目次へ戻る

帰還

昼から降り出した雨は夕方になって勢いこそ弱まったが、依然として霧雨となって大阪一帯を濡らせ続けていた。春も終わろうとしているのに、冷たい雨のために気温は二ヶ月も三ヶ月も逆戻りしたようで、街を行く人々は手で腕をこすりながら足早に歩いていく。停戦協定が発効してもう五ヶ月が過ぎようとしていたが、いまだに大半の人々は内戦が終結したとは考えていず、それが社会にも暗い影を投げかけていた。それでも、停戦になったことで内戦末期には運行中止を余儀なくされていた民間鉄道が現在は走っており、いまや人の往来は戻りつつあった。
今もまた、整備が行き届いていないために車体の各部から軋みを発生させながら、列車が南千畳駅に滑り込んできた。途切れ途切れのホームの案内音声に耳を傾けることもなく、一団のくすんだ色合いの人々がホームに降り立ち、ぞろぞろと改札を抜けていく。誰も気がつかなかったが、その中の一人はかすかにびっこで、右足を引きずるようにして改札を抜けていく。切符を受け取った駅員はその男が肩にかけている袋をみて、復員者だとピンときた。しかし、そんなことは駅員にはどうでもよかった。どうでもいい大義のために内戦が起こり、食べ物の心配すらしなくてはいけない毎日が続いている。駅員は男のことはすぐ忘れ、今晩妻がごはんをたくさん炊いていてくれているかどうかの心配をしはじめた。

夕食の用意をしていた綾は、ふと外で物音がしたような気がした。今日は宏野が出かけているので二人だけで息を潜めて家でじっとしていたが、息をつめていると何でもない音まで気になってしかたがない。

街の様子は記憶とそう変わらないが、人通りの少なさやシャッターを閉じたままの商店が目に付いて、街全体がうらぶれた雰囲気を漂わせている。道路はでこぼこが多く、ところどころでぬかるんでいた。男はゆっくりと駅前を抜け、住宅街へと足を向けた。時折、足を止めて軒先で雨宿りしては辺りを見渡し、それからまた歩き出す。何度か駅に戻ろうという気にさえなったが、抑え切れない想いのほうが勝って先に進んでいく。

しばらくじっと家を眺めていた男は、呼鈴に手を伸ばした。話をすることはないにしても、遠目でもいいから一目見てから故郷を発ちたい。玄関を開けて顔を覗かせてくれれば、顔を見ることができる。それを遠くから眺めて最後のお別れにしょう。冷たく雨に濡れるボタンに指先が触れる。家には灯かりがついていて、人の気配がする。ボタンを押すと、少しあって返事があった。
「はい。なんでしょう」
低い男の声だった。聞き覚えのあるよく知った声だ。インターホンのスピーカをじっと見つめていた男の頬が、不意に皮肉な笑いを形作った。雨に対抗するように腕を振ってコートを被り直すと、袋をまた肩にかけ、振り返りもせずに来た道を戻っていく。雨は道のあちこちに水溜まりをこしらえていたが、男はそれをよけようともせず歩を進めていった。安物のコートに無常な雨が降り続けていた。

呼鈴が鳴ってテープが返答したのにインターコムからは何の応答もなかった。呼鈴が鳴った瞬間に警戒した綾だが、宏野のテープがまた役に立ったようだと分かると気を緩めた。物騒な世の中だから、もし押し売りとかで女しかいないとばれたら押し込み強盗とか泥棒とかに狙われるかもしれない。それにしても彼の声のテープのアイデアは秀逸だったかな、と考えていたら、がちゃんと玄関のドアが開く音がして、綾は飛び上がりそうになった。慌てて廊下に顔を突き出すと、姉が玄関に立って外の降りしきる雨をじっと見ている。嫌な予感がした。
「お姉ちゃん、閉めようよ、もう時間遅いよ」
「でも」
その表情は思いつめていた。だめだ、もう止められないのは分かっている。これで何回目だろう。
「分かったから、ちょっと待って。すぐ着替えるから、一分だけ待ってね、一緒に行くから」
すでに姉は傘を手にしている。私は慌ててコンロの火を消すと、ジーンズにごついトレーナーを着て、髪をたくし上げて野球帽を被り、色付きの伊達メガネをかけて玄関に戻った。姉はもう外に出ていて、その目線は外の道をさまよっている。
本当はもうこんな時間から外にでるのはやめてほしいけれど、言っても聞いてくれない。今ではこういう姉を止めるのを私は諦めていた。何かきっかけがあるか何かのはずみで、姉はしいさんがその辺にいるのではないかという気になって、あてどなくしいさんの影を求めてさまよいだしてしまう。これは、姉さんの心を現実に引き止めておく方策の代償だった。姉さんの凍り付いた心を動かし続けるための代償といってもいいかもしれない。あの隊長さんの言葉で、失われていた姉さんの感情は息を吹き返したが、常にしいさんが本当にまだいるんだということを自分で信じるために、何か突拍子もないことをしだすようになった。
私が傘をさして出てくると、姉は気弱そうに微笑んだ。
「ごめんね、綾。でも、なんかしいさんがいる気がして。馬鹿よね、私」
「うううん、ほんとにいるかもしれないし、探してみる価値はあるわ」
姉さんの心の脆い部分が出てきている今だけは、私が姉さんを守る。日常の大半は性格もしゃんとしてしっかり者の姉さんに頼ってばかりだけど、こういうときだけは立場が逆になる。
「さ、行こう」
姉を促して、雨の街にでた。春も終わりに近づき、皐月が雨雫を貯めて咲き誇る花壇を見ながら、姉のあとをゆっくりついていった。

雨のためか駅前ではもう街灯が煌々と灯り、ぼんやりした光が辺りを照らしている。駅前商店街もほとんど店じまいをしていて、何軒かの喫茶店や食堂だけがまだ店をやっている証拠に看板に灯をいれていた。姉妹はそこまで来ると、一番駅に近い喫茶店に入り、窓から駅が見渡せる席についた。
「一時間だけでもいいから、ここで見ててもいいかな」
窓越しに往来を見続けている姉の姿に、綾は諦めて雑誌を取ってくるとそれを繰りはじめた。
「一時間したら今日は帰るのね」
「うん」
やってきたコーヒーにミルクを入れてゆっくりかき回していくと、渦巻き模様が広がって溶けていく。
「綾」
「なに?」
「もしかしたら、本当にしいさんは帰ってこないんだね」
「そんなことないよ」
綾は雑誌から目を離さないで静かに答えた。今日の姉さんは冷静だから現実に慣れていくチャンスかもしれない。なんといっても、半年以上も行方不明の兵は未帰還率が九割を軽く超えるというのは冷厳な統計的事実である。その重たい現実が一度は姉の心を押しつぶしたのだ。それに、数パーセントの確率で生き延びていてくれたとしても、どのみち私達とは会ってくれないかもしれない。しばらく沈黙が続き、牧はコーヒーをスプーンでかき回した。チリンチリンと音がする。
「帰って来てくれないかもしれないけれど、諦めないから、私。どれだけ可能性が低くても、望みがなくても、しいさんの消息がはっきりするまでは諦めない。骨を拾うまで諦めない」
ほとんど独り言のように呟く牧の言葉に、綾は黙ったままがんばってお姉ちゃん、と声をかけた。雑誌の記事なんてどうでもよかった。

男は食堂をでると、まわりを見渡した。結局食欲が出ずにそばを一杯頼んだだけで、それさえ腹に納めるのがやっとだった。全くあれだけ食べ物に苦労したのに、と思いながら、駅へと歩く。気のせいか雨が小降りになってきている。もうこの街を歩くのも最後かという想いが脳裏を過ぎった。雨が右足に冷たい。

くだらない記事にも目を通し出すとついつい読んでしまうものである。綾は正にその状態になっていて、姉の視線が一点に定まったのに気づかなかった。もう夕闇深い中、通りの向こうを駅に向かって歩いていくレインコートの男の姿が、喫茶店の曇ったガラス越しに幽霊のように映っていて、牧の心の何かがざわつきだした。
がたっという椅子の音を聞いて記事に熱中していた綾は驚いて顔をあげた。姉さんが窓の外の何かを吸い込まれるように見つめている。綾が問い掛けるよりも先に牧が答えた。
「あの‥‥あそこの人‥‥」
言われて道に目を向けると、なるほど雨の中で深くレインコートを羽織った男が通りの向こうを駅に向かって歩いている。
「あの人、駅に向かってるよ、家と反対方向だし」
「でも」
その声の響きに綾は抵抗できなかった。
「分かった。ここを出ましょう」
急いで勘定を済ませると、二人は雨の街にでた。

次の電車が近いのか、駅舎は結構な人で混雑していた。牧は傘の雨粒を払って、恐る恐る辺りを見渡しだした。何度この気持ちを味わったことだろう。淡い期待と、辛い現実の繰り返しだった。綾に言われるまでもなく、今日も無駄足かもしれない。それでも、やめるわけにはいかなかった。若い男性は数えるほどしかいなかったが、さっきみた人が見つからない。
「ホームじゃないのかな。だったら、可能性低いよ」
人違いに違いない、と正面きって言わない綾の心使いが牧にはよく分かる。しかし、どうしても気になるのも確かで、自分でも止められない。
「ごめん、ちょっとホーム見てくる」
「あ、姉さん」
綾が止める間もなく牧は改札を抜けてホームに入っていってしまった。
「ちょっと、お客さん」
「すいません、すぐ戻りますから」
駅員の小言は綾に向けられ、彼女は内心むすっとしながら謝って姉が出てくるのを待った。

ホームにもかなりの人がいて、牧は人の間を縫うようにして例の男性を探し続け、とうとうホームのかなり端のところまで来てやっとその人を見つけた。途端に足が石のように動かなくなり、先に進めなくなってしまった。どうせまた違う人、綾の言う事は正しいんだから。しかし、今回は何か違った。後ろ姿しか見えないけれど、感じる。
男は脱いだコートを二つに折って手にかけて立っていた。くたびれたズボンに、安手のシャツ、持ち物といえば復員兵に定番の巾着袋が一つだけ。やせ細った男の姿は戦争の残酷さをまざまざと物語っていた。しかし、コートは丁寧に畳まれていて、ただのうらぶれた人には見えなかった。牧がそれとなく、しかしやっとの思いであと数歩のところまで来たとき、彼方で電車の警笛が鳴り響き、そちらへ振り向いた男の顔が見えた。牧はその場で立ちすくんだ。間違えようもない、懐かしい顔がそこにある。しかし、この一年が彼をなんと変えたことか。頬はこけ、よれよれになったシャツの襟からは筋のきつい首筋が覗いている。すすけているのか浅黒くなった顔が電車を探して遠くを見つめていた。もしかして私のことなど覚えてくれていないの、それともこんなに良く似ているけど別人だったりなどという悪夢みたいなことがあるの、などと様々な思いが頭の中を駆け巡って気が遠くなりそうになってきて、牧は一歩前にわずかによろめいた。また私は悪い夢を見ているのだろうか。
その時、彼の目線がふと揺れて、彼女のほうを向いた。今しかない。もう嘘でも他人でも何でもいい、こんな辛い思いはもういやだ。そう思って口を開きかけたとき、男の目がみるみる大きくなった。
「牧‥‥」
その声を聞いたのはいつ以来だろう。このしいさんは絶対に幻じゃない。振り返ると消えたりしないしいさんなんだ。かえってなぜかまだピンとこない。しいさんに嫌われていることがはっきりしたって構わない、唾を吐き掛けられたってそれが幻でないのなら歓迎する。雨音の中、そげた頬をしてじっと見つめていたしいさんが、困ったような顔をして目元を緩めた。自分がどんな顔をしているのか分からない。でも、今度こそ、今度こそ夢でありませんように。
「お帰りなさい、しいさん。おかえり」
もう何も目に入らなかったけれど、飛びつくと手に人の感触がした。幻じゃない、私の作り出した幻影でもない。今度こそ信じていいね。

相当私は情けないことになっていたに違いない。気が付くとホームのベンチに座らされていて、横にしいさんが座っていて、私はしいさんの腕をぎゅっと握りしめていた。
「落ち着いた?」
私はちょっと恥ずかしくなって小さくうなずいた。まったく、どうかしている。しいさんは帰ってくるって言ってたんだし、帰ってきたのだって当たり前よね。
「どうしてここに?」
その言葉で我に返ると、外でずっと待っている妹を思い出して、急に居心地が悪くなった。
「あ、ホームの外で綾が待っているの。心配してる」
「じゃあ、はやくお行き」
思いがけない言葉だった。何を言われたのかしばらく分からなかった。
「僕はもう君たちのところで迷惑かけたくないから、このまま行くし。綾にもよろしく言っておいて」
茫然としいさんを見上げる。本当にしいさんなの、この人。彼は目を合わせてくれない。やっぱりあのことをしいさんは怒っているままで、赦してくれてないんだ。
「僕はこれから行くところあるし、宏野もいいやつだから」
「しいさんっ」
大声を出すと反射的に振り向いてくれたので、ようやく目があった。その翳った瞳をみて私はまた奈落の底まで落ちていきそうになる。この人は本当にしいさんなの。それとも?それとも、もう現実が分からないほど私はおかしくなっているのだろうか。いやよ、私は本物の綾と暮らしたいの、本物のしいさんと会いたいの、しっかりしてよ、私ってば。怖い、現実が崩れていきそう。
「用事が何よ。宏野くんが何よ。ねえ、帰ろうよ。お願い、しいさんが夢でも幻でもいいから、一緒に帰って。私が嫌なら、私が家を出るから、しいさんにつらい思いさせたくないから」
寒くて歯の根が合わなくなってきた。体が震えている。ホームの向こうを見つめるしいさんの目がどういう色をしているか分からない。でも、何も喋ってくれないことが答えだってことは分かってる。夢で何十回も味わったこと。
「‥‥そうね、私、そんなこと言えない。当然よね」
これさえ夢。ずいぶん疲れたな。もういいか、夢でも。夢だろうと現実だろうと、私がいられないのは同じだもんね。体中の力が抜けていくのを止められない。ごめんなさい、綾。あんなに一所懸命看てくれたのに、姉さんはまた自分と外界との境界線がわからなくなっちゃったみたい。そのとき、体が不意に暖かくなった。何が起きたのか分からなかったけれど、陽光が差し込んだみたいに気持ちがいい。
しいさんが体に腕を廻してくれている。夢でも抱いてくれたことなかったのに。目の前の彼の肩で視界が塞がって、しいさんの様子は分からなかったけれど、全然冷たくない。温かい。
「大丈夫?」
こっくりうなずくと、不思議と震えは止まっていた。肩を掴んでくれている大きな手が、何よりも安心できた。

蒼白で怖いほどの真顔のまま言葉を呟く彼女の全身がガクガクと震えだしたとき、彼は何が起きたのか全く分からず茫然自失のまま、頬と腕を痙攣させる牧をみていた。そのうち、彼女の震えが全身に回りだしたとき、たまらなくなって我知らず彼女の体を力いっぱい抑えていた。不意に震えが止まった。
「大丈夫?」
何がどうなっているのか上尾にはさっぱり分からなかったが、牧をこのまま置いてはいけなかった。自分こそ彼女らの家に行ける資格などないと強く感じていたけれども、とにかくこんな彼女を放ってはおけない。その自分の気持ちが驚くほど強烈なことに、上尾自身、心の中では戸惑っていた。
振り払うようにこの地を去ったことも、すれ違い、傷つけあって別れた過去も忘れられはしないが、今はただ、彼女をそっと支えてあげられる。それだけで十分だった。

綾は行方不明兵だった上尾が本当に戻ってきたのをみて目を丸くしていたが、それ以上に上尾に支えられるようにして立っている姉の姿をみて駆け寄ってきた。
「大丈夫なの、お姉ちゃん」
「うん、もういいの。ほら、しいさんが帰ってきてくれたの」
やつれた外見とは裏腹に、言葉は弾んでいた。反対に、上尾の声は心なしか緊張して堅かった。
「やあ、綾」
そこで初めて、綾は上尾をじっくり見て、内乱をくぐりぬけた同居人につけられた戦争の爪痕に身震いした。半年以上の行方不明は並大抵のことではなかったのだろう。報いはしいさんにも姉さんにも十分過ぎた。
「お帰りなさい、しいさん。さ、家に戻りましょう」
姉さんみたいに上手に言えていないことは間違いなかったが、これが綾の精いっぱいの気持ちだった。しいさんはその言葉を微笑んで受け取ってくれた。

誰もほとんど言葉は交わさなかった。いざとなると不思議としゃべることが見つからない気がして、会話らしい会話もないままだった。牧は一人で歩けるようになっても、上尾のそばを離れなかった。その横を歩く綾の表情は笑ってはいないけれど、以前ほど嫌われているわけでもないようだというのが上尾には感じられた。

門のところまできて、上尾は足をとめた。家には灯かりがついたままだった。先頭を歩いていた綾が門を開けてくれたが、それでも上尾は動かなかった。
「どうしたの、しいさん」
まだその名前で呼ばれるのに慣れない。それに自信もなかった。GOTSと戦ってきた自分、いまは自分に何の値打もない。親友とここで顔を合わせるのはつらい。
「俺、この家に入っていいのかい。宏野はどう思うかな」
それに対して、横の牧が彼に表札を見るよう促した。
「表札、変えてないの。変えないって決めたの。宏野くんだってしいさんが帰ってきたら喜ぶよ」
そこには自分の名前が入ったままの表札がかかっていた。
「お姉ちゃんがそう決めたからには、ここはしいさんの家なの。そうそう、宏野さんなら、声だけならすぐ会えるわよ」
そういって綾がインターホンを押すと、宏野の声がした。
「さあ、冷えるでしょう、先行くわよ」
そう言って綾はすたすたと玄関のほうへ歩いていってしまった。
「宏野、来てるの?」
「うううん、あれは声だけなの。いいでしょ、防犯用よ。ね、しいさん、はいろう」
上尾が自分の邪推に赤くなっていることまでは彼女は気づかなかった。

牧は始終上尾から離れなかった。歩いているときも彼の服のすそをつまんでいたし、家の中でも手の届かない位置まで離れることがなかった。家に戻って服を着替えるときにも、着替えをタンスから出してきてくれるのはともかく、そのまま部屋から出て行こうとしない。あまり痩せた傷だらけの体を見せて心配させたくないので下で待っていてというと、しぶしぶ廊下までは出るけれど今度は始終ドア越しに声をかけてくる。それも、話をするではなく、ただ返事だけを聞いてくる。上尾にはまだ自分の服がこの家にあるだけでも嬉しかった。あれだけ冷え切って、最後は言葉も交わさずにこの家を出たことを想えば、感慨も一塩である。しかし、最初は長らく離れていたせいかと気に留めていなかった感じが、徐々に気のせいではないような気がしてきていた。特に、着替えから出てきた上尾にぽつりと、
「えへへ、うるさくてごめんなさい、なんかしいさんが消えちゃいそうで、まだ信じられないの。これ、本物かな、なんてね」
そういって冗談めかしてまた服の裾を引っ張る牧だが、その笑っている顔の目の奥が真剣であることは間違いなかった。不思議に思う上尾だったが、綾の目配せでそれを口に出すのは憚られた。料理を作る続きに姉妹二人で台所に立っていたときも、牧は妙によく振り返っては慌てて料理のほうに向き直る。

上尾が夕食を済ませてきたと伝えたので、夕食は簡素なものだった。二人の普段の暮らしそのままなのだろう。牧がご飯一杯ぐらいは食べてというので、食卓に上尾も座ることにした。椅子も、茶碗も、箸まで昔のままだった。一方の北代姉妹も、ごはんを食べる上尾を一心に見つめていた。駅でもそうだったが、食卓の明るいところで見ると、彼の痩せ衰えかたが一層はっきりする。どちらかというと骨太な体格の上尾の体は、今は肉が落ちてかさついた皮膚に筋ばかりが目立つ。目の周りも窪んでいて、それが痛ましい。ただ、口数は少ないものの上尾自身の口ぶりにはそんな疲れた気配はなく、それが救いではあった。
「ごはん、おいしい?」
「うん。おいしい」
おいしい本当の理由は、味ではなくてここの環境なんだ、と上尾は心の中でつぶやいて、さらに一口ほおばった。二人のほうは、ご飯を別にすれば一皿に盛った野菜炒めを分け合っているほかは味噌汁だけというあっさりしたものである。それを見ている上尾に気づいた牧は、決まり悪そうに野菜に箸をつけながら
「今日は買い置きの最後の日だったの。また明日買いにいくから、明日はご馳走にしようね」
と言った。
「いいや、別にいいよ。気持ちだけで十分だし、普通で」
「そうはいかないわ。ちゃんと用意はしていたんだから」
その姉の意見に綾が援護する。
「そう、ちゃんとお祝いするの。いいよね」
味噌汁から目を上げた綾の視線とまともにあたって、彼は不意にくすくす笑い出した。
「なによ、なにがおかしいの」
「いや、牧と綾の連携は相変わらずだなって思って」
「わけわかんないこと言わないで」
「いや、ごめん」
二人にとっても、上尾の笑うのをみたのは一年以上久しかった。笑顔は変わらないでいてくれたね、とその様子をみながら綾は張り詰めていた自分の緊張がほぐれていくのがわかった。

居間でくつろいでいるうちに、もう夜も遅くなってきていた。気がつくと、横に座っている牧が、机に寄りかかったまま寝息をたてている。その寝顔は変わらず美しい。苦しいはずの今の生活でも牧のその寝顔や髪を侵すには至っていなかった。いつまででもその顔を見ていたかったが、綾が風呂から上がって部屋に入ってきたので、慌てて取り繕う。
「はい、しいさん、お風呂いいわよ」
「ありがと。でも、牧が服の裾を握ってるんだ、起こさないと動けないや」
それに対する彼女の視線は奇妙なものだった。また上尾は変な気分に襲われた。しかしその彼女の視線は一瞬しか続かず、つかつかと牧に近寄ると肩を揺すりだした。
「お姉ちゃん、起きなさいって、もうお風呂入って今日は寝ましょ」
「う、うん?」
牧の寝ぼけた声もかわいかった。が、その次に、彼女は突然がばっと起き上がると狂ったように左右に首を振り、彼の姿をみてから、何事もなかったようにしゃんとした。
「ああ、お風呂ね。しいさん、本当に最後でいいの」
「そのほうが好きだって知っているだろ?」
「そうね、じゃあ先に入る」
後ろ姿を見送りながら、さっきの起き上がりに見せた一瞬の牧の目つきに、上尾は尋常でないものを感じ取っていた。そのまま視線を綾に向けると、濡れた髪をタオルで拭きながら彼女がぽつりと呟く。
「姉さんはまだ夢から完全に抜け出せていないの」
そう呟く彼女の姿は、まったくのただの高校生だった。警戒心の強い様子も今はなく、ただ髪を拭いている。上尾には何のことだか分からず、そのまま黙って綾の次の言葉を待った。
「しいさん、行方不明になって、書類上死亡扱いにされたの。そしたら、姉さん、心の糸が切れて、生きようとしなくなって」
あの牧がそんなことになるとは信じられなかった。自分から牧への気持ちはともかく、彼女は自分のことをあまりよく思ってくれていないと諦めていたのに。
「どれだけ大変だったか、わかんないだろうね。でも、隊長さんが、しいさんが口癖にしていた言葉を教えてくれたの。必ず生きて帰る、ていつも言っていたって。それを聞いて、姉さん、ごはん食べるようになった。私もしいさんは死んだって思っていたんだけど、とにかく姉さんがその言葉を信じるならって、私も合わせていたの。時々、その想いが行き過ぎてしいさんが家にいるような振る舞いまでするのよ。私、なんて姉さんに言えばよかったの?」
いつしか髪を拭く手が止まっていた。かすかに風呂場で水音がしている。
「でもね、だんだん姉さんも現実を受け入れられるように最近はなってきていたの。夢の中の生活から出てきて、しいさんのいない現実の生活に慣れようとしていたわ。でも、今度は、しいさんが死ぬ悪夢にうなされるようになって。起きている間はほとんど私にそんなこと言ってくれなかったけど、二日に一回はうなされて夜中に起きてるの、知ってる」
もう茫然と聞いているだけだった。
「そんなにうなされているのに、前に一度あまりにひどかったので心配して声かけたら、寝汗びっしょりのままで何ていったと思う?『でも、しいさんに会えたからいいの』って笑っていうのよ。悪夢にちがいないのに、それでもそのほうがいいって」
首を振ると、綾の長い髪が流れて踊った。
「もう姉さんを悪夢から解放してあげて。起きている間も、始終しいさんの姿が見えやしないかってきょろきょろして。お願い、こればかりは私でもどうにもならないから。悪夢を終わらせて」
思いつめた気持ちが声にこもっている。
「ごめんなさい。しいさんをあそこまで追い詰めた私や姉さんに何も言う権利がないのはわかってる」
何か言おうとする上尾の口を止めて、言葉を次ぐ。
「でも、お姉ちゃんは私にとってもう唯一の家族なの。そのお姉ちゃんの心が、私と違う世界に住んじゃうのはいや。こっち向いて、この世界で笑って欲しいの。ねえ、お願い。お願いします」
そう言って彼女は上尾をみた。強気な様子も、全身の毛を逆立てる様子もなく、ただ純粋な気持ちの目が上尾を見つめていた。

湯船につかりながら、牧は幸せな気分だった。よかった、また前みたいにしいさんと暮らせるんだ。先週に髪を切りにいっておいてよかった。これ、しいさんのお気に入りの髪型だもんね。そっと髪に手をやってその感触を楽しんでから、手を組んで背伸びをする。うん、明日は朝に何作ろうかな。しいさん、苦労したんだろうな、あんなにやつれた雰囲気してたもんね。ちょっと無理しても、夕方はいろいろご馳走作ろう。まずは血色をよくしてあげなきゃ。歌をハミングしながら、手を体の上で滑らす。うふふ、夢みたいね。夢‥‥。
急に背中がぞくりとした。
そう、前もこんなことがあった。お風呂入っていて、しいさんがいる夢。現実だと思っていたのに、起きたらベットの上だった。でも、お湯だって温かいし、この感触は現実。うううん、そういえば私、現実の中で夢の世界に住んでいたことがあるんだ。何度も何度も綾に言われて、新聞見て、ニュースみて、自分の記憶や行動がおかしいことにようやく気づけるぐらいに進歩したんだから。じゃあ、今日しいさんがいたのは夢?また私の錯覚に自分ではまったの?でも、さっきまで一緒に話していたのに。それともあれこそ夢を見ていたんだっけ。ああ、そうか、また行きかけていたのね、あっちへ。だめだめ、もう綾に心配かけられない。でも、でも、確かにしいさんがいた気がするのに、こんなにはっきりしてるのに。また病気がひどくなっているの、それともあれは本当に現実だったのかな。
手が震えてきて、両手で互いの腕を抑えてもその震えが止められない。どうしよう、また私おかしくなってるのかもしれない。もうそんなの嫌なのに。湯船につかっていても寒気が止まらなくなってきた。
トントン。
「牧、長湯だなぁ。ちゃんと起きてる?まさか中で寝ていないよね」
声までする。じゃあ、しいさんのいるのは現実であってるの。それとも、これすら幻かな。
「牧?ほんとうに寝てる?」
必死の思いで、声を絞り出す。
「しいさん?しいさん?」
「なんだい、起きてるね。もうずいぶん入っているよ」
ここで行かせちゃだめ、幻聴なら声だけのはず。
「しいさん、しいさん」
「なんだい、もう出るのかい」
「石鹸とって」
「なっ」
照れる声まで聞こえる。でも、声は信用できない。私の心は、しいさんのどんな声でも作れるのをもう知っているから。でも、こんなにはっきりしているなら現実だと思いたい。
「自分でとったら」
「いやっ。その、石鹸、棚の奥にあるから、私じゃ椅子とかいるし、着替えるところをびしゃびしゃにしちゃうもの。ね、取って。脱衣所のほうは入っていいから。怒らないから」
「ええー」
まだ震えが止められない。歯の根まで合わなくなりそう。お願い、姿を見せて。
「私はお風呂つかっているからいいの。はやく取って」
「綾を呼んで来るよ。待ってて」
「だめっ、今、すぐ取って」
あまりの語調に一瞬の間が空いたが、諦めたような声が返ってきた。
「わかった。いいか、じゃあ入るぞ」
ドアのきしる音がして、すりガラスごしに人影が入ってきた。え、じゃあ、しいさんのいるのは現実なんだ。それともあれは綾?それともまさか宏野くん?
「あったよ。ここにおいておくから」
だめ、いっちゃいや。私がまた病気になりかかっているのかどうか、はっきりさせないと。
「石鹸、箱から出して渡して」
「おいおい、出すのはいいけれど、渡すのは」
「渡して!」
その声に、人影はぶつぶつ言いながら箱をごそごそすると、すりガラスに近寄ってきた。だんだん人影がはっきりしてくる。
「ここに置いておくよ」
「こっちに出して」
もう上尾はこれが冗談でもなんでもないと気づいていた。
「開けるの?ガラス」
「うん」
もう視線はガラスの引き手のところを擬視したまま、体が動かない。
「ちょっとあけるよ。いいかな」
すりガラスが少し開き、石鹸を持った手が入ってきた。ガラスごしだと、どうも首は捻って向こうを向いているよう。そこから出てきた手は、男の、ちょっと筋の効いた腕だった。しいさんだ。
「ここに置くのでいいかな」
思わず湯船から上体を乗り出して、その腕を掴んだ。ちゃんと触れる!夢ではなく、しいさんはもう本当に帰ってきてるんだ。その腕に触ると、しっかりした筋肉の感触がした。
「牧、牧、その、手を放してくれ、それじゃあ上半身がなんとなくぼんやり見えるぞ」
その言葉に、ようやく彼女は正気に戻った。
「いや、エッチ、はやく出ていって!」
「はいはいっ」
牧が慌てて手を放して湯船に浸かり直すのと、上尾が出て行くのがほぼ同時だった。また肩までつかった湯船で、彼女はふとまたお湯の温かさを感じている自分に気が付いた。本当にしいさんがいるんだ、今、この家に。鼻先までどぽんとつかると、ようやく自分がしいさんに言ってしてもらったことに気が付き、顔を真っ赤にした。のぼせちゃいそう。指で水面をはじきながら、彼女はようやく全身をリラックスさせた。

上尾が久しぶりの気持ちいい風呂から上がってみると、居間で綾が本を読んでいる横で牧がうとうとしていた。湯上がりの効果がまだ残っているせいか、少し彼女の頬が上気している。かすかに揺れる体に合わせて、髪の毛が揺れていた。
「待っていてくれたの」
「なんとなくね。お姉ちゃん、しいさんもお風呂上がったし、もう寝ましょう」
その声に、彼女は今度はごく普通に起きてきた。
「うん?ああ、そうね、もう寝ましょう」
二人は相変わらずのトレーナー姿だったが、それすら今の上尾には眩しかった。彼の前を横切る牧のかすかなリンスの匂いが鼻をくすぐる。
「さあ、これで全部窓は閉めたし。しいさんの部屋はそのままだから、すぐ寝られるようになっているから」
二階のそれぞれの部屋の前で、上尾と姉妹は向き合った。
「おやすみなさい、しいさん。今日はゆっくり寝てね」
「ありがとう。牧も綾も、お休み」
さらに刹那目を合わせたあと、上尾は自分の部屋に入った。自分のベットで寝られるのはいつ以来だろう。そもそもベットがまだ残されていたことも嬉しかった。

微かに人の気配がする。長い間の労働キャンプ生活で、どんなに疲れていても深い眠りにつかないようになった上尾にはその微妙な気配の違いが夢現の中でもすぐに感じられた。居心地のいい布団の中でそっと薄目を開けると、ドアが半開きになっている。伏せたまま耳を澄ますと、横で人の息がする。
「?」
寝返りを打つようなふりをしてそちらをむこうとすると、はっと息を飲む気配がした。真っ暗な部屋の中、奥に人影が佇んでいる。
「牧か」
身を起こして目をこらすと、彼女はトレーナーのまま壁にもたれるようにして立っていた。
「ごめん、起こしたね」
「いいよ。ここは労働キャンプじゃないから」
だんだん目が慣れてくると彼女の表情が読めるようになってきた。
「いい、もう戻る、お休みなさい」
「眠れなかったの」
「‥‥そう。でももう大丈夫」
「いいよ、もう少しここにいてほしい」
彼女の動きが止まる。
「こっちにきて座ったら」
すぐそばの椅子を勧めると彼女はそっと座った。近くでみると、寝汗の跡が彼女の肌についている。綾のいっていた通りに違いない。髪の毛もそのためかいくらか波打っていたが、それがかえって上尾には好ましかった。その表情も神秘的で、上尾はまた彼女の知られざる面を感じた。
「僕が昔、君にひどいことをいったこと、とても済まなく思っている。悪かったよ。僕のこと、許してくれるかな?」
言うなら今しかないと何かが上尾に告げていた。彼女の首が肯く。髪の毛が少し揺れた。
「私、しいさんが帰ってこなかったらっていつも怖かったの。いつも、いつも、私もあんなこといわなきゃよかったって、ずっと後悔して」
しゃべり続けようとする彼女を手で制して、牧に正面から向き合う。
「いいんだ。僕のほうは自業自得だから。でも、もうこれからは勝手に消えたりしない。約束するよ」
「うん。うん‥‥」
それからはずっと言葉はなかった。静かに体を震わせて泣く牧の肩を横から抱いて、長い長い間そのままでいた。トレーナーごしに伝わる体温だけで十分幸せだった。

いつしか牧の泣く声もしなくなり、気が付くと規則正しい息がしだした。そうっと彼女を覗き込むと、目を閉じて無邪気な表情のまま牧は眠りの世界に沈んでいる。両手を体の前で合わせて肩にもたれ掛かっているので、息ごとに上下する彼女の体の揺れが絶えず上尾の肌にゆっくりとしたリズムを刻んでいた。起こすのには忍びなかったのでその寝顔にじっと見とれ続けていたかった上尾であったが、彼もいつしか眠りの世界に引きずり込まれていった。

気が付けば窓のカーテンの間から日が差し込んできて、それが部屋の中を照らしていた。ベットの横にあった椅子は元通りに片づけられていて昨日の痕跡は何もない。寝ぼけまなこのまま起き上がると、背伸びをしてカーテンを開ける。当たり前のようなこの生活が実に一年ぶりとはなかなか実感が湧いてこなかった。部屋を出たところで綾と鉢合わせになって、まだ寝癖のついた髪のままの彼女がじろりとこちらを睨んくる。
「おはよう、綾」
「おはよう、しいさん。姉さんに何もしなかったでしょうね」
ギクッ、やっぱり気づかれていたか。でもこれからは、嘘はなし、隠し事もなし。もうつまらないことで後悔しない。
「してないよ。寝ちゃったから。いや、一緒に寝たっていうわけではなくて、二人で話しているうちに肩並べて寝てしまって」
「残念だった?」
「え?」
破顔一笑して綾が横を通り過ぎる。
「昨日姉さんが戻ってこないから、悪いけれど覗きにきたの。それで姉さん部屋に戻ったんだから。じゃあね」
あっけにとられる上尾を残して、彼女は階段を降りていった。怒ったような困ったような顔をした上尾だったが、結局ため息を一つだけ吐くと自分も階段をおりていった。台所では牧が背中を向けて皿を棚から出しているところだった。天使の輪が浮かぶほどのつややかな黒い短髪に目が吸い寄せられる。
「おはよう、牧」
「おはよう、しいさん」
振り返った彼女の顔は少しはにかんでいるようで、それは多分自分も同じ事だろう。そう、牧の顔が見たいために帰ってきたんだ。そしてこれからも見続けたい。自然に牧の横に立って皿を出すのを手伝うと、彼女が首を捻じった隙にその形のいい耳にそっと囁く。
「好きだよ、牧。愛している」
「なっ」
そう、もういいたい事を言わずに後悔はしない。
「‥‥ばか」
そういって彼女は流しのほうへ歩いていったが、上尾から見えないその顔は真っ赤だった。

日中はゆっくりしてねとの言葉を残して、姉妹は並んで出ていった。牧の反応はあれ以外特になかった。家に残った上尾は、失われた長い時間を取り戻すかのように、じっくりと家の中を見てまわる。一年以上の時間のなかで、上尾家には北代姉妹の生活の香りがするようになってきているのが肌で感じられる。自分にとって牧はかけがえのない人で、こうしてまた会えた今、捕虜だった頃に夢見ていた彼女より実際の彼女のほうが数段眩しかった。しかし、その光のような彼女に対して、上尾には自分が彼女に愛してもらえるのか、そもそも愛される資格があるのかという思いが頭にまとわり続けた。戦場で実際に敵を直接倒した経験はないとはいえ、小銃を使っていた以上、人を殺めている可能性は高い。その一方で、やなさんを失ったと知った苦しさはまだ消えない。血塗られた手を彼女に伸ばすのは間違いではなかろうか。深い薮の中で、恐怖に脅えて小銃を乱射し続けた戦場の記憶が、引き金を引いた指や銃を支えていた腕にべっとりと張り付いている。あんな告白をしたことは間違いだったのではないか。昨日の雨は去り、空には青空が覗いていたが、庭に出てテラスに座り込んで考えこむ上尾の心は翳ったままだった。

何をどうしていくべきか分からないまま、それでも上尾は家での様々な雑事を片づけていく。姉妹にはゆっくり休むように言われても、体を動かしているほうが気が紛れる。家の中をまわってみると、やはり細かい不具合が所々あり、そういったものの修繕は上尾の得意とするところでもあった。納戸の扉の滑りをよくしたり、高いところの埃を拭きとったり、庭道具の整備をしていると案外時間が過ぎて、あとめぼしい仕事は風呂周りの清掃ぐらいだけが残った。牧が作っておいてくれていた御飯を昼に食べてはいたが、激しい労働をするとまた少しふらふらする。閉口するのはずっと立っていると右足がいまだに少しずつ痛くなってくることだった。結局、一旦居間で横になって休みをとってから、風呂場に取り組むことにする。収容所では考えられなかった贅沢だな、と思うと、クッションを並べた上にごろんと横になる。いつしか、いい気持ちで眠りについていた。温かいな、ここは。眠る前の最後の気持ちは、全身に温もりを感じていた。

牧が大急ぎで仕事先から戻ってみると、上尾はちっともゆっくりしていなかった。
「やあ、お帰り」
脱衣場から顔だけ覗かせて彼女を迎える。靴を脱ぎながら、牧は彼の姿を見れたことで内心の緊張を解いた。そうすると他の疑問が浮かぶ。
「ただいま。お風呂に入ってるの?」
「いや、ただ洗っておいてあげようと思って。もうしばらくかかるけど」
「もう。休んでいてよ、しいさん。私達がするから」
「いいんだ。このほうが気が紛れるから」
そう言って上尾はまた引っ込んで水音をさせはじめた。そこには、牧の知らないしいさんの側面が垣間見えたような気がした。引きずっているのは戦場の記憶、それとも私達が冷酷だったこと、それともその両方。今朝の出来事さえ、現実だったかどうか自信がない。でも、とにかくしいさんがそこにいる。牧にはそれで十分だった。二階に上がって着替えを済ませると、帰りに買ってきた食材を台所に運び込んでエプロンをつける。台所から風呂場は近いので、少し大きな声を出せば十分届く距離だ。
「しいさん、今日はいろいろ作ってあげるから」
「え、ああ、無理しなくていいよ。そんなに生活、楽じゃないんだろう?」
「心配しなくても大丈夫。やりくり上手になったんだから」
家計の管理がうまくなったのは、生活に無駄が許されないからで、その意味でしいさんの意見は相変わらず鋭い。でも、今はそんなことでしいさんを困らせたくない。この一年のしいさんの生活は辛かっただろう。それも私が意固地になっただけの理由でそうなったようなものなのだ。努めて明るい声でしいさんに呼びかけよう。
「ねえ、メインは鳥肉よ。醤油揚げがいい、それとも煮込みあんかけかな」
しかし、水音が大きいのか聞こえていないらしく、返事が返って来ない。
「もう。しいさん、聞いてる?」
とことこと風呂場に寄ってみると、シャツが籠にかけられていて、しいさんは洗い場のほうにいるようだった。声をかけようと近寄ったとき、彼の背中が見え、牧は思わず足を竦ませた。上半身裸のしいさんの体は、服の上から想像していたよりはるかに肉が落ちていて、昔の記憶と全然異なっていたのだ。あちこちについた傷跡が痛々しい。そして何よりも、右腕の上腕のひきつれた大きな切り傷とその異様な傷痕、それに右足首一帯の曲がり方が見えたとき、彼女は言葉を失った。昨日の様子で右足を悪くしているようだとは感じてはいたが、これが私がしいさんを戦争に追いやった結果なんだ。生きて帰ってきただけでも奇跡なんだ。右腕は上に上げづらいのか、時々ブラシを持つ手を変えている。彼女は思わず手を固く握りしめていた。
ふとした視線を感じて振り返ると、暗く蒼白な顔をした牧が立っている。エプロンが似合っていて本来ならかわいいと言ってあげたいところだが、その思い詰めた視線が自分の右手に向いているのを知って、慌てて腕を彼女から見えにくいほうに向ける。
「や、やあ」
どうにも気まずかった。
「私なんかいなければ、しいさん、そんなにひどい怪我しなかった」
昨日と同じ語調だ。彼女本来のものではなく、僕が追い込んでしまった精神的重圧に悲鳴を上げている。
「もしかしたら死んでしまっていたかもしれないのに。なんで私が行かなかったんだろう。私がいけば何の問題もなかった。いって死ねばよかった」
その言葉を聞いて、即座に彼女に近寄る。彼女の手はぎゅっと握られたままで、血の気が引くほどきつく力が入っているのが見て取れる。
「いいんだよ。それどころか、牧がいるからこそ帰って来たんだ。僕にはそれで十分」
「でも、でも、‥‥」
牧が泣くのをみるのは三回目だった。一回目は姉妹を引き取ってすぐの頃に泣かせてしまったときで、二回目は昨日。もう泣かしたくない。泣かしたくないんだ。泣かないで、牧。そうっと肩に手をかけてあげると、彼女は肩口にもたれて泣きじゃくった。目の前の絹のように光沢のある黒髪が小刻みに揺れている。長い間、そのまま二人は立ち尽くしていた。

ようやく泣き止んだ牧は、一歩下がってごしごしと涙を拭き取って、ちょっと情けない笑顔を作る。
「ごめんなさい、しいさん。またみっともないことして、情けないよね、私」
「そんなことない。牧が情けないなら、僕はもっと情けない人間さ。牧のほうが立派だよ」
「そ、そんな」
「牧」
上尾は一歩近づいた。正気に戻った彼女の気を害するかもしれない。でも、いまの彼女は上尾にはたまらなく愛おしく、自然な気がした。ちょっとだけ背を屈めるようにして、その深い目をみつめる。一瞬の間のあと、その目が閉じられ、上尾は初めて彼女に唇を重ねた。感覚など分からないまま、ただ天国の門が開かれて美しい核に触れたかのような心地よさが二人の全身に広がっていった。


目次へ戻る 1998/09/22 1