難命令が出て、市民は安全地帯の外での移動を禁じられた。日米双方の記録にある上の事実がラーベの日記にはない。
ところがラーベの署名する国際委員会9号文書は次のように記録する。
「13日、貴軍が城内に入った時、我々はほぼ全ての非戦闘員の住民に安全地帯へ集まってもらっていた」
つまり市民はほぼ全員が安全地帯に集まっていた。中山北路と上海路の交差する戦場にいるはずもなかったのである。ラーベが目撃したのは「市民」ではなく兵士の死体であったことになる。
もし日本軍が市民を撃ったのであれば、南京在住アメリカ人14人がアメリカ大使館のエスピイに訴えた事の記録、「エスピイ報告」に、その非難が出て来るはずであった。しかしそれもない。日本軍は、「市民」を銃撃していないことになる。
もちろんラーベは日本軍が撃ったとは明記しなかった。それでも、読者にそう想像されて来るよう、能動態ではなく、意識的に行為の主体をぼかす受動態を使って、読者の反応を十分に計算して書いた。ご注意いただきたいが、上の日記の内容がヒットラー宛て上申書では微妙に変る。
「自転車に乗った日本軍の前哨によれば、総司令官は3日たたないと到着しないということでした。中国の民間人の死体がそこそこにありました。いくつか調べてみたところ、至近距離から背中を撃たれているのがわかりました。たぶん逃げようとするところだったのでしょう。」(312貢)
強調箇所が前の箇所と違っている。2、3日の微妙な違いならまだしも、逃げようとする市民が背中を至近距離から撃たれたという記録は、先の箇所にはない。他人の書いた文書の語句を自分の都合の良いように改めることを、改ざんと言うが、これはラーベ自身による露骨な改ざん、即ち拡大宣伝であった。ラーベは事実あるがままに「淡々と書いている」(福田和也)のではなかったのである。
ラーベの上申書は更に主張する。
「元兵士の疑いをかけられ(略)何千人もの人が、機関銃あるいは手榴弾で殺されました」(314貢)
「ガソリンをかけられ、生きながら火をつけられた」(315貢)
「8才から70才を越える女性が暴行され(略)局部にビール瓶や竹が突き刺されている女性の死体もありました。これらの犠牲者を私はこの目で見た」(316貢)
「住民の半数がペストにかかって死んだのではないでしょうか」(303貢)
ラーベは12月24日の日記に、いつの日か目撃者として語ることができるよう、是非この眼で確かめておきたいと胸を張ったものである。『南京の真実』の解説者は、それを検証もせずに、「ラーベの目で確認され・・・た超一級の資料」と絶賛する。ところが、強調箇所は、その目撃記録が、日記にないのである。その日の忠実な記録(日記)を基に、上申書が書かれたのならばまだしも、日記にもない事が上申書には書かれた。これを一般にねつ造と言うのではあるまいか。
南京に残留した20万市民の避難地帯として城内の一角に設立されたのが安全地帯であった。それを蒋介石は正式に承認した。が、南京防衛軍司令官唐生智は安全地帯から支那軍を撤退させなかった。
警官さえも規則を破ってライフル銃を手にし、支那軍は陥落前夜まで完全装備で安全地帯に居座っていたのである。支那兵の安全地帯侵入を、陥落直前のこととする従来の認識は、改めねばなるまい。
もちろんラーベは支那軍に軍人の退去と軍事施設の撤去を迫っている。しかしそんなことは話にならないと、唐生智は取り付く島もなかった。そのうえ安全地帯の3ヶ所に新たな塹壕を掘り、高射砲台までも配置した。
安全地帯を軍事的に利用しながら、その一方では、赤い十字を丸印で囲んだ安全地帯の旗を2度も全て持ち去った。そして安全地帯の縮小まで主張して譲らなかったのである。
陥落数時間前の12月12日18時半、光華門や中華門から兵士たちが気が狂ったように逃げてくる。それをラーベは目撃した。支那兵の安全地帯への逃亡は、緊急避難的行動ではなく、所定の方針であった。と言って言い過ぎならば、特に触れ回るまでもない暗黙の了解事項であった事になる。
兵士達は安全地帯に近づくと、次第に落ち着きを取り戻し、のんびりと歩き始めたものだ。そのことは次の重大な結論を導く。
城内で戦死した兵士や、南門(中華門)や北門(悒江門)で味方の督戦隊に撃たれた兵士、それに城壁から脱出したわずかの兵士、――以上を除いた城内のほとんどの兵士(つまり万単位の兵士)が、安全地帯に逃げ込んだのである。
それも最初から意図的に。
避難民のための中立地帯は支那兵のための避難地帯となった。中華工業国外貿易協会南京支配人シュイールズがのちに洩らしたように、このような恥ずべき安全地帯の設定は失敗であった。
日本軍は無視する権限を有していたがね安全地帯を尊重した。ここのことがやがて全ての「南京」問題の出発点となる。
12日20時、唐生智逃亡の頃、龍大佐と周大佐がラーベを再訪する。そして「ここに避難させてもらえないか」と頼んだ。ラーベは良心の呵責(かしゃく)を覚えることなく、敵兵をかくまう。
その2日前、重傷兵が安全地帯に入って来たのは「協定違反」(94貢)だと息巻いていたラーベ、その姿は今やない。安全地帯における負傷兵の存在が協定違反であったのであれば、安全地帯における五体満足な高級将校の存在は、一層重大な協定違反だったのではないか。そのことに何の痛痒(つうよう)も感じないラーベ、その理性は麻痺していたのである。
それだけではなかった。彼は、更に、陥落以来、羅福祥(本名は汪漢萬)をかくまっていたことを、翌年2月22日の日記に、71日ぶりに記す。その日の忠実な記録を日記と考えるならば、ラーベの日記は必ずしもその種の日記ではない。
後で、自己の体験を、ある観点から注意深く取拾し、再構成しながら書いた、目的志向的な日記であった。ラーベの庭の通称「ジーメンス・キャンプ」の650人の避難民の中に、汪漢萬のほかにも多くの兵士が潜伏していたことであろう。
その後ラーベはドイツに帰国する際、汪漢萬を使用人といつわって汽船に同乗させ、香港への逃亡を援助した。高級将校の潜伏と逃亡を幇助(ほうじょ)し、自己を凱旋兵と同一視するラーベ、それはまた中立地帯委員長の理性の倒錯を示す。
昭和13年2月15日「昨晩、龍と周の二人が我が家を去った」とラーベは記す。64日間の不法滞在であった。日本軍の支那兵摘発は「徹底した包囲殲滅戦」(笠原十九司)からは程遠かった。
龍大佐が「私と周の2人が負傷者の面倒をみるために残されました」と語っているように、彼らは上官の唐生智の指示により計画的に残されたのである。しかしそれならば、彼らは赤十字病院の置かれた外交部に直行すべきであった。
それが、ラーベの自宅に直行したのである。その目的は何であったのか。そのことを考えるうえで『ニューヨーク・タイムズ』の昭和13年1月4日の記事は有力な手掛りとなる。阿羅健一氏にその記事の存在を指摘されて、同紙の南京関連記事を収録した『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』をひもといてみたが、それは見当たらなかった。そこで同紙のマイクロフィルムを見ると、「元支那軍将校が避難民の中に。南京の犯罪を日本軍のせいに。――大佐一味が白状」という記事があった。以下に全文引用する。
「南京の金陵女子大学に避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、(1)逃亡中の大佐1名とその部下の将校6名をかくまっていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちはこの大佐をそのキャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは支那軍が南京から退却する際に(2)軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に(3)ライフル6丁と、ピストル5丁、砲台からはずした機関銃1丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この将校たちは(4)南京で略奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲った風にしたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した。
この元将校たちは逮捕された。戒厳令に照らして罰せられ、おそらく処刑されるであろう。」
強調部(2)(3)が明白な戦時国際法違反であった。安全地帯には「武装解除された支那兵集団すら存在しない」(10号文書)とは国際委員会の繰り返す主張であったが、それは(1)のように真実ではなかった。
ところが、(4)の支那軍将兵の略奪強姦にかんする指摘がラーベの日記にはない。ラーベの署名する文書が収録された『南京安全地帯の記録』にもない。それはどうしたことか。委員長ラーベは日本大使館に毎日のように抗議に行きながら、その記事については抗議せず、容認して黙殺し、ついに、その事実を闇に葬ったのである。
上海のアメリカ系の英字新聞『チャイナ・プレス』1月25日号が南京ドイツ大使館公文書綴「日支紛争」に綴(と)じてある。そこにも同じような記事が出て来ている。それによれば、12月28日までに、将校23名を含む1575名が安全地帯に機関銃やライフルを隠して潜伏しているのを摘発された。
その中には南京平和防衛軍 Nanking peace preservation corps 司令官王信労(ワン・シンラウ 音訳)がいた。彼は陳弥(チェン・ミイ 音訳)という偽名で国際委員会の第4部門を率い、3人の部下とともに「略奪、扇動、強姦にたずさわった」。
他方、飯沼守少将の陣中日記(1月4日)が「八十八師副師長」を逮捕と記す当の第八十八師副師長馬包香(マア・ポウシャン 音訳)中将は、安全地帯で「反日攪乱行為の扇動」を指揮していた。
そのような舞台裏を安全地帯の避難民が垣間見ていたのであろう。略奪、放火、強姦は支那軍の犯行と言う者が現れる。
「支那軍ノ或る者ハ容易ニ略奪・強姦及ビ焼討等ハ支那軍ガヤツタノデハ、日本軍ガヤッタノデハ無イト立証スラ致シマス」
これは東京裁判に提出されながら朗読されなかったマッカラムの日記(昭和13年1月8日)の一節である。かき回して騒ぎを起こすことを攪乱(かくらん)と言うが、両大佐が攪乱工作のために残された可能性は否定できないであろう。安全地帯にあったラーベと唐生智の自宅が恰好(かっこう)の本部となっていたのかも知れない。
しかしその安全地帯も2月8日に解散と公式に発表された。彼らからすれば、安全地帯の消えた危険な南京に、長居は無用であった。それから6日後に、両大佐はラーベの家から夜の闇に消える。
はたして龍大佐とは誰であったのか?また周大佐とは?ラーベの日記は羅福祥の本名を汪漢萬と明していたが、64日間もかくまったこの人物の本名を、ラーベは最後まで上申書でも明かさなかった。姓名の明記は偽名の発覚に至り、重大な問題に進展すると案じたのであろう。
ラーベの日記を読んでいて、又しても奇妙なのは、ラーベの家の周辺に、放火や強姦がやたら集中していることである。
たとえば火災であるが12月19日、ラーベは自宅の南も北も大火事と記す。12月20日も放火、1月3日は近所で三軒も放火、1月5日も放火、9日も近所で火の手が上がった。12月27日には、まだ出店していそうもない「日中合弁商店」に、ラーベが使用人と見学に行くと、待ってましたとばかりに放火が始まる。
ラーベはその現場を目撃できた。しかし、日記による限り、日本兵が犯人と断定できる証拠は、何一つなかった。それでもラーベは、「日本軍が街を焼き払っているのはもはや疑う余地はない」(131貢)と推定する。ラーベを狙い撃ちするかのように上がった火の手たるや、その効果は絶大であった。
何としても奇妙なのである。「証言による『南京戦史G』」にもあるように、日本兵にとり南京城内は「外出禁止」であった。ところが多くの「日本兵」がラーベの自宅に強姦にやって来たという。
「日本兵」が塀に来たら警笛を鳴らす警戒網まで出来たが、それでも荒波の寄せ来るように、「日本兵が裏口の扉をガンガンたたいている。私が出て行くとサッといなくなる。」(122貢)のであった。
しかし、古今東西、犯人は目撃者の存在を恐れるから、「強姦」は人気のない寂しいところで起こるのではないか。何故、「日本兵」はよりにもよって、ラーベの居るその瞬間を選んだのか?何故、ラーベのいないその隙を狙わなかったか?
ある時はラーベが帰宅すると、それを待っていたかのように「日本兵」が侵入して来て「強姦」しようとした。そこで「危機一髪」(127貢)のところをラーベが救ったというのである。
そのタイミングたるや、又しても絶妙であった。余程ラーベの日程を知っている者が、裏で糸を引いていたとしか言いようがない。ラーベ宅に潜む大佐一味の仕組んだ、自作自演の強姦劇であったのであろう。
ラーベの家のある小桃園(シャオタオユエン)には、広大な胡家菜園、金陵大農学部農場、避難民キャンプのある南京外語学校があり、支那兵が出撃して身を隠すには打って付けであった。そのうえ日本人か支那人か確実に判別できる欧米人はいない。
支那兵が日本兵に扮したところで、見破られる心配もなかったのである。
このようにラーベを待ち伏せするかのように起こる強姦、それが彼の幻影を強め、ついに流言斐語を事実と信じさせる。
「昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。」
このようにラーベは日本軍南京入場式当日の12月17日の日記に記す。(脇道に逸れるが、訳文中の金陵女子文理学院は金陵女子大の誤訳である)。ラーベは千人強姦という噂を記したのだから、その後に続く「金陵女子大だけでも百人以上の少女が被害にあった」というラーベの記述も、同じく伝聞ではなかったのか?そう推定したのが中村粲教授で、その伝聞説を否定したのが秦氏であった。
実は、問題の金陵女子大に、最後の女性避難民キャンプを設営したミーニ・ヴォートリン教授は、「避難民キャンプで『豊かな生活』を共にして」と題する回想を、『チャイニーズ・レコーダー』昭和13年7月8月合併号に寄稿している。今ここにその引用は紙幅の都合上不可能だが、そこに、「金陵女子大だけでも百人以上の少女が被害にあった」という記述は出て来ない。百人強姦説は流言斐語(デマゴギー)として削除(否定)されたのである。恐らくは、女子大に潜伏していた「大佐一味」の流したデマ宣伝であったのであろう。シャルフェンベルグ事務長も言うように、「すべて中国人から一方的に話を聞いているだけ」(246貢)に過ぎなかったのである。
国際委員会の4号文書(12月15日)は、国際委員会が支那軍正規兵を「法的資格を満たす捕虜」
lawful prisoners of war と見なす旨を、宣言していた。
しかしそれが最初にして最後の主張となる。秦氏の言うように、戦時国際法上の捕虜に該当しないという認識が、戦時国際法も日本軍批判の武器とはなり得ないというあきらめを生んだ。そこで二度と戦時国際法を持ち出さなかったのである。
では何故支那兵には捕虜資格がなかったのか?その間の事情を知りたく思ってもラーベは黙して語らずであった。
それでも、「裁判もなし」(スティール)に支那兵が処刑されたとしても、誰一人として、日本軍戦時国際法違反とは主張できなかった。主張しても、昭和13年秋のベイツの日本軍「捕虜3万人」虐殺説の再主張のように取り上げられなかった。そこで事実関係がすり替えられ、ラーベたちは挙って日本軍が「元兵士」(即ち市民)を処刑と常に主張する。そうすれば市民虐殺となったからだ。
彼らは戦時国際法違反説を自ら撤回し、それを蒸し返すことはなかったのである。
ここで、しばらくラーベの日記から離れて、埋葬に言及した当時の5つの記録を全て並べてみると、埋葬団体としてあがっているのは、紅卍字会だけである。なかでも『南京救済国際委員会報告書』(昭和14年夏)はベイツ教授が委員長の時代に刊行されたものだが、次のように言う。
「必要な埋葬作業はすべて紅卍字会によって行われ、放置されたままの遺体4万体以上が片づけられ、その埋葬完了のために2540ドルが使われた。」
南京の埋葬は崇善堂など全く無関係で、紅卍字会の埋葬を以て完了したのである。しかも『南京救済国際委員会報告書』は「実働約40日間」で終わったと言う。他方、南京の埋葬を指導した南京特務機関員(満鉄社員)の丸山氏は2月上旬に埋葬を始め、3月15日を目処(めど)に完了したと筆者のインタビューに答えていた。
昨年10月、『南京の真実』を手に読み始めた時、ラーベの日記がどこかで埋葬時期に触れているのではないかと思いつつ読んでいた。2月1日に埋葬が始まったという何気ない記述が眼に飛び込んで来た時、やはりそうだったのかという思いに打たれた。
これは丸山氏の証言を裏付けたことになる。
既に述べたように、南京の埋葬は実働約40日間であった。2月1日に始まった埋葬は3月の15日か、遅くとも20日には終わっていたことになる。即ち、12月と、1月と、3月25日以降の紅卍字会の埋葬記録は、でっちあげであった。
では実際には何体が埋葬されたのであろう。2月は(一日200体は無理だったとラーベは言い、通常180体埋葬と丸山氏は言うので)25日間で5千体の埋葬と仮定し、3月ローゼン書記官の「毎日500体から600体を紅卍字会は埋葬」という報告に基き、20日間(1日600体)で1万2千体の埋葬と、多めに概算しても、全埋葬は1万7千体を越えない。そこから次の結論が生じて来る。
(1)約4万体埋葬という紅卍字会の報告も2倍以上の水増し報告であった。
(2)我々外国人は「5万から6万人」が殺されたと見なす、――とラーベが言うのも、過度に誇張された報告であった。死体のない殺人事件はないからである。
(3)秦氏の4万人虐殺説も成り立たない。
では、推定埋葬量の1万7千体は、虐殺体であったのか?今ここでは、ベイツの4万人虐殺説が中華民国の公式記録から再三再四抹消(否定)されたと指摘するに止め、もはや紙幅も尽きたので、その検討は別の機会に譲る事とする。(「正論」98年4月号)