山頭火と良寛/厭世の系譜


                      written by たねり

 最近の研究で、自殺する人間というのは脳にある種のホルモンの アンバランスがある、とかいうのを聴いたことがある。つまり、厭 世的な傾向はたんなる精神の問題ではなく、ホルモンという物質の いたずらなのだ、というわけである。まあ、かならずしもその分類 に入る人間のすべてが自殺をすることはないにしろ、人生のトラブ ルに直面をしたときに、自殺を選びやすい、というくらいのことは あるのかもしれない。  たしかに、いわれてみると思い当たるふしもあるのである。体質 的な遺伝ということなら、たとえば種田山頭火と良寛のそれぞれの 家族を見ているとそのキーワードは「厭世」ということに落ち着く からである。  山頭火は、母親が自宅の井戸に投身して自殺した、という話が有 名である。そのとき、父親は妾をつれて遊山の旅行中であったとい う。母親ふさは33歳。のちの山頭火こと、種田正一は11歳であ った。山頭火自身も42歳のおり、熊本の路面電車の前で仁王立ち して自殺未遂を起こすのである。それをきっかけにして、寺へ入る わけであるが、ここまでは山頭火ファンならばだれもが知っている ことである。しかし、この家族にはもう一人の自殺者がいた。7つ 年下の弟二郎である。かれは成人したあとで自殺をしている。じつ は、詳しい事情をわたしは知らない。このことはいつか調べてみた いとは思っている。この種田家では、母と子供ふたりが、自殺もし くは自殺未遂をしているのである。  良寛はどうだろう。じつはかれの父親である橘屋山本以南は60 歳のおり、京都の桂川に入水自殺をしているのである。良寛が38 歳のときであった。かれ自身は現世での自殺を考えたかどうかはわ からないのだが、名誉職であった名主見習いをすてて、出家をして いる。よすて人になる、ということは象徴的には自殺に近い。また 、末弟であった香も出家をして京都にいたが、不審なかたちで死ん でいる。学者によっては、自殺説をとる人もいるのである。つまり 、山本家でも父と子供が自殺をしているようなのである。  このふたつの家系に共通する点は、それぞれが地域の名門であり 、そこから一挙に没落をしていった、ということである。良寛の家 は出雲崎の名主だった。いまでいうと町長の役割であろう。また、 山頭火の家は大地主であった。しかし、前者は父親が実務能力を欠 いており、名門の役割を維持していくことができなかった。後者は 、父親が放蕩三昧のあげくにたった一代で莫大な資産を食いつぶし たのである。  もちろん、そのような名門の没落は世間では珍しいことでもない だろう。時代の変わり目には、しばしば起きていることかもしれな い。そうなったとしても、その家族が自殺をしないことだってあり える。自殺をするという選択には、なんらかの厭世的な傾向が(ホ ルモンが、というとなんだか身も蓋もないのだが)介在していると 思えるわけである。  しかし、これはじつは安楽死の問題とよくにていて、ではホルモ ンが自殺の正体だったとしても、それを治療するのがいいことなの か、という疑問も湧いてくる。ホルモンのアンバランスを投薬で解 決したとして、その人間の厭世感が消えたら、それはいいことなの か。わたしにはどうも気持ちのわるさがのこるのである。つまり、 すべての人間が前向きでおひさまに向かって生きる、なんてのはど こか変ではないか、という思いがつよい。闇は闇のままでおいてお け、という気分がわたしにはある。  さて。  山頭火も良寛も、じつはちゃんと畳のうえで死んだ。風のふくま まに、乞食(こつじき)の人生を歩んだにしては、ふたりともきわ めて自然にその生を全うしたのである。山頭火は59歳、良寛は7 4歳であった。このふたりの間にはほぼ100年の歳月が流れてい る。しかも、良寛などは冬は雪にうずもれる厳寒の越後で暮らして いたわけであるから、晩年は温暖な松山にいた山頭火より体力的に もきつかったはずである。良寛の長寿が目立つといっていい。  これはたぶん、精神的な安定が良寛のほうが勝っていたためであ ろう、とわたしは推測している。もっと俗っぽくいうと、山頭火は 破戒坊主であったので、酒におぼれておのれを忘れ、気がつくと遊 廓で女を抱いていたりするような、どうしようもないやつであった 。かれの日記にしるされているのだが、離婚した奥さんのもとに金 の無心に訪れたときに、いやがる相手を押し倒して思いをとげたり もしているのである。しかも、日記には「女というのは弱いものだ 」というニュアンスの文章をのこしているのだから、女性から見れ ばろくでもない男だったろう。なにしろ、妻子の生活の面倒を見な いばかりか、細々と暮らしているところに金をくれ、といってくる 亭主(元だが)なのである。  良寛も酒はのんだようであるが、自制がきかない、ということは なかった。女に対しても、山頭火のように酔うと乱れて抱きたくな る、ということもなかったようである。出家をしてからは女犯をし ていないようだから、もしも若年のおりに遊廓などで女遊びをして いなければ、良寛は童貞だったと見てもいいのかもしれない。晩年 の貞心尼とのプラトニックな愛に、かれの節度のきいたライフスタ イルが凝縮されているとわたしは思うのである。つまり、性愛につ いては、肉の山頭火、心の良寛、といってもいいだろう。  おなじ世捨て人とはいっても、その境涯にはずいぶんのちがいが ある。このちがいは、どうやらふたりの「厭世に徹しているか、い ないか」のちがいでもあるようなのだ。  まず、良寛の詩からかれの厭世観をみてみよう。「我見世間人」 から始まる漢詩なのだが、ここでは入矢義高さんの訳で読む。  「私が世間の人を見たところ   みな愛欲のための計らいばかりだ。   その目的が満たされぬとなると   身も心もいよいよ憂いもだえる。   しかしたとい愛欲が存分に遂げられたとて   そもそも何年続けられることか。   一度は極楽のような快楽を享受しても   十度地獄の囚われ人となるだけだ。   苦でもって苦を捨てようとするのだから   そのためいつまでも愛欲に纒綿するわけだ。   喩えてみれば澄んだ秋の夜に   月影が川の中に浮かぶと   猿どもがそれを掬い取ろうとして   次々と水中に投身するようなもの。   痛ましいことよ、三界の衆生は。   一体いつになればこの愚かさが止むのか。   長い夜につくづく思いめぐらしていると   涙が流れてとどめあえぬ。」  いうまでもなく、ここにはブッダの正統をひく厭世観がある。愛 欲は執着である。だから、そこから離れなさい、という教えである 。ふつうは、頭ではわかっているが、体のほうはいうことをきかな い。しかし、この詩に嘘がないとしたら、良寛は愛欲に執着をする 人間の愚かさのために涙をながすほどに、心身が脱落した境地にあ ったのであろう。良寛が肉欲に迷わなかったのは、かれの厭世観が ブッダと同じくらいの深みにまで達していたからだ、といってもホ ラではない、とわたしは思うのである。  では、山頭火はどうだったろう。  昭和7年2月28日の日記にこうある。  「生きるとは味ふことだ、酒は酒を味ふことによって酒も生き人 も生きる、しみじみ飯を足ふことが飯をたべることだ、彼女を抱き しめて女が解るといふものだ」  これはもうブッダの弟子の言いぐさではない。かつて武田泰淳が 「味は執着である」といったことがあるのだが、武田もじつは坊主 の資格をもった作家であった。酒も美味も女も、現世への執着であ る。だからこそ、そこからどう離れるか、というのが本来のブッダ の弟子のありようなのであるが、山頭火はここではもうただの美食 家にしかすぎないように見える。つまり、こういうことである。山 頭火の厭世は、付け焼き刃だったかもしれないのである。たまたま 成り行きで、そうなってしまったのだが、生活になんの問題もなけ れば、かれは地方の素封家として酒や女をたのしみつつ俳句もつく る、というそこそこの文化人で人生を終えていた、とも思えるので ある。  しかし。  面白いことに、良寛ののこした歌や俳句よりも、山頭火の俳句の ほうが魅力的なものが多いのもたしかなことである。良寛もけっし てわるくはない。心にのこる歌や俳句はのこしている。とはいえ、 山頭火の作品はさらに際立っているように思えるのである。  つきあう相手としてみれば、どう考えても良寛のほうがいい。山 頭火とつきあうには、物心両面の余裕がないととてもやってはいけ なかっただろう。ある日とつぜん、遊廓のつけうまを連れて来られ たら、人はその金を払うだろうか。山頭火の友人であるためには、 何もいわずその金を払うだけの度量を必要としたのである。  どうしやうもない私が歩いてゐる  という感慨は、まさに事実だったのだが、その鼻つまみの甘った れ男がのこした句が、ひとびとの心を深く揺さぶるという逆転が起 きるのが文学のふしぎさである。  山頭火はたった1冊だけ、句集をのこしている。「草木塔」とい うのだが、世間で有名になった句のほとんどはそこに入っている。  分けいっても分けいっても青い山  ほととぎすあすはあの山こえてゆかう  雨ふるふるさとは裸足であるく  などであるが、ここでは少し趣をかえて、かれの行乞日記にしる されている句のなかから、わたしの目にとまったものをいくつか紹 介してこの小文を閉じたいと思う。  昭和5年の9月、49歳のおりに、熊本から九州一円への乞食の 旅をしたときの日記からである。この日記を選んだのは、とくに理 由はない。たまたま、それを手にとったというだけのことだ。  あの雲がおとした雨にぬれてゐる  焼捨てて日記の灰のこれだけか  芋虫あつい道をよこぎる  泊めてくれない村のしぐれを歩く  吠えつつ犬が村はづれまで送ってくれた  このまま死んでしまふかも知れない土にねる  すこし熱がある風の中を急ぐ  とりあえず10月までで、これだけの句が拾えた。もちろん、つ まらない句もたくさんあるのだが、100枚の原稿のなかにたった 1行の珠玉があればいい、という開高健の法則にしたがえば、十分 な打率であるとわたしは考えている。  「厭世」を癒すことがいいことか、わるいことか、という話にも どると、すくなくともこうはいえるであろう。良寛や山頭火の作品 がのこっているのは、それが本質的であれ付け焼き刃であれ、「厭 世」をバネにしたものである、と。もしもなんらかの治療行為によ ってかれらが陽気な人間に変わってしまったら、わたしたちはかれ らの作品を受け取ることはできなかった。  それは、いいことだろうか。

Copyright (C) 1996 by たねり

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