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存在の影、心の影

GOTSとの停戦協定が結ばれてから、明日で丁度半年になる。綾はカレンダーをめくりながらそのことを思った。私が反戦市民連合に参加してもう1年になるんだ。そう、あれはもう九ヶ月前になる。もう以前ほどではないが、思い出すたびに綾は心を静めねばならなかった。今日は姉さんも仕事を早く切り上げてくるはずだ。明正さんも夕方には来て一緒に食事してくれるはずだし、そんなにゆっくりしている暇はない。未だに乏しい食材を取り出すと、彼女はすっかり熟練した手つきで包丁を振るいだした。

食事と食後のひとときは楽しいものだった。明正さんのお母さんもすっかり体調を回復し、今晩は自慢料理を持ちよってさえくれた。また、明正さんの身の回りにおこった出来事を面白おかしく話してくれたときは、姉さんさえ一緒になって笑った。それが何よりも私には嬉しかった。でも、もう決して昔のようにケラケラ笑い転げない。口に手を当てて、くすくす笑うだけである。姉さんの友達は、ずいぶん上品になったね、なんて軽口たたいて、姉さんも私だって歳相応になるわ、なんてまぜっ返していたけど、本当はそうじゃない。もし本当だとするなら、姉さんに齢をとらせたのはあの日のせい。

楽しい食後のひとときを過ごした後、明正さんとおばさんは名残り惜しそうに帰っていった。近頃でもまだ世間は物騒なので、私達は外まで見送りには出ない。玄関でお別れしたあとは、すぐに鍵を閉める。こうしたあとは、よほどのことでもない限り外からの客を迎えることはない。
私がもう一度戸締まりの確認をしに家の中をまわり終えてみると、姉さんは後片付けを始めていた。私の戻ってきたのに気づくと、手を休めず、そのまま洗い物は自分がするから先に風呂に入っていなさいと言ってくれたので、その通りすることにした。
風呂に自由に入れるようになったのも、ここ数ヶ月のことである。それまでは週に二回しか入れなかった。水道は問題なかったのだが、ガスの供給量不足でろくに風呂を沸かすことが出来なかったのだ。ガス制限の初めのころは、二人して銭湯に行っていたものだ。しかし、それもやめになった。銭湯の帰りに姉さんが襲われたのだ。それも、あれは丁度例のあのショックからようやく姉さんが回復しはじめたときだった。銭湯からの湯上がりはただでさえ油断してはいけない状況だったのに、しいさんの行方不明兵通知のショックで一種の放心状態だった姉さんは、周囲の気配に気づかなかったらしい。私もうかつだった。忘れ物をしたので、姉さんを一人で夜道に残して引き返してしまったのだ。時間にして数分だったが、戻ってみると姉さんの姿がなかった。漠然と不安になった私は、自分も危険なのを忘れて、その近所一帯、姉さんの姿を探し求めて走り回った。もう夕暮れというには遅く、辺りも薄暗い。もしかして姉さんはまっすぐ家に帰っていて、逆に私の帰りの遅いのを心配しているかもしれないと思い出したとき、細い悲鳴と物音が近くの小屋から聞こえてきた。私が聞き間違えるはずがない。
「姉さん!姉さん、どこ?」
私は半狂乱になって小屋に駆け寄った。古い木製のドアには鍵がかかっていて、どうしても開かない。もう心配で気が狂いそうだった。
「姉さん!返事して!そこにいるの?」
手が痛くなるのも構わずドアを叩き続けていると、かすかな声らしき音が聞こえてきた。それとは別に激しい物音がした。しかし、私の力では中に入れない。世の中の全てを恨んで、それでも我知らず心の中である人の名前を叫んでいた。
「しいさんっ」
丁度そのとき、後ろで人の声がした。
「君、そこをどいて。今開けてあげるから」
振り返ると五十過ぎの精悍そうな男性とその奥さんらしき人が立っていた。他にも二、三人道から何事かと寄ってきてくれている。私がドアの前から下がると、間髪おかずにそのおじさんがドアに体当たりを食らわせて、ドアを無理矢理壊して押し入った。暗がりの中、一人の男が裏の窓から転げ落ちるように逃げ出している。
「こら、待て!」
応援に駆けつけてきてくれた人たちが追いかけていったが、私にはそんなことはどうでもよかった。
「姉さんっ」
小屋の中に飛び込むと暗くて一瞬何も見えなくなってしまった。が、かすかな息遣いで左手に居るのが分かった。
「大丈夫、姉さん」
足元の何かでつまずきそうになりながら、私は姉の横にしゃがみこんで急いで姉を抱え起こし、その様子を調べた。一通り調べて、安堵の息をついた。上着がボタン数個取れて、ジーンズのベルトが外れてそのボタンが外れていたけれど、ひどいことにはなっていなかった。
「大丈夫よ、姉さん、もう大丈夫だからね」
その時になって初めて、姉の様子が妙なのに気づいたのだ。奇妙なほどその顔に感情がない。
「うん、私は大丈夫」
そう言うと、姉は服の乱れを直し、破れたボタンのあたりを左右から寄せると、私の手も借りずに、ついっと立ち上がったのだ。そして、後ろにいた恩人夫婦に気づくと、軽く会釈までした。
「どうも助けていただきまして、ありがとうございました」
そのあまりに自然な振る舞いにあっけにとられているその人たちのしどろもどろの返事さえ聞かず、姉はまだへたり込んでいた私に手を伸ばし、微笑んで優しく言ってくれた。
「さあ、綾、どうしたの?帰りましょう」
姉の表情は穏やかだし、優しい。それでも、そこには温もりはなかった。その手をとって立ち上がりながら、私は泣きたくなった。気づいてはいたが、こんなにもひどかったということがわかってしまったのだ。こんな態度、姉が取るはずがない。
姉さんの心の殻が、もう開かれることはないんだ。

お風呂に浸かっているうちに、ふと昔の記憶を辿っていた私はすっかりのぼせ上がってしまった。もうもうと肌から煙り立つ湯気を見ながら、バスタオルで体を拭いていく。髪を梳かして、パジャマ代わりのトレーナーに袖を通しかけて、また思い出が一瞬またたいた。はじめてこの家に来たとき、しいさんが風呂上がりの私をみて開口一番でかわいい、といってくれた。変な人だと思ったけれど、真っ直ぐなしいさんの笑顔に見つめられて不思議と悪い気持ちはしなかった。ふかふかの布団に迎えられたような気持ちがして、私はしいさんを認めることにしたんだっけ。思い出から覚めて、首を振ってトレーナーをすとんと着ると、暖かった。

居間に戻ってみると、姉は洗濯物を片づけていた。もうほとんど終わっている。
「さあさあ、こんどはお姉ちゃんが入る番よ。あとは私が畳んでおくから」
姉は手を止めると、立ち上がった。
「そうね、じゃあ、あとはお願い」
姉が出て行くのを見送ってから、姉が座っていたところに座って、残り物を畳みはじめる。あとは室内で干していたものだけだった。洗濯物一つを干すのにも注意を払うようにしていて、いらぬ注意を惹きそうな衣類は人目に付かない室内で干すことにしている。外に干すのはセーターとかジーンズとかの厚手のものだけ。それと、男物のシャツや下着も干され、それらはもう姉の手できちんと畳まれていた。もう何度、主の肌に触れぬまま外に架けられ畳まれたことだろう。順番にタンスから引き出され、竿に吊るされ、姉の手で畳み直されることの繰り返し。そう、しいさんの服は姉さんが必ず畳むのだ。姉がそのことを意識しているのかどうかは分からない。とにかく、二人で洗濯物を畳み出すと、姉はまずしいさんの服から畳み直していく。私のや自分の分すら差し置いて。そんな自分に、姉自身は気づいているのだろうか。

TTIが松野地方の局地戦で負けてしいさんの部隊が再編成されたと公報されてからは、鬱窟した気配が私達の周りを満たしていた。それまでも旗色が悪そうだということは報道の端々から伺えたが、再編成というのはただ事ではない。再編成っていうのは大敗して部隊が維持できなくなったことを暗示しているのよ、と友達から教わっていたので、しいさんの身が心配だった。姉さんだってそうに間違いない。それでも、姉さんはその再編成の新聞記事をみつけたときに取り乱さなかった。体を震わせてはいたけれど、怯えた私をむしろあやしてくれたし、その後も何事もなかったかのように日常生活を続けていた。姉さんは生来の性分でしっかりしているのではなく、妹のあなたが出来てからだんだんそうなっていったのよ、とお母さんが言っていた。あまりに姉さんが普通に日々を送っていたので、その何気なさのうちに姉さんに歪みが生じていることを気付けなかったことを今は反省している。もっと早く気づくべきだった。実際には、私は姉の異変に気付くことが出来ないまま、あの日あの通知がやってきた。運命は私達に鉄槌を振り下ろした。
その通知は、二人組の男が持ってきた。二人ともかなり年配だったけれど姿勢は真っ直ぐで、コートの下は正装の軍服だった。そっと渡された手紙の中身は簡単なものだった。
「本日付を以って、上尾慎一軍曹を行方不明者と認む。なお、同軍曹は第三次松野作戦における奮迅の働きにより、その功績を以って同日付けで上等兵から軍曹に命ぜられた」
通知を何遍読んでもピンとこなかった。姉さんも黙っていた。男達は口数少なにしいさんを称え、書類をそっと置いて帰っていったが、その後も姉さんはその通知状を手にとったままずっと黙っていた。あまりの姉さんの無反応ぶりに心配になってきたとき、姉さんの頬に一筋、涙が伝わった。そのまま底冷えのする玄関に座り込んで、視線は宙の一点を見つめ続けたまま、微動だにしなかった。
それから一時間もしてから姉さんが部屋に戻ってきたとき、その表情はほとんどいつもと変わらない澄ましたもので、私が恐る恐る話し掛けても、これからは私達でしっかりしていかなくちゃね、とまで言って逆に私を励ましてくれた。
でも、その日から姉さんの食欲が減退し始めて、それはそのうち目にみえてひどくなってきた。最初は遠慮していた私も、姉さんが体調に変調を来たすまでになると黙っていられなくなった。寝苦しさも増していたのか、夜中でも布団の上で身を起こしてじっとしている姉さんを見ることが多くなって、目の下にうっすらとくまが出来だした。それだけでなく、自分のことをもはやまるで気にしなくなりだした。私のことはいろいろ構ってくれるのだが、姉さん自身の生活や身だしなみは徐々に崩れていき、それを気にしてもいない。
そしてとうとうある日、仏壇の北代家と上尾家の位牌に手を合わせているときに、姉さんの張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。
「お父さんお母さん、もう上尾くんは帰ってきません。毎晩、彼が出てきて冷たい目で苛むの。お父さんさえ背を向けてるし、お母さんもなんで遠くでじっとしているの。手を伸ばしても、もう誰にも届かない、綾さえいないの。私は罰当たりなんだわ」
突然ぶつぶつ独り言を始めた姉さんをみて、私は戦慄した。
「お姉ちゃん、お父さんもお母さんもお姉ちゃんのことかわいがっていたじゃない、そんなこと言わないで。ねえ、私はお姉ちゃんと一緒にいるから」
姉さんの手をとって私の胸に当てても、その手に力はなく私の手の間からするりと落ちていく。
「いいのよ、お母さん、いけないのは私。お母さんが怒るのも無理ないよね、しいさんを死に送り込んだのは私だもの。いいざまだわ」
「お姉ちゃん、もういいよ、ね、下にいってお茶いれるから、行こうよ、ね」
腕を引っ張っても、体を動かそうとしてくれない。こんな姉さんを見たのは生まれて初めてだった。お父さんとお母さんが亡くなって悲しいこともいろいろあったけれど、怖いと思ったのはこれが初めてだった。
「お姉ちゃん、ねえ、聞いてるの、ねえ」
袖が破けそうなぐらい力いっぱい引っ張って、初めて姉さんがうつむいていた顔を上げてくれたけれど、その深い独特の眼差しが闇に閉ざされていた。私のほうを向いているのに、私がいないかのように奥の壁に焦点を合わせて、口元は囁くような声で喋り続け、ほつれた髪の中で姉さんの顔は蝋人形そのものだった。
「お姉ちゃん、ねえ、お姉ちゃん」
揺すっても揺すっても、姉さんは無反応のまま。私は姉さんに抱きついて、涙があふれ、姉さんに呼びかけ続けた。
そうして、姉さんは廃人同様になってしまったのだ。

ふと気が付くと、姉さんが湯気と共にお風呂から出てきていた。頭に巻いたタオルからまだ白い湯煙がたっている。
「そういえば、綾は明日は集会に行くんだっけ」
そう言いながらタオルを鏡の前でとると、きれいに揃えたショートヘアが濡れたまま光にあたって羨ましいほどの黒髪が光った。
「ねえ、綾、聞いてる?」
「え、うん、そう」
「ふーん。それなら、明日の買い物と家事は私がしておくわ」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「いいのよ、明日は天気もよさそうだし、砂糸市場までいってこようかな」
洗濯物の横でうつらうつらしながら、私はまた昔のことを思い出していた。

本当に、私一人では私自身までだめになっただろう。部屋からろくに出られない姉さんの介護をし、回復を願って喋りかけ続けられたのは、まったく宏野さんとおばさんのお陰だ。二人とも私達がクォーターだということを知っても、全く変わらずつきあってくれた。二人が生活の手伝いを買ってでてくれたお陰で、私も姉さんとじっくり向き合え、わずかずつだけど徐々に姉さんの容態は良くなっていった。二週間も経つと会話までできるようになって私は大いに喜んだが、それでも姉さんは自分の殻に閉じこもっていて、もう昔のような姉さんとの会話は諦めなければならなかった。あの暴漢に襲われた時でさえ、姉さんには何の感情の起伏もなかったのだ。もう、私には希望はあまりなかった。姉さんはそこにいるし、話すらできるのだけれども、そこには心はなかった。小さいころからずっと手を引いてくれて、私の笑顔が好きで好きでたまらないと言ってくれた姉さん。私こそ、それをいってくれる姉さんの微笑みが大好きだった。気に入らないところもたくさんあった。まだまだ喧嘩もしたかったし、いろんなことを話したかった。でも、しいさんを間接的にせよ死に追いやったことで、姉さんは決して自分自身を許さない。その責め苦から逃れるため、自らの心を閉じ込め、自我を崩壊させたのだと思う。
その姉さんが、今ではアルバイトに行き、友達と笑うまでになった。あの言葉に、自分の人生の一縷の望みを託して。通知が来て一ヶ月が過ぎようというころに、その言葉はやってきた。一人の男の人が私達のところを訪ねてきた。須藤中尉と名乗ったそのおじさんは、もうかなり中年といってもいい年のようで、どこかお父さんを感じさせるところがあった。冷え込みのきつい日だったのに、勧めても彼は決して家には上がろうとしなかった。歩いて来るときに足を引き摺っていたのに、それが自分の義務であるかのように直立不動のまま玄関で立ち続け、しいさんの隊の隊長を務めていたと切り出した。そう須藤さんが話したとき、横の姉さんが微かに動いたのが分かった。そして、部隊でのしいさんの様子や、松野作戦における戦闘の様子を語ってくれた。混乱の中、立派に職務を果たしていたしいさんの姿が伝わってくる。須藤さんの説明は淡々としていた。涙はなかったけれど、その悲しみの深さは私にも伝わってきた。最後の出撃前の、戦友の柳下軍曹との会話もしてくれた。それまでうつろに聞いていた姉さんが、突然反応したのはその時だった。
「では、しいさんは、帰ってくる、て言ってたんですね」
「はい、そう聞いています。強い口調で、必ず帰ると二人で誓ったそうです」
「必ず帰ってくる、と。そう、そうなんだ‥‥」
その時の異様さから、私は一瞬本気で姉さんが狂ってしまったのではないかとさえ思った。しかし、姉さんはそれだけを言って、また黙りこんだ。
須藤さんの帰りを送りしなに、ふとその柳下軍曹のその後を尋ねた。一瞬の間が空き、それで分かった。
「彼は、戦死しました。苦しまなかったのがせめてもの救いです」
一礼をすると、須藤中尉は来たときと同じように足を引きずって帰っていった。その後ろ姿をみて、あの人も一生重い十字架を背負って生きていくつもりなんだ、と何故か確信した。

その日の間中、姉さんに変化はなかったけれど、ただ姿見の前で長い間じっと鏡を覗き込んでいた。

その次の日、私が少し出ている間に姉さんがいなくなって、大騒ぎになった。あの日以来、一歩も家から出たことがなかっただけに、宏野さんたちが懸命に探してくれて、結局一時間後に姉さんは家に戻ってきた。宏野さんのお母さんに付き添われて戻ってきた姉さんをみて、びっくりしたのは私だけではなかったに違いない。
「心配かけてごめんね、綾。ほら、しいさんはショートヘアっていうかおかっぱ頭がいいなって言ってたでしょう。だから」
ぎこちない言葉だけど、私には感じられた。姉さんの感情が、情緒が、わずかだけど溶け出してきている。その当時、肩にかかるまで伸びていたほつれ髪は、美容院でショートヘアへと綺麗に揃えられ、表情も少し明るい。その艶やかなショートカットは、確かにしいさんのお気に入りだった。
「ほら、しいさんがいつか帰ってくるときに、見せてあげたいから、ね」
姉さんは、須藤さんからの言葉一つを頼りにして、心を現実のこの世界に繋ぎ止めることにしてくれたんだ。
「ね、やっぱり変かな」
「うううん、お姉ちゃん、よく似合ってる。似合ってるよ」

それ以来、姉さんは目にみえて回復していった。ただ一つ、時々思い付いたように不意に手を止めてぶつぶつ呟くのを除いては。
「しいさんが帰ってくるっていったんだから。しいさんは帰ってくる」
それだけが姉さんを人間崩壊から護る言葉になったのだ。

そうして、今も、私と姉さんは待ち続けている。そう、姉さんのためにも、希望を持ち続けてなにがいけないっていうの?じっと見つめる私の目を不審に思ったのか、姉さんは髪を振って立ち上がって、私の側にやってきた。
「どうしたの、綾。ぼんやりしちゃって。眠いのなら、もう今日はちょっと早いけど、寝ようか」
私の顔を覗き込む姉さんの頭には、綺麗に揃ったショートヘアが揺れていた。


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