written by グラウコン
◆都市化により個人は誰でもいい誰かになった 文明と都市化の進展によって人間の生活が便利になった反面、さまざまな 弊害が言われるようになった。公害、食生活や生活リズムの変化、人間関係 の希薄化、などなど。しかし、人間の精神に深刻な影響を与えているにもか かわらず、意外にも話題にならないのが、個人の無力感が強まっていること ではないだろうか。 世界がまだ狭かったころ、ひとは彼を取り巻く小さな共同体の中で与えら れた役割をまっとうすればよかった。そこでは、自分がどこの誰であり、自 分がその共同体にどういう影響を与えているのかがよく見えていた。とくに 意識する必要もないほどのひとりひとりのアイデンティティは確固たるもの だったし、世界は明瞭な姿を見せていた。 ところが都市の生活はこれらのすべてを奪ってしまった。外面的にはなに かが奪われたのではなく、自由が与えられたように見える。彼は自分が好き な場所へ行って住むことができるし、自分が好きな役割を選べる。実際、彼 は自由を与えられてはいるのだが、皮肉な見方をすれば、彼はどこの誰であ ろうとかまわないのだとも言える。彼は自由な無名者、誰でもない誰かであ る。 自由といっても、自由とは常に思うほど自由ではないものだ。多くの場合、 彼の役割は彼が主体的に掴み取ったと言うよりも、そうなるしかなかった、 たまたまそうなった、種々の力と影響によって今ある彼になったとしか言い ようのないものなのだ。はっきりこれといった根拠もないままに誰かである 私を演じ続けている。(昔のほうが自由であったという意味ではもちろんな い) 彼が暮らす共同体はますます漠然としたものになり、あるのかないのかも 実感できないほどにあいまいな存在だ。それはつまり彼自身がどんな存在で あるのかの実感を奪うことでもある。アイデンティティが他者との関係や自 分の属する集団との関係で決まってくるとするなら、あいまいな共同体の感 覚は彼自身についてもあいまいな感覚を与えずにはおかない。 せいぜい家族や企業という共同体くらいしか彼には実感できない。家族や 企業という境界を超えると、その先には茫漠たる地方自治体や国家があるば かりだ。なんという距離がそこにはあるだろう。 それにそもそも企業は共同体ではない。日本の場合は特に共同体のふりを した搾取の現場なのである。そのことはバブル崩壊以後、ますますはっきり しているし、個人が個人として尊重される世界ではなことは誰でも知ってい る。あえて言えば、社畜としての自分をどう納得するのかという問題しかそ こにはない。 なぜ共同体は失われたのか、とか、なぜ地域社会はうまく機能しないのか、 などを論じるのも馬鹿らしいほどに、身近な共同体は解体の一途をたどって いる。 ◆物質文明は人間を無力にし人格を商品に変えた 一方、文明が発達したことによって私たちは何を得たのか。言うまでもな く、科学や技術の発達により、生活は便利になり、物質的な快楽が増した。 長生きもできるようになったし、いわゆる「幸福」は増大していることだろ う。 多くの機械は人間の能力を増大させる効果を持っている。実際、私たちは 生身の人間ではありえない速度で走り、飛び、距離を超えて話をし、計算を する。しかし、これらの能力の増大は、実際のところ錯覚にすぎない。人間 から機械を取ったら、何もできない無力な人間がむき出しになるのは自明の ことだ。実際のところ、見かけ上の万能感に反して、彼はますます無力な存 在になっている。 労働の現場においては、機械を操作するだけの存在となり、機械の従属物 に成り下がっている。職人芸は意味がなくなり、技術は数値に置き換えられ、 規格化された機械が正確に動作することで、製品は作られていく。 その結果、サービス産業が増大するのだが、サービス産業における人間と いうのもまた惨めなものである。彼は自然に手を加え、ものを作る人間では なくなった。接客的な仕事が増えたおかげで、笑顔も商売道具になり、人格 を売ることの対価として収入を得ることになる。人間も道具であり、消費物 であるという感覚は増すばかりだ。 ◆世界が狭くなり、自分は相対的に小さな存在になった メディアが発達したことで、世界は狭くなった。都市のような人が多く集 まるところでは人間はますます匿名性を強め、誰でもない誰かになる。それ と同時にメディアが外界の出来事を伝え、世界が狭くなることで、個人の重 要性が相対的に低くなった感覚を与える。自分がなんら影響を与えない世界 が無限に広がっている。 個人の発達史においては、このような経過をたどる。子どもの頃は家族の 中で注目されて育ち、学校のクラスではそこそこの人数の中でそれなりの場 所を占めていた。ところが、世界がもっと広がりのあるものだと気づくにつ れて、自分が占める場所が極端に小さいことにも気がつくようになる。つい でに言えば、社会的な無能者となる老後においては、個人の価値はゼロ、も しくはマイナスになる。老人の知恵が有効性を失った流れの速い社会ではそ の傾向は強い。 自身に重要性を感じられない個人が、自分の重要性を回復するのに、どん な錯覚を利用するかを多くの人は詳しく知っているはずだ。メディアで紹介 された有名なものを身につける、有名なものを食べる、有名な場所に出かけ る。有名でなくてもメディアが注目する記号を消費することで、ひとは自分 がそれなりの行動を取り、それなりの人となったかのように安心する。 ◆間接民主主義は個人の価値をゼロに近づけた 政治においても個人の重要性は減少している。 政治家にとっては、個人の声などは重要ではなく、投票される票こそが重 要なのだ。つまり有権者は個性的な個人である必要はない。彼の個性的な側 面は意味がなく、投票された 1 票という抽象的な存在としての意味しか持た ない。 しかもその 1 票の軽さは驚くばかりだ。ひとりの政治家を当選させる力の 何十万分の一の希薄な存在でしかない。しかも、その 1 票は合計してこそ意 味がある。何とか層、何とか票として、政治学者の分析した円グラフに現れ るバウムクーヘンのひとかけらの中に解消される存在にすぎない。 自分が投票した議員が当選したとしても、自分の意志が自治体に反省され たと単純に思う人もいるまい。彼が投票した一票は生きてはいるが、投票し た結果はほとんどの場合、彼の声とは無縁である。そうした無力感の堆積が 投票率の低さへとつながる。政治への批判として無投票という言い方もある が、それは同時に無力感からくる無気力、諦めでもある。 ほとんどの政党が保守化して、思想的な対立がなくなれば、自分の持って いる一票の意味はますます見えにくくなる。利益団体に所属して、政治家に 圧力をかけるのでもなければ、投票行動そのものがどういう意味を持ってい るのか理解できなくなっている。 ◆共同体を回復する動きとしてのネットワーク なんともうんざりするような状況であるのだが、しかし、一方に面白い動 きや可能性も見えてきているので、そのことにも若干触れておくことにしよ う。 日々つのる個人の無力と無意味に抗する新しい動きとして私が注目してい るのが、さまざまな形のネットワークだ。 最近、高校生のポケベルや携帯電話によるネットワーク文化や個人情報誌 の隆盛などといった現象が目立ってきた。できれば、これらも取り上げてみ たいのだが、いかんせんその内容にうといので、このエッセイでは自分も知 っているパソコン通信とインターネット(ホームページ)を取り上げるとし よう。 ◆パソコン通信・発言者の幻想 自分の発言に他の人から反応があることが、多くの人がパソコン通信にハ マる理由のひとつだろう。特定テーマのもとに数人から数十人、時には数百 人が集まっているボード(PC-VAN でのフォーラム、NIFTY-Serve での会議室) がある。そこで発言をすると、歓迎メッセージがあり、誰かが返事を返して きて、相手をしてくれる。自分の発言も注目されていて、尊重もしてくれる のだ、と実感できる。 近所の人間と話しもしない人が、パソコン通信上で、まったくどこに住ん でいるのかわからない相手と熱心に会話をしている。奇妙と言えば、奇妙な のだが、自分の発言が他人に影響を与えるのを見るのは楽しいものだ。 しかも、パソコン通信上のメッセージのやり取りは発言をしている当人た ちだけが見ているのではない。数百人、数千人が見ていることもある。そう した場所で、発言できること、他の人から反応があることが嬉しいのは否定 しがたい人情だろう。 日常生活においてはなにほどの者でもない取るに足らない個人が、多くの 聴衆に向けて自由に発言できる。その内容の価値は別として、形式だけでも そのようなことができる。彼がパソコン通信で発言をすることで、自身の重 要性を(幻想かもしれないが)若干でも感じ、意識の高揚を感じるのも当然 だ。 多くの人の前で発言できるメディアは今までもあったが、今までのメディ アは選ばれた人だけにしか発言の機会がまわってこなかった。つまり、今ま では誰でも自由に発言できるメディアはなかった。パソコン通信は通信であ りながら、放送、出版に近い特性を持っていることが重要な意味を持ってい るのだ。 新聞やテレビ、雑誌では、いわゆる識者や一部の文化人だけが発言を求め られる。一方、一般人(というのも変だが)の自分は声を持たぬ民として生 きている。自分を知的であると感じる人ほど、こうした状況は不満であるだ ろう。パソコン通信ならば、自分もいっぱしの社会評論家になることができ るし、自分の趣味の分野での物知り、情報通になって、多くの人に向けた発 言をすることができる。なんとも自尊心を満たすありがたいメディアではな いだろうか。 たしかに、同人誌に毛が生えた程度の人数が見ているボードで、頑張って 発言したところで、何ほどの力を持ち得るのか、と問えばかなり疑わしい。 しかし、規模は小さく内容がつまらなかろうが、それを読んでいる人が確か にいるのだし、若干ならが反応を返してくれる人もいる。それだけでも、日 常における個人の無力と無意味に抗する力はあるのではないか。 また、小人数であれ、自分と価値観を共有できたり、自分と同じ趣味の人 と交流史、相互に尊重し会える関係ができるだけでも、十分な意味はあるは ずだ。 自分の書いたメッセージの中に自分のアイデンティティを構築できる、と いうのもパソコン通信の重要な点だろう。パソコン通信ではある人間を意識 的に演技できる。ネットワーク上の人格は、自らが主体的に選び取り、提示 したものだ。実生活の社会関係の中でいやおうなく背負わせれていくアイデ ンティティとは違う。「幻想の私」にすぎないと言えば、そのとおりだが、 すくなくとも、自分で選び取ったという意味性だけは保持できる。同時に、 いつでも捨てられるという意味での脆弱さもまた顕著なのだが。 ◆インターネット・世界に向けて発信するという幻想 インターネット、とくにホームページの話題がたいへんなブームになりつ つあるのはご存知の通りだ。 ホームページの大きな特徴は、誰でも自分から世界に向けて情報を発信で きることにある。パソコン通信との違いを言えば、自分一人でホームページ を構築できること、そのホームページを見ることができる相手がとてつもな く多いこと、だろうか。つまりパソコン通信に比べて、より個人の重要性、 影響力を高める可能性のあるメディアであると言えそうだ。 もっとも、世界に向けて発信と言っても、実際に数千万人が見に来るわけ ではない。世界にいる多くの人に目に触れる可能性がある、ということであ り、実際に見にくる人数はかなり少ない。 しかし、それでも世界につながっているような気がするし、まあ、何と言 うか、流行の最先端にいて、私の「ホームページを持つ」というマスコミをに ぎわす新しい魅力的な記号を自分もまた身につけることができるという満足 感があるのだ。 ホームページを持ち、名刺にそのアドレスを刷り込む人がいるのは、やは り誇らしい思いのあらわれであるだろう。 ホームページにどれほどのアクセスがあったのか、カウントすること。ホ ームページを見た人からメールをもらうことがホームページ作成者の楽しみ になりつつある。メディアを持った個人が読者からの反応を得ることで自身 の存在意義を多少なりとも実感している図がそこにはある。 今後は、パソコン通信やインターネット上で政治的な活動をするようにな るかもしれない。あるいは直接民主主義の可能性も開けるかもしれない。ネ ットワークデモクラシーというやつだ。政治の面での個人の重要性の回復 (おそらく幻想の面が強いのだろうが)も次には控えている。 ◆脆弱なネットワーク文化 新しく現れつつあるネットワークはどれも脆弱だ。おそらくその理由は、 住んでいる土地によって結びついたネットワークではないからだろう。バー チャルネットワークこそが最近のネットワークの特性である。いつも一緒に いる相手とのネットワークではなく、電気的・電子的な通信手段に頼った仮 想的なネットワークだ。 バーチャルネットワークの特徴は、継続性の無さ、紐帯の弱さ、目的意識 の希薄さにある。つまり、一時的で表面的なつながりである。さらに、関わ りの深さではなく関係する相手の量を誇る傾向があることも目立つようだ。 ネットワークが個人の無力と無意味さをそれなりに救ってくれそうな気配 と同時にすべて幻想に終わりそうな気配もある。今後どのような展開がある にせよ、意味あるネットワークを作っていくには、そこに参加する個人がメ ディアの可能性をうまく使いこなしていくことが求められることは間違いな いだろう。これからのネットワーク文化がどうなっていくのか、なかなか興 味深い。
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