written by ケイ・プロクシマ
私は軽井沢がどこにあるのか知らない。 いや、今、地図で探せば即座に捜し当てることができるだろう。だけど 東京の人が由布院を知らないように、私は軽井沢を知らない。 その軽井沢にあるティールームがある。その名前を「アリスの丘」と いう。軽井沢のアリスの丘のティールームと聞いただけで、なにやら、 「赤毛のアン」を読んでたころのような青々しいあこがれがこみあげて くる。3月うさぎが「いらっしゃいませ」とドアを開けるような気がす る。気がするだけで、ドアの奥で待っているのは森村桂さんなのだけど。 森村桂さんは、作家でもある。「天国にいちばん近い島」を書いた人 だ。私と森村さんとの本の出会いは、図書館。森村さんが軽井沢に「ア リスの丘」をオープンした奮闘記をたまたま読んだのだ。 「アリスの丘」に行くと、森村さん自身がベランダでケーキを焼いて いる。そのケーキというのは、生クリームがデコレーションされたもの ではなくカトルカーという焼き菓子で、そりゃあ、もうおいしいーって、 書いてある。本を読めば読み進むほど、そのケーキを食べたくなった。 「忘れんぼのバナナケーキ」って名前。魔法の粉とできたてほやほや のバターで作られた忘れんぼのバナナケーキ。悲しいことを忘れさせて くれるバナナケーキ。私は本を読みおわると、また図書館へ行った。探 せば、「忘れんぼのバナナケーキ」のレシピがどっかにあるはずだ、と。 軽井沢にたったひとつのケーキを食べるためだけには、行けない。本 当のお金持ちっていうのは、こういう時に迷うことなく「じゃあ行こう」 と言える人たちなんだろう。私はお金も時間もない。 しかし、図書館にある森村さんの本には、レシピらしきものは、ない。 市内のどの本屋にもない。森村さんの本さえないところもある。あきら めて、他の本もゆっくり読みはじめた。実はその中に、ケーキの本が出 版されたというエピソードがあった。 私は、PC−VANの八重洲ブックセンターにアクセスして、「森村 桂さんのケーキの本」を注文した。本の名前も値段も出版社もわからな いまま。待つこと1日。レスポンスをいただいた。 「在庫があったので、送ります」と。 るるるんるんるんと、待つこと2週間。「桂のケーキ屋さん」という本 が届いた。 「忘れんぼのバナナケーキ」のレシピ バター120グラム 玉子 120グラム 粉 120グラム 赤砂糖12グラム〜72グラム バナナ まぜられるだけたくさん コニャック 少々 生クリーム 少々 室温でゆるゆるにしておいたバターを手でぐるぐるかきまわします。 それに砂糖をいれます。ぐるぐるかきまわしながら、コニャックを 入れます。玉子を入れて、さらに混ぜます。ベーキングパウダーをまぜ ておいた粉をいれて手で混ぜます。これで、タネのできあがり。 で、完熟した大きなバナナ3本を乱切りにして生クリームをまぜ、タネ の中に混ぜて天板に引いたアルミホイルに流して、いきなり強火で焼く のです。 (森村桂著「桂のケーキ屋さん」より抜粋) できたよ。できたよ。うん、おいしい〜っ。 私は、長い間バナナケーキにこだわり、いろんな知人・友人にケーキ そのものや、レシピを押し売りした。 ひらべったい天板にアルミをひいて、流して焼いただけのフルーツケ ーキなので私が作ると見かけが悪い。ある日、「忘れんぼのバナナケー キ」という名前と出会いの話をせずに、たまたま尋ねてきた知人にアル ミにくるんだままあげると、後日、その知人の美人の奥様から手作りの 苺と生クリームの乗ったすばらしいケーキをお返しに、いただいた。で その熱もさめかけた。 しばらくたった、カトルカーも口にはいらないような暑い夏の日。横 浜在住の友人夫婦が尋ねてきた。 「はい、おみやげ。」 「え?」 森村さんの本だ。 「アリスの丘の物語」だ。 この友人夫婦とはメール交換していた。たしか、バナナケーキの話をつ れづれなるままに、書き送っていた。本には「ケイ・プロクシマさま」 と書いてあって日付と似顔絵が書いてある。本物? 「きゃあ〜。え?どうしたのこれ?」 「軽井沢に行ったんですよ。」 「ひゃあ、アリスの丘に?」 「森村さんに会ってきましたよ。」 「いたの?本人が?」 「忘れんぼのバナナケーキ食べましたよ。」 「わあ。おいしかった?おいしかった?」 「おいしかったですよ。」 友人夫婦は、「アリスの丘」に行かなければわからない話をたくさんし てまた、横浜に帰っていった。 ああ、うらやましいことだ。私にはこれからの人生にも、軽井沢に行 く予定はないんだから。でも、軽井沢へ行きたい。「アリスの丘」ティ ールームへ行って、森村さんの手で混ぜられて作られた忘れんぼのバナ ナケーキを食べたい。そうしたら、私は、幸せになれるかもしれない。 たぶん。
Copyright (C) 1996 by ケイ・プロクシマ
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