明日への途：敗走

敗走

本隊を出たのは朝の四時だったにも関わらず、もう日は傾き始めていた。上尾は頭上を見上げ、木々の梢の隙間から太陽の高さを確かめると、また歩きだす。沢沿いの険しい山道を歩くのはきつい。まして、数時間にわたる逃避行によって、すっかり右足首を痛めてしまっていた。本隊の新拠点まではいくつも山を越えねばならない。厳として聳え立つ山々を前にして、上尾は自分の不運を呪わずにはいられなかった。

嫌な予感は、昨日の昼に命令を受け取ったときからしていた。呼ばれて二佐のテントに入ると、妙に雰囲気が気まずかったのだ。
「上尾一等兵、入ります」
礼をして入ると、その場にいた隊長がコップを出してくれた。暑いテント内では非常に嬉しいものだったが、一口飲んでさらに驚き、危うくむせるところだった。
「こ、これはウイスキーでは……」
「そうだ。だが、今は構わん、特別に計らってやる。どうせお前の出撃は明朝だ、今飲んでも差し支えない」
「はっ」
口をつけつつも周りを不安そうに見回している上尾に気づいた隊長は、
「は、は、心配するな。私たちはアルコールには一滴も手を付けていない」
と言うと、何かを隠そうとでもするかのようにタバコをくゆらせた。

上尾が飲み終えてコップを従卒の一人に返すのを見て、参謀将校の一人が地図を広げたテーブルの脇に立ち上がった。上尾は再び気を付けの姿勢をとる。
「では、上尾一等兵に命令を伝える。……おいおい、そんなに硬くならなくてもいいぞ。それではせっかくウイスキーをやった意味がない」
「はっ」
とは言え、ここに並ぶのは士官ばかりで、そうくつろげるものでもない。軍隊式休めの姿勢をとった上尾を見て、参謀は苦笑した。
「……まあいい。一等兵は明朝〇四〇〇に八九式軽ジープに搭乗し、索敵に出動する。ポイントはここだ。ここに〇五三〇までに到着し、本部に暗号で状況を入電後、0600より第一八七谷一帯及び第一八八谷の一部地域、こちらは見えるところだけでいい、無理はするな、を目視及び熱線による監視に入れ。何かあれば自分の判断で重要と思われる事項だけを伝達せよ。その他については通常任務と同様だ。質問は？」
「帰投は何時でしょうか」
「こちらから指示のない限り一八〇〇を目途とする」
「失礼ながら、『目途』とはどういう意味でしょうか」
「状況次第で変化するということだ」
嫌な予感が予感ではないことに薄々感づいたのはこのときだった。部隊配置図も何か様子がおかしい。
「分かりました。もう一つよろしいでしょうか」
「なんだ」
「同行者は誰なのでしょうか」
「いない。シングルミッションだ」
「……分かりました。以上です」
「よし、退出してよし。今日一日は一切の雑務免除だ、ゆっくり休め」
「はい、上尾一等兵、退出します」
回れ右をしてテントを出ようとしたとき、背後から参謀の声が飛んだ。
「上尾一等兵」
「はっ」
振り返った瞬間、参謀と目が合った。
「幸運を祈る」
その目に、上尾は悲しい色を見た。
「は、ありがとうございます」
テントを出ると、不思議と風がひんやりと心地良かった。覚悟の決め時であることを悟った。

第一偵察小隊のテントに戻って荷物を八九式軽ジープ、通称カナブンに積み込んでいると、同僚の柳橋がやってきた。抱えている荷物からすると、彼も辞令を受けてきたらしい。
「よう、上尾、手回しいいな。今から準備か」
「ああ。朝早いからな。お前もだろ？」
「そうだ。たまんねぇな、全く」
上尾は食料を積み、赤外線望遠鏡を点検した。
「なあ、上尾」
「ん？やなさん、なんだい」
カナブンの横に座り込んだ相手を見て、上尾もその横に座った。
「上尾、お前、参謀テントの地図見て気づいたか？」
「やなさんもかい」
上尾が同じ意見であるのを知って、彼の表情には独特の皮肉な微笑が浮かんだ。
「撤退、だな。三日後だそうだ。やれやれ」
「参謀が教えてくれたのかい」
「いや、第二小隊の知り合いに聞いたんだ。なんで俺たちがシングルミッションになったと思う？第二小隊が全員総出で退路の偵察にかかりきりだからさ。俺、見たよ。カナブンは七台用意してあった。隊長自身さえ自ら偵察にでるのさ」
「それじゃたぶん、二日ぐらいポイントに張り付けかな。道理で食料の支給が多いわけだ」
「たぶんな。全く、たまんないな」
しばらく二人の沈黙が続いた。
「なあ、やなさん」
「なんだ」
「やなさんの家、福井で農家やってたよな。豪農だって自慢してたろ」
「豪農ってのは嘘だけどな」
「じゃあ、もし俺に何かあったら、牧と綾を頼まれてくれないかな」
木漏れ日の模様が二人にまとわりつき、遠くで鳥の鳴き声がする。
「おい」
「なんだい？」
上尾が横を向いた途端、柳橋は上尾の胸ぐらを掴んだ。
「お、おいおい、やなさん。どうしたんだ」
「どうした、じゃないだろ。お前いつも言ってたろ、必ず帰るって、帰ってその北代姉妹にまた会うんだって。必ず生きて帰るっていう俺との約束はどうなったんだ？今更破るつもりか？」
「わ、わかったよ。とりあえず手を離してくれ、苦しいじゃないか」
手が離れると、上尾はようやく息をついて深呼吸をした。柳橋がじっとこちらを見つめている。
「そりゃ、俺だってやなさんとの約束を破る気はないよ。でも、なあ」
「なんだ、その、でもっていうのは」
上尾はシートに載せてあったファイルを渡した。作戦に必要な事柄が網羅されている。柳橋がそれをパラパラめくっている間、上尾は胸ポケットをごそごそ探って、一枚の写真を取りだした。縁がもう擦り切れいる傷んだ写真。それを日に翳し、愛しそうに眺めながら、柳橋に話すでもなく話す。
「やなさん、俺の運もいよいよ尽きたかもしれないんだ。もう二回も幸運で助かっているしな、次はもうないかも」
「どうしてそう弱気になる。例えシングルミッションとはいっても、所詮はせいぜい二日……」
漫然とファイルを繰っていた柳橋の手が、地図のところでぱたりと止まった。横から上尾がちらりと覗き込み、また写真を眺める。
「な、わかってくれただろ。やなさん、二人のこと、本当に頼むよ」
「一八七谷……」
第一八七谷はこの辺り一帯の中でも割合に広い谷で、要衝の地である。が、何よりもこの谷が意味を持つのは、以前にこの大隊がその谷からかなりの犠牲とともにＧＯＴＳに追い払われたからである。武力に勝るＴＴＩだが、ゲリラ戦で山肌から執拗に襲ってくるＧＯＴＳに手を焼き、引き払うことを余儀なくされたのである。被発見率が高いので、偵察仲間内では『兎狩りの谷』と呼ばれていた。もちろん、兎になるのは自分たちである。
「やなさんはどこなの」
「二○二谷と二○三谷の分かれ目だ。奇襲以外に使い途のないとこだ」
「それなら、やなさん、悪いけれど故郷に戻るときに、この写真を……この写真を二人に渡してくれないかな」
そう言うと、ボールペンで裏に『二人でしっかりやれよ。さよなら。上尾慎二』となぐり書きをして、柳橋に差し出した。じっとそれを見つめていた柳橋は、しかし、
「いやだ」
と言うと、上尾の手を押し戻した。上尾が気色ばむ。
「やなさん、どうしてそんな」
柳橋は高い空を見上げ、上尾の苛立ちを無視するかのように溜息をついた。
「自分で渡せよ。そんな恥ずかしいもの、俺が渡せると思っているのか」
その言葉に、上尾の中で何かが吹っ切れ、流れ去っていった。ゆっくり写真をしまうと、穏やかな気持ちに戻る。
「そうだな、そうするとも、やなさん」
柳橋は上尾と目を合わせると、珍しく照れ笑いをした。
「決まってるだろ、上尾。俺たちは生きて帰るんだ、絶対にな」

とはいえ、上尾の運は確かに尽きていた。いや、それは正確ではない。辛うじて残っていたというべきであろう。朝靄に紛れて山裾まで辿り着き、乗ってきたカナブンを隠して予定のポイントに着くあたりまでは順調だった。しかし、八時を過ぎた頃、一八八谷の山陰から何かがやってきたのである。双眼鏡を覗くと、紛れもないＧＯＴＳの装甲車と砲兵隊、それに兵員輸送車が何台かが続いている。逐次打電を始めたのであるが、電波状態が悪いから、と出力を上げすぎたのがまずかったらしい。左手の山裾にＧＯＴＳの先遣隊が到着して登ってくるのを発見したときには、まだ三十分も経っていなかった。最後の打電は、
「我敵ニ発見サル、退却許可サレタシ」
折り返し、
「許可ス。『天竺』マデ自助努力セヨ。幸運ヲ祈ル」
つまり、増援は送れない、と言うことだ。本隊を恨んでやりたいところだが仕方がない。今の本隊に余力はない。この状況下では、一人を助けるために五人を割くわけにはいかないことを上尾自身も承知していた。つまり、そのためのウイスキーだったわけだ。なんとか自力で『天竺』すなわち二四二谷中央の丘陵部まで辿り着かねばならない。
それからは、素早さのみが上尾の武器だった。争っても多勢に無勢、逃げるが勝ちである。その場で無線装置のキルスイッチを押して暗号回路をショートさせ、背嚢と小銃をだけを掴むとその他一切を捨てて山を駆け下りる。幸い、敵はカナブンのある側とは逆から登ってきているので、カナブンをカムフラージュから出す時間があった。

が、カナブンに乗って逃げ切れると思えたのも一瞬であった。上尾には何が起きたのか分からなかった。今でもよく分からない。大方、徹甲弾でも撃ち込まれたのだろう、気がつくと自分の体が道の脇の薮に吹っ飛び、カナブンが谷底めがけて最初で最後の飛翔をしていくのが見えた。続いて、谷底でドーンと言う爆発音。その間にも、上尾は伏せたまま散らばった荷物を掻き集めて手元に落ちていた背嚢に詰め直すと、小銃片手に山手を目指した。今の爆発で敵の目をしばらくごまかせるかも知れないが、どのみちこの一八七谷は危険すぎる。この谷に留まっていては発見されるのも時間の問題であろう。それよりも、いっそ山越えをして一九一谷のほうから迂回するほうがいい、と考えたのだ。山越えなら、追ってこられるのもせいぜい歩兵だけになるし、一九一谷は一八七谷に比べるとはるかに道が悪い。幅員もやっと車一台が通れるかどうかしかない。現在の戦局で、そこまでして敵が追ってくる可能性は低かった。
実際、上尾が無我夢中で山頂まで茂みをかき分け、そこでじっと息を潜めて気配をうかがっても、追手は現れなかった。やっと一息ついて、そこで初めて上尾は自分が右足首を捻挫していることに気づいたのである。足の負担を軽くするため余分な荷を捨てると、とぼとぼと二十キロ以上の行程を独りぽっちで歩きだしたのだった。

尾根を越え、峠を越えてまもなく、山道は砂利道と接続した。地図を見ると、どうやらこの道は林道のようである。自動車が走るにはいかにも厳しい道だが、上尾のような徒歩にとっては楽なものであった。右足首の痛みは時間とともに悪化の一途を辿り、途中で枝を折って杖を作ったが気休めにしかならなかった。早く手当をしたいが、近くに冷たいものがない。峠を越えたばかりなので、沢はまだ遥かな下方である。とにかく沢に近づくまでは我慢して歩くしかない。肩の小銃が重く感じられた。
しかし、それでも痛みをこらえて歩を進めるうち、気がつくと沢の流れる水音は上尾の足音を消してしまうほどになっていた。ちら、ちら、と梢の合間からせせらぎらしきものが見えてくる。もうすぐ、もうすぐだ、あと少しいったら川縁に降りて休もう。朝からの休みなしの行軍に悲鳴をあげる肉体に鞭打って、上尾は歩くことに全神経を集中させた。

が、おそらくますます大きくなる沢の水音に上尾の心は乱されていたのだろう。自分が当初ほど周囲に気をめぐらせなくなっていることに、上尾自身は気づいていなかった。

沢が道からほとんど見えている。しかし、この辺りでは川縁に座ると道から発見される恐れが多分にある。上尾は我慢して支尾根をもう一つ回ることにした。左手の山に沿って道がついているので、川を右に見ながら道は左へ支尾根を巻くように回り込んでいた。トチやナラの大木が天蓋を形成して、砂利道は思いの外涼しい。上尾は半ば無意識に歩いていた。あと少し、あと少しでいい。道と共に曲がるにつれ、景色も大きく左に転回していく。ヘアピンカーブになっていたので、とりわけその変化も大きかった。

そして、曲がりきったとき、視野の中央に何かこの美しい自然とは不釣り合いなものが存在していることにようやく気がついたのである。一瞬、上尾にはそれが何だか分からなかった。が、それがまだ事故を起こして間もないジープだと理解した瞬間、反射的に身を伏せ、左の道端の茂みへ転がり込んだ。すぐさま小銃を構え、草越しに適当に狙いをつける。あれはＧＯＴＳの汎用ジープに間違いない。上尾は今度こそ死を覚悟した。直に銃撃戦が始まり、そして……
しかし、一分経ち、二分経ち、五分経っても何事も起こらなかった。息を殺して気配を伺っても、聞こえてくるのは五月蝿いばかりの川のせせらぎだけ。どうもＧＯＴＳはあの土手にぶち当たって大破したジープを見捨てて、もはや移動した後らしい。上尾はそう見当をつけると、一応用心しながらもほっと一息ついて立ち上がりかけ、そこで人声を聞いた気がしてぎくりとした。低く腰だめに構えて四方を見渡す。どう見ても誰もいない。どうやら、沢のせせらぎを人の声と勘違いしたらしい。自分の臆病さに苦笑すると、上尾は立ち上がった。
「……け…て……」
今度は間違えようもない。かすかではあるが、確かに人の声だ。しかも、掠れた妙に高い声で、どうやらジープの辺りからのようである。上尾は身を屈めると、素早く道の右端へと転がり込んだ。こちら側からの方がジープ近辺をよく観察することができる。薮の中で体勢を立て直し、ヘルメットを目深に被り直してそっと草陰から慎重に様子を伺うと、さっきは死角になっていたところに人間が横たわっていた。ＧＯＴＳ特有の淡色グリーンの軍服である。間違いない。咄嗟に引き金を引きかけたが、そのまま銃口をゆっくり下げてしまった。どうもその敵兵の様子がおかしいのだ。今の上尾の位置からでは、横倒しに寝転がっている男のブーツの裏しか見えない。谷川に背を向け、右腕をだらりと伸ばしている。そして、そのずいぶん小柄な男は、先ほどから微動だにしないのだ。
銃で狙いをつけながらもゆっくり立ち上がった上尾は、その男の回りがどす黒くなっているのに気づいた。様子からして重傷は間違いない。いや、もしかしたらもう死んでいるかもな、そうぼんやり考えていたとき、また人声がした。その男が呻いているのだ、息も絶え絶えに。
「そこ……誰…か、…助…け……て……」
喋ったことでまた傷口が傷んだのか、途端に息が荒くなり、むせたように体をひくつかせる。まだ警戒心が抜けない上尾は、なおも小銃を構えたまま、それでもゆっくり近づくことにした。
「怪我してるのか」
小声で話しかける。相手はもう言葉を発する気力もないのか、かすかに首を縦に振った。いま、こいつを見捨てて逃げれば、本隊まで帰れる確率は高いだろう。しかし、心の奥底で何かが痛んだ。こんな敵兵など、見捨てても構わないはずだ。まして、生きて牧や綾に再会するためには、このような危険な場所に長居するべきではない。恐らく二人以上ジープに乗っていたと考えるのが当然だから、もう一人が救援を呼びに行っている可能性はかなり高い。即座に立ち去らなくては、そう考えながらも上尾は動けなかった。以前は救護兵をしたことがある上尾にとって、けが人を見捨てるに忍びなかった。たとえそれが敵であっても。逡巡のあと、診て応急処置だけすることで、上尾は良心と折り合いを付けることに成功した。その敵兵に抵抗の素振りがないことを確認し、小銃を手の届くところに下ろすと、
「止血をしてやる。しっかりしろ」
と言って背のうから救急セットを取り出し、止血パックを広げた。背後での物音に反応してか、その小柄な敵兵は首を回そうとして、
「グッ！」
とまた激痛に襲われて身をよじり、その反動でヘルメットが外れた。敵兵の方を見やった上尾は、呆然として危うく止血剤をこぼしそうになった。漆黒の長い髪の毛が広がっていたのである。
「おまえ、女なのか？」
反対側に回ってみると、その顔立ちは南方人特有の彫りの深いものだったが、まぎれもなく女性の、それもまだ年端もいかない少女のものだった。歯を食いしばって苦痛に耐えている。同時に、上尾はこの少女の傷口に目を遣り、天を仰ぎたくなった。腹部は血まみれで、右腕の上腕部にはざっくりと裂傷ができている。左の太ももに至っては何かの金属片が刺さったままであった。早急に適切な処置を取らないと、いや取ったとしてもこれでは助かる確率は五分五分よりずっと悪いだろう。しかも上尾は医者ではない。応援でも頼まない限り、助かる保証はまずない。ためらう上尾であったが、その時、不意に敵兵の姿に綾が重なった。家に来て最初の頃に綾が風邪を引き、一晩中看ていたことを思い出した。そういえば年の頃がほとんど同じに違いない。上尾には、牧がこの敵兵に手を差し伸べる様子が見えたような気がした。そう、彼女ならためらわないだろう。あいつなら。
それからの上尾の動作はうって変わって敏速であった。出血の量が生死を分けるかもしれないので、迅速さが死命を制する事になるのだ。救急セットを全て広げると、海老のように丸まっている彼女の肩を支えてそっと仰向けにする。それだけでも痛がる少女を相手には一仕事だった。仰向けにしてみると、相手は少女というよりはまだ子供といっていいほどの年齢のように見えた。とにかく、まず腹部だ。多少ためらいもあったが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「おなかから始めるからな。じっとしててくれよ」
ＧＯＴＳの少女が微かに頷いたように見えた。おなかに当てていた手が離ていく。その手は力なく握りしめられていて、じっと目を閉じ、歯を食いしばっている。上尾は上着を脱がせると、胸部から下のびりびりに破れたシャツを除去していった。もしここの傷が深くて、内蔵などに損傷があると、彼に打てる手はない。祈るような気持ちで、血でどす黒く染まった木綿のシャツを剥いでいく。彼の手の震えが止まった。
「よ－し、しっかりしろ。お前、助かるぞ」
長い切り傷は多数あるものの、内臓まで達していそうな深いものは見当たらない。ただ、幾つかの傷の出血が止まらない。周りの血糊を拭き取ると、ちょっと逡巡してから局所麻酔剤に手を伸ばした。縫合針を一針入れる度に少女の口からうめき声があがる。麻酔が十分でないのだ。しかし、見たところあと太ももと上腕でも麻酔処置が必要だし、第一こんなに弱った状態では麻酔のかけ過ぎは危険を招く。
「つらいかも知れないが、我慢してくれ。痛いのは生きている証拠だ」
とはいえ、おそらくかなり長い時間たった一人で苦痛に耐えていたのだろう。この華奢な体で、あとどれだけ体力が続くかの見積りに、上尾の表情は曇った。蒼白な少女の額に、油汗が浮かんでいる。唯一全く怪我のない左手で、相手は懸命に上尾の服を掴み、耐えていた。
「もうおなかは大丈夫だよ。よく頑張った。次は左足をやるけど、いいか？」
力なく首が左右に振られた。その仕草を見て、強制は出来なかった。
「分かった。ちょっと時間を取ろう。準備をしているから、ゆっくり休むんだな」
バックパックを枕にしてそっと寝かせると、ちょっとだけ落ち着いたようだった。その間に上尾は肩と太ももの付根を三角布で縛って出血を抑え、傷口に触らないように気を使いながら左足のズボンを切り取って慎重に剥いで、左足全体を露出させる。膝から先がすらりと綺麗な脚線美を描くのに対し、大たい部は赤黒く血で染まり、傷口には金属片が醜く埋まっていた。
「もういいかい」
また少女は弱々しく首を横に振った。まだ歯を食いしばっている。
「じゃあな、今から左足の傷口に麻酔を射って、川まで行って水を汲んでくる。そのあとで始めるからな」
今度は反対がなかったので、上尾は麻酔注射器を取り上げると、アルコールで射つ辺りを拭いた。それだけのことでも痛がってうめき声が洩れてくる。不憫で仕方がなかったが、心を鬼にして注射を射っていった。最後の一ヶ所を射ち終えると、軽く頭を撫でてやる。
「お前は強いな。この麻酔が効いてくれば楽になる、頑張れよ」
それだけ言うと、簡易バケツを取り出して、上尾は沢に降りていった。水を汲むついでに、冷たい沢で足首を冷やすと捻挫の痛みが少しだけ収まった。とはいえ、もうろくに歩ける状態ではない。水で重くなったバケツを林道まで運び上げるのにさえ難渋せねばならなかった。やっとの思いで道まで戻り、ＧＯＴＳの傍らにバケツを降ろし、タオルを絞る。相手は、先程よりは楽になったようだが、相変わらず歯を食いしばり、到底周囲に気を配る余裕などないようだ。額から胸元まで、一面に油汗である。
「汗、拭いてやるからな。じっとしてろよ」
冷たいタオルでそっと額から頬、鼻柱、口のまわりと拭いていってやると、目に見えて少女の表情が緩んでいく。一旦タオルを絞りなおしてもう一度顔を拭き、首筋も拭ってやる。ほこりが落ちると、南方人特有の浅い褐色の肌が出現した。今はその肌も、血の巡りが悪いせいか、青白くみえる。あまり似ていないとはわかっていても、この少女が綾と重なって仕方がなかった。麻酔も十分ではないのにひと言も弱音を吐かない芯の強さは、勝ち気な綾にそっくりであった。
「さあ、とりかかるぞ」
そう言って上尾がガーゼを水に浸すために後ろを向いた時、少女の目が初めてうっすらと開かれた。背嚢を枕にしてもらっていたので、首が少し立った状態である。周りのことはぼんやりとしか分からない。ただ、灰色の男の横側が見えている。
「ああ、だいぶん落ち着いてきたんだな」
怪我人が目を開けたのに気が付いた上尾は、顔だけ向けて微笑みかけた。一瞬目があった後、彼女の視線は状況を確かめるためか、キョロキョロとさまよった。男はまた後ろを向く。
「じっとしてろよ。動ける体じゃないんだから」
そんな声は耳に入らず、彼女はただひたすら周囲の様子を把握し、記憶を取り戻そうとして、痛みで鈍る思考を無理矢理働かせ続けた。そう、司令部を抜け出して父さんの所に行こうとして、ジープを勝手に持ち出して、道を走って調子に乗っていたら曲がったところに地雷孔がいきなり出てきて、それを慌てて避けようとしたんだ。それで‥‥その時、漫然と広がる景色の中に、何か異様なものを見た気がして、背筋がゾクッとした。いったい、何なんだろう？まだ痛みが全ての中枢を支配しているので、視野の中のものに注意を払うのには苦労がいった。くそっ、頭がズキズキする‥‥そして、視線がついに定まった。目前の人間の服の色、そして肩口に縫われた紋章。
「貴様ァ、ＴＴＩか！」
鍛練を重ねた手つきで少女の手が腰のベルトに伸び、ナイフが抜かれるのと、男が驚いて振り返るのが同時だった。上尾がいくらよく訓練され実戦をくぐり抜けてきた兵士だとはいえ、不意を突いた攻撃には術がない。それでも咄嗟に左腕をだしたが、敵の手を抑えるところまではいかなかった。突き出されてくるナイフを弾こうと手を払った瞬間、上尾の前腕から上腕にかけてその鋭い刃が走った。
「くっ」
それでも手を払われた少女が再びナイフを握り直して突いてくる前に、その手首を抑え、ナイフを取り上げることに成功した。こうなっては立場は逆転し、傷を負ったものの、ナイフを握った男の左手が丁度彼女の正面を向いていた。両手はまとめてＴＴＩの右手に完全に掴まれてしまって、びくともしない。彼女は自分の圧倒的不利を悟った。しかし、負けは認められない。小さくとも、私は南紅人だ。誇り高い民族の血にかけて‥‥
「さあ、ＴＴＩめ、殺せ！ひと思いに殺せ！！」
上尾の激情が走ったのは一瞬だけだった。燃え盛るような相手の目を見て、我を取り戻したのだ。一拍の間を置いて、左腕の傷口から鮮血があふれ出てくる。肘を伝い、まくり上げていた袖口を赤く染めていく。しかし、上尾は動かなかった。
「貴様らなんかに、我々は屈するものか！このやろ、手を離せ！」
激しく両手を振りほどこうとするので、あっさり彼は離してやった。即座に手を引っ込めた少女は、右腕の傷を覆うように左手を被せる。その間もその目は上尾を睨みつけたまま逸らさない。憤怒の情でキッとＴＴＩの男を見据えていた。上尾はゆっくりナイフを下ろしていく。
「情けなどいらん！黄禍が女子供をどうするかも知っている。せめてこの場で殺‥せ‥」
黄禍という最大限の蔑称にも上尾は全く反応しなかった。むしろ、身を丸めて突然呻きだした少女を見て、慌ててナイフを投げ捨て、彼女の口を無理矢理こじ開けようとあごを掴む。
「お前、まさか！」
彼女の表情が苦痛のためにみるみるゆがんでいく。それでも、相手は上尾の手を払った。
「違う。傷が、おなかが‥」
言われて腹部に目を遣ると、一旦収まっていた出血がまた少量ながら始まっていた。動いたせいだろう、特にやり直すほどではない。
「大丈夫、無理して動くからだ。すぐに収まる。それより力を抜いて、落ち着いてくれ」
上尾がちゃんと寝かせてやろうとして手を伸ばすと、少女はその手をまたも払った。
「誰が‥ＴＴＩなんかに‥」
そういう声に力がない。麻酔の効いている時間にも限りがあり、処置のことを考えるともう時間的余裕がない。無用の苦痛は体力を擦り減らすだけだ。上尾は決心すると広げてあった装備の中から『使用注意』と表に大書された小袋を破り、中からアンプルを取り出した。
「さあ、注射するから右手を出してくれ」
一瞬険しい目を上げた少女だったが、くるっと向こうに寝返ってしまった。痛みのためか足が痙攣を起こしている。上尾は仕方なく、痛む腕も構わずに相手の華奢な肩を抑えて、仰向けにさせた。腕に激痛が走るが、いまは相手に弱味を見せるべきではない。少女はまたも向こうを向こうとする。しかし、今度はがっちり肩を抑えたままだったので、そうはならなかった。
「離せ、畜生っ」
僅かな気力を振り絞って悪態をつく彼女を見て、上尾は暗憺たる思いだった。俺達の住む世界は、こんな小さな子にここまで憎悪の刷り込みをしてしまう。それも、命を懸ける値打ちもない腐った内戦のために、だ。とにかく、このままでは埓があかないと考えた上尾は、彼女の首ねっこを抑え、覗き込むようにして怒鳴りつけた。
「そんなに犬死したいのか？！生き延びたいなら今は黙って言うとおりにしろ！」
凄まじい剣幕に押されて彼女から毒気が抜けた隙を逃さず、その腕を出させて注射を射った。
「モルヒネを少しだけ射った。これで少しは楽になる。さあ、もう大人しくしていてくれ。まだ手当しなくちゃいけないんだからな」
「放っておいて‥誰が‥黄禍などに‥」
「お前の怪我がなけりゃ敵どうしになってやってもいい。しかし、今はお前はただの怪我人だ、黙って手当を受けるんだな」
言いながら彼は自分の左腕の傷口に包帯を強く巻いて応急処置した後、彼女の目を直視した。その目から激しい敵意が消えつつあった。その目の焦点も薬の影響で徐々にぼやけていく。
「くそ、なんでこんな‥ＴＴＩに‥情けない‥」
「泣きたきゃ泣け。‥誰も咎めはしないから」
上尾はそっと彼女の左足に手をかけると、傷の手当に取りかかった。少女はもはや抵抗をやめ、静かに、‥‥静かに涙をこぼした。

全ての手当を済ませ、広げていた医薬品などを背嚢に収納し終えた時、もはや日はかなり西に傾いていた。もう上尾からしてやれることはない。少女はモルヒネがよく効いたのか、ほとんど眠っているに等しい状態であった。その寝顔を見やりながらも、上尾の心は暗かった。今のところ、この怪我人の状態は落ち着いているが、それも薬が切れるまでの間だ。もうモルヒネはないし、あれだけの失血と激痛の後では体力の消耗も激しいだろう。少女の顔色は青白いままだし、呼吸は浅くて短い。夜になって気温が下がり、体温が奪われだせば朝まで持つかどうかは良くて五分五分かどうか。ないしは、人里まで出て救助を頼むか。しかし、それは同時に上尾の死を意味していた。肌に寒気を感じだした上尾は、相手の額に触れて体温を測ると、少しでも彼女の風よけになるように場所を変えた。汚れた髪をそっと撫でてやる。空いた手で胸ポケットから例の写真を取り出すと、ため息がでた。
「なあ、牧、どうすればいいんだ」
返答があるはずもなく、聞こえるのはただ川のせせらぎ、梢のざわめき、そして微かな寝息の音ばかり。あとは時折、季節の変わり目を告げる鳥の鳴き声が聞こえるだけで、静かである。また鳴いている‥‥。いや、その中に、何か他の音が混じっている！上尾は俄に緊張して耳をそばだてた。遠く微かに、が確かに音が、車の走ってくる音がしている。背のうから簡易望遠鏡を取り出し、山裾を数メ－トル登って音のする方向を調べてみる。木陰の合間から音の正体を捜し当てるのは難しかったが、ちらっと一瞬見えたそれはＧＯＴＳのジ－プだった。反対の山側なので、距離はまだかなりある。これは僥幸だと感じた上尾は、道に戻るとさっきジ－プの中で使えるものを探している時に見つけた発煙筒に火を付け、道端に突き立てた。急いで背嚢を背負うと、周りにＴＴＩの痕跡のないことを確かめる。最後に、少女の様子を確認するため、そばにしゃがみこんだ。彼女は相変わらず静かに眠っているようだった。もう傷口からの出血もない。涙の跡の残るその顔は心なしか柔和に見えた。そのあと立ち上がろうとして、ふと少女の胸元に銀色の鎖を発見した。不思議に思ってそっと首筋の鎖の先を覗くと、それはＩＤホルダ－だった。名前、生年月日、血液型、出身地、ＩＤ番号と続けて刻印されている。
「白里羽雪、か‥」
「‥なに？」
名前に反応したのか、彼女が目を開けた。とはいえまだもうろうとしているらしく、はっきりした声ではない。
「ああ、起こしたか。すぐに助けが来るから、俺はもう行く」
そう言ってそのホルダーをそっと戻すと、ゆっくりと立ち上がった。少女が見上げ、口を開いた。
「腕‥‥」
切りつけられた腕の傷は包帯をどす黒くしていた。
「これぐらい大丈夫。じゃあな。俺は自分の部隊に戻るから」
背を向けて歩きはじめた上尾の背中に、声がした。弱く、微かに、しかし優しい声で。
「みんな‥お前みたいな‥だったら‥」
立ち止まり僅かに肩越しに振り返る。険のとれた彼女の顔はまだあどけない少女そのままであった。
「元気でな、羽雪さん」
手を軽く振って微笑んでみせると、右足を引きずるようにして山肌を登っていった。もう、振り返らなかった。

「おい、煙が上がっているぞ」
身を乗り出すようにしてジープに乗っていた石兼は、前方の発煙を発見して叫んだ。
「あの煙の色はＧＯＴＳのだな。急ごう。銃を構えておけよ」
「了解」
ハンドルを握る矢島の手にも汗がにじむ。すでに石兼は自動小銃を腰だめに構えていた。万一ＴＴＩが罠を仕組んでいるとも考えられないことはないからだ。最後のカーブの手前で車を止め、二人とも銃を携帯して降車する。道の左右に別れて、まず石兼がカーブの先へ飛び込んだ。銃声がしないので矢島がほっとしたのも束の間、石兼が大声を上げたので、慌てて銃を構えて後からカーブを曲がった。
「なんだ、誰もいないじゃないか。おどかすなよ」
「そんなこといっている場合じゃない、早く来い！羽雪ちゃんが‥」
石兼が抱き起こしている人を見ると、まぎれもない。白里隊長の自慢、勝ち気でやんちゃな次女が見るも痛ましい姿になっていた。ずたずたの服が血にまみれている。
「くそ、なんてことだ」
「羽雪ちゃん、羽雪ちゃん！しっかりしろ」
すると、それまで生気なく閉じられていた目がすうっと開いた。
「よかった、意識はあるんだ。羽雪ちゃん、私がわかるか？」
少女は薬物麻酔特有のけだるそうな表情を見せながらも、嬉しさがにじんでいた。
「あ‥‥石兼のおじさん。矢島さんも‥‥」
「よしよし、大丈夫だよ。かわいそうにな。今からすぐに村へ帰るからな。矢島さん、足の方を持って。そっと、そうっと」
「ぐっ」
これだけの重傷を負っているのに、少女はジープに乗せられるまで一切泣き言を言わなかった。助手席を倒して彼女を横たえると、二人も乗り込む。
「よし、行くぞ」
石兼がはやる気持ちを抑えて慎重に運転している間、ずっと矢島は彼女の手を握り、頭を撫でてやっていた。僅かでもこの村の人気者が楽になるように、と願って。それにしても、と矢島は彼女の包帯や先程の発煙筒のことを考えていた。いったい、誰が手当をしてくれたのだろう。見渡しても人影一つなかったというのに。

すでにとっぷりと日は暮れ、窓の外では満月が静かに全てを照らしていた。その窓を背にして、白衣をまとった中背小太りの男が座っている。医学解剖図などが無造作に張られた部屋で、彼の向かいには地味な服を着た長髪の少女が心配そうに男を見ている。伸び盛りの子供によくある、背の方が伸びても体がそれについていっていない、というタイプだ。
「心配はいらない。命に別状はないよ、美雪ちゃん」
彼女は大きく安堵の息を漏らし、張り詰めていた力を抜いた。真っ赤に腫れた目と頬に残る涙跡が少し笑顔になったのを見て、医者はポケットから煙草を取り出した。しみじみとそれを眺め、手の上でもて遊んだあと、おもむろに火をつける。内戦このかた、煙草は貴重品なのだ。
「ありがとうございます、先生」
少女が深々と御辞儀するので、彼は慌てて手を振った。ゆっくりと吸い込み、一拍置いてからさも惜しそうに紫煙を吐くと、灰を落とした。
「正直言うとね、連絡があって報告を受けた時、もう羽雪ちゃんは助からないかも、と思ったんだ。出血多量で意識混濁、声をかけてもほとんど反応なし、時折痙攣を繰り返している、なんて言われたものだからね。怪我してから三時間は経過していたようだし」
そこでまた医者は煙草を一服した。様々な模様を織りなす紫煙を見るともなく見ている。
「もちろん全力を尽くすつもりだったけど、もし私の手当中にもしものことがあったら、村長はおろか、村中から責められるのは間違いないところだからね。正直、首でもくくろうかな、なんてね。でも、実際に運び込まれてきた羽雪ちゃんを見たら‥‥」
また灰を落とす。
「美雪ちゃんの感謝は私にじゃなくて、羽雪ちゃんにあの処置をしてくれた人にするべきだね。完全からは程遠い手当だったけど、あれがなかったら、たぶん、だめだっただろうからね。全く、あの子の命の恩人だ。誰だかわかったのかい」
「いいえ、まだ‥‥」
「そうか。まあ、そのうちわかるだろう」
最後の一服をたっぷり吸うと、フィルターまで達した煙草を揉み消した。ちらっと時計に目をやって立ち上がると、彼女の細い肩を叩いた。
「さあ、もうしばらくしたら羽雪ちゃんが目を覚ます時間だ。村長やお母さんが帰ってくるまでは君が唯一の家族なんだから、側に付いてあげなくちゃ」
彼女がこっくりうなづく。
「しばらくは歩くことも出来ないだろうしね。でも、」
「でも？」
一抹の不安を感じた彼女は、また心配顔で振り返った。
「当分、村長もおてんばに悩まされなくて済むし、悪いことではないかもね」
今にも泣きだしそうだった彼女の表情が笑みに変わった。
「そうそう、その笑顔が羽雪ちゃんへの何よりの薬。さあ、行こう」
「はい」
ピョンと立ち上がると、医者に続いて部屋を出ていった。ごしごしと顔をこすって、涙の跡を消しながら。

日が暮れてからもなお歩き続けていた上尾だったが、もはや右足首の捻挫は腫れあがり、一歩一歩に非常に時間がかかるようになった。一晩は木陰で野宿せねばなるまい。冷え切った缶詰を無理矢理胃に流し込んでしばらくじっとしていると、だんだん不安が募ってくる。逃げている立場だから灯りを一切使えず、それが不安に輪をかけていた。それを打ち消そうと、胸ポケットから写真をまた取り出す。月光のもとでも、写真はよく見えた。これを見ると、なぜか心が和む。
「ほんと、これは大変なことになっちゃったな。お前ら、元気か」
故郷の空にも、同じ月が輝いているに違いない。なにか不思議な気持ちがした。もう一度写真を眺めたあと、それをしまって、バックパックを枕にして丸くなる。まだそれほど季節が寒くなってないのが救いだった。
「あの子を恨まなくちゃな‥‥」
上尾の表情は、しかし、あくまでおだやかであった。
「もう、今ごろは元気になっているかな」
疲れきった上尾はすぐ寝息をたてはじめた。

庭には窓からの光が漏れている。閑静な住宅街は、今日はとりわけ静かだった。月光だけが妙に明るく、歩道を歩く人々の影を不自然なほどくっきり作りだしている。影は足早に角を曲がり、とある家の前につくとインターホンを鳴らした。ちょっと間を置いて、今度は短く三回。沈黙を守っていたインターホンが、そのときになってようやく口を開いた。
「どなたでしょうか」
低い凄みのある声音である。ぷっと吹き出して、返事をする。
「迫力十分ね、これ」
言いおわらないうちに同じインターホンから明るい元気な声が勢いよく出てきた。
「あ、お姉ちゃん。お帰りなさい。いまチェーン外すから」
廊下の窓に電気が点いて、トタトタ走る音に続いてドアがカチャカチャと鳴り、ぱっと開いた。嬉しそうに姉を迎え入れる。
「ただいま」
「お帰りなさい。もう夕御飯用意しちゃったから」
鍵を二重にしてチェーンを掛け、先に入る牧の後を追う。牧はといえば、居間に入るなりクッションの上にばたん。
「ふわぁー、今日は疲れたわ、ありがあと、綾」
「いえいえ、どういたしまして。それより、どう、あの宏野さんの吹き込んでくれたテープは？なかなかの出来でしょ？」
「宏野君にあんな声が出せるなんてちっとも知らなかった。結構やるんだ」
「そりゃ十回以上やらせたんだから。さ、うだっていないで、早く御飯食べようよ」
そう言って綾はだらしなく横たわる姉の肩を持ってゆっくり引き起こす。
「もう。綾は厳しいんだから。わかりました、綾お嬢様。着替えてまいります」
「はやくね。もう支度できているから」
そそくさとダイニングに急ぐ妹の後ろ姿を見送って、彼女はどっこいしょ、と立ち上がった。壁に張った何枚かの写真が目に留まる。その中でも、一回り大きな写真がこちらをみている。唯一、しいさんに送れた写真と同じ写真。
「しいさん‥‥」
姉妹の間に挟まって照れ顔の彼は、ただ微笑みかえすだけである。
「お姉ちゃん！」
「は、はいはい、すぐ着替えてくるから」
ばたばたと駆け上がる姉の足音を聞きながら、綾は食器棚から一回りおおきな茶碗を取り出していた。両手で光に翳す。
「手紙もよこしてくれないのね。元気にしてるの？」
箸で叩くと、チーンといい音がした。丁寧に元の場所に戻す。
「戦争なんて、大嫌いなんだから」

宵のうちは輝いていた月光も、夜半からは西より押し寄せる雲々に隠されてしまった。

上尾は何か冷たいものが顔に当たるので目が覚めた。冷たいもの‥‥雨だ。雨が降ってきているのだ。慌てて起きてみると、朝はまだ始まったばかりだった。ここの山地特有の霧を伴う小雨である。冷え切った体を何とかほぐしていく。もう残り少ない消毒液で腕の傷を消毒し直す。足の捻挫は悪くなりこそすれ、回復の兆しはまったくない。今日中に目的地に着けるかどうかも怪しいものだ。悪態をつきながら乾パンと水で朝食を採り、地図を見る。まあいい、ＴＴＩを散々悩ませたこの霧も今回ばかりは見方だ。上尾は慎重にルートを確認すると、ゆっくり歩きはじめた。

睡眠薬をもらったので、痛みにもかかわらず割合心地よい朝だった。
「おはよう、羽雪。大丈夫？」
いつもの心配そうな笑顔の姉がそこにいた。
ただでえさえ華奢な体なのに、目の下にクマまで出来ている。入院しなければいけないのは姉さんの方だわ、と思えるほどだった。
「おはよう、姉さん。どうしたの、そんな顔して。髪の毛までぼさぼさだし。休んだ方がいいんじゃない」
「え、あ、そうかな。そう、そうね、でも‥‥」
慌てて髪を梳き直す姉を見て思う。いつも、いつもそうなのだ。母さん以上に私の事を心配ばかりしている。難産の末に生まれた私を一番大切にしてくれたのは、母さんでもおばあちゃんでもなく、姉だった。虚弱だった私の面倒を見てくれ、付き添ってくれたのは姉だった。そして、妹である私を気遣うあまり、今では姉の方がひよわそうになってしまった。もういい。
「でもも何もないわ。姉さんまでどうかなったら、困るじゃない」
困惑した目で姉は妹を見る。一瞬気まずくなりかけた時、足音がして数人の大人が入ってきた。目をやると、先生に父さん、矢島さん、石兼さんだった。
「あ、父さん」
大男で逞しいその男は娘の頭をこつんと叩いた。
「このおてんばが、心配させよって」
でも、語調は優しい。続けて先生が体温と脈拍、血圧を測る。その間、説教をいろいろされてしまった。曰く勝手に民兵服を着るな、無断で外出するな、ましてや自警団の車を持ち出すとはなんたることか、等々。この手の説教には慣れっこなので父がいくら話して聞かせても、これだけの怪我を負っても、所詮は馬の耳に念仏である。
「せっかくＴＴＩを追い払っためでたい日だったのに、いらん心配させるんじゃない」
「追い払った？」
初めて聞く情報だった。
「なんだ、知らなかったのか。先週来のＧＯＴＳの猛反撃で、ＴＴＩは全面撤退を始めているんだぞ。まあそんなことはどうでもいい。一番聞かなければいけないのは、いったい誰が羽雪を手当てしてくれたんだ、てことだ。先生に聞いたが、その応急手当てがなければ命も危なかったそうじゃないか。全く、こうして助かったことでも奇跡に近い。さあ、羽雪、誰が助けてくださったんだ。是非、礼をしなくてはならん」
その言葉に妹が動揺を見せたことを、奥に立っていた美雪だけは見逃さなかった。隠しているようでも、小さい頃からずっと一緒だったせいで、それぐらいは肌で感じられるのだ。しかし、妹の動揺は本当に一瞬だけだった。
「それがね、わからないんだ。でも、この村の人じゃないと思う。意識がはっきりしてなかったら顔さえ憶えられなくて。ごめんなさい」
「いや、憶えていないのなら仕方がない。でも、男の人だったとか、どんな服を着てたかとか、軍人だったかとかぐらいは」
「くどいな、父さん。顔さえも憶えていないんだから。たぶん、通りすがりの民兵の人とかじゃないかな」
父はため息をついた。
「ああ、そうかもな。それにしても、名乗り出てくれてもよさそうなものだ」
「遠慮深い人なんでしょう。さ、羽雪ちゃんは今のところ大丈夫です。でも重傷には違いないのだから、あまり疲れさせることはだめです。その手のことはもっと元気になってからにして下さい」
先生が診断を終えてそういうと、大人達はしおらしく出ていった。先生と美雪だけが残っている。
「さ、点滴をするよ、羽雪ちゃん。いいね」
左手のひじの内側に点滴を打つのを、美雪も黙って手伝った。
「これでよしと。さあ、美雪ちゃんももう休みなさい」
「え、でも、点滴が済むぐらいまでは」
「一時間はかかるよ。それに、もうすぐ看護婦さんも来るしね。君にまで寝込まれては、先生も困ってしまうよ」
「‥‥」
しばし黙り込んだあと、彼女は妹のもとに寄った。
「それじゃ、私、少し休んでくるからね。ごめんね」
済まなさそうに言われると却って羽雪には迷惑なのだ。
「もう、遠慮しないでさっさと家に帰れば？」
わざとしたきつい口調にも、姉は少しも怖じない。柳に風だ。
「うん、そうする。お休み」
「お休み」
優しい姉の言葉にも、彼女はそっけなく答えるだけだった。その後、すうっと美雪が出ていってから、医者はゆっくり彼女のほうに振り返った。
「羽雪ちゃん」
「わかっているわよ」
そう、痛いほどに。わからないはずないじゃない。幼い頃から、ずっと一緒にいるんだから。彼女は居心地悪そうに窓の外へと向きを変えるのだった。

集落を避け、人の目に付かないところを行かねばならないため、迂回を何度もせねばならず、直線距離にするとまだ数キロメートルしか進めていなかった。さっき大木の下で昼食をとったぐらいが唯一の休憩である。霧は上がったが、雨はますます強くなっていく。道はぬかるみ悪路に輪をかけていた。しかし、行程の半分は来ただろう。晩まで歩けば何とかつけるだろう。
雨に打たれながら出来るだけ等高線に沿って歩いていたが、あるところまで来たとき、何か妙な物音を聞いたような気がした。雨で遠くが見通せず、雨音で物音はかき消される。それでも、何かが感じられた。無意識のうちに姿勢を低くして、物音がしたような気がするほうへと慎重に忍び寄る。間違いない。何かの金属の当たる音と、人声やエンジンの音だ。そっと茂みに身を隠しながら谷の下のほうを覗き込む。
（ＧＯＴＳのゲリラ集会所だ！こんなところに‥）
ＴＴＩに連絡すればこれは大発見である。小規模なゲリラ基地を見つけるのにさえ苦労しているのに、この基地はかなり大きい。しかも、ＴＴＩの本隊からそう遠くないので、放置していては危険である。
（これはますます帰らなくては）
慎重に後退していく。いや、していたはずだった。足元と後方には最大限の注意を払っていた。あと少しで完全に尾根を回りきれるというところまできた時である。
「そこの奴、動くな！」
右上方からの鋭い声にはっと振り返った瞬間、木の枝の隙間に巧みに隠れて銃を構えている男が見えた。パン、パン、という乾いた音が耳に焼き付き、不意打ち同然に銃弾を喰らった上尾ははぜるようにバランスを失い、急斜面を転げ落ちていった。

気がつくと、数人の男が目の前で銃をつきつけていた。上尾は仰向けに寝かされている。小銃も背嚢もなくなっていた。左肩が焼けるように熱い。右足にも膝のすぐ上のあたりをかすめるように醜く弾跡がついている。
「立て、連行する」
中央に立っている男が無表情に言い放った。
「うっ‥‥傷が‥‥」
「立て。立って自分で歩けるなら捕虜にしてやる。止血ぐらいもしてやる。立てなければここでさよならだ」
そう言って銃口をぴたりと頭につきつけてきた。見たところこの中央の男だけが職業軍人らしい。あとは、同じ軍服姿でも態度がぎこちない。おおかた徴用された民兵だろう。上尾を撃った男もそのなかにいた。
「分かった。ちょっと手を貸してくれ」
「自力で立てないのか」
中央の男の指が微かに動くのが上尾にもわかった。その男ならためらいなく本当に撃つだろう。歯を食いしばって右手で左肩を押えながらほとんど左足一本で立つ。気を失いそうな激痛が走る。
「ふん、立てるのか。誰か両手を後ろで縛って、肩も縛ってやれ」
二人がかりで傷口を縛られると、出血は収まった。痛みはひどいままだ。
「その様子からみると敗残兵だな。ここに来るとは鼻は利くようだが運がなかったな。支部へ戻るトラックまでこいつを連行して、足も縛って目隠しして荷台に放り込んでおけ」
その男が去ったあと、残った男の一人にトンと銃口で背中を押された上尾は、玉のような汗を吹き出しながらなんとか谷底へ下りはじめた。途中で二度ほど滑って転んだが、誰も助けてくれはせず、無言で後ろから銃口で先を急かすだけであった。
トラックのところまで着くと、肩口の灼熱の痛みから半ば崩れるようにしてその傍らに倒れ込んだ。
「出血が止まらないんだ」
数メートル離れて立つ四人は無言である。ややおいて、うめいている上尾を見かねて一番年配の男が口を開いた。
「ＴＴＩがわしらを撃って、そのあと手当てをしてくれたことがあるとでもいうのか」
上尾は顔を上げて、その男と目を合わせた。物悲しい目だった。敵意でも闘志でもなく、哀しみがそこにはあった。
「いや、わかっとる。お互い人のことは言えんからな。どのみち、ここでは手当てなど出来はせん。大人しくトラックに乗っていればどこか医者のいるところには行けるじゃろ。さ、乗れ」
上尾は何も言わず、体の痛みを堪えながら荷台に這い上がった。ロープを持って手を縛りにきた民兵は、上尾を撃った男だった。歳は四十に近いだろうか。終始無言で、手首と足首を縛るその顔は岩のように硬く口元もきつく閉じられていた。白布で目隠しをする最後の瞬間までその男は全く目を合わせようとはしなかった。目隠しで真っ暗になったとき、肩に激痛が走った。思わず海老反りしかけたが、誰かの手ががっしり肩を掴んで放さない。
「動くな」
低い声で制されて歯を食いしばって痛みに耐えていると、肩の傷に締まった圧迫感がでてきた。包帯を巻き直し終えたその男が荷台を降りていく。
「あ‥‥ありが‥‥」
「死人はもうたくさんだ」
独り言のような微かな台詞が、上尾の耳に届いた。足音は去っていった。

綾が階段を降りてきたとき、姉の様子が見るからに異様だった。顔が青白い。
「どうしたの、お姉ちゃん。顔色悪いよ。最近無茶のしすぎじゃない」
居間に入ってきた妹に、彼女は信じられないとでもいうように首を左右に振りながら朝刊を手渡した。中ほどの紙面で折ってある。
「いったいどうしたのよ、お姉ちゃんてば」
姉はじっと手のひらを組んで、肘を机につけて組んだ両手を額に押し当てていた。尋常ではない。
「もう、新聞がどうしたっていうの」
言葉は続かず、危く手から新聞を落とすところだった。
小さな一段記事である。『ＴＴＩ、松野地区再編成』の見出しに続いて、数行の記事があり、その後ろに再編成された部隊名が連なっていた。再編成、すなわちそれは退却か敗走である。部隊を維持できないほどの壊滅的打撃。
「だ、大丈夫よ。しいさん、転属してるかも知れないし」
微かに姉の肩が震えている。
「何を心配してるの、あのしいさんが‥‥」
肩に手を乗せようとして、自分の手も震えていることに気づいたのだ。
「あんな勝手な奴、殺したって死なないんだから」
「お姉ちゃん！」
妹は姉の背にしがみついた。しがみついて、長くじっとしていた。

母親はいつもと変わらず快活である。連絡網の不備で、丸一日経ったあとようやく戻ってきて初めて事の次第を知ったのだ。娘が大怪我をして死にそうな目に遭ったと聞いた時は顔を青くしたものだが、病室へ駆け込んでみると、当の本人が痛々しい姿をしてはいるものの、ピンピンしていたのである。もどが楽天的な彼女にしてみれば、もう何も心配する事はない。その辺りが、美雪とは大きく違っていた。夫がさんざん諭したのを知っていたので、彼女はもう何も責めなかった。病室を先生と一緒に出ていくのも明るいものである。
「ねえ、先生。あんなに元気にしているじゃありませんか。もう、おどかさないで下さいよ。話を聞いたときは、もうだめかと思いましたわ」
医者のほうはその軽い口調にもあくまで真面目に答える。
「ですから、奥さん、娘さんが怪我をなされた状況からいったら、今のあの姿のほうが奇跡なんです。普通、野外であれだけの傷を負ったら、炎症や化膿だけでももう大変なはずなんですから。もっと大事だったんだと思ってくださいよ。きつく言っておかないと、また同じようなことをされたら、次は親切な人がいてくれる保証はないんですからね。全く、もう」
諭すように言われて、少し彼女も大人しくなった。後ろを歩く美雪はもちろん黙ってついていくだけである。
「初期手当ては確かに大切なんでしょうね。私が応援に行っていた隣村の臨時治療本部でも、それはつくづく思ったわ。ほら、ここ数日、激しい戦いをこの先でやっているでしょ？あれのために怪我人が山のように押し寄せて、てんてこまい。たいていの人がろくな処置を受けずに送られて来るから、かえって厄介なのよ。おまけに、ＴＴＩの捕虜なんて情けないのも何人か連れてこられるし。捕虜になるぐらいだから怪我している人が多いの。みすぼらしいし、さっきまで撃ち合っていた敵よ。ただでさえ医薬品は貴重だっていうのに。向こうの本部の人たちも文句言っていましたわ。仲間を診てやるだけで精一杯だって。どんなものでしょうね、先生」
「しかし、敵でも同じ人間だし、協定もありますからね。見殺しはよくないでしょう」
小首を傾げる母である。
「そんなものかしらね。まあ、誰でも命は惜しいし」
「人間に‥‥命に違いはないわ」
珍しく美雪がこういう会話で口をきいたので、母は振り返った。優しい母だから、別に責められることはないとわかっていても、美雪は思わず小さくなる。母親はただ娘の肩を抱き寄せるだけだった。
「そうよね、美雪の言うことが正しいわ。さすが、母さんの子ね。ふふ、でも、今の言葉を羽雪が聞いたら」
「羽雪ちゃんがここにいなくて幸いでしたよ」
と、医者も同意した。

上尾は痛みにうなされていた。ここまで連れてこられるのにトラックで散々あちこちに回され、ついてからも手当ては一番最後だった。ＧＯＴＳの軍医が悪態をつきながら荒っぽく治療をしたため、炎症が上尾を襲った。この地方特有の大きな納屋を改造して作られた仮設収容所の一番隅、板張りに藁を敷いてシーツをかぶせただけのベットの上で、上尾は寒さと炎症に悩まされていた。

電話を取る前から、もう何の用件かはわかっていた。村長の奥さんからの話も聞いていたから、見当もつく。実際、そうだった。
「本当に済まない。しかし、こちらの事情も察してくれ。もう私達は限界なんだ」
「わかっている。そんなに気にするな」
向こうの声はほっと安堵したように感じられた。
「じゃあ、明日の午後に八人。手当てはすませてある患者ばかりだ。君は基本的に見守っているだけでいいと思う。必要な医薬品も同時に送る」
「わかった。それじゃあ」
チン、と電話を切ると、しばし考え込む。ここの病床数は十しかない。今、七つ埋まっているから五つも足りない。うーん。
「ちょっと、藤崎さん」
呼ばれたここで唯一の看護婦は本から顔を上げた。
「はい、なんでしょうか」
「明日、臨時治療本部から八人患者が来るんだ。一〇二から一〇五に簡易ベットを入れて相部屋にして、一〇三から一〇四に、今入院している患者さんを移す。キクばあちゃんと平尾さん、稲垣さんを簡易ベットのほうにする。あの人たちは結構直っているからね。さ、今から行って部屋の支度をしてくれ。私は簡易ベットを取りにいってくる」
「でも先生、それじゃ一つ数があいませんよ」
「いいんだ。器具が全部出払って、シーツも使うようになったら、物置小屋が空くだろう。あそこを整理して、誰か一人貧乏籤を引いてもらうから」
「はい、わかりました。やれやれ、ここも忙しくなりますね」
「全くだ」
二人は席を立つと、てきぱきと行動に移った。

不安を抑えたまま、牧は妹に見送られて家を出ていった。気にしても仕方がない。どうせ前みたいに、忘れた頃にひょっこり手紙が届くのだろう。そして、中にはこれまた簡単な文面が綴られているのだ。でも、あとどれぐらいこういうことが続くのだろう。いつか、戦争が終わってしいさんが戻ってくる。それとも。
慌てて妄想を振り払うと、まだ肌寒い朝の中を小走りに駆けだした。

窓の外は今日も小雨。なにやら表のほうが騒がしいが、まだ一人ではベットから抜け出せない羽雪には関係のないことだった。

「こりゃまいったね」
ひとしきりもめてから、押し切られた形となった彼は、診察室のいつもの椅子にどっかりと座り込んだ。藤崎と美雪がいる。いつもはあまり病院に出てこない彼の妻も、今日はそこにいた。心配そうに藤崎が尋ねる。
「いったい、どうするんですか、先生」
「どうするもこうするもないよ。幸い物置小屋は窓もないし、あそこだけは外から鍵も掛けられる。あとは暴れてくれたりしないことを祈るしかないね」
そう言って、体に悪いと知りつつも、また貴重なたばこに火をつけた。いつもはうるさい妻も、今回は黙認している。
「とにかく、羽雪ちゃんに悟られないようにするためにも、絶対の緘口令を敷くぞ。なんせ羽雪ちゃんの毛嫌いぶりは相当なものだからな。知れると大騒ぎになる。みんなにも徹底するように伝えてくれ。どうした、美雪ちゃん」
「あの、すみません、妹のわがままのせいでみなさんに苦労をかけてしまって」
身をすぼめて小さくなる彼女が、彼には微笑ましかった。
「なに、美雪ちゃんのせいじゃないよ。それに、羽雪ちゃんの気持ちは我々みんなの意見の鏡みたいなものだしね」
「先生‥‥」
藤崎もすまなさそうに切り出した。もう四十年も看護婦をしていて、ずっと年上なのに、妙なところで気の小ささを見せるのである。小柄で、背は十七歳の美雪よりかなり低い。
「なんです」
「ええ、私、あそこの世話するの、嫌ですよ。いいえ、嫌だというより、怖くて行けやしません」
「そんなこと言わないで下さい。お願いしますよ。なにせ、この村ではあなたしか看護婦はいないんですから」
「でも」
いつもなら歯切れのいい返事をするこの女性も、今回ばかりは元気がない。
｢別に怪獣というわけでもないし、今はただの怪我人ですよ」
それでも心底嫌がっているのがありありと分かる。本当に怯えているようだ。無理もない。彼は大きく紫煙を吐き出した。と、そのときである。
「私がしましょうか、先生」
細い声だが、はっきりと聞こえた。見つめていた紫煙から視線を移す。その目は確かだった。彼はもう一服した。
「そうだな、美雪ちゃんがそう言ってくれるなら。これからは忙しくなるし、手伝ってもらえると助かるよ。ただ、決して勝手に入ったりしないこと。必ず、私か誰かに断ってから。いいね」
「はい」
その返事する様子を見て、どうして姉妹でこうもスタンスが違うのだろうか、と内心不思議だった。

しかし、結局、美雪がその世話をすることはなくなった。その日の夕方、家に戻ってから父の猛反対を受けたのである。民兵を指揮する村長としての立場からも、少女などに捕虜の手当てを任せるなど言語道断だった。万一手当て中に敵が敵対行為にでたら大変なことになる、というのが父の言い分である。口やかましくまくしたてる父に対して、彼女は無言で対抗したが、いつもは見守ってくれる母にさえ懇願されて、仕方なく他の患者の手当てを手伝うことで折れた。

地区の民兵隊長をしている父は、めったに見舞いにくることがなかった。代わりに、母と美雪が交代で羽雪の傍らについていた。といっても、ただじっと座っているわけではなく、病院の様々な雑用を手伝いながらである。
羽雪が入院してから六日目のことだった。その日は母が朝から村内の会合に出かけていたので、美雪が看ていた。窓の外は雨模様である。こんなに雨が多くては、みんな大変だろうな、と美雪はぼんやり考えていた。
「ここのところ、ずっと雨ね」
羽雪を見ると、彼女もまた物憂げに窓の外を眺めている。そう、入院してからずっと羽雪に元気がない、と彼女は気になっていた。もとがやんちゃな妹なので、大抵のことではめげないと思っていたのだが、今回は様子が違う。母はさすがに懲りたのだろう、と言って気にしていなかったが、美雪はそれに賛成できなかった。初めて羽雪の意識が戻ったあの日から、羽雪にトゲがなくなっている。まだ漠然としか分からないが、戦いの話を避けようとするのだ。事故に遭って怖くなったからではない。姉として、妹がそんなにやわではないことを知っている。妹の身に何があったかは分からない。ただ、それが妹に悪影響を及ぼさないように、それだけが姉としての美雪の願いだった。
「お姉ちゃん」
その言葉に、羽雪のほうを見直すと、彼女はようやく肩に届いてきた髪の毛をいじくりながら俯いていた。
「この戦争もいつかは終わるよね」
はっとして美雪は妹を見つめた。その視線に彼女は気づくと、慌てて顔を背ける。その流れるような黒髪を眺めながら、美雪は妹の変化を確信した。羽雪が、『勝つ』と言わなかった。その意味の深さに、美雪は黙ったまま考え込んだのである。

昼だというのに、部屋の中は暗かった。格子のはまった小さな小窓から入って来る光だけの明るさである。湿っぽい部屋の簡素なベットの上で、一人の男が高熱にうなされていた。息はあらく、頬もそげた男は、しかし、まだ眼に力を失っていなかった。薄暗がりの中、胸のポケットに手を当てて男は朦朧とする意識を正常に立て直そうと必死だったのであある。

大きな窓がある医務室でも、雨の為にさほど明るくはなかった。机の上には新しいカルテが投げ出されている。
「わかっているさ。しかし、協定だってあるんだ、見殺しにできるか？だから、‥‥おい、待て、待てよ」
男は音のしなくなった受話器をしばしじっと見つめ、放心したようにそれを静かに置いた。肩を落として、椅子にもたれ込む。
「俺だってＴＴＩは憎いさ。でも、医者なんだぞ、俺は。くそ、薬をまわしてくれるぐらい」
彼は、電話の一部始終を立ち聞きされたことに気づいていなかった。部屋に入ろうとしていた美雪は、その全てを聞いてしまっていた。

美雪はまだ捕虜をみたことがなかった。父に止められていたし、先生も治療は問題ないというので、それほど気に留めていなかっのである。ずっと物置小屋のほうは静かで、人の気配すら感じたことはなかった。ただ、ずいぶんまだ若い敵だということだけ聞いていた。しかし、今の先生の電話の話からすると、かなり深刻な病状のようである。そうなると、美雪としてはいてもたってもいられない。
小屋の鍵の場所は知っていた。こっそりそこから鍵を取り出すと、廻りに誰もいないのを確かめて、ゆっくり鍵を差し込み、まわす。大丈夫、心配ない。重病の相手なら動けるはずもないし、大声を出せばすぐ先生たちも駆けつけてくれるだろうから。一呼吸おいてから、ゆっくりドアを開け‥‥。

一瞬、美雪には何が起ったか分からなかった。そっと開けたドアの真正面に、その捕虜が立っていたのである。相手も虚を衝かれた顔をしていた。が、その手にはカッターがあった。
「あっ」
我に帰って驚いた美雪が声を上げようとした刹那、捕虜の手が美雪の口を塞ぎ、背後をとられてカッターが喉元にあてられた。
「騒ぐな！」
カッターを持つ手の感触が首筋にある。彼女には一も二もなかった。
「お前一人だな。ドアをゆっくり閉めろ。そう、音を立てないように」
もう今は物を考える余裕もなく、言われた通りに従う。
「ベットのほうに行け」
そう言われても、恐怖に足が竦んだ美雪にはどうすることもできない。足がいうことを聞かないのだ。
「どうした、さあ、行くんだ」
うなづくことは出来ても、怖くて足が動かない。歯の根も合わなくなってきている。実際、彼女は心底パニックに陥りかけていた。泣き出したかった。
「さあ！」
男の口調が鋭く厳しくなる。もう彼女は倒れそうだった。
「で、でも」
抑えられたままの口から震える声でやっとそれだけ言ったとき、眼にじわっと涙が浮かんだ。
と、そのとき、首筋を抑えていた力が消え、口を塞いでいた手も格段に緩くなった。
「あ‥‥すまない」
思わず捕虜の敵の顔を見ると、驚くほど若い青年だった。美雪とそう変わらない歳だろう。頬はそげ、眼だけが異様に目立ってみえる。しかし、その敵兵の顔に浮かんでいるのは憎しみでも怒りでも恐怖でもなかった。
「さあ、そっちだ」
彼女はまるで魔法でもかかったかのように大人しくベットのほうに行き、指示されるままにそこに座った。敵兵の青年は相変わらず美雪を羽交い締めにしてカッターを持ってはいたが、刃を出してはいなかった。そのカッターを机の上に投げ出すと、隣の麻紐を取る。それを見た彼女は、狂ったように暴れだした。
「暴れるな、こら、暴れるな！」
体格で優る敵だけに、のしかかられるようにして抑えつけられ、あっけなく決着はついた。今度こそ涙が止まらなかった。もう、私、殺されてしまうんだ。全身の力が抜けていく。
しかし、またも敵兵はすっと力を抜いて体を離した。
「勘違いするな。これで口を塞ぐだけだ。いいな」
頭に紐を廻され、口に噬まされても、もう反抗する気力さえない。もうどうせ殺されるんだ。
「手も縛るから。少し痛いかもしれないが、我慢して」
手がベットの柵に括り付けられたころになって、ようやく何か雰囲気が違うことに気づきだした。敵意が感じられない。縛るために両手を合わせさえられたときも、乱暴に、というどころか、そっと腕を持ち上げられただけだった。
「ひどい目に合わせて、悪いな」
美雪は泣き濡らしていた瞳を上げた。ＴＴＩが今の言葉をいったの？敵なのに？自分の耳が信じられなくて、思わず敵の顔を正視したのである。
はじめてまともに見る敵兵は、改めて観察すると重病人だとありありと分かった。今は、両手をついて肩で息をしている。剥き出しの左肩から左腕にかけては、包帯が巻いてある。その包帯にも血と異様な色が付着していた。ひどく化膿しているんだ。相手は視線に気づいたのか、顔を上げた。
「落ち着いたか。ひ弱そうなＴＴＩでびっくりしたかい」
息が荒い。どうしてこんな体力のなさそうな人に組み伏せられたのか分からないほどだった。さらに息をついて、ようやく向こうはしゃべられるようになった。
「どうも、ＧＯＴＳは敵を生殺しにするらしい」
美雪から離れて机にもたれている。
「薬も手当てもなしでじわじわ殺されていくぐらいなら‥‥脱走したほうがましだろ？」
相手は何を言っているのだろう。先生はいい人で、敵の患者にだって万全を尽くしているのに。何か喋ろうとしても、猿轡で言葉にならない。
「何か‥‥言いたそうだね。でも、‥‥。お願いだ、一時間だけ、ここで静かにしていてくれないかな。どうせ、ここに残るも死、脱走も死、なら、可能性があるほうに賭けたいんだ‥‥」
目の前にいるのは、ただの傷ついてやつれ果てた一人の人間でしかなかった。
「は、は‥‥。こんな体力じゃ、だめ、かもな」
止めたかった。素人の美雪から見ても、この相手が脱走なんて無茶としか思えない。男は、ふと思い付いたとうにポケットから傷んだ写真を取り出した。
「ほら、俺の、大事な人だ。この写真がある限り‥‥、希望は捨てないさ」
そこには、まだ元気なころの青年と、二人の少女がいた。丁度自分と羽雪の数年後を見る思いだった。相手はそれをひとしきり見つめると、またポケットにしまい、立ち上がってカッターと鍵を手にした。
「‥‥じゃあ。君達村の人には手を出さないと約束するから、一時間、情けと思って、ここで静かにしていて。‥‥さよなら」
何か返事となるような仕草をしようとするよりも前に、ＴＴＩは弱々しい足取りで外へ消えていった。

小窓から入る僅かな光だけが、時間を測る目安だった。美雪は、外の雨の冷たさを想った。

「先生！先生、大変です！」
往診からやっと帰ってきて、カルテの整理をしていたところに、血相を変えて村唯一の看護婦が飛び込んできた。
「どうしたんだ、いったい。慌てたりしたら看護婦失格でしょう」
「それどころじゃありません。物置小屋のの鍵がないんです」
今度は医者が取り乱す番だった。思わずカルテが床に舞う。
「何だって。藤崎さん、至急村長に連絡してくれ。隣にいって応援を頼もう」
外に出ると、もう暗くなっていた。傘も差さずに隣家にたどり着くと、民兵をしている主人の佐々木さんを呼び出し、病院にとって帰す。佐々木は古ぼけた小銃を手にしていた。
「また藤崎さんがおっちょこちょいで鍵を無くしただけじゃないんですか」
佐々木は夕飯をすっぽかされて、少々腹を立てていた。
「そんなはずはありません。あそこの鍵だけはいつも確認していたんですから」
「まあ、ありえないことではないが、とにかく用心したほうが得策だ。佐々木さん、銃の用意は」
「いつでもＯＫですよ、先生」
「じゃあ、あっちに行ってみよう」
彼もまた、手にナイフをもつと、離れに向かう。ドアは、鍵が掛けられたままだった。ノックをすると、中でバサバサと音がする。しかし、返事はない。
「どうします」
「そうだな。おい、いるなら返事をしろ」
今度は誰かのうめくような音がした。
「中に誰かがいることは確かだが」
「しかし、あの捕虜なら返事ぐらいするはずだが」
「じゃあ誰なんだ、中にいるのは」
小声で緊張した会話が交わされる。
「無理矢理押し入って確認しますか」
そのとき、民兵隊が到着した。隊、とはいっても村長他四名だけだが、今はそれでも心強い。事情を話すと、白里隊長は鉄槌を持ってこさせた。
「先生と藤崎さんは下がって。みんな、いいな」
全員が配置につくと、一人が鉄槌でドアのノブを叩き壊した。同時に、二人が室内に飛び込む。
「あ、美雪さん」
「美雪っ、大丈夫か」
病院側からの淡い灯かりに照らし出されたのは、猿轡をかまされ、両手をベットの柱にくくりつけられた娘だったのだ。捕虜は影もない。白い光のせいか、幾分やつれて見える。乱暴された形跡はないのが、せめてもの救いだった。しかし、これでたて続けに愛娘二人が危険にさらされたことになり、村長は怒り心頭に達していた。
「ＴＴＩを捜せ！どんな手段でも構わん、見つけ出すんだ！村内に警報発令！先生、ここを頼みます。みんな、行くぞ」
激怒した隊長に遅れまいと、民兵隊も慌てて出ていった。佐々木ともう一人だけが警備に残された。医者は急いで少女を介抱し、診察台に寝かせた。
「傷は？怪我しなかったかい？手は大丈夫か」
「大丈夫です、先生。ほら、私、ピンピンしてますから」
起きようとする美雪を押し留めて、また寝かす。
「万一ってこともあるから、しばらくそこで様子を見るよ。手は鬱血していないかい」
「縛り跡さえついてません、先生。だから大丈夫です」
それでも彼は自ら入念にチェックすると、ようやく一息ついた。
「よかった。‥‥美雪ちゃん、勝手に行ったんだね」
美雪は黙ってコクン、と肯いた。長い髪が微かに揺れる。
「全く、向こう見ずなところは羽雪ちゃんと変わらないな。やはり、血は争えないのかな」
彼が微笑みかけても、少女はじっとみつめかえしてくるだけだった。
「先生」
「ん、どうした」
「なぜ、十分な手当てを彼にしなかったのですか」
凛とした口調である。こういう時の彼女の厳しさは、勝ち気な妹のそれさえ凌ぎ、白里隊長を彷彿するものがあった。彼は、ぐっと返答に窮した。
「あの容態では、こんな雨のもとではすぐに肺炎になってしまうわ。本人もそれを承知で、『生殺しに遭うよりいい』といって、そう言って出ていった」
彼には言葉がなかった。黙って立っているしかなかった。少女の表情から、張り詰めたものが切れていく。
「先生はお医者さんなのでしょう。医者は人間を助けるために、て、先生、言っていたのに」
彼女に対して取り繕うとして、心にもないことをいう。
「あいつはＴＴＩなんだ、我々の敵なんだ、そんな奴のために、我々がなぜ治療してやらなくちゃいけないんだい。ほっとけばいいじゃないか」
その言葉はかえって自分の心に突き刺さった。自分の嘘に彼自身が耐えられない。そうじゃない。彼は両手で狂わんばかりに机を叩いた。
「敵だ、あいつは我々の同胞の誰かを撃ち殺しているかもしれない奴なんだ！‥‥でも、今、彼は患者で私は医者だ。プライドにがある！しかし、どうすればいいんだ？ここには十分な器材も、薬もない。症状を抑えられる強力な薬を持っているのは正規軍だけだ。でも、規定でこちらには回せないとさ！俺は魔法使いじゃない、素手だけでどうしろっていうんだ、くそっ！」
ペン立てをひっくり返し、机を蹴飛ばして、ようやく息が納まってきた。目を丸くして見ていた美雪は、毛布を鼻まで被って、
「ごめんなさい、先生」
「‥‥いや、いいんだ。私こそ、見苦しいまねをして済まなかった。君に言っても始まらないのにな」
先生がそこまで悔しがる姿を、美雪は初めて目にした。いつもいいおじさんでしかなかった先生のことを見直していた。

しのつく雨音に混じって、幾つもの足音が聞こえてくる。岩陰の茂みの中に身を潜めていても、追手がじわじわと迫ってくる気配がしている。この場所では敵をかわしきれない。
最後の賭けかと思いながら、上尾は身を低くしたまま真暗闇へ飛び出した。体を打つ雨が、熱を冷ましてくれる。友軍の陣地まではあとどれほどあるのだろうか。

ようやく先生から許しをもらって診療台から抜け出したときには、もう九時になろうとしていた。あくびをして、背伸びをしていると、藤崎さんが診療室に入ってきた。
「あら、美雪ちゃん、怪我は？」
「ええ、全然。心配かけてすみません」
「いいのよ、いいのよ。はい、先生、お茶です。美雪ちゃんもどうぞ」
「いただきます」
温かい緑茶が、美雪の心を落ち着かせてくれる。
「そうそう、美雪ちゃん、お願いがあるの」
「はい、なんですか」
先生も、湯呑みから顔を上げている。
「いえ、大したことじゃないんですけど、どこでどう情報を仕入れたのか、羽雪ちゃんが今回のことを知ってしまって逆上して、いえ、それはなだめたんですけど、機嫌をずいぶん損ねているの。いろいろ言ってあげたんですけど、どうも‥‥」
美雪はそれを聞いてくすりと笑った。その光景が容易に想像できてしまう。気の小さい藤崎さんでは、羽雪の剣幕についていけなかったのだろう。
「はい、わかりました。私が姿を見せて安心させておきます。それじゃ、お茶、ご馳走様でした」
軽くお辞儀をすると、少女は軽い足取りで階段を上がっていった。それを見送りながら、藤崎自身もお茶をすする。
「どうして姉妹であんなにも違うんでしょうね、先生」
医者は、湯呑みから口を離した。
「そっくりですよ、あの二人は。違うのはうわべだけです」
「私にはとてもそうは思えませんけれど」
「底に流れているものが同じだから、仲もいいのでしょう」
「仲がいい、ね。確かに、羽雪ちゃんを上手にあやせるのは美雪ちゃんだけですからね」
「そうですよ」
彼は、また一口すすった。

美雪は、りんごを剥く手を休めずに肯いた。羽雪はベットの上に起き上がって、肩からかけてもらったガウンをまとっている。
「じゃあ、本当に何もされていないんだね」
「だから、そう言っているじゃない。はい、りんごむけたわ」
「うん」
未だに真剣な表情の羽雪とは対照的に、美雪はにこにこしている。これが羽雪の感情を静めるこつだった。
「心配してくれてありがとう、羽雪」
「ううん、別にそんな気はない。私は、単にそのＴＴＩが狂暴じゃなかったんだ、て思っただけ」
そう言って、りんごに手を伸ばす。食欲もでてきて、もう体力も心配なくなったようね、と美雪は思った。
「でも、あのＴＴＩ、逃げ切れたのかな」
「姉さん！私は許さないからね、そのＴＴＩを」
そんな言葉は聞き流して、美雪も自分で剥いたりんごに手を付ける。
「敵とはいえ、あのＴＴＩを脱走にまで追いつめたのは、彼を見殺しにしようとした私達なのよ」
「だけど、」
「羽雪だって、誰かに助けてもらえたからここでのんびりしていられるけれど、一人ぽっちで怪我したままその人に見捨てていかれたら、どう感じるの？」
妹のりんごを齧る手が止まった。
「一人で‥‥怖かった‥‥」
その思い詰めた様子を見て、美雪は妹の体をつん、と指でつついた。
「嫌なこと思い出させてごめんね。でも、死にたくない気持ちは敵であれ味方であれ、人間である以上同じよ」
「‥‥かもね‥‥」
しかし、美雪も羽雪の心の深層の葛藤までは気づいていなかった。しばらく黙っていた羽雪だったが、またゆっくりつぶやくように言った。
「でも、ＴＴＩが姉さんを襲ったのは事実なんだから、そいつを罰さなければならない。脱獄捕虜には違いないんだから」
「羽雪‥‥」
姉の困った表情に見つめられても、それだけは曲げられなかった。この、人のいい姉さんを一時とはいえ恐怖に陥れたＴＴＩなど、私には赦せない。

夜半過ぎになっても、営舎には明かりが灯っていた。第六次総攻撃は大成功に終わったものの、新しく確保した地域に堅固な陣地造成が終わるまでは気が抜けない。今が一番苦しいときである。三人の将校は、今も茶を手にしたまま、新たな布陣について話を進めていた。そのとき、ノックがして、一人の兵士が入ってきた。
「失礼します」
「なんだ、飛田軍曹」
「捕虜の収容を終了しました。朝比奈村から逃走していた捕虜についても捕獲に成功しました」
「そうか、よくやった」
もう一人が眉をひそめる。
「逃走捕虜を射殺してはいないのか」
「はっ」
「まずいな。あの近くには物資拠点が多い。見つけられていれば面倒になる」
「そうだな。よし、軍曹、逃走捕虜を連行し、逃走経路を吐かせろ。また、仲間どうしで情報交換できないように別途収監するように」
「は、では尋問を？」
「脱走兵士だ、少々のことは気にするな」
「了解しました」
「行ってよし」
「は、失礼します」
くるりと回れ右をすると、軍曹はきびきびした足取りで出ていった。
「しかし、相変わらず君は用心深いな」
年配の将校がそう言うと、さきほど軍曹に指示を出した中年の将校は茶をすすった。
「当然です。たとえ蟻の一匹でも見逃せば、このＴＴＩ包囲網を崩す穴を作りかねない。ＧＯＴＳが勝つためには、勇猛な精神とともに細心の注意が必要なのです」
三人目の将校も肯いて同意した。
「さて、諸君、話を戻そう。ここの配置についてだが‥‥」

尋問は朝まで続いていた。若いころから対ＴＴＩ破壊活動に身を投じてきた筋金入りの軍曹も、さすがに今日はもう疲れていた。これだけの傷を負ったＴＴＩなのに、一晩殴っても叩いてもほとんどうめき声を出さない。ただ携帯品を確認していて、傷んだ写真を取り上げた時だけは反応があった。
「さあ、黄禍め、まだ隠していることがあるんじゃないか」
「‥‥ない。いい加減にしてくれ」
「そんな口の聞き方をしていいと誰が言った！」
精神棒で叩きつけてもほとんど反応を示さない。ただ、椅子に縛られたＴＴＩの目が食い入るように写真のほうを見ているのを、軍曹が見逃すはずもなかった。
「いいのか、強情張って。大事そうなこの写真、燃えてしまうぞ」
部下にライターを持ってこさせ、火をつける。ゆっくりと写真を炎に近づけていく。
「知らん。本当にただ走って逃げて捕まっただけだ、嘘ではない」
「おーお、そうかい。ほら、燃えるぞ、燃える‥‥」
と、その時、裏に何か微かに書いてあるのが目に入った。おや、なにかな。
「あちっ」
ライターの炎が指に当たって、軍曹は写真を弾くとライターを手放した。縁の焦げた写真が、床に舞う。
「ふん、ＴＴＩのは写真まで抵抗しやがる！ケッ！」
床に落ちた写真を軍靴で踏みつけると、焦げ臭い匂いも消えた。
その後も、気絶までさせてもＴＴＩから何も情報を引き出せなかったので、諦めて釈放ということになった。軍曹は、部屋から連行されて出ていくＴＴＩが写真を拾うのを咎めなかった。

母が被災地救済の手伝いから帰ってきたので、羽雪の看病は母が看ることになった。ここのところ根を詰めすぎている、という医者の助言で、父は美雪を数日の間、病院から離れさせた。美雪自身は反対したが、羽雪までがきつい口当たりで言ってくるので、しぶしぶそれに従うことにした。

急造のテント屋根の中、一人の兵士が上官を前に直立していた。向かいの箱に座っている軍曹のエンブレムをつけた男のほうは、頭に包帯を巻いていた。
「ですが、隊長、まだ望みはあると思います」
「ならん。もう規定の五日間は過ぎた。あいつは戻って来るまい」
「捜索は無理でも、せめてあと数日は待ってやって下さい」
軍曹の表情に苦みが走る。
「君が彼と親しかったのはよく知っている。私とて部下が死んだとは思いたくない。しかし、現実として、もう１８７谷は完全にＧＯＴＳの勢力下だ。それに、偵察小隊は第一、第二とも被害甚大で、明日からは合同して再編成され、補給路の確認を開始する。私はこの傷だ、もう前線は務まらん。だから、全ての始末を今日中につけておきたいのだ」
「しかし、隊長」
「もう何も言わないでくれ」
兵士はしばらく黙っていたが、一礼するとくるりときびすを返した。
「明日の作戦発令まで待とう。それで消息不明なら、行方不明として連絡し兵員補充を新隊長に報告する」
「ありがとうございます、隊長」
振り返らないまま柳橋は屋根から出た。隊の塹壕に戻っても、誰も何も喋らなかった。隅に置かれた所有者のいないコップが、彼には辛かった。

すっとドアが開いたので、綾は顔を上げた。
「綾、私もう先に寝るから。後、よろしくね」
穏やかに姉がそう言うと、綾は肯いた。三日ぶりに入れたお風呂の、湯上がりの香りがまだほのかにしている。
「お休みなさい」
「お休み」
姉が静かに二階に上がっていく足音を聞いて、勉強していた手を止める。最近の姉の様子には見ていてつらいものがある。極力、表にそういうことを出さない姉の性格を知っているだけに、綾にはその心の内が痛いほどわかるのだ。しいさんとの関係を修復できず、二人とも一言も言葉を交わせないまましいさんは戦争に行ってしまった。今ではどこでどうしているかすら分からない。分かっているのは激戦地にいるということだけ。生死すら‥‥。そう考えかけて、彼女は頑としてその考えに首を振った。彼は死ぬ気はないと、宏野さんに約束したのだ。もう人が死んでいくのはたくさん。

久しぶりに病室を訪れてみると、羽雪が立って彼女を迎えてくれた。
「羽雪！」
途端に心配そうな表情を浮かべる姉を見て、相変わらず、と内心思ったが、もちろん顔には出さない。
「大丈夫。先生がもう立ってもいい、て言ってくれたんだ。だから、もう用事も一人で済ませられるし、迷惑もかけない」
「でも、まだ」
その先を見越して、羽雪は自分からベットに戻った。あまり心配させてもはじまらない。ただ単に、もう快方に向かっていることを見せたかっただけなのだ。本当に、人の心配ばかりしているんだから。
「姉さんも少し具合よくなったみたい」
「そう？自分ではずっと元気なつもりなんだけど。とにかく、羽雪の治りが早くて安心したわ」
それから美雪が部屋の雑事をこなしていると、藤崎が入ってきた。
「どう、美雪ちゃん。羽雪ちゃん、ずいぶん元気になったでしょう」
「ええ、ほっとしてます」
「さあ、丁度良かった、今日はシーツを取り替えましょう。ちょっと羽雪ちゃん、ベットから出てくれる？」
「うん」
一人で立てるようになったからといっても、まだ怪我は重い。慎重にベットから出ると、美雪がそっと椅子をあてがって妹を誘導した。このあたりの姉妹の連携の良さは、仲の悪い兄弟を子供に持つ藤崎には関心限りである。とにかく古いシーツを剥がすと、美雪とともに新しいシーツを張りはじめる。
「まあ、美雪ちゃんも元気そうでなによりだわ」
彼女はきょとんとしていた。
「私が？」
「そうよ。あのＴＴＩのお陰であなたがどうかなっていたり、ショックでどうかなっていたら嫌ですからね」
「やだ、藤崎さん、なに言っているの」
「笑い事ではありません。それで思い出したけれど、今日辺りまた傷病捕虜が来るそうですよ。やだやだ。前の馬鹿な脱走ＴＴＩだって、捕まった後今ごろどうなっているやら」
「えっ」
「あら、知らなかったんですか。美雪ちゃんが帰った日の次の日の夕方に動けなくなっているところを捕まったんですよ。全く、どうしてＴＴＩってあんな馬鹿なことをするんでしょうね」
羽雪も同感という感じでうなずいていた。父も母も私には隠していたのだろう。ＴＴＩのあの最後の表情が脳裏に蘇ってくる。一瞬美雪がぼうっとしたとき、藤崎が窓の外に動くものを認め、そちらに目線をやった。
「ほら、噂をすれば影、ですわ」
美雪が振り返ると、確かに麓から丘の上の病院に向かって二台の車が上がってくる。先頭は民兵隊がよく使う連絡車だが、後続車はＧＯＴＳのトラックだった。羽雪も様子を見ようと首を伸ばしている。
ほどなく車は病院の前の車寄せに停車した。羽雪の病室からは植木が邪魔をして様子を伺いにくい。降り続く雨がそれに輪をかけていた。
「どうやらトラックで捕虜が送られて来たようね。私は行かなきゃ。じゃあ、美雪ちゃん、あとはお願い」
そう言われはしたものの、彼女は藤崎が出ていったあともトラックを擬視したままだった。そこから放り出されるようにして降ろされた一人の男に目を奪われていたのだ。男は両手を背中で縛られていて、地面に降りた拍子に前につんのめり、どさっと崩れるように倒れた。続いて降りてきたＧＯＴＳの兵卒らしき者がその倒れた男の右腕を掴んで強引に立たせる。立ち上がったときに見えた捕虜の顔には、生気がなかった。
「あれは脱走したあのＴＴＩだわ。ひどい‥‥」
美雪は傍らに羽雪がいることさえ忘れ、ぐっと手を握りしめる。左腕の包帯はもう巻かれていないも同然となっている。先頭のジープからは父も降りてきていた。ＧＯＴＳと何か言い争っているようだ。兵卒らが押し切る形で、後ろからこづいて捕虜を歩かせはじめた。どうみても、歩かせられる容態ではない。そんなことはみんな分かっているはずなのに。
「なんてことを‥‥。羽雪、後で！」
もう見ていられなくなった美雪は、そう一言残して風よりも早く病室を抜け出ていった。残された羽雪は、しかし、美雪の言葉を聞いていなかった。一行が近づいてきたのでようやく何が起こっているのかが見えたのだ。手が微かに震えている。
もっとよく見ようと窓枠に手をかけ立ち上がろうとしたとき、一行は玄関へまわって羽雪の視界から消えていった。

医務室の前は騒然としていた。医者は部屋の中にいたが、他の者達は入り口で中を監視していた。そこに美雪がやってきて強引に中に入ろうとし、押し問答になったのである。
「だから、一目見るだけでいい、て言っているじゃない」
「だめだ」
ＧＯＴＳの兵卒は体を張って入り口を塞いでいる。
「いかん、美雪、戻りなさい。もし何かあったらどうするんだ。お前のことを心配して言っているんだぞ」
父親自身も、脱走した敵が戻ってきてしかもぬけぬけと治療を受けているのをみて、かなりいきり立っていた。
「これだけ人がいて、何が起きるっていうの。通して」
「だめです、美雪さん。通せません」
「矢島さんまでそんなこと言わないで。見るだけだってば」
美雪が無理に通ろうとしても、銃を持ったＧＯＴＳと矢島に阻まれてどうにもならない。もう体当たりしてでも入ってやろうと決心したとき、背後で声がした。
「私にも見せて」
「羽雪！」
ゆったりしたガウンをはおり、杖をついて、羽雪がそこに立っていた。険しい表情をしている。白里隊長をはじめ、大人達は声も出なかった。
「だめじゃない、まだこんなことしちゃ」
「わかってる。だから、ちょっとでいい。そのＴＴＩが見たいの」
美雪はなおも何か言おうとしたが、羽雪と目が合ったときの瞳を見て、とにかく協力することにした。あまりに思い詰めている。
「私からもお願い。こうまでして羽雪が言っているんだし、父さん、いいでしょう」
まだ父は躊躇していた。が、じっと佇む羽雪の気配に圧され、折れることにした。
「少しだけだぞ。見たらすぐ病室に二人とも戻るんだ」
合図された矢島が体をどけると、美雪は羽雪を支えるようにして、中に入っていった。

美雪は足が竦んだ。医師が奥の診察台の横に立って、ＴＴＩの体を診断していた。上着を脱いだＴＴＩの姿は見るに堪えないものがあった。肉が落ちていて、しかもその体のあちこちにあざや擦傷が見える。目は窪み、見るからにつらそうだった。
「これが脱走を企てた馬鹿なＴＴＩの末路だ」
監視にあたっているＧＯＴＳ兵卒の低い声も、美雪の耳には入らなかった。
「ひどい‥‥」
その言葉で、医師はようやく背後に新しく人が来ていることに気付いた。羽雪までいることに多少驚いていたが、すぐ所見を述べはじめる。
「ひどいもんだ。脱走してからやられたんだろうな。肺炎も起こしている。危ない容態だ」
そう言いながら、ＴＴＩの左腕の包帯を外しはじめた。
「さあ、いいだろう、二人とも早く戻るんだ」
父の言葉に仕方なく従おうとした美雪だったが、隣の羽雪は微動だにしない。目を閉じたままのＴＴＩの顔をじっと擬視している。手をとめて、医者が唸った。
「これは‥‥よくこれで耐えていられたな」
左腕の傷の縫合部分はその上から殴られた後がくっきり残っていた。一度や二度ではない。縫合部分の端が無惨に裂けている。隣で手伝っていた藤崎は顔をそむけていた。美雪も思わず悲鳴を上げかけたが、なんとか我慢した。父もこれはまずいと思ったらしい。
「さ、早く出るんだ。約束だぞ、美雪。羽雪も何をじっとしている、さあ、羽雪」
が、羽雪は動こうとしない。一心に思い詰めた表情で、ＴＴＩのその左腕を擬視していた。ここまで深刻な顔をした妹を美雪は知らなかった。
と、そのとき、掠れ声が聞こえたのだ。
「‥‥はゆき‥‥」
一瞬たじろぎ、ようやくそれがＴＴＩの変わり果てた声であることに気づいた。ＴＴＩはうっすらと目を開けて、ぼんやりとこちらを見ている。その場にいる者たちは、医者さえ含めて、何事かとＴＴＩに注意が吸い寄せられていく。やがて、ＴＴＩの視線は、白里隊長のところから美雪の顔を通り過ぎ、その隣で定まった。羽雪を見ている。そして、ＴＴＩが、ゆっくりと－笑った。確かに微笑んでいる。
「‥‥元気‥‥なったんだ‥‥」
美雪には理解できなかった。私にではなく、明らかに羽雪に言っている。もう意識が混濁しているのかも。しかし、それまで隣で石のように固まっていた羽雪が、驚いたことに微かに首を振ってうなずいたのだ。その手が震えている。彼女はさらに小さく何回もうなずいた。
「先生、この人、助かるの」
声がか細い。ＴＴＩはもう目を閉じていた。
「正直に言って、かなり危険だ。肺炎と傷の炎症をまず抑えなくてはいけないが、薬がない」
厳しい見解にも、ＴＴＩは聞いているのかいないのか、顔の筋一つ動かさなかった。
「さあ、羽雪、どうしたんだ。長く立ったままでいると、体に良くないぞ。ＴＴＩを気にするなぞ、お前らしくもない」
泣いてる。美雪は感じた。必死に我慢しているが、心の内で妹は泣いている。次に羽雪が口を開くまで、ずいぶん時間の空白があった。
「この、ＴＴＩ、なの」
「何のことだい？」
皆の思いを代弁するかのように、医師が尋ねる。美雪は妹の腕に手をまわしてやった。
「あのとき‥‥一人で血を流して死にそうだった私を‥‥その傷だって、私が‥‥敵がやってきたと思って‥‥ナイフでやった‥‥」
美雪は理解した。
「‥‥なのに、手当て、してくれた‥‥腕、血まみれになったのに‥‥私を‥‥だから、‥‥だから‥‥」
もう声にならなかった。泣きじゃくる妹を、美雪は小さい頃と同じように優しく撫でてやった。

後は特に記すべきことはない。

羽雪は病室に戻され、真実を知った大人達は茫然としていた。が、遅れてやってきて全てを聞いた二人の母は、単純明快に言ってのけた。
「相手が誰であろうと、私達の誇りは『貴義生仁』、受けた恩を忘れないことです。羽雪の命の恩人であれば、たとえ皆さんを敵にまわしてでも、私はこの人を助けます」

白里隊長と医師は、その晩遅くまで方々を駆けずり回った。民族の血を誇りにし、政府とＴＴＩを憎む村人達も、協力してくれた。

何度も危篤に陥ったものの、徐々に男は快方に向かいだした。献身的な美雪の看病も一因である。そして、何よりも上尾を勇気づけたのは、羽雪が持ってきてくれた写真立てだった。縁の焦げた一枚のくたびれた写真の中で、上尾と並んだ北代姉妹が、少しはにかんで笑っていた。

目次へ戻る 1998/09/20