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木原製作所

その少女が初めて店に来たときの人々の第一印象は、ずいぶん堅い感じだった。だいたい、工務店に出入りするのはむさ苦しい男が多いので、女性しかもまだ若い子が来ると記憶によく残る。そのため、繁盛して人の出入りの多い此処でも、木原製作所の事務所にいる人たちはその子を憶えたのだ。初々しさとは異質な、珍しい雰囲気を纏っていた。

初日に出入りの業者である亀岡鉄工所の営業担当がその少女を挨拶に連れてきていたが、次の日から、少女は一人で朝早くに伝票と注文書を取りに来て、昼と夕方遅くに部品を納めに回ってくるようになった。しかし、これが滅法まじめな子で、部品を渡しに来たときにお茶を勧められても受け取らない。都合で急を言って部品を時間外に納品させるときもその子が来るのだが、ご苦労様だったから休んでいけばと声をかけても、すっと頭を下げて
「ありがとうございます。でも、仕事がありますので」
と言って引き止める間もなくまた自転車に乗って戻っていく。あまりに社会を知らないそっけない態度なので、木原製作所の人々も気分を害して、彼女が来ても相手にすることなく、新米とはいっても他の配達業者と同じように扱っていくようになっていった。

あるとき、在庫に入れられていた鉄骨三方向受枠の仕様が異なっていて、木原製作所から現場に送る資材が揃えられない事態が発生した。完全に亀岡鉄工所の手違いで、しかも木原製作所側はその日中に資材を現場に送れないと大損害になる。木原社長は電話で怒鳴った。
「おたくが持ってきてたのは三方向受枠でも斜交強化フレームがはいってないじゃないか。これじゃ組み立てられん。どうするんだ、もう現場では職人も手配つけてるんだぞ。今日は無理?明日なら配達できる?間に合わん。トラックぐらいなんとか手配しろ。いいか、午後のうちに持ってこなければもうお前のところとは契約しないし、今回の損害賠償も請求するからな。いいか、わかったな」
相手の返事も聞かずに電話を叩き付ける社長をみて、ここでもう十年もパート事務をしている幹原が顔をしかめた。彼女は50過ぎで、手も動くがそれ以上に口が動く人だ。
「ほら、社長、電話にあたってもしょうがないでしょう。それに、そんなにきつくいっていいんですか?あそことは長い付き合いだし、昨日、車が壊れて修理に出してるって聞いてますよ」
口が動く人はだいたい耳も早い。しかし、彼女のそんな情報も社長の気を静める役には立たなかった。
「向こうの事情ぐらい私だって分かっている。しかし、それがどうだっていうんだ。今回の用件は樫原建設への信用を得るためにわざわざ取ってきたんだ。あっちのミスで流れてみろ、こっちまで会社が潰れかねん。泣き言をいってもはじまらんのだ。無理を言ってでも約束を守らせなければ。そう、泣き言はなんにもならん」

ところが結局、樫原建設への資材の発送はその日中に行われていた。
「ほらみろ、言った通りになるじゃないか」
「それが、すごかったんですよ」
「何がすごかったんだ」
「営業の柴田くんと北代さんが持ってきたんです」
「柴田君か。よく免許もってたな。車も借りてきたのか」
「いえ、その、急ごしらえの四輪リヤカーに乗せて、押して」
「押して、て五キロメートルはあるぞ。重さも二〇〇キログラム近いはずだ。むちゃくちゃな」
「なんでも、出してあった受枠の伝票が至急で、納入先がここだったのを見て、北代さんがいきなりリヤカー持ってきて、鉄工所の人に受枠をリヤカーに載せるように頼んだそうよ。それに圧されて、柴田君も一緒になって押してきたんだって言ってました」
「北代って、あの無口な子か。いくら若くても、体が大変だったろう」
「でも、また例の調子で帰っていっちゃいましたわ。さすがに少し堪えていたのが表情に浮かんでいたみたいですけれど」
丁度そのとき、喋っている事務所の横の資材敷地に自転車が止まって、その少女が来ているのが見えた。
「こんにちは。今日の午後の分を届けにあがりました。サインお願いします」
あっけにとられた社長はサインを受け取る少女の顔をまじまじと見つめた。相変わらずそっけない態度で事務所の入り口の隅に立っているだけだったが、少し観察してみたい気がしてきた。
「ああ、君、午後に大変苦労して受枠届けてくれたそうだね。ありがとう、助かったよ。それにしても、よく押して運ぶ気になったね」
彼女はしかし、その言葉にも軽くお辞儀するだけだった。
「重かっただろう。よく諦めなかった」
いつものように黙って頭を下げて帰っていくかと思われた彼女は、珍しくちょっとそこで止まった。
「泣き言を言ってもはじまりませんから。では、失礼します」
図らずも社長と同じことを言って澄ました顔で去る少女とそれを見送る社長の表情をみて、幹原は笑いを噛み殺していた。しかし、少女が自転車に乗る姿には疲れが見て取れて、彼女は同情した。

「いやあ、降られた、降られた」
社長はそう言いながら大声で事務所に戻ってきた。
「朝はいい天気だったのに、こんなに急に天気が崩れるとは。お陰で一張羅がだいなしだ」
「その作業着のどこが一張羅ですか。とにかく服を替えて下さい。社長に風邪なんかひかれたら私達がたまりませんから」
着替えを終えた社長が席についても、雨が屋根を激しく叩く音が外から聞こえてくる。
「これは、さすがにビル工事も延期だな。結構な損害だ」
「それ込みで工事費もらっているんでしょ」
と、そのとき、玄関のサッシが滑る音がしたので、二人は振り返った。
「こんにちは、亀岡鉄工所です。ご依頼頂きました図面を届けに参りました。受け取りをお願いします」
髪の毛から水が滴っている。頭から肩から腕、足にいたるまでずぶ濡れの少女が玄関に立っていた。ビニールを巻いた長い筒を大事そうに抱えている。幹原が慌てて受け取りに立つと、ビニールからそっと設計図の入った筒を取り出した。こちらは全然濡れていない。
「まあまあ、北代さん、濡れ鼠じゃない。どうしたの」
「いえ、雨が降ってきたので。図面は大丈夫ですね。良かった」
筒をくるんでいたビニールはレインコートだった。
「なんでレインコート着なかったの。馬鹿ね」
「設計図面の配達が第一でしたから。では、失礼します」
こんなときですら彼女は素っ気ない。しかし、さすがに幹原も見捨ててはおけなかった。
「ちょっと、体を乾かしていきなさい。それじゃ風邪ひくわ」
「いえ、お気持ちだけで結構です。他も回らなくてはいけませんから」
「ほら、タオルもあるの。乾かさなくても、せめて拭いていきなさい」
木原製作所で初めて、逡巡する彼女を幹原は見た。
「いえ、予定もありますし、お客様に甘えてはならないと言いつけられていますから」
「でも」
「ありがとうございます、でも本当に困るんです」
レインコートを付け終わって頭を下げて出ていこうとする北代を、大声が怒鳴った。
「会社で客を不快にしていいと言われているのかっ」
「えっ」
顔を上げた彼女を、木原社長が睨みつけていた。
「いえ、それは‥‥」
「それならタオルぐらい使って雨を拭っていけ。こちらとしてもうちに出入りする者がみっともない格好で出ていったら、うちの信用問題になる」
それだけ言うと、社長はまた老眼鏡をかけると机の上の書類に目を落とした。
「ね、うちの社長もああ言っているんだから、はい、タオル」
澄ました素っ気ない表情以外を彼女が初めて見せた。
「ありがとうございます」
申し訳なさそうにタオルを受け取ると、頭から順序良く肌を拭いていく。服の部分は残るものの、冷たい雨を足まで拭き取っていった。彼女がタオルを返そうと顔をあげると、今度は湯気の立つお茶が用意されている。
「いえ、その、ほんとうに困ります、私」
また社長がジロリと目だけを上げて睨む。
「何か、うちの茶はまずくて飲めんのか」
「いえ、決してそんなわけではないです」
「飲めないならうちの茶も飲めん奴だと亀岡のとこに電話するぞ」
「いえ、それだけは!」
突然の切迫した表情に、内心で社長は驚いていた。
「‥‥ありがとうございます。お茶、頂きます」
横目で社長が見ていても、おいしそうにお茶を飲み干していく。我知らず木原は聞いていた。
「そんなに仕事に無理しなくてもいいんじゃないのか」
幹原は心の中で目を丸くしていた。おやおや、その台詞を私にも言ってほしいものだわ。
「今の会社には恩があるんです、私なんかを雇ってくれてるんですから」
何か言いかけた社長よりも早く、彼女はぴょこんとお辞儀した。
「本当に、ありがとうございました。では、失礼します。お茶をご馳走様でした」
言葉を返す暇も与えずに、彼女はまた雨の降りしきる中へと出ていった。
「社長も案外女の子には優しいんですね」
「何をいっている」
社長はまた机上の書類に目を戻した。幹原は湯飲みを片づけながら、出ていった女の子のことを考えていた。お茶のあとの返事をするときの彼女の目に初めて感情を読んだ気がしていた。淋しい目をしていたのを、人の感情を読むのがうまい幹原は見逃していなかった。
それから数日間、マスクをして咳き込みながらも巡回し続ける少女の姿があった。

大雨の後も、亀岡鉄工所から来る少女の振る舞いに変化は見られなかった。少しは打ち解けてくれるかと密かに期待していた幹原だったが、いつしかあきらめ、彼女とはまた事務的な関係に戻っていた。

戦況は一進一退で、もう膠着状態が一年以上続いていた。最初は南進して制圧地域を広げていたTTIも、その後の各地域での根強い抵抗と住民の不服従に手を焼き、体制を立て直してきたGOTS側に徐々に陣地を侵食されつつあった。まだそれは目に見えるかたちではないが、明らかに世の中には重たい空気が溜まり続けていた。
そんな頃、亀岡鉄工所から来ている少女の雰囲気が微妙に変化していることに、幹原はある日突然気づいた。きっかけは、伝票を受け取るまでの短い待ち時間に見せる彼女の様子だった。ずっと無口で静かな子だと思っていたのが、いつのまにかそういう印象を受けなくなっている。いったい何が違っているのか何日間も気づけなかったが、とうとうその理由が突き止められたのだ。少女の手だった。彼女の手は待っている間もその姿勢と同じくじっとしているのだが、時々、その手が握り締められている。始めは手の運動かと見過ごしていたのだが、よく見るとその力の入りかたが尋常ではない。
そうなると、幹原の次の興味はなぜ少女の手にそんなに力が入るのか、である。面と向かって尋ねてもはぐらかされた上に、その癖を止められていまうだけだと直感で理解していたので、とにかく婉曲に探り出す方法はないかと散々思案投げ首を重ねていたが、案外簡単にその原因は掴めた。木原製作所には、毎朝、現場に向かう前の職人が何人も集まっていて、雑談をしている。その雑談がTTIのことに及ぶと、ほぼ間違いなく少女は緊張を見せる。彼女の緊張は顔や立っている様子、言葉には全く現われないけれど、その手指だけは鋭く反応するのだ。
さらに幹原はその根本理由を探ろうと決めた。ある日、TTIがニュースに出ていた朝を待って、一度だけ伝票を待つ少女に何気なくTTIの話題を話しかけたのだ。
「TTIがまた苦戦しているんだそうよ。南方民族と混じって暮らしていなければ、こんな内戦もせずに済んだでしょうにねぇ」
そういって横目で少女の様子をみて、幹原は後悔した。彼女はいつもどおりじっと事務所の入り口立って微動だにしていなかったが、その両手の指がお互いに食い込まんばかりになったのだ。手の甲の血の気が引いて白くなっている。
「ごめんなさいね、変なこと言っちゃって。はい、今日の分の伝票よ、よろしくね」
「はい」
その表情はいつもどおりのものだったし、返事もいつものように最小限だった。しかし、今、事務所を出ていく表情をみて、おせっかいではあるが決して悪い人ではない彼女は、二度とこんな真似はすまいと誓った。出て行く彼女の唇から血の気が引いて土気色になっていたのだ。

夕方になったので、植込みと鉢植えに水を撒いてやろうと幹原が事務所の横の猫の額のような庭に出てホースを出していると、後ろから声がした。
「こんにちは、亀岡鉄工所です。頼まれていました部品をお持ちしましたけれど」
声に振り返ると、例の少女が塀越しに覗き込んでいた。小首を傾げて肩から上を覗かせている少女は、いつもの作業服に身をまとっているのだが、幹原が一瞬誰だったかと考えてしまうほど少女が別人に見えた。
「はいはい、ちょっと待っててね、すぐ済むから。ごめんなさい」
「いいえ、もう今日は最後ですから、ゆっくりでいいです」
栓を捻りながら、目の端で少女を観察する。いつもと違うのは声が優しい感じがする。微かではあるけれど温和な表情で鉢植えを眺めている。いつもの仮面を被ったような冷たい空気を今日はまとっていない。いったい何があったのかと聞きたくなるほどの雰囲気の差が今日の少女にはある。
「そのお花、気に入ったのなら分けてあげるわよ」
「いえ、そんな、もったいないです。ここで見ているので十分です。こんなに綺麗な花だから、長く咲いていてほしいですし」
目を丸くし、ちょっと顔を赤くして断る彼女は、確かにいつもの氷の少女ではない。新鮮な気がしたが、考えてみればこの子だってどうみても二十歳には早いのだから、これで普通の子の雰囲気にやっとなったというところかもね、と幹原は一人ごちた。
「はい、お待たせ。部品はこれで全部ね。いつもご苦労様」
「いえ、どう致しまして。ありがとうございます」
そう言いながら、まだその目は花々を愛でている。そこには何か感じさせるものがあった。ふと思い付くと、幹原は咲き誇る枝々の中でも元気のいいのを選ぶと、パチンと鋏を振るった。
「あっ」
「はい、北代さん、これをあなたにあげるわ」
「え、でも」
「いいのよ。もうおうちに帰るのでしょう?はい、飾ってね」
いつもの少女になら硬い表情で断られるところに違いなかったが、今日は違った。黄色い花をたくさんつけた枝を数本手にしたその顔には朱が差して、幹原は初めてこの少女を美しいと感じた。決して美人とはいえない少女の顔立ちだが、その花を見つめる眼差しは誰にもないもので、それを見る者をはっとさせずにはいられない。
「ありがとうございます、大事にします」
弾んだ声に幹原もつい疲れを忘れられる。
「なにか今日はあなた、とてもいい顔してるけれど、何かいいことでもあったの」
普段ならその冷たい雰囲気から聞けないことも、今は幹原自身驚くほど自然に聞けた。
「ええ、手紙が来たんです。その、遠くの、家族のようにしている人から」
俯いて頬が真っ赤に染めるその恥じらいかたに、幹原は詮索するのをやめた。この少女がここまで喜ぶからには、恋人に違いない。もっと聞きたいけれど、それ以上に今、目の前にいる幸せいっぱいの少女を大事にしたい。幹原は頭を何度も下げながら去っていく少女を、いつまでも見送り続けた。

次の日からの少女の振る舞いはそれまでと大して変わらないあっさりしたものではあったが、こころなしか事務所のドアを開けて入って来るときの少女の顔が以前ほど氷のように冷たくはないような気がした。相変わらずTTIやGOTSの話には敏感なところがあるし、気安いとはいえない雰囲気はそのままだが、幹原はこの少女を悪く思わないようになっていた。

街の気配は僅かにではあるが日増しに荒廃の度を増し、不穏なニュースや噂が飛び交うようになっても、木原製作所はいわば戦争景気で忙しい日々を送っていた。とはいえ、世間の目を気にして事務所の様子を出来るだけ地味に見せるように入り口の飾りを取り払ったり、あまり遅くまで事務員を残さないようにしたりして、社長の気苦労は絶えなかった。

そんなある日の朝、いつものように幹原が事務室で帳簿をつけていると、ドアが開いて人が入ってきた。
「おはようございます、亀岡鉄工所の柴田です。今月決済分の請求書をお持ちしました」
老眼鏡を外して入り口を見やると、元気のいい亀岡鉄工所の営業マンが来ている。
「まあまあ、ありがとうございます。どうしたの、柴田君。何かの売り込み?」
「いえいえ、いやだなあ幹原さん、ただ請求書をお持ちしただけですよ」
若くても彼はこれでなかなかセールスがうまい。幹原は油断しないように気を引き締めた。
「でも、それだったら北代さんで十分でしょう。彼女、具合でも悪いの」
「いえ、そんなわけでもないんですけどね。うちのほうで営業強化の見直しがありまして、やっぱりこういう仕事もこつこつと営業が回らなくちゃって話になりまして。ですから、また私が回らせていただきますので、今後もよろしくお願い致します」
「まあまあ、それは大変ね、こちらこそよろしく」
「はい、それでは他も回りますので、今はこれで。失礼します」
請求書を受け取った幹原は、出て行く柴田を見送りながら、あの少女に会えなくなるのをなんとなく残念に感じていた。

事務所横の黄色の花々が盛りを過ぎ、季節が移りはじめた頃、幹原は取引先の気安い業者の人と喋っているときに、不穏な噂を聞いた。それは、この界隈の鉄工所で社員の横領があったという話だった。噂を伝えてくれた相手はそれ以上わからないんだけど、と言っていたが、話の様子からして幹原にはそれが亀岡鉄工所だとピンときた。亀岡鉄工所は中小の会社の中では割合規模の大きい部類だったが、幹原は従業員の半分以上を知っている。こうなると、噂の真相を突き止めなくては気が済まない。柴田君に聞きたい気持ちを押えつつ、鉄工所内の別の知り合いの人に話しを持ち掛けてみた。
「ねえ、こんなこと聞いて悪いとは思っているんだけど、そちらの会社でなんか悪い事があったという話を聞いたの。大丈夫なの?」
「ああ、もしかして伝票騒動かな。人には黙っているように、て言われているんだけれど、あなたにはいつも世話になっているし、しゃべってもいいと思うの。人に言わないでよ。といっても、私もほとんど又聞きなんだけどね」
「うん、それで?」
「しばらく前だけど、運営資金用においていたお金がなくなったらしいの。ううん、たいした額ではないんだけど、失われたのは本当らしいわよ。でね、いくらなくなったか調べようとしたら、帳簿伝票もないの。おかげで、本当になくなったのが幾らなのかわからないのよ。けっこう後味悪かったわ、あの事件は」
「誰が犯人だか分からずじまい?」
「そうなの。伝票を触る人たちが一番疑われていたみたいだけど、こればかりはね」
「よくそんなので問題が打ち切られたわね」
相手は少し黙って何か思案しているようだった。
「ねえ、ここから先は本当に分からないから言いたくなかったんだけど、最近辞めた人がいるの。それも、噂では首になったんじゃないかって。あなた知っているかな、名前思い出せないけれど、数ヶ月しか来てなかった若い女の子よ。なんか愛想の良くない。いえ、犯人が誰かなんてわからないけれど、でも、ありそうなことよねぇ」
「へえ、そうなの」
「あ、上司が戻ってくるわ、じゃあね」
「ええ、また」
受話器を置いた幹原はそのまま考え込んでいた。あの冷たい感じの子がそんな悪い子だったなんて、世の中分からないものね。仕事は真面目だったのに。窓の外を見ると、枝についた最後の黄色の花々が静かに佇み、強くなりはじめた風に揺れていた。

しかし、話はそれで終わらなかった。あるとき、営業の柴田君が来ているときに、なんの気なしに北代の噂話を出したら、彼の様子がぎこちなく感じられたのだ。ある人間が会社を辞めて、同時期に横領と伝票紛失事件が発覚したとなると、誰もが良くない噂を立ててしまうわよね、と話すと、彼は急に座りごこちを悪くしたみたいで生返事しかしてくれなくなったのである。やっぱり二つのことには関連があるのかねぇ、と独り言をいうと、柴田くんは、もう幹原さんにはかないません、北代さんが辞めたのは確かですけれど、この話はもうこれぐらいで勘弁してください、と苦笑いをしてそれっきり話を切り替えられてしまった。柴田君は話の分かる人で、私が噂好きなのを知っているのでよくネタを教えてくれるのに、これについては全く話をしてくれない。よほどまずいことが亀岡鉄工所であったのかしら、と幹原は気になって仕方がなかった。あの少女が希代の大悪党だった、というのも悪くないわね、と彼女は思った。

季節の変わり目に入って、久しぶりに流感が大流行し、木原製作所も風邪で倒れる従業員に悩まされて幹原自身の仕事は増える一方となり、毎日彼女はブツブツ社長に文句を言いながら働いていたが、その社長さえ風邪を引く始末で、事務所は目を回しそうな忙しさだった。
そんなある日、幹原は銀行への決済と事務用品の買い足しの用事などを山と抱えて街に出て、せわしなく次の取引先へと道を歩いていた。繁盛もいいけれどこれは行き過ぎかもね、と愚痴をこぼしながら横断歩道の信号を待っているときに、道の向こうの建物の中から例の横領少女が出て来るのが見えた。建物の入り口には、周旋・紹介とある。幹原は信号が変わると同時に可能な限り駆け足で、少女に迫った。
「ねえ、北代さんじゃないの、お久しぶり」
少女は足を止めて振り返り、お辞儀をした。
「こんにちは、幹原さん。いろいろ有り難うございました」
こちらを向いたその表情は素っ気無いものである。最後のころに僅かに感じられた人間らしさも気のせいではないか、という雰囲気で、この少女には何故かガラス人形を思わせるような固い感じがしてならない。久しぶりにみて、以前よりも非人間的に思える。こちらが息を切らせていても、黙ってそこに立っているだけで、友好的とは言い難い。
「鉄工所、辞めたのね。あそこには世話になってる、て以前にいっていたじゃない」
話し掛けてみても、例によってまた答えはない。ようやく近づけた彼女は、相手の少女の様子をじっくり観察することが出来るようになった。何を考えているのか掴めないこの少女が、あの煩い亀岡社長の懐から金をくすねた人間かと思うと不思議な感じがする。しかし、話が本当だとすればこの機械人形のような少女は横領をしながらも尻尾をつかませず、とにもかくにものうのうとこの街をまだ歩いていられるのだ。これはなかなか出来ることではない。
「あんなに熱心に働いていたのにね。何か嫌なことでもあったの」
気のせいだろうか。一瞬少女に緊張が走ったような気がした。
「いえ、そんなことはありません。辞めたのは私個人の都合です」
全く、とりつく島もない。とにかく、これだけでは横領の嫌疑が白か黒か計りかねた。一つだけはっきりしているのは、この少女なら疑われても仕方がない、ということだ。
「ふうん、そうなの。あらいけない、もうこんな時間だわ。北代さん、またね」
少女はまた丁寧にお辞儀をすると、幹原を見送った。道端で、幹原が見えなくなるほど遠くに去るまで、少女はずっと見送っていた。

数日経っても、幹原の風邪は好転せず、もっと悪い事には周りの人の風邪も一向に好転しないのだった。お陰で、彼女はだるい体を引きずって毎日仕事をしなければならなくて、ぐちっぽくなっていた。亀岡鉄工所の営業の柴田君も怪しげな風邪薬などを持ってきてくれるが、効果はなかった。
「そういえば、何日か前に北代さんに街で会ったわよ。なんていうか、まったくいつも通りで、見た目からはとてもじゃないけど噂みたいな人には見えないわね。それが彼女の全く大したところかもしれないけれど」
彼の様子には探るようなところがあった。
「それで、彼女、どうしてました」
「どう、て、例によって無口なんだから、わからなかったわ。ああ、そういえば、就職斡旋の店を覗いていたみたいだから、しょうこりもなく仕事また探しているのかもね」
「そうですか」
柴田はちょっと躊躇していたが、様子を見て切り出した。
「あの、幹原さん」
「なんなの、改まって」
「今から言うこと、黙っていてもらえると約束していただけますか」
「どうしたのよ、いったい。いいわ、面白そうだし黙っていてあげる」
「実は、例の横領とかいう噂についてですけれど、横領があった、ていうのはデマなんです。それは、帳簿のミスはありましたけれど、それだけのことです。それに、その件について彼女に責任はありません。彼女のせいじゃないんです」
「でも、私はその辺りの話を複数の筋から聞いてるのよ」
「ええ、そのように噂が流れているのも知っています。何故かって、その噂を止めたりしないように暗に言われているんです。お願いです、このことが会社にばれたら、僕も立場が危くなるんです。人には言わないで下さい」
「わかったわ、自信ないけどね。でも、なんだってそんなことになっているの」
「それは僕も知りません。でも、僕は彼女に何回か助けてもらってますし、幹原さんは彼女のことをよく知っていらっしゃるようなので、これ以上誤解し続けていてほしくないんです」
「へえ、そうなの」
しらばっくれようとした幹原だが、今回はずっと若い柴田のほうが上手だった。
「知ってますよ、僕、幹原さんが大事に育てていたあの花を彼女に分けてあげていたのを」
まったく、この子はとぼけているようで実に抜け目がない。
「とにかく、私から噂を中継するのはやめておくわ。でも、ずっと黙っていられるかどうかは自信ないわよ」
「そんな」
「それなら、はやく事の真相を調べてきて。それを調べてきてくれるっていうのなら、なんとか我慢できそう」
「わかりましたよ。でも、あまり期待しないで下さいね」
風邪を引いた体でも、幹原の噂話に対する好奇心はいささかも減らないのだった。

偶然は重なるものである。激しく咳き込みながら幹原が今日もまた仕事の話を付けにいった帰り、今度はまったく違うところで北代にばったり出くわした。それは、電車の駅の階段を降りているときだった。仕事先でなんとか社長の代わりに話をまとめて、幹原は気が緩んでいた。また事務所に戻ったら山のような帳票を片づけなくては、とぼんやり考えていて、階段の足を踏み外したのだ。
「うわぁっ」
歳の割に足腰が丈夫な幹原は、なんとか体ごと階段を転げ落ちるのは防いだが、両手で抱えていた試作金具の模型や図面、小物などを凄まじい物音をさせて一面にばらまいてしまった。エンジニアリングプラスチックで出来た模型は、階段の下まで勢いよく転がっていってしまったのである。
「あ、あ、あ」
大事な見本なので、無くすわけにはいかない。慌てて拾い集めようとしはじめたとき、階段の上がり口で模型を拾ってくれた人がいた。図面を拾い上げながらその人にお礼を言おうとしたら、それがなんと北代だったのだ。
「あ、あら、北代さん」
この前は気まずくなったところを逃げていたので、どうにも具合が悪い。ところが、少女のほうはお辞儀だけすると、幹原が集めるより早くてきぱきと散らばった品々を拾い集めて、持ってきてくれた。
「こんにちは、幹原さん。はい、どうぞ」
例によって例の無表情だったが、それについてどうこう考える前に、風邪の余波で頭がくらくらしてきて、ろくに少女の顔さえ見ていられなくなってしまった。図面などを拾ってまわって階段をうろついたのがいけなかったらしい。手すりにもたれかかると、ようやく息がつけた。両手に荷物をもったまま、少女がじっとこちらを見ている。
「あなた、今、いいかしら」
咳がしょっちゅうでてきて苦しい。少女がこっくりとうなづく。
「それなら、ゴホ、その資料を事務所まで運ぶの、手伝ってくれる?」
少しは嫌だとか拒否するそぶりを見せるかと思っていたら、意に反して少女は軽く肯くと荷物を全部代わりに抱えて、黙って事務所までついてきてくれた。喉が痛いのでさすがの幹原もおしゃべりをする気にはなれなかったが、もしそうではなかったら、この道すがらの沈黙はきつそうだった。
事務所についても、少女は運んできた荷物や資料を広げることができなかった。それほど事務所は散らかっていたのだ。いつもの幹原なら営業連中のだらしなさに舌打ちをして整理を始めるところだが、この体の調子ではそうもいかなかった。
「これ、どこに仕舞いましょうか」
その言葉にはっと振り返ると、少女が相変わらず硬い表情のまま真後ろに立っていた。
「そ、そうね、その上の書類はこちらに頂戴。あと、模型は三番目の机、そう、そこね、そこに置いて。それから、伝票は会社別に仕分けして、左部分で穿孔していただけるかしら」
立場など考えないまま指示をすると、少女は風のようにさっと動き出した。幹原は重要書類だけ受け取ると、自分の机の引き出しからファイリングキャビネットを開けてようやくの思いで書類を分類し、正しいところに綴じると、大きく溜め息をついて両手に額を乗せた。頭痛がしてきて、頭が回らない。これは重症ね、と感じる。同時に、視線を感じた。顔を上げると、少女がじっとこちらを見つめている。
「全部済みました。これが分類した伝票です」
早口で平板な声の調子が愛嬌のなさをより際立たせている。しばらく沈黙が続いた。
「北代さん、コホ、あなた今日何か予定あるかしら」
「いえ」
なんとなく予期していた答えだった。
「それなら、もし良かったらちょっと私のお手伝いをしてほしいの」
少女はこっくり肯いた。伝票を持ってきてくれた時点で、このそっけない少女は何もしないでずっと黙って立っていた。それが実は少女なりの気遣いなのではないかと感じたのだ。会話は最小限しかしないし、立ち居振舞いも事務的に過ぎるほどだったが、用事を済ませていく少女を見ながら幹原はその手際のよさに感じ入っていた。プロではないから決して要領はよくないのだが、適応力がそれを補ってあまりあるのは明らかだった。どうして亀岡製作所を辞めたのだろう。聞いても答えてくれないのは察していたが、幹原はそのことを考えずにはいられなかった。

夕方になっても今日はめずらしくあまり気温が落ちず、夕日が事務所に差し込んで来る。その時間になってはじめて、幹原は延々と少女を引き止めてしまっていたことに気づいた。そろそろ現場の職人たちが帰ってくる。少女は溜まっていた古い書類を束ねては、古紙回収業者に出せるように紐で括る作業を続けていた。
「北代さん」
「はい」
少女の目は、時々どきっとさせるものがあった。水晶のような独特の透徹さが見えるのだ。それとも、虚無の奥底を覗いているような。とにかく、そういう時は幹原は落ち着けなかった。目線を窓に向ける。
「あなた、前の会社をやめたんですってね」
もちろん、答えはない。幹原も期待していなかった。
「でも、新しいお仕事、探しているんでしょう。この前の水曜日に、偶然あなたが職業斡旋所にいたのを見たの。うちは求人を出してなかったんだけど、コホ、人手は欲しいと思っていたのよ。どう、ここで働いてみない?社長が渋いから給料は安いけどね。社長にはこの言葉、内緒よ」
もう一度少女の様子を見てみる。
「ありがとうございます」
出て来る言葉は簡潔だったが、しかしその表情はもっと複雑なものだった。黙って相手を見つめていると、少女は言葉を続けだした。
「でも、辞退させて下さい、お願いします」
意外な言葉だった。嫌われているのかしら。でも決して美人とはいえないが人を惹きつける少女の表情が、そうではないことを物語ってくれている。
「幹原さんや木原製作所の皆さんは、私が亀岡鉄工所で働いていた間、親切にして下さいました。そのお礼も言えないままお暇させて頂くのが心苦しかったのです。だから、今日一日で多少なりとも恩返しができて嬉しかったのです」
「そう言ってくれて、嬉しいわ。それならいいじゃない、向こうで何があったのか知らないけれど、北代さんなら歓迎するわよ」
「いえ、その‥‥」
少女が返答に窮したとき、背後でバーンと扉の開く音がした。振り返ると、驚いた事に社長がそこに立っていた。着膨れして顔にはマスクを被っている。
「社長、もういいんですか。今日出社すると聞いていませんでしたよ」
「なに、大分よくなってきたので、今日資料を持ち帰って明日からの仕事の用意をしようとな。おや、北代くんじゃないか。久しぶりだな、どうしてた」
虚を衝かれた形の北代はそれに答えられず、その隙を捕まえて幹原が喋り出す。
「いえね、今日、仕事を手伝ってもらってたんです。亀岡鉄工所を辞めたらしいし、こっちに来てもらえないかと」
「ほう、そうかそうか、亀岡鉄工所はきつかったか。確かに人を増やしたいと思っとったからな、こりゃいいわい」
風邪を引いていたとは思えない元気の良さで社長がまくしたてると、部屋中に声が響き渡る。それでも少女の表情は変わらなかった。
「木原製作所の皆さんには、社長をはじめ皆さんにお世話になりました。この度仕事を辞める事になりまして、一言だけでも挨拶をさせて頂きたくて、こちらにお伺いさせて頂きました。ありがとうございました」
深々とお辞儀をする北代を見て、当惑した社長は幹原のほうをみやる。
「なんだ、面接してたのじゃないのか。君も仕事がんばってたじゃないか。この仕事は嫌いか?建築は夢があって楽しいぞ。それとも疎開するのか」
この子なら押しの強い社長にも負けない芯の強さがある。やっぱりここに欲しい。
「いえ、やり甲斐があると思います。でも、私、ここで働けないです。失礼します」
背を向けて出て行こうとする少女の最後の文句に幹原は奇妙さを感じた。しかし、実際に北代の足を止めたのは幹原の問いかけではなく、社長のドラ声だった。
「なんだ、それは。不愉快だぞ、理由を説明しろ」
びくっとして動きを止める少女に社長は畳み掛ける。
「お礼の言葉を言いに来て、それが言う言葉か。うちの幹原が君を見込んで話をしていたのに、その態度はないぞ」
幹原はハラハラして見守っていた。現場の職人を相手にしても常に意見を通してしまう強引な社長の話し方に、いくらなんでもこんな歳の端もいかない少女が太刀打ちできるはずもない。
「どういうことだ、こっち向いて何か喋れ」
このまま彼女が走って逃げ出すのではないかと思った幹原だったが、意に反して少女はそこで振り返った。
「得意先廻りでも、特に幹原さんやここの方々は特に私に親切でした。でも、私がここで働いたらその皆さんに迷惑をおかけしてしまいます」
「仕事のことを言っているなら心配しないで、北代さん。あなたの手際は大したものだから」
少女は目線を机の上に落として、無言の否定をした。
「じゃあなんなんだ、帰るならせめてそれぐらい言ってからにしてくれ」
さきほどよりはトーンが落ちた社長が尋ねる。オフホワイトのパンツの横に手を垂らしていた少女は、なおもしばらくじっとしていたが、ようやく顔を上げた。その目が社長と幹原を交互に見つめる。
「それは、私が混血のクォーターだからです」
その台詞の後も、誰も動かなかった。そう、それでもこの子は運命を受け入れているわ。普通なら口に出しにくいことを言った後でも、その瞳の力が全く揺るいでいない。社長は何も言わなかった。時計の音だけがして、外の風が枝を潜り抜ける音が入り込んで来る。
「それだけか」
社長の太い声は風邪を引いてはいても少しもその存在感を失っていない。その言葉に反射的に社長のほうを振り向いた少女に、社長は身を揺すって社長席に近づきながら言葉を継いだ。
「明日、履歴書を持ってこい。八時半だ、いいな」
「でも」
「働きたいなら八時半に来い。どいつもこいつも風邪を引いてるもんだから、内勤を全部外勤に回しているんだ。幹原、明日から内部の仕事を全部任せる。いいな」
社長は山と積みあがった未決書類を袋に流し込むと、二人の横をどかどかと通り過ぎていく。
「うちはな、人手不足で人を選り好みできる状態じゃないんだ。働く気があるならあんたが猫であったって気にせんよ。あと、こちらの後片づけ、頼む。明日は南武ビル関係のの得意先回りするから、そのつもりで用意してくれ」
二人の顔にそれぞれ覗き込むようにして話をつけると、くしゃみを一つ大きくして社長はまた扉を大きな音をさせて帰っていった。急にまた静かになった事務所の中で、二人が向かい合う。少女の目つきがいつもの不動の様子ではなく、こちらの様子を測っているようだ。
「そういうことで、明日の朝、きちんと来てね。服はこっちの作業服があるから」
「でも、私みたいなのがいると分かると」
「社長が決めたからもういいの。それに、黙っていれば分からないことだし」
「‥‥はい」
「それとね、『私みたいな』なんて言うのはやめなさい。いいわね」
「はい」
もっとも、幹原自身、身近に南方民族系の問題を抱えたことがなかったので、自分の反応を測りかねていた。敵対している民族だけど、この子と争っているわけではないし。相変わらずあまり表情を変えない少女が帰っていく様子を見送りながら、明日からどんな顔をして会おうかと悩む幹原だった。

木原製作所の倉庫にあった古ぼけた作業服を来た北代は、社長や幹原の予想通り、なかなかの働きぶりを次の日から発揮した。サイズの合わない作業着の裾と袖をまくって仕事をこなしていく少女は、身元を明かしてないせいもあってか、ほかの職員にもすんなり受け入れられた。次の日に家で裾を詰めてきた少女は、もはや簡単な仕事のほとんどを覚えてしまっていた。営業に来た柴田は目を丸くしていたが、幹原に良かった良かった、と繰り返しいって、少女にも再就職おめでとう、と告げてこくんと肯きを返してもらっていた。
「ずいぶん淡白な挨拶ね、元同僚でしょう」
倉庫に出ていった北代を目で追いながら、戻ってきた柴田を冷やかす。
「そういわないで下さいよ、幹原さん。彼女に感謝しているし、ここで雇ってもらってうれしいのは本当ですけど、ちょっと彼女と仕事以外の話をするのは苦手なんです」
その点だけは幹原も同感だった。

幹原が北代を相手にして世間話が出来るようになるまでには、好奇心旺盛で話し上手、聞き出し上手な彼女をもってしても一ヶ月ほどを要した。一つの原因は幹原自身クォーターだという相手を心の中でどう位置づけるべきか決められなかったからである。しかし、これは結局、無視する事にした。実際上クォーターだからといって何ら違いを見出せなかったのである。もう一つのより根本的な理由は、北代の受け答えが非常に抑制の効いたものなので、会話が成立しにくかったことである。なにしろ大抵の世間話には反応せず、意見を求めても「どうでしょう」などと答えるだけなので、取り付く島もない状態が続いた。
唯一普通の人間らしい話し方をするのは、妹の話題をするときだけだった。初めて妹の話がでたとき、その話をする少女の輝きをみて、ようやく幹原は北代が感情欠落人間などでは決してないことを知った。そして同時に、両親を亡くしていることも知った。詳しくは聞き出せなかったが、どうやら事故にあったような口ぶりだった。
「それじゃ大変だったでしょう。今はおじさんかおばさんのとこに住んでらっしゃるの」
植木鉢に二人で水を遣っていたときのことだった。
「いえ、母の知り合いの方が引き取って下さって。今はそこに住んでいます」
幹原は自己嫌悪した。そうだ、この子がクォーターということは、両親のどちらかはハーフのはず。血縁でもいろいろあったんだろう。恐る恐る少女の様子を伺う。
「ごめんなさいね、変なこと聞いてしまって」
「いいえ、構わないです」
そう言ってまた黙々と水を差していく。ほとんど感情を表に出さないその心の中には、どんな辛い思いが詰まっているのだろう。今でも、TTIとGOTSの話題がでると少女が身を硬くしているのを幹原は知っていた。

付き合いの悪さと愛想のない点を除けば、北代はもはや木原製作所にいなくてはならない存在になっていた。社長は飛び回っているし、他のスタッフは設計や施工管理など自分の本来の職務に戻り、幹原は北代に事務室内部の仕事を全て任せて、対外折衝に専念することができるようになった。少女の働いている様子をみて、幹原は自分にも娘がいてもよかったかな、と考えるときがあった。望み通りに二人の男の子を生んで何の不満もないけれど、うるさくない子供というのもよかったかもしれない。子供の話を出したとき、北代はみんなにお茶を出してまわっていた。
「男の子が二人ですか。賑やかそうですね」
珍しく合いの手をいれてくれる少女を見上げて、幹原は微笑んだ。反抗期の息子とはいえ、かわいくないはずがない。
「とても大変よ。あなたが来てくれたお陰で早く家に帰れるようになって助かってるの」
そのとき、ついていたラジオからもう何度目になるかわからない停戦交渉の様子が伝えられた。
「まったく、何をもたもたしているのかしら」
こういうときに、北代にどう言っていいのか幹原にはまだよく分からなかった。クォーターとはいえ、3/4はこちらなのだから、同じ立場と考えてもいいのだけれど、なんとなく南方民族のことを悪くいうのも気が引ける。どのみち、幹原は大した国粋主義者ではなかった。
「でも、息子達が中学を出るまでにはけりをつけてほしいわ」
「はやく終わるといいですね」
「そうね」
北代が自分の意見を述べるのはあまりないことだったので、急須を洗いにいく少女の後ろ姿を幹原はお茶をすすりながらじっと見送っていた。

はじめて異変に気づいたのは、スタッフの一人だった。木原製作所では、昼食は自分で持って来るのが原則になっていたが、食べるのはどこで食べてもよかった。少女は事務室の電話係をしていることもあって、だいたいその場で簡単な弁当を食べていることが多かった。その量があまりに少ない、という話題をスタッフが幹原に持ち掛けたのである。
「それって、食べ物も持ってくるのに苦労しているの」
「いや、違うと思うね、だってしばらくは持って来たのをよく残していたからね。持ってくる量が減ったのも、残してもしょうがないからじゃあいかな」
歳は幹原と変わらないのに食い意地だけは十代から変わらない設計担当者は、そう言いながらさらにお茶菓子を掠め取って口にいれた。
「残すのなら頂戴、といいたかったけど、あの子にそんなこというのもね。御飯がもらえれば、食べない理由がまずいからなのかそうでないのかはっきりできるんだけど、とにかくあんなんじゃ体に悪いよ。気をつけるように言っておいてくれるかい」
「なんで私が」
相手はわざとらしく目を大きく開いた。
「なんでかって、そりゃ明らかさ。君はあの子と一番、というか唯一そういうことを話せる人だし、それに、あの子が君を信用しているからさ」
「信用してくれてる?私を?」
「おやおや、何を今更。傍目にはどうみたってそうとしか見えないぜ。あの子が肩の力を抜いているのは、幹原さんのところに来て今の俺みたいに油売っているときか、庭で水やっているときぐらいじゃないかな」
「あの子はあなたみたいに油売ったりしないの」
「おおこわ、俺が万年油売っているみたいじゃないか。どれ、退散しようかな。でも、俺の言った事は本当だよ。あの子は俺の好みじゃないし苦手だけど、なんか脆そうで心配なんだ。任せたよ、幹原お母様」
「もう」
少女が私を信用してくれている、という考えに幹原は当惑していた。確かに一番たくさん話をしているのは私だけれど、それとこれとは次元の違う話じゃない。

それから一週間が過ぎたころ、幹原自身も別の点で北代の様子が何か妙であることに気づきだした。相変わらず北代の仕事の能率はいいしてきぱき片づけてくれるのだけれど、それが目障りなぐらい一所懸命なのだ。一所懸命がいけないわけでは決してないが、この数ヶ月で北代の仕事のペースを把握した幹原の目からみると、どうみても長続きしないハイピッチで仕事をこなそうとしているように見える。強制的に座らせて電話番だけさせて休ませようとしても、背筋をピンと伸ばして電話機に視線を集中させている。一度通りすがりにその様子を見た社長が、社員はああでなくてはいかん、と誉めていたが、幹原には気に入らなかった。弁当も相変わらずの少食で、それとなく聞いてみても、いつもこれぐらいですから、とあっさり返事されてしまっていた。
また、やつれた印象を彼女から受けることがたまにあるようになった。はじめは栄養失調で顔色が悪くなったからか、と心配したのだが、実はやつれて見える本当の理由は身だしなみが徐々にであるが荒れてきているからだ、と幹原は気づいた。服の裾がくしゃくしゃになっていたり、髪の毛がほつれていたり、というのが積み重なってそういう印象を形作っているのだ。別にそういうことをしなくなったわけではないらしく、指摘すればすぐきちんとするのだが、以前はまったくそのような振る舞いをしていなかっただけに、幹原の気にかかった。綺麗な長い髪も手入れがなくては、その魅力は半減するのよ、と言ってやりたかったが、どうせ聞いてくれる北代ではないので、幹原は嘆息して少女の家で何かあったのか聞いてみないといけないかも、と感じた。

いつものように朝来てみると、何故か誰もいない。いつもなら8時過ぎには北代が来ていて、簡単な掃除をしていてくれるのに。幹原はちょっとムッとして北代にお説教しなくてはと思いながら、掃除機で床掃除を始める。掃除機の重さまでが自分に刃向かっているようで、その電源ケーブルは延ばすたびにガリガリと耳障りな音をたてていた。電話が鳴ったときも、まだ幹原は不機嫌が直らなくて、声に出さないようにするために気を静めなくてはならなかった。
「はい、木原製作所です」
「もしもし、私、北代と申しますが、幹原さんはおられますでしょうか」
北代と名乗るのに、声は少女のものではない。ちょっと高い声で、がぜん幹原は興味をそそられた。
「はい、幹原は私ですが」
「あ、おはようございます。すみません、私、北代牧の妹ですが、今日ちょっと姉が出社できないのです。急で申し訳ありませんが、よろしくお取りはからい願えませんでしょうか」
緊張がありありとみえるが、姉とはちがってごく普通の女の子の様子が伝わって来る。
「お姉さんどうしたの?急に休まれても困るのだけれど」
「すみません、病気に罹ったみたいで、外へ出られないんです」
「わかりました。今日は休みということにしますが、これからはこういうことのないようにお願いします」
「申し訳ありません。伝えておきます」
受話器を置いても、耳に残った北代の妹の声が気になっていた。あの仕事熱心な少女が簡単なことで休むはずがない。それに、電話の向こうは緊張しているだけではなかった。何か、そう、怯えているような。ともあれ、一人で仕事をしなくてはならないことになってしまって、幹原は溜め息をついた。病気に罹ったみたい、っていう表現はないわよね、病気じゃないって言ってる事になるんだから。どうして妹さんはそんな言い方したのかしら。

事務所のドアが軋り音をたててゆっくり開いた。午後も遅くなってきて、幹原はようやく連絡業務に一区切りをつけられるところまできていた。お金の計算で伝票から目を離せないので、言葉だけ先に送る。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
その声を聞いた瞬間、幹原は計算を御破算にして顔を上げた。まだ高校生の少女の、かしこまった声だったのだ。電話で聞いた声に間違いなかった。入り口に立っていたのは、目鼻立ちの整った女の子で、括った髪をほどいて華やかな服を着せれば皆が振り返るような美人になるに違いなかった。今はそのせっかくの美しさを顔色の悪さが地味な服装とあいまって台無しにしている。しかし、とにかくその目と口元から受ける印象は、北代に通じるものがあった。
「私、北代牧の妹の綾といいます。すみませんが、幹原様でしょうか」
「はい、私です。そう、あなたが妹さんね」
なるほど、姉がいつも唯一楽しそうに話をしてくれていたのも肯ける。その不安げな表情さえなければ、かわいいしお人形さんみたいだ。姉同様、この妹も外見ではクォーターということは感じられない。
「いつも姉がお世話になっています。その姉の件で来たのですが、社長様はおられますでしょうか」
まったく、がちがちの緊張ぶりだ。
「いいえ、まだ戻ってきていないの。もしかして、今朝の電話のこと気にしているの。今度から前日なり早めに連絡をくれるようにしてくれれば、それでいいのよ。わざわざ代わりの人が謝りに来てくれてもしょうがないもの」
「いえ、その、今後のことでご相談があるんです」
「どうしたの、いったい」
少女はじっと黙っていたが、左右を見渡すと、囁くような小声で、人のいないところでお話がしたいのですが、と切り出した。何を言い出すやら、と思ったが、幹原は姉が妹を顔見知りする性格だと話していたことを思い出した。
「いいわ、こっちにいらっしゃい」
他のスタッフもこの美少女が気になるのか、ちらちらと目線を感じる。幹原は少女を先導して、会議室に案内するとドアを閉め、椅子を勧めた。狭い会議室ではあるが、二人だけで座っているとやはり居心地はあまりよくない。それでも、座ったことと他人がいなくなったせいか、少し相手は落ち着いたようだった。
「さ、いいわよ。社長はまだだけど、どのみち私から伝えるから構わないわ。お姉さん、どうしたの」
「あの、姉が、病気になってしまって、その、しばらく来れないと思うのです」
「しばらく、てどれぐらいなの。困ったわねえ、何の病気なの、いったい」
「あの、それが、はっきりしないんです。もしそうだったら、クビですか」
「どれぐらいの期間になるかによるけどね。期間がはっきりしないってどういうことなの。お医者さんに診てもらえばいいでしょう。お姉さん重病なの」
「いえ、病気じゃなくて、その、お姉ちゃんが、その‥‥」
動揺して泣き出した眼前の少女に、幹原の脳裏に最悪の事態がよぎった。
「まさか、人事不省とか、死んでしまったわけじゃ」
少女が首を大きく左右に振るのをみて、幹原は一安心した。とにかく、落ち着くまで待とう。なんといっても、あの北代牧が大切にしていた妹なのだから。そう考えると、少女の肩にそっと触れて自然に優しい言葉が出てきた。
「いいの、綾さん。私にできることがあれば協力してあげるから」
なおもしばらく泣き続けていた綾も、ようやく落ち着きを取り戻してきた。同時に、口ぶりも普段通りのような硬くないものに変わった。
「すみません、取り乱して」
「いいのよ。楽になった?何かつらいことがあったみたいね。どうしたの」
せっかくのかわいい顔が台無しになるほどの絶望した表情がそこにあった。
「姉さんがショック状態になってしまったんです」
「いったいどうしてそうなってしまったの」
あの芯の強そうな子がショック状態になるとは、何かよほどのことがあったにい違いない。
「幹原さんはいつも姉さんからとても頼れる人だと聞いていました。ですから、幹原さんには何でも話そうと思ってきたのです。どうか、姉さんを首にしないで下さい」
それから、綾はぽつりぽつりと説明を始めた。いま、自分達が二人だけで暮らしていること。全くの他人が保護者になってくれていること。その人と仲たがいしてしまったまま、その人がいま戦場にいっていること。迷惑をかけたくなくて、姉が卒業して働くと決めたこと。職探しが大変だったこと。周囲の偏見で前の職場を続けられなかったこと。ここに来られて喜んでいたこと。そして、数週間前に、その保護者の人が戦場で帰還せず、行方不明のまま特進通知がきたこと。それ以来だんだん姉が自分を省みなくなっていったこと。幹原には初めての話ばかりだったが、最後の部分だけは思い当たることがあった。そして、昨日とうとうショック状態になってしまったこと。それでも、それだけであの少女がそんなことになるとは信じられなかった。正直にそう打ち明けると、目の前の少女はしばし黙り込んだ。
「その人が戦場に行ったのは、私達のせいなんです。私達の保護者になってくれたとき、実は私達がクォーターだったことを向こうは知らなかったんです。それでまずいことになってしまったんです。その人がクォーターの保護者になることは無理で、法律違反だったんです。そのことで非常に気まずいことになって、諍いまで起こして喧嘩別れみたいになって」
「それでそのまま戦争にいっちゃったのね」
少女は首を左右に振った。
「喧嘩別れしたあとで、その人、保護者になれる権利をとるためだけに軍隊に入ったんです。軍隊なんか嫌いだって言っていたのに。黙って入隊して。勝手に私達を後見人にして。あの人は従軍者の後見人があらゆる法律で保護されるのを知っていた。だから、今でも私達は法律の庇護のもとで暮らせているんです。それなのに、一回も話ができないままで、もう帰って来ないなんて」
少女はまた俯くと、しばらくじっとしていた。手に力が入るくせは姉妹揃って同じだった。
「戦争嫌いだっていってたのに、しいさん。友達の話では、最初から覚悟の入隊みたいだったって」
名前を初めて聞いた幹原は、その奇妙な呼び方が気になった。
「ねえ、そのしいさん、て人はどんな人なの」
今度も間があいたが、先ほどとは違う種類の沈黙だった。
「姉さんの、同級生です」
そのまま沈黙は続いた。殺風景な会議室で、壁掛け時計と窓の外の風の音だけが空気を震わせていた。

社長にはどこまで話をしたものだろう。小柄な訪問者を駅まで送っての帰り道、幹原は思案投げ首していた。とにかく、幹原自身は少女に味方する決意でいた。これまでの少女の風変わりな態度もなんとなく理解できたような気がした。あんなにいい子が、どうかなってしまうのは許せなかった。幹原は、自分が少女を横領犯だと思っていたりしていたことはすっかり忘れていたのである。この中年一歩手前の婦人は詮索好きで噂に左右されやすかったが、とにかく悪い人ではなかった。

「だめだね」
取引先から戻ってきた社長が、幹原の話を聞いて放った第一声はきついものだった。
「でも、病気なんですよ。すぐ直るかもしれないし」
複雑な事情はかえって社長の気を損ねるかもしれないと思って黙っていたのがよくなかったのかも知れない、と幹原は後悔した。それとも社長はあの子がクォーターだから。
「明日にでも戻ってこれるならともかく、一週間休むかもしれない人間を雇うわけにはいかない。正社員だってそんなに休まないんだぞ」
私達の中であの子みたいな苦しい状況の人がいれば、それも変わるわよ。そう思っても、口にはだせない。
「だいたい、あの子はまだアルバイトだろ。日雇い契約なんだから、どのみちそんな話はそもそも成り立たないぞ」
社長の平然とした様子に、だんだん幹原は腹がたってきていた。社長は決裁書類に目を落としたままで、こちらに目を向けてさえくれない。やっぱりクォーターを、あの子を快く思ってなかったんだ。
「とにかく、新しいのを募集しなくてはいかんな」
何をいっているの。私はいやですからね。
「これは君の仕事範囲のことだから、バイトの募集は幹原さんに任せるよ」
「私に」
幹原は我が耳を疑った。事務や折衝のことならともかく、人事については木原社長が一切を仕切るのがこれまでのここのルールだった。
「そうだ。人手が足りなくて困っているんだろう。あの子の代わりになる人がそう簡単にいるとも思えないがね」
「いいんですか」
「私は仕事が進められればどんな解決策でも構わない。同じ人を二回雇おうがどうしようが、君に一切を任せる」
そういうと、社長は初めて顔を上げた。
「仕事をきちんと片付けられるなら、どうしようと君の勝手だ。分かったね。もう仕事に戻ってくれて結構」
試されたのは社長ではなくて、幹原のほうだった。彼女は今後の自分に降りかかる仕事の分量を思って嘆息したが、署名をする社長の手を見つめて決心した。あの子はいつも、戦争の話を聞くたびに辛い思いをして手を握り締めていたんだ。あの血の気の失せた真っ白い握りこぶしに込められた感情。
「分かりました。失礼します」
きびすを返して去っていった幹原は、社長がその後引き出しから北代の履歴書を出し、物思いに沈みながらたばこを燻らせていたことを知る由もなかった。

それから数週間が過ぎようというころ、幹原は待望の電話を受け取った。思ったよりずっと良い知らせで、彼女は久しぶりに安眠して次の日を迎える事ができた。

その日、幹原の指示通りに早めに出勤してきた社長が事務所のドアを開けると、例の少女が部屋にいた。保護者の上尾と連絡の取れない日々の一見無機質とすら感じられる日常の素振り、行方不明通知を受けた日から最後の日までのやつれて荒廃した雰囲気とも違って、初めて生気を感じさせるものがあった。何よりも、人間らしさがその表情に乗っているような気がする。
「おはようございます、社長」
まだ朝早いので、他の従業員は来ていない。幹原の差し金に違いなかった。彼女もそれを考えてこの時間に来たのだろう。状況を考えて行動できるのはいい傾向だ。
「おはよう。どうした」
「一ヶ月、いえそれ以前から私事でご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。いまさら言うのもなんですが、ここで働けた間は私にとって幸せでした。首になったとはいえ、これまでのお礼も言わずに去るのは辛いので、そのお礼のために伺わせて頂きました。どうもありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる北代君の頭で、見事に揃ったショートヘアが揺れる。そうだ、人間らしく感じられる一つの理由は、その綺麗に手入れされた髪の毛に違いない。以前は長めだったと憶えているが、なるほとこのほうが活動的に見える。
「そうか。ところで、その、もういいのか」
社員は社員だ。プライバシーに関わってもろくなことがないのに、なんでこんなことを聞いてしまうのだろう。それに、それがどんなにつらい質問かもしれないのに。しかし、彼女の態度は驚くほど素直だった。無関心を装うというのではなく、ちゃんと理解していてそれに答えてきたのだ。
「心配していただいてありがとうございます。でも、上尾君のことについてはもう大丈夫です。それでは失礼します」
「あ、ちょっと待ちなさい」
出て行こうとする彼女の足を止める事に成功できてやれやれ、だ。こんなシナリオを書くのは幹原に違いない。あいつめ、私にささやかな復讐をしたな。とにかく、この北代君なら、また働いてもらえる。実際、手放すには惜しい。
「ここでは人材募集中なんだ。幹原が担当している」
「私でも応募できますでしょうか」
「特に条件はつけてない。私は能力・実績主義だから」
我ながら馬鹿らしい台詞だ。しばらく間があった。
「ありがとうございます」
「なんのことだね」
彼女が姿勢を正した。この数ヶ月間で荒んで衰えた体の様子は隠せないが、初めて彼女に光が入って見えた。
「北代牧と申します。こちらで人手の募集をしているという話を聞いて応募しに参りました」
「無断で休んだら首だよ、いいね」
図らずも自分の言葉に笑いが載っている。
「はい、承知しています」
やっぱりそうだ。内心笑っていやがった。今は口元が完全に笑っている。
「では、今朝からがんばってくれたまえ。幹原さん、どこかにいるんだろ、出てきなさい。あとは任せたぞ」

それからも少女は戦争の話題を嫌い続けたし、時々聞き取れないほどの小さな声で何か念仏のようなものを唱えているときに近寄りがたい雰囲気を漂わせることはあったが、仕事ぶりの良さと、生気を戻した奥の深い泉のような目をした微笑みで、他の社員に溶け込んでいったのだった。


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