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戦地復興

若い青年が入り口の辺りをしばらくうろついていた。それから、胸を反らすと、その入り口に入っていく。復興ボランティアメンバーがまた一人増えた瞬間だった。

和真は、ある日資料をめくっていて、面白い事実を発見した。官報公示の追記補正項に、上尾、という名前を見つけたのだ。しかも、TTIとして捕虜となり抑留され、その後赤十字人身保全協定で交換解放される、と文面には記載されていた。和真はこの四月に優秀な成績で大学に入学したばかりの学生で、夏休みの空いたスケジュールをどうしようかと考えていたところだった。大学の講義で第三次父祖回帰運動のレポートを出題され、資料集めに役所に来ていた彼は、細々としたことが延々と記述されている資料を、熱心に指で追いはじめた。
資料によれば、この上尾慎一というTTIの捕虜は二年前に投降し、傷病兵として扱われたあと、収容所でさらに一年余り強制労働に従事し、解放されている。和真は鉛筆で資料をとんとんと叩きながら記憶を手繰っていた。

物心ついてからずっと北九州に住んでいた和真にとって、子供のころ、都城は遠い場所だった。年に二回は帰省していたが、そのたびにお祖父さんのこわもてな雰囲気が苦手で、実家にいる間はほとんどの時間を山の中の昆虫採集と魚釣りに費やしていた。

資料を閲覧していると、この上尾という男の強制労働期間は平均よりずいぶん長い。そのまま資料を追いかけ続けると、傷病期間が二回に別れて記録されていた。不思議なことにはその間が三日間しかない。変だとは思ったが、特記事項に目をやって彼は鉛筆を落としそうになった。特記事項には捕虜逃亡・捕獲による追徴労働と記述されている。ということは、これは未遂ではない。そんなことをすれば普通はただでは済まないはずだ。一旦逃亡すればそれはただの敵なのだから、撃ち殺されて当然ではないだろうか。和真は興奮してアドレナリンが湧き出てくるのを感じていた。彼の従姉妹に付いてきていたという男は、とんでもない奴だ。

お祖父さんが嫌いというわけではない。確かにごく小さい頃は嫌いだった。自分に北モンの血が混じっているということで、囃し立てられて虐められたことは、まだ心の傷痕として残っている。その悔しさをお祖父さんにぶつけたこともあった。小さい頃の記憶はそれほど多くはないが、その時のことだけはよく憶えている。もちろん小学生にもなっていない自分がお祖父さんに殴りかかってもかなうはずがない。それでも、心の痛みに任せて殴りつけていると、お祖父さんはひょいと僕を持ち上げて、家の奥にある大きな姿見の前まで来ると、有無を言わせずに僕の顔を鏡に向かわせた。その力が強烈だったので、思わず従ったのを憶えている。
「敦志、そこに映っているのが誰か分かるか」
父さんとはまた違う強い語調だった。まだ半べそだったけれど、首を縦に振ると、お祖父さんは僕の肩を強い力で抑えて、背筋を伸ばしてくれた。
「そこに映っているのは、お前だ。周りから何を言われようと、お前自身がお前を見失うな」
何を言っているのかその時の自分には分からなかったけれど、そこには何かしらはっとさせるものがあった。
「今のお前はどんな顔をしている?」
鏡の中には、泣きじゃくったあとのみっともない自分がいた。これではいじめられても仕方がない。
「胸を張れ。お前は強い、立派な男になる」
それからもあの時の言葉を長い間理解できなかったが、悔しいとき、辛いときに自分がどんな顔をしているかを鏡で見るようになった。それからすぐにいじめられることもなくなった。

役所に来たのが遅かったので、もう閉館を告げる放送が流れ出していた。和真は収容所の名前だけ書き留めて外に出ると、まだ太陽は高い位置で、梅雨直前の強い日差しが和真の浅黒い肌を彫刻のように際立たせていた。レポートの資料集めが脱線してしまったので、明日も来なくてはいけないな、と舌打ちしながら自転車に飛び乗ると、夕ご飯の待つ自宅へと帰途についた。

敦志は受験直前の冬休みにも、やはり都城に帰省していた。内戦が終わってこれからは学業が重要になるからと、両親は敦志に帰省しないで勉強に専念してもいいと言っていたが、敦志は帰省すると言い張った。特にお祖父さんが亡くなってからは、彼はお祖母さんに少しでも淋しい思いをさせたくはなかった。帰省するのは彼自身に対するそうした思いへの忠誠だったのだ。実家に戻ると、宏昌伯父の従兄弟も例年通り戻ってきていて、二家族が祖母の家を賑わせて正月らしい華やいだ雰囲気を醸し出していた。華やいだ雰囲気を作っているのは、祖母自身の元気さにもあった。例年になく活動的な祖母を目にして、敦志は一安心した。今や一族の中で一番背が高くなった敦志は、祖母の大掃除の荷物運びにしょっちゅう狩り出され、母は勉強させられないので苦い顔をしていたが、敦志自身は気晴らしになるからと喜んで手伝ってまわっていた。
「そうそう、そこの大きな箱も棚から下ろして。ちょっと重いから気を付けなさいよ」
旧家によくある大きな蔵の最上段の棚の荷物を整理するために、敦志と従兄弟の孝治は祖母の指示に従ってはしごの上と下に別れて働いていた。
「これですか?」
「そう、敦志、そっと運んでね。孝治は大丈夫?」
「いけます、いけます」
孝治は敦志とは二つ違いで、今は専門学校に行き直している。内戦中はGOTSに志願したが、体力より頭が使えるほうだったため、後方部隊にいってた。敦志にとって孝治はいいお兄さんで、気が好く誰からも好かれる孝治が、どちらかといえば無愛想な敦志には羨ましかった。
「でも、お祖母さん、今年はここまでするんですか。去年は下の段だけでやめてたでしょう」
「なあに、孝治はもうばてたの」
「いえいえ、とんでもない」
「もう敦志も一人前になったし、こんな立派な男手が二つもあるチャンスはそんなにないからね」
はしごの上で荷物を引き摺りだそうとしていた敦志は、その言葉が少し嬉しかった。
「孝治さん、次の荷物降ろします」
「よしきた」
「うわ、すごい埃ね。もっとはやく手をつけるべきだったかしら。それとも、私が死ぬまで触らないでおいたほうが手間が省けたかもね」
「よして下さい、お祖母さん」
上からの声に、巴は見上げて背中を向けたままの孫の立派な後ろ姿を見守った。
「でも、実際、お祖母さん今年は元気一杯ですね」
「そう?去年は風邪の後で調子悪かったからね」
「お盆のときよりも調子良さそうですよ。何かいいことでもあったんですか」
「いいこと。そうねえ、まああったといえばあったわ」
敦志は手を止めて、はしごの下を見下ろす。孝治も興味津々な様子だった。
「後で話そうと思っていたのだけれど、あなた達の従姉妹が十月にに来てくれてたの」
孝治が敦志に顔を向けても、敦志は慌てて首を横に振るしかなかった。
「ふふ、楓とは違うわよ。明後日に来るわ。孝治のお父さんが迎えに行ってくれるから」
「え、もしかして、紀美子伯母さんの子供ですか」
敦志もようやく思い当たった。そういえば、普段全然話に出てこないけど、伯母さんがいるんだ。
「敦志も受験前だというのに来てくれたから、みんな揃うことになったでしょう。こんなことはもうこの先そんなにないことだろうから、無理言って来てもらうことにしたの。今晩事情をきちんと話すから、はい、今はお掃除を進めましょう」
敦志はそれまで、このもう片方の親戚についてほとんど話を聞かされていなかった。父が話をしようとしないので、母もその話題を避けていたのだ。兄も自分も対して家系に頓着していなかったので、あまり気に止めていなかったが、実際に会えるとなると話は別である。

その日の晩、巴お祖母さんが重要な話があるから、と孝治の父以外の全員が和真家の座敷に集められた。敦志の観察では、他の人の顔色からすると誰も話の内容を知らないようだった。
「みんなに集まってもらったのは、重要な話をするためです。和真家では、一番年下の楓も高校に進学して、もう十分に分別のつく歳になりました。本当はもう少し後でも、とは思ったのですが、いいでしょう」
普段から笑顔の絶やさない巴は、今もその笑顔を保っていた。ただ、その声の張りは敦志が滅多に聞いたことのないもので、大きくてよく通る声だった。
「知っての通り、私が夫の顕宰と結婚したことで、私の子供達や孫達は好むと好まざるとに関わらず真民と南紅との混血になって、これまで暮らしてきました。最近でも、敦志が小さい頃はそれで苦労してましたね」
孝治と兄の克己がにやにやするのが敦志には不快だった。
「何より、そのことで苦しんだのは私の三人の子供でしょう。紀美子、宏昌、晴樹には大変な思いをさせてしまって、母親として申し訳なく思っています。また、それにも関わらず立派に成長してくれたことと、その子供たちと結婚してくれた千津さんと英恵さんには感謝しています。こんなにたくさんの孫に囲まれて、私も顕宰も幸せ者にしてもらえました」
珍しく母がしおらしくしている。父は、むすっとした顔で麦茶に手を伸ばしていた。
「でも、孝治も、昭も、楓も、克巳も、敦志も、ほとんど紀美子伯母さんについては話を聞いたことがなかったでしょう。ごめんなさいね、お祖父さんと私、それにお父さん二人で口裏を合わせていたからです」
父がせわしなく二杯目を飲み干す。巴は孫達のほうに体を向けた。
「二人のお父さんの上に、紀美子伯母さんがいたの。つまり、私の最初の子供。紀美子は、私達夫婦の最初の子供で、そのために、混血である故の辛いことをいろいろ経験しました。それでも、持って生まれた気の強さとその美しさで、立派に育ってくれたの。特に、晴樹は歳が少し離れていたから可愛がってもらってたわね」
このごっつい親父が甘えていたなんて、いま一つ信じがたい。
「でも、紀美子は、家を出ました。お祖父さんや私と大喧嘩をしてね。気の強さが、その時は仇になったの。それというのも、紀美子が、誠司さんという、真民の男と恋に落ちたから。真民との結婚の辛さを知っていた私達は、猛反対しました。それが行き過ぎて、お祖父さんは紀美子を勘当したのです」
そんな気の強そうな伯母さんが今戻ってきたら、どんなことになるのかな。それに、誠司って人は伯父さんになるのか。真民の親戚ってどんな感じがするのだろう。お祖父さんみたいな人なのだろうか。
「結局、紀美子は誠司さんと駆け落ちして大阪に住み、そこでそれなりに幸せな生活を送っていたそうです。そのあとしばらくして二人の娘も生まれて、長女は孝治より先だったので、私達夫婦には初孫でした。絶縁状態だった私達と紀美子の間を心配してこっそり手紙をくれていたのは、誠司さんでした。しかし、その手紙も去年で途絶えたのです」
雲行きが怪しくなってきたと気付いたのは敦志だけではなかった。兄も怪訝そうな表情をしている。
「簡単に言います。紀美子も誠司さんも、もうこの世を去りました。この内戦で被災したそうです」
父が落ち着かない原因がようやく理解できた。僕にしてみれば遠い伯母さんだけれど、父には姉さんだし、お祖母さんにとっては最初の子供だった人が亡くなったんだ。そうか、その気の強い伯母さんにはもう会えないんだ。真民の伯父さんにも。敦志は祖母の顔を見るのが怖かったが、ちらりと目線を上げてみると、思いのほか穏やかな祖母がこちらを向いて微笑んでくれた。生半可な強さではない。
「さて、二人には二人の子供がいました。名前を牧と綾と言います。この二人は幸いにも怪我一つせずに済みました。そして、この家を探し当ててくれて、夏の終わりにここまで訪ねてきてくれたのです。そして、明後日、その二人に無理を言って、ここに来てもらうことにしました。宏昌伯父さんがここにいないのは、門司まで迎えに行ってもらうからなの。長女の牧は孝治より一つ上で、綾とは二つ離れています。だから、綾は克巳と同じ歳ね。いろいろな気持ちがあるかとは思うけれど、温かく迎えてあげて下さい。二人は、今は大阪で自活しています。それと、二人は、つい最近まで自分達が混血であることすら知らなかったそうです。だから、その点についても大目にみてやって下さい」
「その、どんな人なんですか」
克巳が聞いている。
「あまりこんなこと言うのもなんだけど、いい子達よ」
でも、紀美子伯母さんが気が強かったことから類推すると、とんでもない人間かも知れない。それにしても、南紅の血が四分の一しか入っていない親戚か。二人とも敦志からすれば年上になるので、敦志は少し気後れしていた。

役所から戻って夕飯を食べた後、敦志は兄と共同で使っている部屋の自分の机の前で四国の地図を広げて収容所として記載されていた地名を丹念に捜しはじめた。もちろん、細かい地点は特定できなかったが、四国でも最も山が深い地域であることだけは分かった。ちょうどいい機会かも知れない。敦志自身、内戦から遠い生活をしていたので、最前線になった地域を見ておくのは、いい勉強になるに違いないと思われた。敦志は椅子にのけぞると、正月のことをまた思い出していた。牧さんと綾さんは、予想と全く違っていた。

元旦の午後になっても、宏昌と二人の新しい従姉妹はまだ姿を表していなかった。最後の電話では4時のバスになるだろうとのことだったので、みんなは先に初詣を済ませていた。その間中も、従兄弟同士の間ではどんな人が来るのだろうかというのが、話題の中心だった。お年玉は親族間の協定で金額が決まっていたので、そちらは話題になりようがなかったのである。これまで女子1人だった楓は、いろいろと想像を逞しくしていた。
孝治と克巳は悲観的で、あまり会うことに乗り気ではなかった。祖母の言葉もかなり差し引いてしか評価していない。それに比べて、敦志と同じ歳の昭と、一番下の楓は、楽観的に考えていた。いずれにしても、気が強くて大変だろうという点では異論は出なかった。いくら親戚でも、大阪で育った人間なんて鼻持ちならないに決まっている、と克巳は鼻を鳴らしてみんなに同意を求めた。敦志は、見てないうちは何も言えないと思ってはいたが、兄がいうことも理解できなくはなかった。
もう祖母の家でしか見ることのできない火鉢で、昭と敦志が餅を焼いていると表が急に騒がしくなってきた。
「いよいよ来たみたいだな。見に行こうか」
「いいよ。すぐこっちにも誰か呼びに来てくれるだろうから、それから行けば」
野次馬のようにいそいそと出て行くのは、敦志の倫理感が許さない。敦志にそう言われて、昭も行きにくくなったのかそのまま立ち上がらずに餅をひっくり返した。
「そろそろ膨らんでくるぞ」
「皿、皿と」
ふすまがすっと開いて廊下の冷たい風が二人の身に絡まった。敦志が振り返ると、伯父さんが笑顔を覗かせていた。
「おお、敦志君、久しぶりだね」
「こんにちは、御無沙汰してます」
「丁度いい、ここでゆっくりしてなさい。準備できたら呼んであげるから。荷物も今はここに置いておくといい」
伯父さんが後ろを振り返って喋りかけている。そして、伯父さんのうしろから二人の女性が現われた。最初に現われたのはあっさりした感じの女性で、明らかに真民のような顔をしている。髪は短くて、セーターもスカートも地味だった。その目が敦志の目と合うと、その緊張した表情に似合わず優しい声が聞こえてきた。
「はじめまして、北代牧といいます。よろしくお願いします。それから、こちらは妹の綾といいます」
「はじめまして」
ほとんど姉の体に隠れるようにして、細い声で妹と紹介されたほうが挨拶する。妹のほうは真民とも南紅ともつかない顔立ちだが、ひとつだけ確かなことがあった。見とれてしまいそうになるほど美人だったのだ。お祖母さんが紀美子伯母さんは綺麗だったといっていた。なるほど、そういうことに違いない。柔らかそうな髪はかすかにうねっていて、その目鼻立ちと非常に調和していて、服装の地味さも打ち消してしまうほどだった。しかし、そうは言っても、北モンのアクセントが耳に障る。
「こんにちは、はじめまして。僕が従兄弟の和真昭で、こっちが別の従兄弟の和真敦志君です」
こういうときは昭のほうが如才ない。敦志も何か喋らなくては、と思ったが言葉がなかなかでなかった。姉妹がこちらを見ているのが分かる。手にしている餅を載せた皿が邪魔だった。とにかく、何か喋らないと。
「も、餅、食べます?」
皿に載せたばかりの餅を差し出すと、昭が目を丸くしていた。自分でも変だと思ったが、言ってしまったものは仕方がない。
「いいんですか。お腹へっていたんです、喜んで。綾も食べる?」
妹は小さく首を振った。とにかく、予想と実際は全く違っていた。荷物を降ろした姉妹がお餅を食べ出すのを、昭と敦志は見つめないようにするのに苦労するのだった。

新しくやってきた姉妹と親戚達の距離は微妙だった。宏昌、昭は二人に気を使って、何かと声をかけていた。一方、晴樹や孝治、克巳、楓はほとんど直接言葉を交わすことがなかった。敦志たちにとって意外だったのは、楓が新しい従姉妹に馴染めなかったことだった。克巳は弟に、楓ちゃんが馴染まないのは思いの外二人が器量よしだったからではないか、と推測してみせたが、敦志はその意見には反対した。妹が美人とはいえ、それは南紅の美人ではないし、そういう意味なら楓のほうが将来きっと綺麗になる。むしろ、原因は祖母にあると敦志は思っていた。楓は従兄弟の中では一番年下で、いつも祖母に甘えていた。祖母も、唯一の女の子の孫なので、楓のことを可愛がっていたのに、北代姉妹が来てからは、お祖母さんは姉妹にかかりきりで、楓はあまり相手にしてもらえていない。その辺りが、彼女には面白くないのだろう。しかし、いずれにせよ祖母以外は、この明らかに南紅ではない姉妹にどう接していいかわからず、腫れ物に触るような遠回しな接触しかできなかった。敦志も声をかけようとはするのだが、喋るのは昭ばかりで、向こうの妹と敦志は、一緒にいても口を開くことはほどんどなかった。むしろ、直接血縁のない伯母さんと母さんが、祖母がいないときは姉妹の面倒を積極的にみていたものだった。

夏休みに入ると、敦志は四国旅行に出る用意を整えた。母親である英恵は反対したが、父の晴樹が認めて妻を説得したので、とうとう母親も息子の一人旅を承諾した。
「無理はしないで、危ないところには近づかないこと。いいな、母さんも私も心配しているんだぞ」
「うるさいなあ、わかっているよ、父さん、向こうにいる間はできるだけ毎日家に連絡するから」
旅費は夏休みまでのアルバイトでそこそこ作っていたが、足りない分は両親に出してもらっていたので、あまり無愛想にはできなかった。しかし、もはや敦志の心は彼方に飛んでいた。向こうで戦災復旧のボランティアをしながら話を聞ければ、大学の後期の提出レポートの課題にも不自由しなくなるだろう。それに何より、自分が社会に何かできるという実感が彼は欲しかった。

「いや、この辺りでは知らないけれど、耶麻村のほうではなんだか捕虜がどうとか聞いたね」
「そうそう、脱走があったとか」 
「ぶち殺してしまえばいいのに、そんな連中」
「それは物騒ね」
「物騒なのはあいつらよ。こっちは平和に暮らしていただけなのに」
「そうそう、先祖代々ここで暮らしてきたんだ。それをあいつら」
二人の老女はその後も盛んにまくしたてたので、和真は耶麻村についてそれ以上聞き出す元気がなくなってしまった。志願したこととはいえ労働奉仕は思ったよりもはるかにきつく、特に体格のいい和真は体力のいる仕事に廻されていたので、自由時間に聞き込みを続けるのが大変だった。明日のことを思うと、今日は早めに寝ておいたほうがいいだろう。彼はまだ喋り足りなそうな顔をしている二人に礼をいうと、小さなリュックを担ぎ直して仮設宿舎に戻っていった。もう二週間になるが、直接に敵と相対した人の話はほとんど聞けていない。この辺りまであの男は侵略してきていたはずと分かっていても、実感が湧かない。ただ、戦争の爪痕はあちこちに残っていて、公共の建物や橋、トンネルにつけられた弾痕や爆破跡が、紛れもなくこの地が戦場であったことを示していた。

姉妹が大阪に帰っていったあと、ようやく家の緊張した空気がなくなって、本来の田舎独特ののどかな雰囲気が戻ってきた。次の日、敦志は祖母に頼まれていた近所への届け物をどうすればいいか聞きに行こうとして、二階の祖母の部屋をノックした。
「おばあさん、これはやはり何かに包んでいったほうがいいと思うんだけど」
机の上の何かを覗き込んでいた巴は顔を上げると、老眼鏡を外して孫の顔を見上げた。
「ああ、そうね、下に綺麗な紙がとってあるはずだから、それでくるみましょう」
敦志が机の上のものを覗き込もうとするので、巴はアルバムを孫にも見えるように広げ直した。
「ああ、あの二人の写真」
「そう。結局、みんなとはあまり馴染めなかったみたいね」
敦志は何も答えない。しかし、祖母のいうことはほぼ当たっていた。話題を変えようと思った彼は、関係のないことを口にした。
「あの二人は、今後はどうするんですか」
「どうもしないわ。あの外見や訛りでは、こちらで生活しようにも居辛いでしょうからね。それに、上尾くんのことも考えると余計にね。彼もこちらには来られないでしょうから」
「誰です、その上尾っていう人は」
巴はじっと孫の顔をみつめた。
「敦志はわりあいにあの二人に抵抗を感じなかったようね」
「まあ、その」
抵抗も何も、ほとんど話が出来なかったのでなんとも言いようがない、というのが敦志の本心だった。
「あなたは人あたりはあまりよくないけれど、優しい子だから、あなたには話すわ。これから私が言うことは他の人にいってはだめよ。デリケートな問題なのだから」
「はい」
「あの二人は向こうでは、上尾という大家の人の家に間借りしているらしいの。非常にお世話になった人だそうなんだけど、その彼はTTIだったの」
敦志は体を硬くした。そんな孫の様子を巴は静かに観察している。その口元が、今は笑っていない。
「両親が亡くなるまで、あの子たち自身は自分がクォーターであることを知らなかった。だから、その間は大家がTTIでもなんの問題もなかったと思うの」
敦志は、二人の喋る耳障りなアクセントを思い出していた。言葉に気を使っているのは分かっていたが、隠しようのないイントネーションが南紅では気になってしかたがなかった。
「それがある時に公になって、大変なことになったらしいの。その時に、彼が庇ってくれたんだって」
「‥‥そうなんですか」
嘘臭い話ではあったが、敦志は黙って聞いていた。
「敦志はそのTTIをどう思う?」
どう思うと言われても答えられない。姉妹を庇ってくれたのは有り難いが、TTIはTTIだ。返事をしない孫を見て、巴はアルバムのページをめくった。
「そこでね、問題はここからで、たぶん、彼は私達の親戚になるわ。牧ちゃんがね」
持ってまわった表現だったので、一瞬祖母が何を言ったのか敦志には理解できなかった。結婚させられるってことか。あのお姉さんが強要されてるということか。TTIならありそうなことだ。それに真民であるだけならともかく、TTIが親戚になるというのはお笑い草である。
「TTIがどんな脅迫したの」
妹ではなくて姉のほうというのがちょっと不思議だったが、ああいう感じの人が真民には受けるのかもしれない、と敦志はどす黒い怒りが渦巻きだすのを感じていた。とにかく、僕の親戚なんだ、理不尽なんて許さない。いったいどんなおっさんだ。
しかし、巴は静かに首を横に振った。
「いいえ。そうではないわ」
外で木枯らしが木々を駆け抜けていく。微かに階下からTVの音が漏れ聞こえてきていた。
「私の老い先もそう長くはないし、そうなったら、彼女たちが何かあったときに頼れるのはあなた達しかいないの。あなたのお父さんはちょっと意固地になっているし、もしあの姉妹が何かでこちらに頼ってきたら、そのときには、伯父さんと一緒に他の人を説得して欲しいの」
何か、とは結婚、ということだろう。敦志自身それに賛成出来る自信がなかった。TTIは孝治さんと戦った敵でもあるわけだ。彼が黙っていると、祖母はアルバムを細い枯れた指でなぞった。
「気持ちはわかっているつもりよ。でも、その上尾という人は、そんなに恐ろしい人ではないように思うわ」
なぜそんなことがわかるのか、敦志には理解できなかった。TTIの悪名は知れ渡っている。どんな将校だか中年おやじかだか知らないが、姉妹を庇ったというのだって怪しいものだ。立場の強さを見せつけるためにした演技かも知れない。結婚といったって、牧さんはまだ二十歳やっとなのに。
「そんなおっさんから、俺が二人を護る」
巴は目を丸くして孫の顔を見つめ、不意にまた口元に笑みを浮かべた。
「彼はね、この家まで来たの。ほら、この人がそう。少なくとも、おっさんではないわね」
アルバムの最後の封筒の中から、一枚の写真がでてきた。夏のここの庭を背後に、姉妹ともう一人、直立不動で写っている男がいる。若い。これでは牧さんとそう歳が違わないだろう。その顔は無表情で、あまりいい人間には見えなかった。
「ここがどういう土地柄か承知で、姉妹を送り届けてくれたの。この夏のことだった」
写真の中で、姉妹がその男に寄り添うように立っているのが、敦志の気を引き続けた。

「お前さん、何を調べているんだね」
そう言葉を吐くと、目の前の男はテーブルから立ち上がって和真に近づいてきた。身長では和真が上だとはいっても、がっしりした屈強そうなこの男性にまともに太刀打ちできる気はしない。その目は和真の動きを見据えていて、和真の背筋を冷たいものが走った。
「ここらでTTIのことを聞くもんじゃない。戦闘に参加したこともない学生さんには、あっちで道路復旧の作業の手伝いをしてもらいたいね」
その威圧的な態度が怖いとは思っていても、一方で負けん気が鎌首をもたげる。和真は精一杯背筋を伸ばして抵抗した。
「もちろん作業には参加しています。これは大学での研究の一環も兼ねているんです。その延長で調べたいだけなんだ」
男はさらに一歩にじり寄って、和真と胸が合わんばかりになった。この男性は兵士だったに違いない、そう和真は直感した。身長ならこちらの方が高いのに、なんという圧力を感じるのだろう。広い額の下の目が全く笑っていない。
「そういうことは大学の中でやってくれ。ここじゃ迷惑だ」
これまでの経験からすれば、だいたいの人は黄禍や特にTTIのことについて意見を求めると血気盛んにまくしたてるのが普通だった。こういう風に中断させられたのはこれが初めてのことである。和真はこれを一種のTTI嫌いに分類していいのだろうかと心の底で思慮していたが、意識の大部分ではこの現状をどう打開すればいいのかわからずに困り果てていた。さらに、その男と同じテーブルに座っていた二人の男が鋭い目付きで和真を値踏みしている。まともに争ってもとても勝ち目がない、と判断した和真はぐっとこらえて引き下がることにした。
「わかりゃいいんだよ。ここは戦場だったんだからな」
和真にはまだ戦場で暮らしてきた人たちの心が分からなかった。

炊き出しをしていた人たちの中には、高校生ぐらいの歳の女の子も数人混じっていた。その中でも、気の強そうな小柄な少女が全体に目を配っていて、歳が倍ほども違う人たちがその少女の指示に従っている。和真が炊き出しの済んだ人の一人にそれとなく話を聞こうと近づくと、その小監督に目ざとく発見されてしまった。
「何してるの、あんた」
この地域の人は、話し方がみなきつく感じられるので、和真には結構負担だった。和真はいつものように大学のフィールドワークの一環で聞き取り調査をしていることを伝えたが、説明し終えても小監督の表情は和らがなかった。初めに話しかけようと狙っていた思っていた同じ歳ぐらいの女の子はもはや向こうへと行ってしまっていて、遠巻きにこちらの様子を伺っている。腕を組んで険しい表情を崩さない少女を相手に、和真はこの子を相手に聞き取り調査してみるべきかどうかの判断がつかなかった。
「それは分かった。でも、詮索してまわったりしないで頂戴。この辺りには戦争で亡くなった人や傷ついた人が多いのだから。現場を調べるのは自由だけど、人に聞いてまわったりするなら、村長や役場をまず通すのが筋でしょう」
怒ったような表情の割には、思ったより筋の通った返答で、案外と話のできそうな気がする。すこし線の細そうな体だが、よく動く目は性格の活発さを思わせた。三つ編みにして束ねられた髪が陽の光に煌いている。
「わかった。そうする。そういうことなら、今日の仕事の後で話をしに行きたいんだけれど、村長さんなり村の役場なりに行こうとしたら、どこにいけばいいか教えてもらえないかな」
少女は口をすぼめて値踏みするような視線を送っていたが、腕組みをほどくと首筋に手をやった。
「いいわ、今日の晩にキャンプサイトに戻るときに連れていってあげる」
「ありがとう」
くるりと向きを変えてその場を立ち去りかけた少女は、二、三歩進んだところでふと和真のほうに向き直った。
「どういうつもりでそんなことを調べているの」
真剣な目がその質問の重要性を語っている。この返事次第でこの子が味方にも敵にもなると直感した。
「僕は今回の戦争の実態を知らないんだ。君たちからみればふざけた奴かもしれないけれど、民族どうしの争いがどんな結果を招いてしまうのかを知っておきたいんだ」
彼女は鼻を鳴らして首を左右に振った。
「TTIに襲われてみればいい」
それだけ言い捨てると、少女は炊き出しの片付けをしている人たちのグループへと帰っていった。どうも芳しくない結果を招いてしまったようだ。それでも、案内はしてもらえそうなことにはかわりなかったので、和真はタオ
ルを首に巻き直すと道路復旧現場へと戻っていった。名前を聞くのを忘れていた、とそのときになって初めて和真は気が付いた。

暗くなってからテント張りの宿舎に戻ると、和真は夕飯を急いで食べ終えて敷地の端のベンチに座り込んだ。キャンプサイトの入り口は一つしかないので、ここにいれば彼女が来るのが見えるはずである。テント張りの宿舎の中は二段ベットとロッカーがずらりと並んでいるだけの殺風景なものなので、就寝までの自由時間は、もっぱら外に並べられたベンチやテーブルに座ってゲームや雑談に耽るのがボランティアたちのささやかな楽しみだった。
星を見上げたままうとうとしていると、突然肩口を引っ張られて慌てて目を覚ます。彼の目の前に、昼間見た少女がいる。
「だらしない。行くの、行かないの」
「いくよ、もちろん。疲れてちょっと眠かっただけさ」
「あの程度で。情けない」
少女は見下したような目でそれだけ言うと、薄暗い道を先に歩きはじめた。すぐに和真もその後を追う。小柄な少女が手に持っている懐中電灯の光だけが、荒れた路面や道端の植込みを照らしている。お互いに顔を見たりすることもできないような暗い夜だった。離れるとすぐ足元が見えなくなって危ないので、彼は彼女の気を害さないように注意しながらもできるだけぴったりついていく。何度も和真は話しかけようかと思ったが、静寂の世界を規則正しい歩調で進んでいく彼女の息遣いを聞いていると、そうしてはいけないような気がした。

しばらくいくと、ぽつぽつと民家が表われはじめ、少しまとまった集落になった。とはいえ、百世帯はないだろう。人通りは全くない。道だけを見ているとゴーストタウンのようだが、それぞれの家に電気がついているところをみると、単に夜だからそう思えるだけなのかもしれない。和真が辺りをきょろきょろしながら歩いていると、急に少女の足がある家の前で止まった。
「ここは?」
「私の家」
「あの、僕は取材の許可をお願いしにきてるんだ」
「だからここでいい。父が村長なの」
唖然とする敦志を置いて、少女は門をくぐると玄関を開け、大声をあげた。
「ただいま。お父さん、帰ってる?」
「まだよ。もっとはやく帰ってきなさい。あなたがそんなに頑張らなくたって、みんなうまくやっていけるのだから、もっと勉強に身をいれて‥‥あら」
奥から出てきた少し年上の少女は、他に人がいることを知って急に声を小さくした。母親が出て来るだろうとの予想は外れ、姉だろう、妹に比べてずっと背が高くて落ち着いた感じの人が現われた。
「すみません、お客様が一緒だったとは気付かなくて」
具合の悪いことを聞かれたせいで気分を害していた妹は、荒っぽい仕草で玄関の中に入るように敦志に指示した。
「いいの、これは別に客ってわけじゃないから」
「失礼でしょう、羽雪」
「いや、いいんです、本当に。村長さんと少しだけお話が出来れば、と思って寄らせて頂いているだけですから。村長さんが戻られてないのでしたら、またの機会にします」
羽雪という名前の少女が自分より年下であることには自信があったが、この姉らしき人と自分が同年かどうか見当がつかない。脈が速くなっている。
「でも、もうすぐ帰ってくると思うから、待っていったほうがいいと思うの。なにせ不便な土地柄だから、何度も来るのも大変だろうし」
「ありがとうございます」
夜になっても蒸し暑さがなかなか引かない。山間のここでこんなに暑いのなら、九州はもっと暑いだろうな、と実家へ思いを馳せながら和真は玄関の間口に腰掛け、その村長が戻って来るのを待ち続けた。

昼に休憩しているとき、隣に座ったのは地元の青年だった。事情を話すと、彼は快く質問に答えてくれた。話が弾んで、つい脱線してヒアリングの苦労話まで話題になった。前日にヒアリング調査を白里羽雪という少女に咎められて、わざわざ村長のところまで挨拶に行かされた経緯を話すと、相手は面白がって聞いていた。
「ああ、白里の妹な」
「知ってるの」
「それは、有名だからね、あの子。俺、あの子の姉さんと同級生なんだ。学年は違うけど目立っていたし、もともと小さな学校だったから。ふうん、でもよく話できたね」
「どういう意味、それ」
「あの子、超タカ派なんだ。下手にTTIや北モンのことを口に出したら、ナイフ突きたてられても文句いえないんだよ」
「そんな風には見えなかったけど」
「1年生のときに生徒会長に立候補して、選挙演説でアジってたのは有名な話。男子と同じ民兵訓練受けてる、って白里が言ってたし」
「え、民兵訓練、て中学でもするんだ」
「当たり前だい。道を歩いていたらその場が戦場になったりするんだぞ。のどかでいいよな、九州の人間は」
少しむっとした和真だが、相手が悪気なく言っているだけに、何も言い返せなかった。
「それにしても、ナイフ突き立てるなんて、物騒な」
言いおわるかどうかの一瞬で、相手の右手が腰の後ろに回ったかと思うと、目の前にナイフが光っていた。鼻先まで十センチもない。和真は身動き一つ出来なかった。
「ま、こういうことさ。ごめんね、びっくりさせて。今日は夕方に自警団の集会があるから、持って来ていたんだ」
ちょっと得意げな顔をしたまま、相手は刃渡り二十センチメートルはあろうかというナイフをゆっくり片付けた。背中に隠し持っていたようだった。
「もちろん、もう普段はこんな物騒なもの持ち歩いたりしていないよ。これはあくまで民兵として道の警備に当たったりするときの護身装備なんだ。でも、彼女もこういうのがうまい。以前に白里さんの家に寄ったときに、妹さんがやってみせてくれたんだ。これでTTIをやっつけるんだ、てな。もう随分昔の話だけど」
午後の作業開始の号令がかかった。周りの人たちも立ち上がって現場に向かいはじめる。
「さ、俺達も行こう。ボランティアには感謝してるんだ。作業はきついと思うけど、気をつけて」
「うん」
かんかん照りの日差しはまだ強くなりそうだった。

「なぜ捕虜TTIの収容先など調べていた。それも、名前まで挙げて」
「いえ、単に資料調べで。名前だって、リストの一番上から順に調べていったほうがきちんとしたデータが取れるかと思ったからそうしたんです」
「TTIの名前など、いちいち出すな。だいたい、敵の捕虜より我々の側の戦死者のことをまず聞くべきではないかね。もうこれ以上の研究だか調査だかはやめてもらおう」
和真が言葉を返そうとする前に、GOTSの制服を着たままの村長の手が真っ直ぐに伸びて和真の顔の前で止まった。
「もう橋脚工事も目処がたったので、明日からは下流のほうに移ってもらいたい」
「なぜ」
「工事に協力してもらえんのかね」
「でも、あまりに急じゃないですか」
「今後はこの村への出入りも遠慮してもらおう」
「いったいどうしてこうなるんですか、教えて下さい」
「君のしつこさはある意味ですばらしいが、これ以上やりすぎると、君を危険分子としてMPに連絡せざるを得なくなる。TTIに執着する妙な男がいる、とな」
和真は戦争の狂気を感じはじめていた。たったこの程度で犯罪にするつもりなのか。それとも、この程度の情報のやりとりすら戦争では大事になるのか。
「悪いが、この資料は没収させてもらおう。不穏当な情報は我々社会の和を乱す」
本当は渡したくなかったが、数人に囲まれてはもはやなす術がなかった。それに、白里さんの父親と争いをしたくなかった。大人しく手にしていた資料を差し出すと、微かに村長の目元が緩んだ。
「協力してくれてありがとう。作業割り当ての変更については、追って連絡しよう。いくぞ」
村長と自警団らしき3人の大人は、それ以上何もせずに立ち去っていった。和真は遠巻きに自分を見つめる他のボランティアの視線を痛いほど感じながら、お茶を取りにいった。視線から逃げだせば、自分がやましいことをしていたと認めるみたいで、和真にはそれが屈辱だったのだ。周りの視線に対しても、堂々としていたかった。

「おうい、和真はいるか」
宿舎のベットの上で荷物を広げていた和真は、入り口から覗く班長のほうを振り返った。
「ここです」
「お前の忘れ物を届けにきてくれた人がいるぞ。はやく行け、表だ」
「はい」
荷物の確認をしてところなので、忘れ物などないはずだとは分かっていたが、室長が妙な目配せをしたので和真は素直に従うことにした。
表に出てみると、月のない星降る夜で、すばらしい眺めだった。
「和真さん」
「白里さん」
美雪は建物にもたれてやはり星を見上げていた。手には小さな包みを持っている。
「これだけは本当のことを答えて。和真くんは真民に肩入れしてるの、それとも私達と同じ側にいるの」
出会っていきなりできつい質問なので和真は驚いたが、考えてみればそれぐらいの噂がもう流れていても不思議はない。とにかく、ここは狭い社会なのだから。
「僕は南紅だよ」
自分の中を流れる四分の一の血。
「それなら、TTIとか、真民に利するようなことはしない、て約束してくれる」
「もちろん」
彼女が建物を離れて谷のほうに歩いていくので、和真も横に並んでついていく。美雪はしばらく黙っていた。
「いいわ、それならこれから言うことは誰にも話さないで」
それから美雪は足を止めて語りだした。
「正直に言えば、私達はTTIが憎い。真民がここにいた頃はTTIを傘にして横柄だったし、そのあとの戦争で村はあちこち壊れて、向こうの集落では死者まで出て」
「そういえば、君も襲われたことがあったんだってね。無事でよかった」
相手が見せた悲しい表情で、和真はまた何かまずいことを言ってしまったことに気付いた。しかし、そのことについては何も喋らずに彼女は話を続けていく。
「でも、私達ががみんな同じ考えをもつ人間ではないように、向こうにもいろいろな人がいる」
和真はいつしかゆっくりと喋る彼女の様子に魅了されていた。
「まだ羽雪が以前に、といっても羽雪が中学生だったときだけど、あの子、一人で山の中で事故に遭って大怪我をしたの。しかも、その体が動かないときにあの子、TTIに襲われて」
和真は背筋がぞくりとした。そんな状況ではひとたまりもない。
「私の妹は、あの通り勇敢だから、そのTTIをやっつけかけたんだけど、動けなくてはどうしようもなくて。相手に切りつけるとこまではいったんだけれど、追いつめられて」
あの小さな子が生死の境にいたとき、僕は何をしていただろう。友達と遊んでいたのだろうか。
「でもね、あの通り羽雪は今でも元気。そのTTIは、羽雪の手当てを、していってくれたから」
「怪我させておいて手当てしていくとは、変な奴だな」
「違う」
美雪がきつい目で和真を射抜いたので、彼は動きを止められてしまったように感じた。
「怪我したのは事故に遭ったからで、そのTTIは手当てだけしていってくれた。羽雪がナイフで怪我させたのに。その手当てで羽雪は命を取り留めた。TTIは嫌いだけど、悪くない奴も少しはいる」
和真はいま一つ信じ難かったが、相手の真剣な表情を疑う気にもなれなかった。彼女がゆっくりと建物の壁をゆっくり離れていくので、和真もそれについていく。
「でも、それは分かったけど、それでどうして収容所の聞き込みがよくないのかな」
彼女は背中を向けたまま、何も答えてくれない。
「いや、答えてもらえないのなら、いいんだ」
彼女はまだしばらく歩き続けている。
「和真くん」
「うん」
「ここに収容所はなかった。傷病TTIを村の診療所で預かっていたことはあるけど、きちんと協定に基づいて扱っていました。私から言えるのはそれだけ。この村では一時期GOTSの要請に従って捕虜を治療していた、ただそれだけが事実で、それ以外には何もなかった。そういうことなの」
「わかった、もちろん信じるよ。それに、もう収容所のことを尋ねてまわったりしないし、そのことについては何も書いたりしない」
しばらくまた星々が瞬く以外、何も動かない時が流れた。
「よかった。和真くんはいい人だと思っていたから」
彼女はその場で振り返ると、和真のほうに向き直って表情を緩める。
「大学は楽しいところ?」
「別段楽しくはないけれど、やりがいがあるんだ」
「いいな、和真くんは賢くて」
「違うよ、機会と環境に恵まれただけ。白里さんだって行けるさ」
「私は大学はいいの。ただ、看護婦になりたい。この辺りには看護婦が少ないから」
「なれるよ。白里さんなら似合っているし」
「そう?ありがとう。あ、もうそろそろ帰らなくちゃ、もう遅いから」
「送るよ。暗いし」
「うううん、いい。ありがとう。ああ、そう、これ」
胸に持っていた小さな包みを渡されて、和真はようやくそれが取り上げられていた調査資料だと気付いた。
「いいのかい、これ。お父さんに没収されたんだ、よくないよ」
「いいの。和真くんが私達の味方なら、返してもいいって」
味方、という言葉に、和真はこれまでの何よりもここで戦争があった事実を痛感していた。それほどに、穏やかな彼女の口調に緊張感が漂っていた。誰が敵で、誰が味方か。
「それじゃね」
彼女はにっこり笑うと、和真の横を抜けて暗い道へと歩いて消えていった。

翌日の朝、監督者から呼び出された和真は、次の活動地を指示されたので、荷物をまとめてキャンプ地を離れた。狭いキャンプ地ではあったが、もう来ることはないかも知れないと思うと、感慨深いものがあった。小さなリュックを背負ったまま、谷の底にあるキャンプ地を道路からひとしきり眺め終えたあと、彼はバス停に足を向けた。
和真がバスを待っていると、彼方から白里の妹がこちらに向かってくるのが見えた。なんとなく気まずい思いの和真はほんの少しだけ頭を下げたあと、彼女に目線を合わせないようにする。彼女はバス停に到着すると、そのまま黙ってバス待ちの列に並んだ。道路向こうの立ち木を見つめている。
「父さんが追い出したみたいで悪かったな」
思わず少女のほうを振り返りたくなったが、それを堪えて和真は同じく向こうの立ち木を眺めながら答えることにした。
「いいよ、僕も無分別だったと思うから」
「なんで捕虜リストなんか持っていた」
「どうしてそのことを知っているの」
「父さんが持って帰ってきたときに、勝手に見せてもらった」
「そうなんだ。いや、こちらに来る前に色々と資料を集めてたから、その中に混じっていただけ」
「あの資料の捕虜リストに、線が引いてある部分があった」
上尾のことだ。
「あちこちに書き込みとかしてたから、どの部分のことかな」
和真はしらばっくれて答える。
「そうか、それならもういい」
誘惑に負けて横顔を覗いても、彼女の表情は変わらなかった。
「まだバスが来そうにないし、ちょっといいかな」
「なんだ」
「もし構わなければ、君がこの戦争についてどう思ってるか、何を感じたか聞かせてほしいんだ」
「そう言ってみんなに聞いてまわっていたんだな」
「まあね。でも、無理に聞いたことはないよ」
「その問い掛け自体が身を切るつらさを思い出させることもあるんだ。真民からいびられたことがあるのか。友達が乱暴されたことはあるのか。知り合いの殺された姿を見たことがあるのか。自分の生まれ育った土地が蹂躪されたことがあるのか。やっと平穏な生活が戻ってきているときに、傷口がまた開くようなことを思い出させるのか」
年下の少女の淡々とした口調が、かえって強い怒りを感じさせる。しかし、噂に聞いたタカ派というのとはまた違う。
「悪かった。ごめんよ」
「謝ることはない。このつらさを絶対に忘れないために、誰かがしっかりと記録していかなくてはいけないと思う。真民に気を許してはいけないことをずっと教え続けなくてはいけないし、そのためにはこの経験をきちんと伝えていかなくてはいけない。ただ、そういうことが頭では分かっていても、やっぱり過去を思い出すのはつらい。それが、正直な私の気持ち」
「そうか。話を聞かせてくれてありがとう」
喋っているあいだも、少女の表情はあまり変化しなかった。和真はリュックを担ぎなおしたが、まだバスは来ない。
「和真さんこそ、ここに来て何を感じた」
「え、俺が」
「そう」
「そうだな。南紅のために、みんなこんなに体を張って戦ってくれてたんだ、と思った。俺、ずっと西に住んでいて、ニュースでしか物事を知らなかったから。本当にこの村の人をはじめ、戦い続けてきた人たちには感謝してる」
「そういうことではなく、この谷に来てどう思った」
言葉の裏に少しいらいらしている様子を感じ取って、和真は戸惑っていた。
「でも、今言った気持に偽りはない、本当だよ」
「それは分かっている。態度を見てればそれを感じる。でも、聞きたいのはそうことではなくて、この村を、私達を見てどう思った」
「どう、って。どうにも。いい人たちだよ。もし戦争があったことを知ってなかったら、戦争の跡が集落になかったら、昔からの穏やかな山村に来た、という感じしかしないと思う。それぐらい居心地がよかったから」
「本当にそう思うの」
少女から硬い感じがしない。はじめてそれを感じた。
「もちろん。みんな親切だし。君だって俺に親切だったじゃないか」
「そ、そうか。それならよかった」
「そうだよ。どうしたの」
急に落ち着きをなくしたように見える彼女に、和真はやさしく尋ねる。少女は細い手をぶらんぶらんさせて落ち着きがない。
「その、和真さんを見てると、なんか元気になるんだ。明るいし、元気だし、みんなそう思っている。そういう人間を前にすると、なんだか自分達が戦争に明け暮れて疑心暗鬼になった、みすぼらい存在に思えて」
「なに言い出すんだよ。九州に帰ったって、村長さんみたいな頼もしい人は周りにいないし、君ら姉妹みたいにしっかりした人たちなんて、捜したってそんなにいないよ。村長さんにこそ俺の行っている大学の講義をしてほしいぐらいさ」
「うん、ありがとう」
「元気だしてよ。大学に帰って、君らみたいないろんな人に出会えた、て自慢したいんだから」
「あっちに戻って、レポートまとめるんだろ」
「ああ、後期の最初にレポート提出するつもりだから」
「そしたら、それを、姉に、こっちに送ってくれないか」
「いいよ、もちろん。住所を教えてくれる」
「ああ」
彼女が教えてくれた住所を書き留めると、和真は思い付いて手帳の一頁に自分の住所を書き付けて彼女に差し出した。
「これ、俺の家なんだ」
「あ、ありがとう」
「やれやれ、やっとバスが来たみたいだ。白里さんはどこまで行くの」
「いや、もういい。今日はやめる」
まだやっぱり子供かも、と思いはしても、和真はそれを口に出すような人間ではない。
「じゃあ、レポート送るから」
「うん」
バスがゆっくりした速度で山道を降りて来る。あまり人は乗っていないようだった。うるさいエンジンの音が収まり、ドアが開く。
「それじゃあ」
「気をつけて」
「お姉さんやご両親にもよろしく。それと、見送りありがとう、白里さん」
「別に私は」
ドアが閉まる。和真は笑って陽気に彼女に手を振った。怒ったような少女が、それでも小さく手を振り返してくれた。バスは年期の入ったエンジンに唸りを上げさせて、坂を下りはじめた。和真は一番後ろの席に座って、もう向こうから絶対に見えなくなるところまで来ても、後ろを向いてまだ手を振っていた。全開の窓から流れ込む緑の匂いが体を包んでいた。


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