極東国際軍事裁判(東京裁判)
1946 〜 1948
この裁判は、終戦翌年の昭和21年(1946)5月3日から始まり、同23年11月12日の判決まで、まる2年と6ヶ月余の期間を費やした。当時の金で27億円を日本政府に支弁させた。
アメリカ代表 | マイロン・C・クレーマー | |
イギリス代表 | パトリック | |
ソ連 代表 | I・M・ザリヤノフ | |
フランス 代表 | アンリー・ベルナール | |
中華民国代表(現台湾政府) | 梅汝敖 | |
オランダ代表 | バーナード・ウィクター・A・ローリング | |
カナダ代表 | E・スチュワート・マックドゥガル | |
オーストラリア代表 | ウィリアム・F・ウエップ | 左は東京裁判11人の判事達。前列左より、パトリック(イギリス)、クレーマー(アメリカ)、ウエッブ(オーストラリア)、梅(中国)、ザリアノフ(ソ連)、 後列左よりパル(インド)、ローリング(オランダ)、マクドゥガル(カナダ)、ベルナール(フランス)、ノースクロフト(ニュージーランド)、ジャラニラ(フィリピン) |
ニュージーランド代表 | エリマ・ハーベー・ノースクロフト | |
フィリピン代表 | ジャラニラ | |
インド代表 | ラダ・ビノード・パール |
裁判長は、オーストラリアのウエッブ判事であった。これに対して、A級戦犯として起訴されたのは以下の28名。
東條英機 (Hideki
Tojo) 62歳。(判決時65歳)
東京 首相、陸軍大将、参謀総長。
昭和10年関東軍憲兵司令官、同12年関東軍参謀長、同13年5月から12月まで近衛内閣の陸軍次官、同13年から14年まで陸軍航空総監、同15年7月から16年10まで近衛内閣の陸軍大臣、同年10月から19年7月まで内閣総理大臣。
(判決理由)
昭和16年12月8日、ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪。(判決)絞首刑
武藤 章
(Akira Muto) 54歳。(判決時57歳)
熊本 陸軍中将、陸軍省軍務局長。
昭和14年10月から17年4月まで陸軍省軍務局長、同18年在スマトラ第2師団長、同19年10月在フィリピン第14方面軍参謀長。
(判決理由)
一部捕虜虐待の罪。(判決)絞首刑
板垣 征四郎 (Seishiro
Itagaki) 61歳(判決時64歳)
岩手 陸軍大将、支那派遣軍総参謀長。
昭和11年から12年まで関東軍参謀長、同13年6月から14年8月まで近衛、平沼両内閣の陸軍大臣兼対満事務局総裁、同14年7月支那派遣軍参謀長、同16年7月から20年まで朝鮮軍司令官、同20年4月シンガポール第7方面軍司令官。
(判決理由)中国侵略、米国に対する平和の罪。(判決)絞首刑
松井石根 (Iwane
Matsui) 68歳(判決時71歳)
愛知 陸軍大将、上海派遣軍司令官
昭和8年陸軍大将、同年大亜細亜協会創立者の一人、同12年10月から13年2月まで中支那方面軍司令官、同13年7月から15年1月まで軍事参議官。
(判決理由)
「捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京大虐殺)」
(判決)絞首刑
木村兵太郎
(Heitaro Kimura) 58歳(判決時61歳)
埼玉 陸軍大将、ビルマ派遣軍司令官。
昭和15年関東軍参謀長、同16年から19年2月まで近衛、東條内閣の陸軍次官、同19年ビルマ方面軍司令官。
(判決理由)英国に対する戦争開始の罪
(判決)絞首刑
土肥原賢二
(Kenji Doihara) 63歳(判決時65歳)
岡山 陸軍大将、在満州特務機関長。
昭和6年在満州特務機関長、同8年関東軍司令部付、華北自治政府最高顧問、同13年から15年まで満州駐屯第5軍司令官、16年陸軍航空総監、18年東部軍司令官、19年から20年までシンガポール第7方面軍司令官。
(判決理由)中国侵略の罪
(判決)絞首刑
広田弘毅
(Kouki Hirota) 68歳(判決時71歳)
福岡 駐ソ連大使、外相、首相。
昭和5年駐ソ大使、同8年9月から9年7月まで斉藤内閣の外務大臣、同年7月から11年3月まで岡田内閣の外務大臣、同11年3月から12年2月まで内閣総理大臣、同12年6月から13年5月まで近衛内閣の外務大臣、同15年内閣参議。
(判決理由)太平洋戦争に至る日本の侵略政策作成
(判決)絞首刑
永野修身(Osami
Nagano) 66歳 高知 海軍大将 昭和5年海軍軍令部次長、同11年3月ら12年2月まで広田内閣の海軍大臣、同12年連合艦隊司令長官、同16年4月から19年2月まで軍令部総長。昭和22年1月急死。 |
橋本欣五郎
(Kingoro Hashimoto) 56歳 福岡 陸軍大佐 昭和12年復役して砲兵連隊長となり英艦「レディパード」、「パネー」両号を撃し国際問題を起こす、復員後赤誠会を組織15年大政翼賛会創設者の一人、革新的青年将校の旗頭。(判決)終身禁固 |
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岡敬純(Takazumi Oka) 56歳 東京 海軍中将、 海軍省軍務局長昭和15年から19まで海軍省軍務局長、同17年海軍中将、同19年小磯内閣の海軍次官、19年9月から20年6月まで鎮海(朝鮮)警備府司令官。(判決)終身禁固 |
佐藤賢了(Kenryo
Sato) 51歳 石川 陸軍中将 昭和16年2月から17年4月まで陸軍省軍務局軍務課長、同16年陸軍少将、同17年4月から19年12月まで陸軍省軍務局長、同20年陸軍中将。(判決)終身禁固 |
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南 次郎(Jiro Minami) 72歳 大分 陸軍大将、 朝鮮総督 昭和4年朝鮮軍司令官、同6年4月から12月まで若槻内閣の陸軍大臣、昭和9年から11年まで関東軍司令官、同11年から17年まで朝鮮総督、同17年から20年まで枢密院顧問官。(判決)終身禁固 |
嶋田繁太郎(ShigetaroShimada) 63歳 東京 海軍大将、海相、軍令部総長 昭和5年連合艦隊参謀長、同10年から12年まで海軍軍令部部長、同12年第二艦隊司令長官、同15年支那方面艦隊司令長官、同16年10月東條内閣の海軍大臣、同19年2月から7月まで海軍軍令部総長。(判決)終身禁固 |
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畑俊六(Shunroku Hata) 67歳 東京 元帥、陸相中国派遣軍総司令官 昭和10年航空本部長、同11年から12年まで台湾軍司令官、同12年8月教育総監、同13年中支派遣軍最高司令官、同14年8月から15年1月まで阿部内閣の陸軍大臣、同15年から19年まで中支派遣軍最高司令官。(判決)終身禁固 |
荒木貞夫(Sadao Araki) 69歳 東京 陸軍大将陸相 昭和6年12月から同9年7月まで犬養内閣、斉藤内閣の陸軍大臣、昭和13年5月から同14年8月まで近衛内閣及び 平沼内閣の文部大臣。(判決)終身禁固 |
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大島浩(Hiroshi Ohsima) 60歳 岐阜 陸軍中将、駐独大使 昭和11年ベルリン大使館付武官、同13年10月から20年4月まで駐独大使、日独伊三国同盟の締結に活躍、陸軍中将。(判決)終身禁固 |
梅津美治郎
(Yoshijiro Umezu) 64歳 大分 陸軍大将、関東軍司令官 昭和6年陸軍省軍務局長、同9年支那駐屯軍司令官、同11年3月から13年5月まで広田、林、近衛内閣の陸軍次官、同14年から19年まで関東軍司令官兼駐満大使、同15年陸軍大将、同19年から20年まで参謀総長。(判決)終身禁固 |
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星野直樹(Naoki Hoshino) 54歳 東京 満州国総務長官、内閣書記官長 昭和11年12月満州国総務長官、同15年7月から16年4月まで企画院総裁、同16年10月から19年7月まで東条内閣書記官長及び国務大臣。 (判決)終身禁固 |
小磯国昭(Kuniaki Koiso) 66歳 山形 陸軍大将、朝鮮総督、首相 昭和5年陸軍省軍務局長、同7年から9年まで関東軍参謀長、同10年から11年まで朝鮮軍司令官、同14年平沼内閣の拓務大臣、同15年米内内閣の拓務大臣、同19年7月から20年4月まで総理大臣。 (判決)終身禁固 |
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鈴木貞一(Teiichi Suzuki) 58歳 千葉 陸軍中将、企画院総裁 昭和13年12月から16年4月まで興亜院政務部長、同16年4月から18年10月まで近衛内閣の企画院総裁兼国務大臣、同18年11月から19年9月まで東條内閣の顧問。(判決)終身禁固 |
平沼騏一郎
(Kichiro Hiranuma) 79歳 岡山 首相、枢府議長 大正15年国本社を創設しその総裁となる、昭和5年から11年まで枢密院副議長、同11年から14年まで枢密院議長、同14年1月から8月まで内閣総理大臣、同15年近衛内閣の国務大臣。(判決)終身禁固 |
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木戸幸一(Kouichi Kido) 57歳 東京 文相 内相厚相 内大臣 昭和12年近衛内閣文部大臣、同13年第二次近衛内閣の厚生大臣、同14年平沼内閣の内務大臣、同15年から20年まで内大臣、天皇側近の最高責任者として重臣会議を主宰した。 (判決)終身禁固 |
賀屋興宣(Okinori Kaya) 57歳 広島 蔵相 昭和12年6月から13年5月まで近衛内閣の大蔵大臣、同14年から16年まで北支開発会社総裁、同16年10月から19年2月まで東條内閣の大蔵大臣。(判決)終身禁固 |
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東郷茂徳(Shigenori Togo) 64歳 鹿児島 駐独、駐ソ大使、外相 昭和12年駐独大使、同13年駐ソ大使、同16年10月から17年3月まで東條内閣の外務大臣及び拓務大臣。(判決)禁固20年 |
白鳥敏夫(Toshio Shiratori) 59歳 千葉 駐伊大使 昭和5年外務省情報部長、同14年駐伊大使、日独伊三国同盟の立役者の一人、同15年外務省顧問、同18年翼賛政治会総務、論文多し。 (判決)終身禁固 |
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重光
葵(Mamoru Shigemitu) 59歳 大分 駐英大使、外相 昭和6年駐華大使、同11年11月から13年11月まで駐ソ大使、同13年から16年6月まで駐英大使、同16年12月から18年4月まで南京政府駐剳大使、同18年4月から19年7月まで東條内閣の外務大臣、同19年7月から20年4月まで小磯内閣の外務大臣兼大東亜大臣。 (判決)禁固 7年 |
大川周明(Shumei Ohkawa) 60歳 山形 大正15年満鉄経済調査局理事長、昭和6年9月18日の奉天事件の立役者の一人。国内革新、大東亜戦争の理論的指導者、多くの著書、論文 の筆者。 精神異常と診断され裁判除外 |
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松岡洋右(YousukeMatuoka) 昭和8年国際連盟首席代表、同10年から14年まで満鉄総裁、同15年7月から16年7月まで近衛内閣の外務大臣。 昭和21(1946)年6月27日、結核により東大病院坂口内科に入院中に病死。 |
このうち松岡洋右と永野修身は病死、大川周明は発狂入院のため、判決を受けたのは25被告であった。
※大川周明については 「こうして日本は侵略国にされた」冨士信夫著 展転社 (1800円+税)を参考にして欲しい。
東京裁判の究極の目的
日本が再び米国及び世界に於いて強国にならぬように
日本精神をぬき日本民族の永久隷属化にあった。
東京裁判、判決
東條元首相以下7人を絞首刑、16人を無期禁固刑、
2人に有期禁固刑。(ただし、松岡、永野、大川のぞく)
日本弱体化政策
マッカーサー元帥の6年8ヶ月に及ぶ長期の日本占領政策の眼目というか、その究極の目的は何であったか?
アメリカ統合参謀本部は、1945年(昭和20年)8月29日、当時マニラにいたマッカーサーに、伝令使によって、その有名な第一号アメリカ政策文書を伝達した。その第一部「究極の目的」の項にはこう明記されている。
「日本国が再び米国の脅威となり、または世界の平和及び安全の脅威とならざる事を確実とすること。」
すなわち、日本弱体化政策の使命をおびて、マッカーサーは厚木飛行場に降り立ったのである。彼は厚木に到着すると真っ先にソープ准将に東條以下の戦犯狩りを命令した。その結果、戦犯容疑者逮捕令が次々と発表され、A級戦犯の逮捕、監禁がはじまった。吹きまくる戦犯狩りの嵐の中で、敵軍の裁きをいさぎよしとしない幾人かは、逮捕を前に自らの命を絶った。杉山元陸軍元帥が拳銃自殺し、東條内閣の厚生大臣小泉親彦軍医中将が、続いて文部大臣橋田邦彦博士が服毒自殺し(東條大将は自殺未遂)、元関東軍司令官本庄繁大将が割腹自殺を、そして元首相公爵近衛文麿が服毒自殺をとげた。
A級戦犯約200名が、巣鴨拘置所に逮捕監禁された。
同時にB・C級戦犯約5、600人が各地で逮捕投獄された。横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、簡単な軍事裁判にかけられて約1000名が戦犯の名のもとに処刑された。
B・C級戦犯とは、主として捕虜取り扱いに関する不法行為による摘発で、B級は指揮・監督にあたった将校・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者、主として下士官、兵、軍属である。
捕虜取り扱いの乱暴な態度や上官の命令、あるいは環境の粗悪などがあったことは事実であろう。だが多くは裁判とは名のみで、ほとんど弁護人もなく、あっても形式だけで、はなはだしきは三、四回法廷に呼び出されたのみで死刑を宣告されるといった、ずさんな断罪であった。人違いもあり、犯罪事実に至っては、懲罰のため殴ったことがある、食事を減じた――ただそれだけで銃殺刑に処せられた兵もあった。これらの詳細については、巣鴨遺書編纂会の『世紀の遺書』、巣鴨法務委員会編集の『戦犯裁判の実相』および角田房子氏の『責任―ラバウルの将軍今村均』、上坂冬子氏の『遺された妻―横浜裁判BC級戦犯秘録』『巣鴨プリズン13号鉄扉』等を参照されたい。
受刑者は次の通りである。
B・C級戦犯被告 | 5606 名 |
絞首刑または銃殺刑 | 937 名 |
自決及び獄中死 | 131 名 |
終身刑 | 385 名 |
無期懲役 | 1046 名 |
有期懲役 | 3075 名 |
事故死及び死因不明 | 32 名 |
(正村公宏著『戦後史』(上)より)
こうしたA、B、C級戦犯の逮捕と併行して、戦争協力者と称する各界の指導的地位にあった者が一斉に公職から追放された。その数は21万人に及んだ。
このような占領軍による恐怖政治の嵐の中で、国際軍事裁判が開かれた。約200人の中から28人が選び出され、戦勝国9カ国にインド、フィリピンを加えた11カ国から、それぞれ判事と検事が任命された。裁判長はオーストラリア代表のウエッブ、主席検事はアメリカのキーナン、場所は東京・市ヶ谷の元陸軍省の講堂があてられ、マッカーサーがこの裁判を主宰し、本裁判の法的根拠である「極東国際軍事裁判所条例」の発布および判検事の任命も彼の手によって行われた。
敗戦国の指導者を、戦勝国が軍事裁判にかけて処刑するということは、かつて歴史にその例を見ないことであった。第一次世界大戦の時、ドイツ皇帝ウイルヘルム2世を裁判に掛けて処断すべしという声があったが、皇帝はオランダに亡命し、オランダは皇帝の引き渡しを拒んだため、未遂に終わった。
第二次世界大戦後、戦後処理をめぐって、英、米、仏、ソの4大国の代表が集まり、ヒトラーのひきいたナチス・ドイツの傍若無人の侵略性と凶暴性を将来の見せしめのためどう断罪すべきかについて協議した。戦勝した4大国は次の2点に関して完全に意見の一致を見た。
その一は、独裁者ヒトラーが一握りのナチス指導者と共に、世界制覇の野望をとげるために、近隣諸国をむやみやたらに侵略して、あるいは領土、財物を強奪するなど暴虐の限りをつくした。これは断じて許し難いことである。このようなナチズムの暴挙を断罪せざるかぎり、近隣諸国は枕を高くして眠ることは出来ない。将来の平和のため断固として裁判にかけて処断すべきである。
その二は、アウシュビッツに殺人工場まで作ってユダヤ人狩りを行い、600万人という大量の人間を、大がかりな組織のもとに計画的に殺害した。このような非人道的な行為は断じて許すことはできない。
この四カ国の合意によって、ニュルンベルクに国際軍事裁判所がもうけられ、ナチスの首脳を裁判にかけて処刑する事になった。
この裁判を行うため、従来の戦時国際法にはない、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」の二項目が設けられた。
かくして「ニュルンベルク国際軍事裁判所条例(戦犯顕彰=チャーターと呼ぶ)」が作られ、このチャーターによってゲッペルス以下ナチス・ドイツの戦犯が処刑された。
22人の被告のうち、死刑12人、終身刑3人、有期刑4人、無罪3人、であった。
昭和20年12月、モスクワに集まった米、英、ソ、三カ国会議で、ドイツのナチス残党同様、日本のA級戦犯を国際軍事裁判にかけて処断することを決定した。そしてマッカーサー元帥が「判・検事の任免権」および「減刑権」をふくむ、最高指揮権を掌握し、裁判を統轄することとなった。
ところがマッカーサーは国際法にくらく、日本とドイツの政治体制や戦争終結の有条件か無条件かの相違等を何ら考慮することなく、ニュルンベルク裁判のチャーターをほとんどそのままコピーして、「極東国際軍事裁判所条例(チャーター)」とした。これを公布したのは昭和21年1月19日のことである。昭和58年来日したオランダ代表判事のレーリンク博士によると、当初マッカーサーは東京裁判にはほとんど興味が無く、真珠湾をだまし討ちした東條一味に復讐することと、自分がフィリピンで敗北し、不名誉の敗走を余儀なくされた本間雅晴中将に対する復讐についてはえらく熱心であったという。本間中将は裁判開始後わずか2ヶ月で処刑されている。しかもこの裁判の判事も検事も彼の部下を指名して行わしめるといったリンチ(私刑)にも等しい処刑であった。
それはともあれ、東京裁判のA級戦犯28被告 この28名をどういう基準で被告に選んだのか、もともと法なき裁判ゆえにいまだに疑問である を起訴したのは、昭和21年4月29日、すなわち昭和天皇の誕生日を期しての起訴である。しかも東條以下7戦犯が絞首刑に処せられたのは、昭和23年12月23日、すなわち皇太子殿下の誕生日である。ユダヤ教にとって最も聖なる日とされる過ぎ越しの祭りの日にキリストをゴルゴダの丘に磔死せしめた故事にならった文字通りの復讐裁判であった。
その起訴状は、3本の柱(類)と55項目にわたる訴因より成っていた。3本の柱とは以下の通り。
第1類 平和に対する罪(訴因第1−第36)
第2類 殺人(訴因第37−第52)
第3類 通常の戦争犯罪及び人道に対する罪(訴因第53−第55)
これで見てわかるように、従来の国際法にも条約その他慣習法にもない「平和に対する罪」「人道に対する罪」という新しい法概念を基礎に、昭和3年から20年までの17年間の日本の軍事行動を、全てヒトラーのナチス一党のごとく、世界制覇の野望のもとに行った侵略戦争であると決めつけて、25被告を裁いたのが東京裁判である。(裁判中、松岡洋右、永野修身両被告死亡、大川周明被告は精神異常のため分離)。
キーナン主席検事は、裁判冒頭、この裁判の原告は゛文明´であると大見栄を切った。しかし、文明諸国が等しく尊守している「法ナケレバ罪ナク、法ナケレバ罰ナシ」という法の原則とも言うべき「罰刑法定主義」を無視した「法なき裁判」を強行したのが、この東京裁判である。
それでは、何によって裁いたか?
日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した当時には存在しなかった「平和に対する罪」「人道に対する罪」なるものを当裁判所が管轄権を持つ犯罪であると規定して裁いたのである。
ポツダム宣言第10項には「われらの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては峻厳な裁判が行われるべし」とある。
この戦争犯罪人という意味は、戦争の法規、慣例を犯した罪ということである。戦争そのものは、当時はもちろん今日でも、違法でもなければ犯罪でもない。ウォー・クライム(戦争犯罪)といった場合、@交戦者の戦争法規の違反(非戦闘員の殺戮、毒ガス、ダムダム弾等非人道的兵器の使用、捕虜の虐待、海賊行為等)、A非交戦者の戦闘行為(便依兵の戦闘)、B掠奪、C間諜(スパイ)および戦時反逆の4つを言う。しかるに未だかつて聞いたこともない「平和ニ対スル罪」「人道ニ対スル罪」などという、新しい法概念をうち樹てて、その「法」によって裁いたのが東京裁判である。
清瀬弁護人はこの点をとらえて、いずれの文明国においても「法は遡(さか)のぼらず、」すなわち「法の不遡及」は法治国家の鉄則であり、本条例はこれを犯すものであるとすることを含む7つの動議をひっさげて開廷早々法律論を挑んだ。
清瀬弁護人のこの正論に対し、裁判所は理由を述べないままこの動議を却下した。そして、動議却下から2年半後に下した判決の中で、動議却下の理由として裁判所条例は裁判所を拘束する唯一無二の絶対的権威であるという見解と、パリ不戦条約調印後は、調印国が国策の手段として戦争に訴えたときは国際法上の犯罪を犯したことになる、ということを含むニュルンベルク裁判所の見解に全面的に同意するという見解をのべてこの問題を片づけ、東條以下25名を処断したのである。
これに対してインド代表パール博士はその意見書の中で、本裁判は裁判という外貌はまとっているが、法に準拠した裁判ではない、裁判の名に値しない法によらざる裁判である、法によらざる裁判は私刑(リンチ)である、司法裁判所たるものは、現行の「法」の命ずるところに従って行動すべきであり、権力表示の道具であってはならない、と説いている。要するに「勝てば官軍、負ければ賊軍」式の司法の仮面をかぶった「政治裁判」「復讐裁判」であると断じているのである。
さらにパール判事は、いかに占領軍司令官と言えども、マッカーサーにこのような法律を創作する権利はないはず、世界法に対する越権であると鋭く衝いている。
法を無視し、力の正義をふりかざし、復讐の欲望を満たすため、2年6ヶ月の日子をついやし、開廷423回、法廷証人419人、宣誓口供者779人、当時の金で27億円(日本政府支弁)をかけ、東條元首相以下7人を絞首刑に16人に無期禁固刑、2人に有期禁固刑の判決を下したのである。
さて、ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク裁判所条例(チャーター)をそのまま東京裁判所条例としたものの、日本にはヒトラーはおらず、ナチスのような独裁政権ではなく、立憲君主国家であり、議会は完全に機能していた。起訴状にある昭和3年から終戦の20年までの17年間に、内閣は16回更迭している。しかもその理由は、主として閣内の意見不一致によるものである。しかるに、検察側は、28被告の「全面的共同謀議」によって侵略戦争が計画され、準備され、実施されたという法理論をうち立てた。このような法理論がいかに荒唐無稽の茶番劇であるかは、専門家をまつまでなく、日本の政治史を知る者なら中学生でもわかる常識である。
荒木被告はいう。この被告席にいる28名の中には、会ったことも、言葉を交わしたこともない人物が半分ほどいる。顔も知らず、会ったこともない人間とどうして共同謀議などてできようかと。また、賀屋被告はいう。「ナチスと一緒に挙国一致(17年間も)超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」(児島襄著『東京裁判』〈上〉119貢)。
まったく日本の満州事変から大東亜戦争までの国情は、賀屋元蔵相の言うとおりであった。陸軍のなかでさえ、皇道派だ、統制派だといって二派が争っており、陸軍と海軍の間にも確執があり、加えて血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件 …と血なまぐさいテロの嵐が吹き荒れ、政党政治は腐敗混乱ついに崩壊している。共同謀議による日本の中国侵略ないしは対米戦争の開始と言ったシナリオがいかにナンセンスであるかは、昭和史を一別すれば歴然たるものがある。むしろこのてんでばらばらな、計画性も、一貫した国策もなく、その場を糊塗してきたやり方が、支那事変をドロ沼化してしまい、スターリンやルーズベルトの世界政策に翻弄され、そのあげくの果てが大東亜戦争であったと見るのが妥当であろう。
しかるに、東京裁判の多数判決は、松井元大将と重光元外相の二人を除く、あとの東條元首相以下23人をこのありもしない「全面的共同謀議」という罪名によって処断したのである。
しからば、「人道に対する罪」はどうか。日本にはアウシュビッツはない。組織的・計画的に捕虜や一般人を大量に殺害したという記録などどこにもない。集団殺戮の事実もない。そこで持ち出したのが“南京暴虐事件”である。
ヒトラーの世界制覇のための侵略戦争――これを日本にあてはめたのが「全面的共同謀議」という虚構であり、ヒトラーのアウシュビッツに匹敵する非人道的な“大量殺戮”、これが「南京虐殺」という構図である。
○「平和に対する罪」
ヒトラーの世界制覇 = 日本の指導者の共同謀議による世界制覇(侵略)
○「人道に対する罪」
アウシュビッツの大虐殺 = 南京虐殺事件
こうしたシナリオをまずつくり、シナリオにしたがって「平和」と「人道」に対する罪という事後法による新罪名で裁いたのである。
私はさきに、南京事件は最初から東京裁判の目玉商品として扱われたと述べた。検察側は南京事件の証人として米人牧師ジョン・マギー(John G.Magee)米人医師ロバート・ウイルソン(Robert O.Wilson)金陵大学教授米人マイナー・ベーツ(M.S.Betes)および中国から許伝音、尚徳義、梁廷芳、伍長徳、陳福寶を招致して、南京大虐殺宣伝のため証言台に立てしめた。それだけではなかった。米人ジヨージ・フィッチ(GeorgeA.Fitche)ルイス・S・C・スミス博士(Lewis S.C.Smythe)ほか十数名の中国人の宣誓口供書(米軍のトーマス・H・モロー(Thomas.H.Morrow)大佐ごときは、裁判の直前南京にとび、かれ一人で八通の口供書をあつめている)。および書簡類、「南京地方院検察処敵人罪行調査委員会」(東京裁判に証拠提出のため設立した機関)の報告書など五十七通を含む、合計六十六通にのぼる証拠書類が提出され、しかもこれらが連日にわたり、モニターによって朗読されたのである。
昭和22年7月25日からはじまった検察側証人の証言、あるいは前記のおびただしい口供書や証拠書類の朗読は、断続的に8月30日まで実に1ヶ月以上にわたって行われた。
この間、ラジオは毎晩「真相はこうだ」(のち「真相箱」)というGHQ制作の番組を、音楽入りで劇的に放送し、旧日本軍の残虐性を、あることないことを誇大宣伝した。GHQの言論統制下にある各新聞は、筆を揃えて、旧日本軍の暴虐ぶりを、これでもかこれでもかというように連続報道した。当時としてはこれに対する反論や批判は封ぜられ、厳しい言論統制下にあって、抗弁のしようもなかった。国民は、ただ身を縮め、いたたまれない思いで、じっとこれに耐えるほかなかった。
このようにして、はじめて知らされた「南京大虐殺」なるものは、海外にも大きな反響を呼んだ。
東京裁判は三つのねらいというか、三つの目的をもった裁判であるといわれている。
その一つは「歴史の断絶」である。歴史観の革命的変革といってもいい。日本の戦前の歴史、文化、伝統はすべて“悪”として断罪することであった。つまり、日本を最初から侵略者と決めつけ、日本および日本軍の行った行為はすべて“悪”であり、犯罪行為であり、連合国の行った行為はすべて“善”であるという前提の許に開かれた裁判である。いうならば、戦勝国が力の正義をふりかざして敗戦国を一方的にさばいた裁判である。
その二は、「罪の意識の扶植」である。旧日本軍がいかに大陸および東亜の諸国において非人道的な犯罪行為を行ってきたかを徹底的に内外にプロパガンダすることである。ひいては日本の伝統と文化にダメージを与えることによって、愛国心を抹消し、日本民族再起の芽を摘み取ることである。
その三は、いうまでもなく復讐である。
南京事件は、この三つの目的をかなえるための絶好の材料であった。
そのためにこの裁判は“偽証罪”は問わない、検証もしない、という、中世の魔女狩り的な裁判であった。すなわち旧日本軍の不法や暴虐、非人間性の犯罪行為については、たとえ伝聞であれ、うわさ話であれ、創作であれ、デッチあげであれ、何なりとこれを提訴せよ、裁判所は検証なしですべてこれを採択しようという、およそ文明国の軌範を脱した裁判であった。
これに反して連合国軍の行った行為は、たとえそれが戦時国際法に違反していようが、条約違反であろうが、ウエッブ裁判長の「この裁判は日本を裁く裁判で、連合国軍の行為とは無関係である。」の一言の許に退けられ、結局、広島・長崎への原爆投下も、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州、南樺太に侵入し、開拓民を含む約25万人の日本人を虐殺し、57万5千人の日本将兵をシベリアの奥地に連行して、長きは十余年にわたって、囚人同様の強制労働に服せしめ、死者5万5千人(以上は厚生省調べ)を出した不法も、終戦後日本が武装を解除した8月15日以降に侵略した北方四島の不法占拠も、東京裁判ではそのことの発言さえもゆるされなかった。
南京事件を論ずるとき、「大虐殺派」の人々は必ず、東京裁判に用いられた検察側の証言や証拠を持ち出して立証する。だが、東京裁判およびそれ以後の資料はすべて信憑性のない二次資料以下の副次資料であって、私はこれを「後期資料」と呼んでいる。信憑性のある第一級史料(資料)とは截然として一線を画すべきであるというのが私の主張である。
偽証罪もないような、片手落ちの一方的な裁判で、言いたい放題をならべたて、あるいはローガン弁護人が指摘するように「見たこともない、聞いたこともない、又どこにいるかもわからないような人間」の口供書をどうして信用できようか。
米人マギー牧師は2日間にわたって日本軍の犯罪行為を並び立てたが、ブルックス弁護人の反対質問にあって、マギー証人が殺人を目撃したのはたった一件、それも占領直後日本兵に誰何(「だれか?」と声をかけ姓名などをたずねること)されて逃げ出した男が撃たれるのを見たというのである。
南京安全区国際委員会のメンバーとして、日本軍の占領期間中、日本軍の行動を監視するため自由行動をとっていた米人牧師が、その目で見た殺害事件は前述の一件、強姦一件、窃盗一件のわずか三件のみで、他は全部伝聞に属するものであったことが暴露されている。
これはほんの一例にすぎない、当時南京には、日本の行動をこころよく思っていない第三国人が常時監視しており、そのほか揚子江には5隻の米英の艦船が停泊していた。こうした衆人監視の中で南京占領は行われたのである。
しかもこれら40名以上の第三国人のうちだれ一人として、何万はおろか、何千もの人間を虐殺しているのを目撃した者はいないのである。のちに述べるように、南京占領と同時に入城した日本の従軍記者やカメラマン、作家等もそうした集団虐殺の光景を見たというものは一人もいないのである。
日本側から提出した膨大な証拠書類は大部分が却下された。偽証罪もはずして、検察側の言い分だけが認定された、この強引な裁判のやり方に対し、当然のことながら、判決はいくつにも分かれた。
法廷で朗読された判決文は、米・英・ソ・中・カナダ・ニュージーランドの6カ国の判事による多数判決である。裁判所(チャーター)条例には少数判決もこれを朗読すべしとあったが、少数意見は朗読されないばかりか、概要の発表すら厳禁された。
パール判事の百万語にもおよぶ浩瀚な法理論の展開と全員無罪の判決はよく知られる所であるが、このほかに前記のオランダ代表のレーリンク判事、フランス代表のベルナール判事、フィリピン代表のハラーニヨ判事、奇妙なことに裁判長のウエッブ(オーストラリア代表)判事までもが、少数意見を発表し、多数意見に全面的な賛意を表さなかった。
ことにフランスのベルナール判事は、この裁判がいかに裁判の名に値しない、最初から仕組まれた虚構であり、政治的ショーにほかならなかったかを暴露してこう述べている。
「判決の中の事実の認定に関する部分は、すべて起草委員会によって起草され、その起草が進むにつれて、まず、最初に《多数》と呼ばれた7名の裁判官から成る委員会に提出された。この草案の写しは、他の4名の裁判官にも配布された。後者は多数裁判官の討議のために、また必要が起こった場合には、草案を修正するために、自分の見解を多数判事に提出ことを要請された。しかし、本裁判所を構成する11名の裁判官が、判決の一部または全部を口頭で討議するために会合を求められたことは一度もなかった。
草案の個人に関する部分だけが口頭の討議の対象であった。 (中略)
討議期間とも言ってもいい期間中に《少数》に属する数名の裁判官は、草案を読んで思いついた意見を述べた覚え書きを書面で各裁判官に提出した。これらの意見のうちには、多数裁判官によって採用され、最初の草案の修正をもたらしたものも幾つかある。すべての裁判官に配布されたものには一つの反対意見の草案と、反対ともいえるかも知れないもう一つの意見の草案もあった」(朝日新聞法廷記者団著「東京裁判」〈下〉判決編)
最後に同判事は、「裁判所が欠陥ある手続きを経て到達した判定は正当なものでありえない」と述べたあと「“平和に対する罪”の起追については、被告に確かに罪があるものと認めるわけにはゆかない」と言いきっている。つまり同判事は、「通例の戦争犯罪の責任範囲についても、ここで審理を受けた被告らは、(松井大将を含め)誰一人として《直接の遂行者》でもなく、その《命令者》でもない。指揮官の地位にあったというだけの理由で、その違反を防ぐことができたかも知れないのに、そうしなかったということで、責任を問い、重刑に処することは反対である。」と主張しているのである。
しからば多数判決は、南京事件をどう判定したか。これまた支離滅裂である。抄出すると次のように述べている。
「南京が占領された後、最初の2、3日の間に少なくとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女子供が無差別に殺害され、占領の1ヶ月のあいだに約2万の強姦事件が市内に発生した。また一般人になりすましている中国兵を掃討すると称して、兵役年齢にあった中国人男子2万人が集団的に殺害され、さらに捕虜3万人以上が武器をすてて降伏してから72時間のうちに虐殺された。なお、南京から避難していた市民のうち5万7千人が日本軍に追いつかれて収容され、彼らは飢餓と拷問にあって、ついに多数のものが死亡し、生き残った者のうちの多くは機関銃と銃剣で殺された」
判決は占領直後の2、3日のあいだに1万2千人の非戦闘員が無差別に殺害されたとしているは、国際委員会のメンバーであり、金陵大学教授であるベイツ博士は、証言台で、安全区およびその付近で調査したところによれば、死体数が1万2千あったと証言しているが「2、3日のあいだ」というような時間的限定はしていない。東京裁判の多数判決は、証人が言いもしないことまで付け加えて、その数を増やそうとしているのである。中国男子2万以上というのは、南京駐在米副領事エスピー(JamesEspy)の「詳細なる記録は入手し居らざるも、悠々2万以上の人々が斯くして殺されたりと計算せられ居れり」という全くの伝聞というより、かれの想像に基ずく証言を採用したもの。捕虜3万以上というのは出所不明。南京から避難した5万7千というのは、魯甦という中国人が、砲弾で足を負傷し、幕府山にちかい上元門で「将に退却せんとする国軍及難民男女老幼、合計5万7千4百8人が餓死し、凍死し、機銃で掃射し、最後には石油をかけてこれを焼いたのを見たという裁判所に提出された全然架空のでたらめ書類によるもの。これに対し、さすがの洞氏も「少々不審に感ぜられぬでも
ない」(N−91貢)と言っているが、少々どころか、当時幕府山にいた部隊は歩兵第65連隊(会津若松)の山田支隊のみで、その兵力はわずか1500、その山田支隊が約10倍の1万4千人の捕虜をかかえてその始末に困惑していたのである。(この捕虜については別項で説明を行う)魯甦はおそらくこれを5万7418人と数え、幾日かかったかは知らないが、これだけの大群衆が最後には掃射され、石油をかけて焼かれるまで見届けたというのである。しかも1の単位まで数えたというのであるからまさに超人的である。この中国人特有の“白髪三千丈”式の孫悟空的物語を、東京裁判はことごとく判決文に採用しているのである。強姦2万件というのもラーベの噂話である。
このように、判決文は、南京事件の犠牲者を12万7千人とみているのであるが、さらに別の箇所で、こうも述べている。
「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている・・・・・」(前掲同書)
ここに言われている埋葬死骸15万5000というのは、
紅卍字会の手による埋葬死体・・・・・4万3071体
崇善堂の手による埋葬死体・・・・・・11万2366体
合 計 15万5337体
のことである。しかし、この日時、場所、埋葬場所、その数および男女・子供別の、いかにもっともらしい埋葬一覧表は事件後9年を経て、東京裁判に提出するため、「南京地方法院検察処敵人罪行調査委員会」がまにあわせに作成したものである。東京裁判の多数判決は、これをこのまま採択して、20万以上の虐殺と宣告しているのである。
ところが、後述するように、崇善堂の11万余の埋葬なるものは全然架空なものであることが、最近、中国側の、しかも事件当時の南京政府が発行している公的資料によって判明した。(詳細は別項にて説明)
以上は総括判決であるが、松井石根被告に対する個人判決はどうか。
南京事件の不作為で絞首刑に処せられた松井被告に対する判決文は次の通りである。
「この6、7週間の期間において、何千人という婦人が強姦され、10万人以上の人が殺害された・・・・」(前掲同書)
強姦は2万件から、何千人に、殺害者は20万人以上から10万人以上に半減している。
これはいったいどうしたことか。一つの判決文の中に、殺害した人数が、3通りある。一方では20万人以上といい。一方では10万人以上という。極東国際軍事裁判と銘うって、7人の被告を絞首刑に処した厳粛なるべき人類はじまって以来の世紀の裁判と銘うった裁判の判決文が、このようにずさんきわまる大デタラメなものであるということを、読者の皆さんはよく記憶しておいていただきたい。文官の廣田弘毅被告が軍人職である「軍事参議官」の肩書きのまま処刑されている。荒木貞夫被告はなったこともない「内閣総理大臣」の肩書きがついている。弁護側がいくどその誤りを指摘しても遂に判決までこの誤りは修正されなかったというでたらめぶりである。その「軍事参議官広田弘毅」は5対6の一票の差で絞首刑を宣言されているのである。およそ文明国の裁判では考えられないことである。(東京裁判に関する詳論は、拙著『東京裁判とは何か』〈日本工業新聞社刊行〉を参照されたい)
日本では、東京裁判に関する判決は、GHQの厳しい言論統制によって、7年間にわたる占領期間中厳禁されてきた。(私がパール博士の判決文抄訳を『日本無罪論=真理の裁き』と題して太平洋出版社から初めて上梓したのは、日本がサンフランシスコ条約に基づき占領が解除され、独立した昭和27年4月28日のことである)
しかし日本を裁いた側の米英のマスコミや権威ある国際法学者や裁判官は、裁判の判決がおりた直後から、ニュルンベルクと東京裁判に対する批判をおこなわれた。ニューヨークタイムズは東京裁判の直後、この裁判を無効とし、全員無罪を判決したパール判事の少数意見を一面トップで大きく取り上げこれを評価した。ロンドンタイムズは1952年6月から7月にかけて約1ヶ月間にわたって、この2つの裁判に対する論争を連載した。イギリスの国際法の権威であるハンキー卿はその著『戦犯裁判の錯誤』(Politicstrials and errors)の中で、「パール判事の所論は全く正しい」という立場に立って、パールの判決文を縦横に引用しながら戦後連合国が行った戦犯裁判(軍事裁判)を徹底批判している。
米の連邦最高裁判所のW・O・ダグラス判事は「極東国際軍事裁判所は、国際法に基づいて審理できる自由かつ独立の裁判所でなく、パール判事が述べたように、同裁判所は司法的な法廷ではなく、政治権力の道具にすぎなかった」と述べた。
米の国際法学者マイニア教授は「東京裁判の判決は、国際法、法手続、史実のいずれから見ても誤りであった。結局〈勝者の裁き〉にすぎない」として『勝者の裁き』という著書を世に問うた。同じくアメリカ最高裁のフレッド・M・ヴィンソン判事は、パール判決を支持し、多数判決を糾弾した。ドイツの哲学者ヤスパースも別の角度から、この2つの裁判を行った連合国の思い上がったごう慢な行為を痛烈に批判した。
何よりも刮目すべきことは、この裁判の総轄的主宰者であり、判検事の任免権をもち、自ら戦犯憲章(チャーター)を起草した連合軍総司令官マッカーサー元帥が、1951年5月3日、米上院の軍事外交合同委員会の聴問会で「日本が第二次世界大戦におもむいた目的は、そのほとんどが安全保障のためであった」と、東京裁判で裁いた“日本の侵略”を全面的に否定し、日本が行った戦争は自衛のための戦争であったことを認めたのである。
傲岸多弁の裁判長といわれ、天皇の責任追及に熱心であったオーストラリアのウェッブ裁判長は、ディヴィッド・バーガミニ(DavidBergamini)の『天皇の陰謀』(Japan’sImperialConspiracy)という本に序文を寄せてこう述べている。
「私が東京で判事席に座っていた30ヶ月の間に私は証人たちの日本君主に対する懸念と崇敬の念と、天皇の立場を説明する際の熱心さと厳正さにしばしば打たれた。私は日本が1941年に戦争に訴えたことを非難するいかなる権利をもっているのかと自問することが時折あった。私は日本が9千万人の住む小さな土地で耕作できる面積はそのうち15パーセントにすぎず、外部から激しい貿易制限や規制を受けていたとの弁護士の論述に多くの正論と酌量の余地を認めた。私は米国なり英国なりが同じ様な状況におかれたらどのように反応したか、それどころか国民がどのような反応をすることを望んだかを考えてみた。
米国も英国も日本が1941年におかれたような状況におかれれば、戦争に訴えていたかも知れないのである。」
日本の大東亜戦争が決して侵略戦争でなかったということを、このような文章ではっきり表現しているのである。さらにこの裁判の基本的な問題にふれて、
「パリ条約(〈注〉パリ不戦条約とも、ケロッグ・ブリアン条約ともいわれ、日本はこの条約に違反したと称して侵略者の烙印をおして裁いた)は調印国がこの条約を破った場合その国の戦争指導者が個々に責任を問われることは明記していない。有力な国際法学者の中には、この条約が個人に対して責任をおわせているわけではないとの見解をとるものもある」
東京裁判があやまりであったことを、ウエッブはこういう形で表現しているのである。マッカーサーも裁判から3年後の1951年四月、ウェーキ島でトルーマン大統領と会談したとき、「東京裁判は平和のため何ら役に立たなかった」という表現で、この裁判のおやまりを認め、キーナン首席検事も、ファーネス弁護人への書簡の中で、重光葵のような人物を被告にしたことは、誤りであったと告白している。
およそ今日、権威ある世界法学者で、東京裁判の合法性を認め、これを支持するような学者は皆無と言っても過言ではない。
昭和58年5月、講談社が実質的な主催者となって、長編記録映画『東京裁判』が公開されたのを機に2日間にわたる国際シンポジュームが開かれた。
このシンポジュームに参加したのは、オランダ代表判事レーリンク博士、西独ルール大学々長イプセン博士はじめ、米マサチューセッツ大学マイニア教授、ロンドン大学ジョン・プリチャード教授、ソ連のルニョフ教授、ビルマのタン・トゥン教授、韓国ソウル大学白忠鉉教授、中国南開大学愈惇惇教授、その他東京裁判の弁護人ファーネス氏、補佐弁護人瀧川政次郎博士等々、そうそうたるメンバーで、日本の司会者は細谷千博(一橋大名誉教授)、安藤仁介(神戸大教授)大沼保昭(東大助教授)の三氏、その他に児島襄、栗屋憲太郎、秦郁彦、鶴見俊輔、木下順二、家永三郎氏らがパネラーとして発言した。
この国際シンポジュームは、東京裁判の違法性を公然と批判した点で画期的意義をもつものであった。
イプセン博士は、「侵略戦争は第二次世界大戦当時、そして現在でも、国際法上の“犯罪”とはされていない。不戦条約の起草者たる米国務長官ケロッグは、戦争が自衛的か侵攻的かは関係各国が自ら決定すべき事項で、裁判所等がにんていすべきものでない」と言明し、さらに「東京裁判以後の推移をみても、遺憾ながら東京裁判が裁いた法は、条約法によって再認識されてもないし、慣習法に発達させられてもいない。大多数の国家は現在でも、国際法上の犯罪に対する個人責任を認める用意ができていない」と述べた。
マイニア教授は「東京裁判は単に正義の戯画化であっただけではなく、20年後ベトナム戦争への誤りの道を開いた」と指摘した。
レーリンク博士は「インドのパール博士の主張に私は当時から敬意を抱いていた」と述べ、「日本が行った戦争は、アジアを西欧列強の植民地支配から解放するためのものであって、犯罪としての侵略戦争ではない」と語った。そして日本側の提出した証拠はほとんど却下され、裁判は不当・不公正なものであったと述べた。
この席上、例の家永三郎氏もこの空気におされてか、東京裁判の不当・不公正について、これを認める発言をしたほどであった。
私が言いたいのは、このように世界の有識者、ことに権威ある国際法学者が否定し、マッカーサーもその誤りを認め、パールの言う「復讐の欲望を満たすために、たんに法律的な手続きを踏んだにすぎないような・・・・こんな儀式化された復讐裁判」と言っている東京裁判を、日本の政治家やマスコミや歴史学者、教育者までが信奉し、戦後52年を経ていまだに東京裁判史観の呪縛から脱し得ないでいるこの日本の情けない自虐意識についてである。
日本は15年間にわたって近隣諸国を侵略し、暴虐のかぎりをつくした犯罪国家である。近隣諸国、ことに中韓両国から教科書を修正せよと干渉されれば、はい。かしこまりました、とばかりにこれに従う、靖国神社にA級戦犯が合祀されている、首相がこのような神社に公式参拝するとはなにごと、と言われれば、参拝はとりやめる。「南京事件」ではいけない「南京大虐殺」に修正せよ、「真相究明のために、史料や関係者の聞き書きなどの検討がつづけられている」ではあいまいだ、“大虐殺”は概定の事実である。「国際的に非難を受けた」にせよと言われれば、「はい」といって一言の反論も抗弁もなくこれに従う。文部大臣が「日韓合併は、韓国側にもやはり幾らかの責任なり、考えるべき点はあると思うんです」と発言すれば、その発言を国民が活字で見る前に、韓国に通報され、韓国のお叱りで文相のクビがとぶ。首相がわざわざ韓国まで出向いてお詫びをする。しかも中曽根元首相は、議会の答弁で、中国に対する侵略は否定できないと、自国の戦争を侵略戦争だと公言してはばからない。
護国の盾として、尊い生命を捧げた幾十万の靖国の英霊を、侵略の手先だ、ないしは侵略の犠牲者だ、犬死にだと言われるのか。
いまや日本は、言論の自由さえも奪われ、独立主権国家としてのアイデンティティも失い、史上類例をみない自虐的な、祖国呪縛のなさけない国になり下がってしまった感がある。「東京裁判の虚妄は原爆の被害より甚大である」とパール博士は道破したが、政界もマスコミも教育界も、戦後52年、いまだに東京裁判史観シンドロームに押し流されて、立ち直る気配さえ感じられないのは、いったいどうしたことか?(『南京事件の総括 虐殺否定の15の論拠』田中正明著 謙光社より)