雪酉霜子 銀座の柳が風に揺れていた。桜も、その風に舞っていた。そして、幾人 かの人が、その中をせわしなく動いていた。 景色を、愛でることもなく。 服装から、何人かは警官だとわかる。そして、その人達に指示をして いるところから、私服の人達も警察の人間なのだろう、と思えた。 そこに居るすべての人の注意は、そこにころがっているひとつの物に 集中していた。そしてそれは、頭のない人の死体だった。 頭がない死体、といっても顔はあるのだ。ないのは、本当に頭だけ。 頭、というか脳だけが、失われていたのだった。 でも、顔が無事だといっても、このあまりにも無残な頭のえぐられか たを見れば、首から上がなくなっていたほうがましだ、と思えたろう。 その光景は、あまりにも惨いものだった。 この国の元号が、昭和と変わってまだ数年が経ったばかりだ。しかし、 大正の終わりを襲った、あの関東大震災で受けた壊滅的な打撃から、こ こ東京は既に立ち直っていて、大日本帝国の帝都たる装いを見せていた。 元号にふさわしく、世の中は、明るく平和に治まっていた。 そして、この帝都を臨む建物の一角にある部屋で新聞を読んでいた者 も、平和な朝を堪能していた。この朝には無粋な、しかし予想されてい た来客を迎えるまでは。 その客は、勝手知ったる他人の家、といったかんじでズカズカと、し かし表情は情けなく入ってきた。 「和貴君、和貴君…」 それがその客の第一声だった。 情けない声で呼ぶこの男は、中年で、ヒゲをはやしており、トレンチ コートに帽子をかぶっていた。そして彼は、この帝都で警部をやってい た。 「警部、お待ちしていましたよ」 新聞を読んでいた若者は、入ってきた警部に呼ばれると、新聞から顔 をあげイスを差し出した。この若者の名は、河野和貴といって、この帝 都の一角で、探偵業を営んでいた。 「待っていた、て・・・わしゃ、君に連絡した覚えはないんだが・・・?」 差し出されたイスに座る警部に、和貴は読んでいた新聞を見せる。新 聞の一面には、『脳強盗殺人事件』と銘打った記事が載っていた。 「それを読んで、きっと来るんじゃないかと思ってたんですよ」 「そうか、それなら話は早い、どうかね、一つ手を貸してくれんか ね?」 「警部の頼みは断れませんよ。どうです、そこらでお昼でも一緒に? 詳しい話を、聞かせてください。」 「そうだな、ワシもまだ食べてなかったし、ちょうどいいか・・・」 警部が少し肥えた腹に手をあてる。 「じゃ、決まりですね。」 和貴は、帽子と薄いコートを手にとり、警部とともに部屋を後にした。 彼女は混乱していた。 ポイントは二つ、世界と男だった。 そして、そのうちの一つ、男を、彼女は今見つめていた。 ここは、街の一角にある公園。桜の木の下のベンチに座って本を読ん でいるその男を、じっと見ていた彼女は、意を決したかのようにそのベ ンチの方へと歩みだした。 その男のすぐ側まで近づくと、彼女の影に男の本が隠れた。男は本か ら目も離さず、本を少し影からずらす。しかし、その本をずらした所に 影もずれてきた。 ここにきて、初めて男は顔をあげた。取り立てて良い顔というわけで はないが、十人並みよりは少し上だろうか。でも今は、少し不信そうな 表情をしている。 彼女は努めてにこやかに微笑んだ。 「あ、あの…、清隆さんですか…?」 すこし緊張した感じの口調で、彼女が口を開く。 「は…、はあ。たしかに私は清隆ですけれども…。」 やはり不信げな表情は崩さずに、彼は答えた。 彼女は、やっぱり、といった顔を一瞬見せると、すぐ又笑顔をつくり、 グイッと顔を近づけてきた。 「あの…。わたしの顔、見覚えありませんか…?」 無理に作られていると思われる笑顔の裏に、懇願の気持ちが見え隠れ しているような、そんな言い方だった。 いきなり彼女の顔を間近に見て、綺麗な顔だ、なんて思って、ガラに もなくドギマギしていた彼は、そんな彼女の気持ちには気付かない。で も、他の気持ちが動いて、彼は思わずうなずいていた。 「あ…、ああ、もちろん覚えているさ。久しぶりだねえ、元気だった …?」 それを聞くと、彼女の顔はパッと明るくなり、両手を祈るかのように 握りあわせると、彼の隣に座った。にこやかに彼を見つめる彼女は、整 った顔立ちをしていて、長い髪は後ろでゆったりとした一束の三つ編み に編みこまれていた。 彼もつられて微笑みかえしながら彼女を見つめていた。しかし、その 時は彼女の一言で崩れ去った。 「で、わたしの名前、なんでしたっけ?」 「……。」 微笑みを絶やさずたずねる彼女。だが、彼は答えられなかった。あた りまえだ。なぜなら彼は、彼女の事なんか本当は何も知らなかったのだ から。 それでも、覚えている、と言ったてまえ、なにかそれらしいことを言 わなければ、と思い視線をさまよわせる。一瞬の間。でも、その一瞬の 間だけで彼女には十分だったようだ。 「…やっぱり、知らないんですね…。」 先程までとは打って変わった、深い悲しみと諦めに彩られた表情を彼 女はしていた。そんな彼女の様子に、彼は一言も言えなくなり、うつむ いてしまった。 「どうもおさわがせしました。」 そう言って、彼女が立ち去ろうとする。それを、彼は慌てて止めた。 「ちょ、ちょっと待って。うそついたのは悪かったけどさ、なにか事 情があるんだろう、話してみてよ、力になれるかもしれないし…。」 去ろうと立ち上がった彼女が彼の方を向く。彼女の瞳には、迷いが見 えた。 「ね…、話てごらんよ。」 そう、彼がもう一度言うと、彼女は小さくうなずいた。 「わたしは…、」 またベンチに腰をおろした彼女は、ぽつりぽつりと話しはじめた。 彼女の話しは、はっきり言って空想科学小説のように眉唾物だった。 彼女の名前は霜子。彼女の話しによると、彼女は数えきれないほどの違 う世界、次元というか、平行世界、パラレルワールドを渡ってきた、そ して今でも、多分渡っているのだという。 すべての世界で、彼女を取り巻く環境は違っていた。といっても、時 代や場所が違うわけではない。時は現代、昭和の初め、そして所も、基 本的にはいつも決まって帝都東京だった。違っているのは、彼女の立場 と彼女を取り巻く人々、つまり彼女の仕事、友人、恋人、はたまた結婚 相手などが、すべての世界で違っていたのだ。 しかし、ある時から、彼女はひとつの共通点を、すべての世界に見出 していた。それが彼、清隆だった。霜子と清隆の関係は、やはりすべて の世界で違っていた。時には恋人、時には夫婦、時には友人、時には仕 事上の仲間、そして時には見ず知らずの赤の他人。でも、どの世界にも 彼だけは存在し、彼女は必ず彼を見つけることができるのだった。 ある時から、彼女は必ず彼に声をかけるようにしていた。たとえその 世界で、彼が彼女の事を知らなくても、彼だけが、すべての世界を結ぶ 共通点だったのだから。ある世界で、彼は彼女の話しを信じ、またある 世界では、彼は彼女を狂人あつかいした。だが、それでも、彼女は彼に 声をかけ続けざるおえなかった。 夜にはカフェーに早変わりするらしい、街の喫茶店に二人、警部と和 貴は来ていた。お昼時のその喫茶店は、客も多く入っていて、二人のテ ーブルにはコーヒーとちょっとしたものが、置いてあった。そして警部 が、両腕を振りながら、熱っぽく事件のことを語っていた。 ここ帝都では、猟奇な事件が多発していた。その中の一つが、『脳強 盗殺人事件』だった。この事件は、人を殺してその脳を奪い去るという、 なんとも気色の悪いものであった。いままで五人ほどの被害者が出たが、 彼らには、何の共通点も見つからなかった。子供を含めた老若男女すべ てに、被害は及んでいたのだった。 「・・・いやあ、もうすごいのなんのって。昨日のなんて、まず最初 に刺されたんであろう胸から血が吹き出ていて。そして、ちょうど眉毛 のところから砕かれた頭は、脳味噌がえぐり取られていて、飛び散った 血が辺り一面に、溶けた蝋のようにこびりついていた。両の目玉は、多 分頭かち割られたときなんだろうなあ、顔から飛び出てて、それがまだ、 なにかの筋で目玉のあった穴につながってるんだ。死んだ魚のような目、 ていうのはああいうのをいうんだろうねえ・・・。」 警部がここまで語ると、和貴は、最後のコーヒーを飲み干した。 すると、 「あの・・・」 と、店の者が二人のところにやってきた。 「・・・申し訳ありませんが、そういった話はどこか他所でお願いし たいのですが・・・」 周りを見てみると、あんなに沢山いた客の姿が見えない。みんな、大 声で話す警部の話に、食欲をなくして出ていってしまったのだ。 二人は、食事も終わっていたので、おとなしく店を出ることにした。 店から出た後、 「みんな、どうしたんでしょうねえ?」 「さあ・・・?」 ポツリ、という二人だった。 「君は…?」 背広姿の清隆が、目の前にいる女性にきいた。 「私は、今度ここの担当になりました、保健会社のもので、霜子と申 します。」 そう、霜子は答えた。 ここは、とある貿易会社の部署の一つ。そんなに大きくはない部屋の 中に、所狭しと机が並べられていて、人々が忙しそうに働いている。清 隆は、ここの部長だった。 この世界において、霜子と清隆の二人は初対面だ。もちろん、霜子は 清隆の事を知っていたが、この世界の清隆がどのような人であるのかま では知らない。 今はとにかく、無難に出会えたことを幸運と思わなきゃ、と霜子は思 っていた。 「そうか。君が新しい保険屋さんか。君みたいな綺麗な人が来てくれ れば、この部署も少しは華やかになるかな…。」 にこやかに言う清隆。 「そんな…。」 霜子は、すこし恥ずかしげにうつむいた。 「そうそう…、」 清隆が口を開く。 「実は今日、仕事が引けたら、ちょっとした飲み会があるんだ。どう かね、君も一緒に。君の歓迎会も兼ねて、ということで…。」 「よろしいんですか、わたしなんかがご一緒しても。」 「構わないさ、どうせ来るのはこの部署の人間がほとんどだし。いい 顔見せにもなるだろう。」 「それでしたら。」 と、霜子は参加することにした。清隆に近づく良い機会だとも思った からだ。霜子は、一度自分の会社に戻ってから、清隆の部署の飲み会に 合流することにした。 そこは街の中心街にある店だった。清隆の部の者達と、その他数人が、 店の大半を締めていた。もうほとんど貸切状態だ。 みんなが思い思いの場所に座る中、霜子は清隆のすぐ側に席をとって いた。 「あの、これって…、」 霜子が清隆に話し掛ける。 「…今晩のこれって、なにか理由があるんですか。」 「ああ、一応これは、送別会ということになっているんだ。」 なにかお酒の入ったグラスを持ちながら、清隆が笑顔で答える。 「送別会…。じゃあ、誰かこの部の人が移動になったんですか。せっ かく私、ここの部の担当になったばかりなのに、ちょっと残念ですね。」 霜子も微笑んでそう言った。 「そう言ってもらえると嬉しいな。」 「え…。」 霜子は、グラスに伸ばそうとしていた手を止めて、清隆を見る。やは り、微笑んだ表情のままの清隆は、 「俺なんだ、移動になったのは。」 と言うと、自分のグラスの中身を一口口に含む。 「一応、栄転ってやつでね。帰って来たら、昇進は決まっているんだ が。でも、今更本社以外で仕事をすることになるとは、正直思ってなか ったよ。」 「……。」 霜子に言葉はない。せっかくこの世界でも出会えて、しかも結構良い 出会いかただった、と思っていた矢先に、実は彼は遠くに行ってしまう 身だ、と聞かされたのだ。寝耳に水、とはこういうことを言うのかもし れない。霜子は、なにも言わずに自分のグラスをあおった。 それからの霜子は、ただただ飲みつづけていた。自分から誰かに話し 掛けることなく、そして、話し掛けられても、言葉少なく応答をするだ けだった。しかし、そんな霜子とは関係なく、宴はその夜最高のもり上 りを見せていた。様々な酒がテーブルの上をめぐり、霜子はそのすべて を口にしていた。 霜子は、別段酒が好き、というわけではなかった。だが、酒の力によ って辛いことから逃げ出す術を、彼女は知っていた。辛い現実、という 名のものから。 「辛い現実…。でも、なにが現実なのかすら、わたしにはわからない んだわ…。」 清隆が、この霜子の呟きを耳にした頃には、彼女は完全に出来上がっ ていた。うつろな目で、グラスを持つ手もおぼつかない。 「もうその辺にしといた方が良いんじゃないか。」 そう言いながら、霜子の手からグラスを受け取る清隆。 「さあ、これ持って。」 清隆は、水の入ったグラスを霜子に渡す。既に思考力を失っている霜 子は、おとなしくその言葉にしたがった。ほのかに香りのたつ、冷たく 冷やされたその水を一気に飲むと、不思議と口の中がさっぱりとした。 別に、酔いが醒めたわけではなかったが、気分の悪さは薄らいだ。心地 好い酔い心地、とでもいった感じの状態だろうか。 「……。」 自分をそんな状態にしてくれた、まるで魔法の薬のような、その水の 入っていたグラスを、霜子はぼんやりと眺めていた。 「気分はどうかな。」 清隆は、霜子の顔を覗きこむ。 「こんなこと、言えた義理じゃないのかもしれないけど、そんなにな るまで呑むのは、あんまり感心できないな。女性として…、」 霜子は、清隆の顔を見る。その目は、すこしばかり睨んでいるように も見えた。 「…っと、大きなお世話だったかな。」 少しおどけてみせる清隆。しかし霜子は、清隆のそんな態度を気にも 止めず、手に持ったグラスを差出す。 「これ、おいしい。不思議な感じ。もっと欲しいわ。」 あまり感情の感じられない声で言う霜子に、清隆は笑顔で答えた。 「気に入ったかい。ここの店の水は、俺も気に入ってるんだ。桜の花 のエキスが入っているんだそうだよ。」 そう言って、新しいグラスを差し出す清隆。 「桜の香りだったのね…。」 霜子は、そのグラスを飲み干した。 探偵・河野和貴は、都下にある、ある私立大学に来ていた。この大学 には、有名な脳髄研究所が付属していて、高名な景山教授が所長を勤め ていた。 大学の敷地内の一角に建つその白い建物は、いかにも研究所といった 雰囲気をかもしだしていた。 和貴が来訪を受付に告げると、すぐに奥へと案内された。一介の探偵 でしかない和貴が、こうもあっさりと所長に面会がかなったのは、警部 が事前に手をまわしておいてくれたからだ。心の中で警部に感謝しなが ら、研究所の中を進む和貴は、やがて客間へと通された。 そこは、客間と呼ぶにはあまりに無味乾燥とした部屋だった。無造作 に置かれた、飾りっ気のないソファーとテーブルだけが、この部屋が客 間であると主張していた。 「こちらで少々お待ちください。所長はすぐに参りますので。」 そう言って扉の向こうに消える案内人を見送ると、和貴は、ソファー の一つに座り手持ちぶさたげに辺りを見回す。壁も床も真っ白のこの部 屋は、あまり居心地の良いものではなかった。 「まあ、こんな所の客間があんまり立派でもおかしいけどな…。」 そう呟くと、和貴はただ一つある窓の景色を眺めていた。 それからどれぐらいの時が経っただろう。多分たいした時間ではなか ったであろうが、ここ脳髄研究所の所長・景山教授が部屋に入って来た。 「いや、お待たせして申し訳ありません。」 そう言い訳をしながら入って来た景山教授は、ペコリと頭を下げ、 「所長の景山です。」 と、右手を差し伸べた。和貴も、立ち上がってお辞儀をしながらその 握手を受けた。握手を受けながら、和貴は、でかい手だ、と思っていた。 しかし、大きいのは手だけではない。この教授、身長もたいしたものだ った。 「どうも、河野和貴と申します。この度は、お忙しい所、お時間をさ いていただきまして、まことにありがとうございます。」 「いえいえ。まあ、立ち話もなんですから…。」 景山教授が、ソファーの方に手を差し伸べる。二人が座ると、先に口 を開いたのは景山教授の方だった。 「たしか、今話題の『脳強盗殺人事件』についてお調べなのだとか。 で、いったい私に、なにをおききになりたいのでしょうか…?」 「は、はあ。それがですねえ、この事件、警察の方でもにっちもさっ ちもいかない状態らしくてですねえ。なんにしても、犯行の動機がさっ ぱりでしてね。そこで、脳の権威である教授ならば、なにか脳を集める 目的に心当たりでもないかと、こう思ったわけです。」 「脳を集める目的、ですか…。」 教授は、腕を組んで考え込む。 「私のような学者には、脳を研究することぐらいしか思い浮かびませ んが…。」 顎に手をあて、首を傾げながら教授は言った。 「実験材料というわけですか?」 「はい。しかし、私が新聞で読んだところでは、事件は道端などで起 こっているのでしょう…。」 「はい。」 「実験材料として脳を採取するためには、やはりそれなりの設備の整 ったところでないと。脳はデリケートなものですからね。清潔でいて、 さらにすぐに実験に移れるような場所でないと。」 「そうですか…。」 たいした成果は上げられそうにないな、ここでは…、と思い、頭を垂 れてしまう和貴。 「だいたい、今現在、私の知る限りでは、人間の脳の研究なんてでき はしないんです。猿の脳のことすら解明されていないのですから。はず かしながら、今の我々脳研究者は、鳥やネズミなんかをちまちまと研究 するのが精一杯なんです。」 少し落ち込みぎみの和貴を気遣ってか、教授は明るくハハハと笑って みせた。和貴も微笑んでみせたが、それは礼儀の域を出ていなかった。 「お役にたてませんで、申し訳ありません。」 「い、いいえ、そんな。こちらこそ、お忙しい所を申し訳ありません でした。」 そう言って、立ち上がろうとする和貴。教授は、そんな和貴を、手で 制した。 「どうですか、せっかくここまでいらっしゃったんですし、我々の研 究の一端などをご覧になっていきませんか。」 「はあ。」 たいして気乗りのせぬまま、和貴は教授の申し出を受けた。 和貴が教授に連れられて来たのは、いかにも研究室といった感じの部 屋だった。色々な研究器材が、所狭しと置いてある。 「これを見てください。」 教授が持って来たのは、透明なガラスの箱だった。土台のかなり厚い それから、水槽のような印象を和貴は受けた。なんらかの液体が張られ ているらしいその箱の真ん中に、小さな、赤とピンクと黒が混ざったよ うな色をした塊がある。そして、真っ黒な土台から、数本のコードが、 その塊に伸びていた。見た感じ、なんらかの電極にも見えた。 「ネズミの脳髄ですよ。」 教授は言う。 「ゲッ。」 と、もう少しで言いそうになったのを、寸前で押し込めて、 「ホルマリン漬け、というやつですか。」 と、かろうじて言った。 しかし、教授の言った言葉は、もっと衝撃的だった。 「いいえ、それはホルマリン漬けではありません。生きているんです、 そのネズミの脳髄は。」 「……!」 教授の言葉に目を見張った和貴は、言葉を失ってその透明な箱の中の 小さな塊を見つめた。生きている、と告げられると、なんとも奇妙な気 分にさせられたが、和貴には、その塊に生命を感じることはできなかっ た。 そう思っていると、いきなり電話のベルの音がした。ジリリリリ……、 とけたたましく鳴る、電話を求めて辺りを見回す和貴。しかし、教授は 動かない。 「あの、電話じゃないんですか?] 不信に思った和貴が、そうきいてみる。 「いいえ、これは電話の音じゃないんです。」 そう言うと、教授は、あのガラスの箱の土台の部分にあるボタンを押 した。すると、今まで鳴っていた電話のような音は、聞こえなくなった。 「なんなんですか、一体…?」 和貴は、素朴な疑問を口にした。 「今の電話みたいな音はですね…、」 よくぞ聞いてくれました、とばかりに教授が話しだす。 「あの音は、このネズミの脳が、空腹を感じている、という合図なん ですよ。」 「この脳が、空腹…。」 「そう、つまりお腹が減った、ということですね。そして、私がさっ き押したボタンは、物を食べた、という信号をその脳に送るためのもの です。ですから、この脳は満腹感を感じて、ベルが止まったんです。」 「満腹…、なんですか、この脳が…。」 「そう、今このネズミの脳は、お腹一杯食べたと思って、満足してい るはずですよ。」 和貴は、わけの分からない、なんとも奇妙な感覚に襲われていた。 「だいたい、脳髄は、神経から送られてくる電気的な信号によって、 物事を感じ、考えることができるんです…。」 教授は、得意げに脳髄に関する講釈を展開していたが、和貴は、奇妙 な感覚に囚われたまま、その話しの半分も聞いてはいなかった。 結局、和貴はなんの手掛かりも得られぬまま、この『脳髄研究所』を 後にした。ここに来て得たものは、頭痛と、親切にも教授が貸してくれ た、あのネズミの脳の実験だけだった。 頭痛とガラスケースの重みで、少しフラついていた和貴は、途中で赤 い風船を持った小さな女の子にぶつかる、などというハプニングに見舞 われながらも、事務所に帰りつくことができた。 青い海、輝く太陽、そして白い砂浜。ここは都心から電車で一時間ほ どの距離にある、大衆に人気の行楽地。夏真っ盛りの今、海水浴場で有 名なこの地は多くの人で賑わっていた。そして霜子も、女友達と一緒に 海水浴に来ていた。 (本当に、良い天気だわ。) そんなことを思いながら、霜子は、砂浜の一角でビーチパラソルの下、 腰をおろしていた。彼女は、水着を着てはいるものの、肩から大きいタ オルを掛けて、つばの広い帽子をかぶり、更にサングラスをかけている、 といういでたちだった。パラソルの下には、霜子しかいない。連れの女 の子達は、霜子をおいて海で遊んでいるのだ。霜子は、いわゆる荷物番、 といったところだろうか。 この世界での霜子は、ひとつの集団に必ず一人はいる、要領の悪い性 格の人間だった。だから、せっかく海水浴に来たというのに、こんな所 で、一人、荷物番なんかを引き受けてしまっていたのだ。 「……。」 水際で楽しそうに遊んでいる友達を視界の内に感じながら、一つため 息をつく。膝を抱えて座っている姿も、なんだか暗くなって来ているよ うだった。 (あーあ。まったく、なんでこんなに要領が悪いんだろう。この世界 の私って…。) 見回してみれば、周りじゅう楽しそうにしている人ばかりが見える。 「……。」 もう一つため息をつくと、頭を振り、 (あー、もう、目つぶっちゃえ…!) 半分ヤケになったかんじで目をつぶった。そして、またため息をつく。 (そういえば、昔誰かが、『ため息は、ついた数だけ幸せが逃げてい く』、て言ってたような気が…。) 「ため息なんかついてると、幸せが逃げていきますよ。」 (そうそう、たしかこんな感じの声で…。) 「幸せは、前向きに生きる人の味方で、後ろばかりを振り返る人には 見向きもしてくれません。」 (そんなことも言ってたような…って、えぇ…!?) 霜子は、目を開けてうつむいていた顔を上げる。そこには、男が立っ ていた。しかもそれは、清隆だった。 「だから、前向きに生きる第一歩として、僕と一緒に遊びませんか。」 そう言って微笑む清隆。霜子は、といえば、ただただ驚いているばか りだった。でも、濃いサングラスのため、清隆には、霜子の表情は良く わかってはいないはずだ。 「あなたは…。」 気を取り直して霜子が言う。 「私の名は清隆。本日は、あなたのご相手をさせていただきたく参上 したものでございます。」 清隆は、おどけて会釈をしたみせた。 「それはそれは。しかし、私には連れがおりますのよ。」 霜子もノッて言ってみせた。 「え、なんだ、男連れだったのか…。」 ガッカリしたように頭を垂れ、頭を掻く清隆。そんな清隆を見て、ク スクス、と笑いだしてしまう霜子。 「……?」 なにがおかしいのか分からない清隆は、言葉なく首をひねる。 「わたし、女の友達と一緒に来ているんですよ。」 霜子が言うと、清隆は、あっとなって、笑った。 その後、あれよあれよという間に、二人は親しくなっていき、二人の 連れも合流して、一緒に遊ぼう、ということになった。そして、清隆の 連れ二人と、霜子の連れ三人も、瞬く間の内に打ち解けていった。 楽しい、本当に楽しいときを、霜子はおくっていた。こんなふうに、 清隆と時を過ごせるのはとても久しぶりのことに思えた。でも、世界を 架け渡っている霜子にとって、時間の概念は、彼女の感覚の中のみに存 在した。だから、実際にどれほど久しぶりの事なのか、それは彼女にも わからないことだった。そして、彼女は気付いていなかった、このひと ときの終わりがすぐそこまで近づいていたことに。 この海水浴場は、都心にも近く、交通の便もよい。だからして訪れる 人間も多い。そして、人の多く集まる場所には、多くの店が出る。それ は、ここの海水浴場にとってもかわらずいえることだった。そんなふう に、結構あるお店のうちの一つで、霜子と清隆たちは、遅い夕食をとっ ていた。 「いやあ、ほんと、今日は楽しかったなあ。」 清隆の連れの一人がそう言った。 「ホントホント、あたし達もいっしょに遊べて楽しかったわ。」 霜子の連れの一人が答えた。 「そっちは、いつまでここにいるんだい?」 「私達は、明日の午後にはもう帰らなきゃならないのよ、残念だけど ね。」 「そうそう、そうしないと、明後日からまたしごとだもんねー。」 「そうなんだ。残念だなあ。」 「でも、夕方ぐらいまではいるんだろう?」 清隆が聞いた。 「ええ、まあそれぐらいは。」 霜子が言うと。 「じゃあ、それまで明日も遊ばないか!?」 と、清隆はウインクしてみせた。 願ってもないことだ、と霜子は思った。 「もちろんいいわよ。」 「異議なし。」 という声が双方からあがる。そして、双方は、今晩の泊り先を教えあ って別れた。 霜子は、久しぶりに幸せを感じていた。明日も清隆と会えることが決 まっていることに、軽い興奮も感じていた。だが霜子は知らなかった、 清隆の瞳が、ずっと霜子の友達の一人に向いていたことを。 清隆たちと別れた後、旅館に向かった霜子たちは、お風呂もすでにい ただいて、浴衣姿でくつろいでいた。 霜子たち四人の部屋は、さほど広くはなく、仲井さん達によってひか れた四人分の布団でほとんどいっぱいになってしまっていた。部屋の中 は、たいした装飾があるわけでもなく、唯一目につくものといえば、桜 の木の描かれている水墨画の掛け軸くらいなものだったろうか。後は、 奥に障子があり、大きな窓の横に座れる空間があるくらいなものだった。 霜子は、その窓の横の椅子に腰掛けながら、窓の外を、空に浮かぶ月 を眺めていた。その月は満月ではなかったが、限りなくそれに近いもの だった。 ここは…。 霜子は目を覚ますと、思った。 「はじめて見る天井。でも知っている。」 そこは、霜子の部屋。もう少し厳密に言えば、この世界での霜子の部 屋だ。それなりに整頓された、そんなには大きくない部屋だった。 「そう…、また、違う世界に来てしまったのね…。」 悲しげな表情の霜子は、そう呟くと布団から体を起こした。