くるるるるん くるるるるん
巻き付いて
ひゅるるるるん ひゅるるるるん
伸びていく
しゅるるるるん しゅるるるるん
広がったら
朝を待とう 夜明けまで
東の空が白みはじめたら顔を上げよう 一斉に
朝は一番綺麗になれる朝の顔が一番素敵
それが 私たちの自慢だから
夏の元気なお日様に朝のすがすがしいお日様に
私たちの朝の顔を見せて上げよう
くるるるるん くるるるるん巻き付いて
ひゅるるるるん ひゅるるるるん
伸びていく
しゅるるるるん しゅるるるるん
広がったら
朝を待とう 夜明けまで
「とうとう夏になったわね・・・。」ガラガラガラ・・・と音を立てて開いた、昔ながらの引き戸から外に出た彼女は、額に手をかざして空を見上げた。
多少雲はあるが、それもこの、晴天の青空を飾るアクセントになっている。
そんな、深い青と綿のような白が、見事なコントラストを見せる中、自らの季節を自覚した太陽が、胸を張って自己主張をしていた。
彼女は、強い日差しに細めた目をつむると、小さく伸びをして、今度は視線を下げる。
「・・・あら、今年は早いわね。」
少し感心したような口調でつぶやく彼女の視線の先には、ちょっとした垣根があり、その下には、なにやら芽が出ているのが見える。
「観察日記でもつけようかしら・・・。」
とぼけたようにつぶやくと、
・・・クスリ。
彼女は微笑んだ。
...with Ritsuko-san
"Beginning of Summer"
季節の始まりを定めること。季節の区切りをつけることは、結構難しい。
人はそれぞれ異なる感性を持っている。人それぞれに、違った季節の感じ方がある。
たとえば、ある人は、夕立や入道雲といった天候に、夏を感じるかもしれない。
またある人は、蝉や蜻蛉、朝顔や向日葵といった、動植物に夏を感じるかもしれない。
そしてまたある人は、ビールに枝豆、茄子に鰻といった、食べ物に夏を感じるかもしれない。
人の感じ方は、人の心の数だけ存在するのである。
だが、人とは群れをなして生きるもの。
人の思考が、すべて全く違っている、ということはありえない。
だからこそ、人の社会には色々な決まり事があるのである。
たとえばその中に、暦、というものがある。これは、月や太陽の動きなどをもとにして、年月日などを定めたもので、季節の区切りも一応定められている。
そして、『暦の上での春』とか、『暦の上での夏』とかいう言葉もあるが、これも実は怪しいところがある。
たとえば夏の場合、陰暦の四月節、陽暦での5月初め頃に『立夏』というのがある。
この日を境に、短歌や俳句の季語、及び手紙の時節の挨拶などは、すべて夏のものに変えるべきである、とされている。
だが、陰暦の五月中、陽暦での6月下旬には『夏至』というものがあり、欧米諸国では、これを "First Day of Summer" としている。
『暦の上での夏』といっても、これまた一つではないのだ。
このように、誰もが納得するような区切りを季節につけることは難しい。・・・というより不可能だろう。
だが、人をいくつかのグループに分けてみて、その一グループを納得させるような区切りを決めることは不可能では無いような気がする。
たとえば学生。
彼ら、あるいは彼女らには、『夏休み』というものが存在している。
これを、『夏のお休み』ととるか『夏はお休み』ととるかで少し意見の食い違いは起こるかもしれないが、
少なくとも、『夏休みの間は、夏である』という思いは誰にもあるだろう。
なれば、夏休みの始まりを、夏の始まりととってもおかしくはないだろう。
かなり大部分の学生達は、この意見に賛同するに違いない。
そしてここにも、その意見に賛同する学生がいた。
「夏・・・はじまったんだよな・・・。」
彼は、緊張した面持ちでつぶやく。
ここはオリンピックサイズの室内プール。
彼以外、人の気配は無い。
彼の緊張した視線は、その足元に注がれている。
そこには、ゆらゆらとゆれる水面が日の光を反射して輝いている。
その光の乱反射は、その室内を、壁、天井を問わず照らし、そして、ゆらゆらと、幻想的な光景を作り出していた。
そんな、幻想的な空間。
だが、その空間はすぐに壊されてしまうのである。
「・・・ナムサン!!」
彼は、ある意味悲壮感の感じられる声を上げると、自らの鼻をつまみ、両目を固く瞑って、大きくその身を翻した。
・・・どっばぁ〜ん!!!
大きな水柱を立てて水の中に入る・・・というか、潜る彼。
・・・。・・・。
・・・。
・・・?
だが、潜ったは良いが、なかなか浮かび上がってこない。長くも、短くも感じられた沈黙の世界。
きらめく水面に影が浮かび上がる。
そして、
「ぷっはぁ〜・・・!!!」
彼が浮かび上がってきた。
思いっきり固く目を瞑って、思いっきり大きく口を開けている。
バシャバシャと手足を闇雲に動かして水をかいているその姿は、イヌかきですらなかった。
つまり、
「・・・だれっ! ・・・たふけっ!・・・ぶぶぶ・・・誰か助けてぇっ!!!」
彼は溺れていた。
その時、
「シンジ君!!」
華麗なフォームで飛び込み、
「大丈夫!シンジ君!」
彼を救った女性がいた。
「・・・あ・・・あうう・・・ありがとうございますリツコさん・・・。」
情けなく礼を言う彼。
碇シンジ。カナヅチな彼の夏は、来ているようで遠かった。
人影の無いプールサイド。「げほげほげほ・・・。」
そこで、激しくせき込むシンジ。
そして、そんなシンジの背中をさするリツコさん。
このスポーツクラブのプールには、現在2人の姿しか見えなかった。
それもそのはず。
梅雨の明けた頃から、急激に気温を上げてきた、さんさんと照る太陽。
そんな陽気の日に人々がプールに行くとしたら、それはここのような屋内プールでなく、青空と太陽の臨む屋外プールだっただろう。
しかも、今は平日の真っ昼間だ。
人の姿が見えないのも当然だったろう。
しかし、それではなせ、この2人はここにいたのだろうか?
「はぁはぁはぁ・・・。」リツコさんに背中をさすられて、ようやく呼吸を落ち着けてきたシンジ。
「どうかしら? 落ち着いてきたかしら?」
「・・・は、はい。もう大丈夫です。ありがとうございました。」
背中をさすりながら心配げに顔を覗き込むリツコさんに、シンジはバツの悪そうな顔でうつむいた。
そんなシンジの表情を知ると、リツコさんは、背中をさすっていた手を止めて、今度はシンジに向き直る。
「だめよシンジ君、ちゃんと準備運動しなきゃ。こんな、監視員もいないプールで、ちゃんと用意して泳がないっていうのは自殺行為なのよ。」
リツコさんの表情は、厳しいものになっていた。
それだけに、真剣さも伝わる。
だからシンジは、
「はい、ご迷惑をかけてすみませんでした。」
そう、素直に謝った。
だが、
「ちがうでしょ。」
リツコさんは、少し不満らしい。
「私は別に迷惑だったとは思ってないの。ただ、これからあなたが同じ事を繰り返さないかを配しているのよ。」
リツコさんは、諭すような口調でそう言った。
シンジは、そんな彼女の言葉に、ハッ、としたように顔を上げると、
「は、はい! これから気をつけます!!」
ハッキリと言った。
しかし、
「でも・・・。」
次の瞬間、シンジはまたうつむいてしまう。
「・・・ん? どうしたの?」
そんなシンジに、何かを感じたのか、リツコさんは、少し優しげにシンジの言葉を促す。
「・・・です。」
「・・・ん?」
シンジが何かをつぶやくが、良く聞こえない。
「・・・ないんです。」
「・・・なに?」
もう一度言うが、やっぱり聞こえない。
「ボク泳げないんですっ!!」
「・・・!?」
3度目の正直・・・というか、今度はちゃんと聞こえた。
しかもとっても大きな声で。
だが、聞こえた言葉の内容は、
「・・・なんですって!? それなら尚のこと、もっとちゃんと考えて行動しなさい!!」
もっとリツコさんを怒らせるだけだった。
「・・・という訳なんです。」あれからしっかりリツコさんに怒られてしまったシンジ。
結局、こんなことをした訳を、すべて喋らされてしまった。
シンジの言ったことを要約すればこうなる。曰く、マヤさんと海に行く約束をした。
曰く、自分は泳げないのでそれまでに泳げるようになりたかった。
曰く、恥ずかしいので、誰もいないであろうここに練習に来た。
ということだ。
すっかりしゅんとしてしまったシンジ。そして、シンジの話にすっかり頭を抱えてしまったリツコさん。
2人以外人気の無いプールには、気まずい雰囲気が流れていた。
「・・・はぁ。しょうがないわね。」
深く一つため息を吐くリツコさん。
「私がなんとかしてあげるから、こんなことは一時中止しなさい。」
「・・・え?」
リツコさんの言葉を理解しているのかいないのか、シンジは、間の抜けた返事をしてしまう。
「・・・だから、私がシンジ君の泳ぎの練習をなんとかしてあげるって言ってるのよ。もちろん、みんなには内緒にしといてあげるから。」
「は、はい・・・。」
繰り返しリツコさんが言っても、やはりどこかボケっとしているようなシンジに、リツコさんは、眉をひそめながら顔を近づける。
「本当にわかったの?」
いきなり目の前に現れた彼女の顔に、驚いて、
「は、はいっ!」
シンジは、ピシっと背筋をのばした(プールサイドに座り込んだままではあったが)。
そんなシンジの様子を見ると、リツコさんは、少し表情を和らげて立ち上がった。
「じゃあ、2・3日のうちに用意しておくから。」
「はい、ありがとうございます。」
シンジは、彼女が実際に何をしてくれるのかは分からなかったが、とにかく自分も立ち上がって礼を言った。
リツコさんは、軽く微笑むと、シンジに背を向けて歩き出す。
そして、ふと足を止めると振り向いて、
「そうそう、早いうちに夏休みの宿題も終わらせておきなさい。マヤと海に行くんでしょ。」
それだけ言うと、今度こそ、プールから去っていった。
「・・・。」
後には、独りプールサイドに取り残されたシンジだけが残った。
「なんだかよくわからないけど・・・、」
シンジは独りつぶやく。
「・・・宿題、しよ。」
シンジが、夏休みの宿題に手をつけていなかったのも、また事実だったのだ。
夏休みの宿題のこなし方は人それぞれだ。最初にきちっと計画を立てて行う人。
出来るだけ先にこなそうとする人。
遊び呆けて押せ押せになってしまって、日記ですら最後にまとめて書くことになってしまうような人。
などなど・・・。
そんな中で、今回シンジは、『出来るだけ先にこなそうとする人』を目指す事にした。
理由は、リツコさんに言われたから、だけではない。
よくよく考えてみれば、妙なところで生真面目なマヤさんのこと、シンジの宿題がある程度片付かなければ海に行かない、とか言い出すかもしれない。
考えすぎかもしれなかったが、確率はゼロではないのだ。
そんなわけで、夏の勉強場所としては定番の、図書館へと独り向かうシンジの姿が見られた。
本当のところを言えば、独りだけで宿題をやるのは、なんとも心もとない。
誰かと一緒にやった方が、早いし確実だろうとも思う。
実際の話、シンジも学校の成績の確かな友達に連絡を取ろうと試みたのだったが、運悪く、誰も捕まらなかったのだ。
初夏の強い日差しの中、鞄を持って歩くシンジ。その歩みは、あまりキビキビしているとは言い難かった。
いくら目指すものがあると言っても、暑い中、独りで、宿題をしに、外に出かけるというのは、決して心弾む行動ではなかったのだから。
だが、そんなシンジの横に、
・・・キキキッ!
止まる車があった。その車は、ポンティアック社のファイアー・バード。
その上位車であるトランザムだった。
しかも、1980年代の、一番車体が大きかった頃のものだ。
車の先には、イルミネーションなんかもついている。
そして、その車の窓から顔を出したのは、
「リツコさん?」
なんとリツコさんだった。
「おはよう、シンジ君。」
シンジに微笑むリツコさん。
「あ、おはようございます・・・。」
シンジも慌てて挨拶を返した。
「夏休みだっていうのに早いわね。今日はどうしたの?」
「いえ、昨日リツコさんにも言われたように、早めに夏休みの宿題をやっちゃおうかなって思って、図書館にでも・・・。」
シンジは、自分の持っている鞄を見せるように持ち上げた。
するとリツコさんは、
「あらそうなの。それなら送ってあげましょうか?」
なんて言ってくれた。
しかし、平日の朝。
車でどこかに行く途中。
ということはイコール通勤途中、ということだろう。
正直なところ、送ってもらえればどんなに嬉しいことか。
だが、シンジは、そう思うと、
「そんな、悪いですよ。」
素直に好意を受ける訳にはいかないと思った。
そんなシンジの心とはうらはらに、リツコさんは、
「いいのよ、別に急いでるわけじゃないし。」
なんて言ってくる。
そんなことを言われると、
『もしかしたら自分の勘違いで、ホントに時間があるんじゃ・・・?』
とも思えてくる。
そうなると、
「じゃあ、お願いします。」
シンジは、素直に彼女の好意を受けようと頭を下げてしまっていた。
リツコさんの車の中に入ると、そこは、まるでクリスマスのイルミネーションのように華やかだった。とはいえ、過剰に電飾が飾られている、とか、そういった類のものではない。
そこにあったのは、シンジには理解できそうも無い、さまざまなスイッチ類のあるコンソールだった。
しかし、これだけでは、『まあ、リツコさんの車だから・・・。』ですんでしまっただろう。
シンジが驚いたのは、
「じゃ、目的地は市立中央図書館ね。」
とリツコさんが言って、
ブーン・・・。
と車が動きだしても、
「リツコさんハンドル!ハンドルっっっ!!!」
彼女がハンドルも握らずにシンジの方を向いている事だった。
だが、慌てているシンジとはうらはらに、リツコさんは落ち着いている。
「大丈夫よ。少なくともこの街の中なら、ナビゲーションシステムとトラフィックコントロールがきいてるから、自動的に目的地に連れてってくれるわ。」
彼女が何かボタンを押すと、前のガラスにカーナビのマップのようなものが浮かび上がる。
ただ、普通のカーナビのマップよりも詳細で映っている範囲も広い。
そしてなにより、自分以外の車まで一つ一つ映されている。
「・・・すごい。」
シンジは素直につぶやいた。
「すべてが一つのコンピュータで集中管理されているこの街だからこそ出来るんだけどね。」
真っ黒なこの車は、街の幹線道路を問題無く走っていった。
「そうそう、例の件だけど・・・。」2人の話が途切れて、シンジが、窓の外を流れる町並みを、なんとはなしに眺めていると、リツコさんが口を開いた。
「例の件・・・?」
シンジが振り向く。
「泳ぎの練習の件よ。」
「は、はい。」
シンジが振り向くと、リツコさんは既にこちらを見ていた。
「多分、明日の夜くらいには用意が出来ると思うわ。」
「夜ですか?」
シンジが、少し確認するようにつぶやく。
「そうよ。誰もいない方がいいんでしょ。」
するとリツコさんも、確認するようにそう言った。
「はい、もちろんそうなんですが・・・。」
それは確かだったので、うなずくシンジ。
しかし、リツコさんの、
「夜なら貸し切りに出来たから。」
との言葉を聞くと、少し慌てた。
「そんな事までしてもらっちゃ・・・。」
さすがにそこまでしてもらっては、と思うシンジ。
「いいのよ。マヤも楽しみにしてるみたいだしね。」
だが、リツコさんの、なんでもない、といった仕草に、
「ありがとうございます。」
素直に礼だけを述べることにした。
しばし微笑み合う2人。
しばらくして、
「夏休みの宿題も、わからないところとかあったら教えて上げるわ。」
リツコさんはそんなことも言ってくれた。
そして、一拍おいて、
「・・・理数系だけだけどね。」
と肩を竦めながら微笑むリツコさん。
シンジは、そんなリツコさんのお茶目とも言えなくない仕草に、少し驚きを感じた。
お茶目なリツコさんというのは、シンジの記憶の中に無かったからだ。
そんあところもあるんだなぁ、と心の中で思いながら、シンジはとりあえず礼を言った。
「ありがとうございます。でも、そっちは自由研究があるくらいなんで、多分大丈夫だと思います。」
「自由研究?」
シンジの言葉を聞きかえすリツコさん。
その顔には、ちょっとした好奇心が見え隠れしている。
「物理化学の分野に入っていればなんでもいいって・・・。」
シンジがリツコさんの疑問に答えようとそう言うと、
「・・・フフフ。まるで小学生の『理科』の自由研究みたいね。」
リツコさんは、本当に微笑ましい、といったカンジで言った。
シンジもシンジで、リツコさんの言葉に何か感じ取ったのか、
「ええ、なんだか『朝顔の観察日記』でもつけたくなっちゃう気分です。」
そんなことと言っていた。
「クスクス・・・、そうね、そんなカンジね。」
リツコさんは、更に笑みを上げると、
「そういえば、この前実家に帰ってきたんだけど、家の垣根のところに朝顔の芽が出てきてて、ちょっとそんなこと思ったりしたのよね・・・。」
と、どこか思うところがあるように首を傾げた。
「あはは・・・。宿題の自由研究とは別に、ホントに朝顔の観察日記つけちゃおうかな?」
シンジも、リツコさんと同じように更に笑みを上げる。
すると、
「なんなら、実家のを一つ上げるわよ。」
リツコさんが一言そんなことを言った。
「・・・。」
「・・・。」
訪れた沈黙。
2人とも、先ほどまでと同じ表情、同じ姿勢で互いに見合っている。
低く響く車の駆動音が、やけに大きく聞こえた。
そして、
「「プ・・・はははは・・・。」」
2人は、大きな口を開けて笑い声を上げた。
笑顔の2人を乗せたまま、その黒い車は図書館へと走っていった。
「それじゃ、明日の夜、同じ所で待ってるから。」
「はい、よろしくお願いします。」
そう言って、図書館の前で別れた次の日の夜。
シンジは、例の屋内プールを訪れていた。
だが、その場所は明かりが点っていなく、暗闇に包まれていた。
明かりを点けようにも、そのスイッチすら見えない状態だ。
そんな中、「リツコ・・・さん・・・?」
シンジは、不安げにつぶやいた。
すると、
「ここよ。」
いきなりシンジのすぐ後ろから声がした。
「うわっ!?」
当然びっくりして飛び上がるシンジ。
「そんなに驚くことはないでしょ。」
そこには、少し不満気にしているリツコさんがいた。
誰だって、いきなり自分に驚かれればあまりいい気はしないだろう。
「いえ・・・暗かったもので・・・。」
シンジは、そんなリツコさんの表情にも気づかず。
というか、暗いので表情もなにも見えたものではなかったのだが。
とにかくそれだけつぶやいた。
するとリツコさんは、
「ん? 明かり?」
なにかポケットをゴソゴソやると、
・・・ピッ!
小さな電子音がして一斉に明かりが点った。
「・・・!?」
いきなり点った明かりに一瞬目が眩む。
目が馴れてくると、白衣を着て手に何かスイッチを持っているリツコさんの姿が見えてきた。
手に持っているのは、きっとこのプールの明かりのスイッチだろう。
「一体どうして明かりを消してなんて・・・」
つぶやきながら辺りに目をやるシンジ。
「へ・・・?」
そのシンジの目が一点で止まった。
「どうかしら。」
シンジの隣に立って、なにやら自身ありげに聞いてくるリツコさん。
だがシンジは、あまりのことに言葉も無い。
「・・・これって。」
なんとか口を開いたシンジだったが、出てきたのはそんな一言だけだった。
しかも、彼女が、
「そう、LCLよ。」
などと、自信ありげに即答するものだから、シンジはまた言葉を失った。
「・・・。」
そう、シンジの眼前に広がるのは、黄色がかったLCLのたゆたうプールであったのだ。
何も言えなくなってしまっても仕方ないことだろう。
だがしかし、リツコさんは、そんなシンジにもお構い無しで話しはじめるのだった。
「LCLなら呼吸の心配も無いし、普通の水よりも浮力があるはずだから、ちゃんと身体も浮くはずよ。」
「・・・。」
「大抵の場合、泳げない人の泳げない理由は、自分が浮かないと思い込んでいる事と、息継ぎの仕方がわからないからなの。だから、初めのうちはこのLCLで呼吸と浮力の心配をなくして練習して、それなりにサマになってきてから呼吸の仕方とかを覚えればいいわ。」
「・・・。」
「どう?なかなかのアイデアだと思わない?」
「・・・。」
「・・・どうしたの?」
「・・・は、はい。」
「そうよね、いいアイデアよね。」
「・・・は、はい。」
「じゃ、早速着替えて来て。」
「・・・は、はい。」
なにやら、
----るるるるる〜〜〜〜・・・。
とでも擬音がつきそうな足取りで、更衣室へと足を向けるシンジだった。
トボトボ・・・。といった擬音をまといながらプールサイドに戻ってきたシンジ。
水着に着替えた姿は、一応準備万端だった。
ちなみにこの時シンジは、この間マヤさんと買った水着を着ていない。
シンジが身につけているのは、学校指定の水着だった。
やはり、あの水着は、マヤさんと海に行くときまで取っておこう、と思ったからだ。
だが、
「ごめんねマヤさん、もしかしたら一緒に行けないかも・・・海。」
現状は、シンジにそんな言葉を呟かせるようなものだった。
だが、事の仕掛け人たるリツコさんは、意気揚々としたもので、
「さ、シンジ君。練習頑張って!」
珍しく声が弾んでいたりもする。
シンジは、諦めの境地で、フラフラとした足取りで、プールに近づき。
「ナムサン!」
小さくつぶやくと、プールに飛び込んだ。
さて、そんな気持ちでプールに飛び込んだシンジだったが、すぐにその考えを改めることになる。
一度沈んだシンジが、スーっと浮かび上がってくる。
ガチガチに固くなっていた身体が一瞬にして和らぎ、驚きの表情を浮かべるシンジ。
「あっ・・・浮きました!!」
今までまともに水に浮いたことすらなかったシンジは驚嘆の声を上げた。
更に、
「目も開けられる!!」
思い切って、頭まで水に浸かってみると、顔を上げてそう言った。
「すごい! すごいですよリツコさん!!」
驚きと嬉しさの混じった声を上げるシンジ。
リツコさんは、そんなシンジを見ると、さも当然といったように微笑みうなずいた。
シンジは、一瞬でもリツコさんを疑ってしまったことを恥じた。
そして、そんな彼女のためにも、早く泳げるようになろうと頑張るのだった。
そして、その夜の練習を終える頃には、少なくとも溺れる心配はなさそうになっていた。もちろん、泳げる訳ではなく浮いていられるだけの話だが。
「シンジ君、お疲れ様。」
プールから上がってきたシンジにタオルを手渡すリツコさん。
「あ、ありがとうございます。」
恐縮して受け取るシンジ。
「本当にありがとうございました。なんだか、これならなんとかなりそうな気がしてきました。」
手早く頭だけ拭くと、シンジは頭を下げた。
「いいのよそんなこと。喜んでくれたみたいでうれしいわ。」
「はは。」
「あとね、はい、これ。」
笑みを浮かべながら何かを差し出すリツコさん。
「これってもしかして・・・?」
彼女の差し出したものを見て顔を上げるシンジ。
「そう、朝顔よ。」
彼女の手にあったものはシンジの考えていたもの、そのものだった。
植木鉢にちょこんと双葉が見える。
「おばあちゃんのところから、一株だけ分けてもらってきたの。」
昨日の他愛も無い会話を、リツコさんが覚えていてくれたことが嬉しかった。
「少なくとも、この朝顔の花が咲くまでには泳げるように頑張りなさい。」
「はい!ありがとうございます。」
シンジはその植木鉢を受け取りながら、リツコさんのためにも、絶対に泳げるようになろうと心に誓ったのだった。
その夜から、シンジの特訓は始まった。次の夜も、次の夜も、そのまた次の夜も。
シンジの泳ぎの練習は続いた。
全く泳げなかったシンジのこと、それは簡単な事ではなかった。
だが、シンジは、それを辛いことだとか、苦しいことだとか思ったことはなかった。
なぜならシンジには目的があった。
それに、そんなシンジを見守ってくれている人も・・・。
「ふふ・・・。この調子なら、もうそろそろLCLじゃなくって、普通の水でも大丈夫そうね。」
毎晩見守ってくれている彼女がいてくれたから。
「頑張りなさい、まだ夏はこれからなんだから。」
シンジの夏は、幸先の良いスタートを切った。
ゆらゆらと揺らめく水面。
育ちはじめた朝顔。
夏は、まだ始まったばかりだ。
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