不自由からの逃走


                      written by 岩屋山椒魚

 人生は不自由である。気のむくまま、欲するまま、自由に行動したいと思っ てもそうはいかない。痴に働けば過度に立つ。嬢に竿させば泣かされる。慰自 を通せば窮屈だ。とかく、この世は不自由で、住みにくい。  しかし、痴の発動はまあ我慢できないこともない。我慢できないのは、空腹 である。何の因果か人間の胃袋は、しばらく何も食べないでいると空っぽにな るような構造になっている。そこで、生きていくためには一日に二度か三度は 餓鬼のように餌をあさり、胃袋に流し込まなければならない。  では、如何にして餌を確保するか。それが人生の一大課題であり、そこに人 生の不自由の一大原因が潜んでいる。なぜなら、餌を確保するために人間は働 く必要に迫られるが、当然のことながら働くということは不自由をともなうか らである。  私も仕方がないから餌の確保のためにある会社と契約して働いているのであ るが、契約条件の一つに、毎朝九時までに出勤せよというのがある。社員はど んなに遠方に住んでいても、どんなに通勤電車が混んでも、九時までに出勤し なければいけないという理不尽な条件だ。    私は朝寝坊である。できれば昼頃までは寝ていたいのだが、九時までに出勤 するために無理をして毎朝七時には目を覚ましている。そして、満員電車にも まれて、やっと会社にたどりつくと、ただちに、上司の命令に服して仕事をし なければならない。上司の命令は絶対である。たとえ、上司の命令が理不尽な ものであっても、それに逆らうことは許されない。言論の自由はある程度まで は認められているが、その自由はあくまで上司が認める範囲内である。何と不 自由なことであることか。  そこで、私はサラリーマンを辞めて、自由業に転職しようと思ったことがあ ある。自由業なら好きな時に働けばいいし、昼まで寝ることもできる。たとえ ば、永井荷風という小説家は、気ままな一人暮らしをして、自分がやりたいと 思う仕事しかしなかったという。編集者から原稿の依頼がきても、いやなら断 る、書きたければ書くというわがままを通した。ヒマはたっぷりあるので、毎 日浅草あたりをうろうろして、ストリップ劇場に通ったり、なじみの芸者と寝 たりした。そのうち、誰にもみとられないでポックリ死んだ。貯金通帳にはか なりの残高があった。これならまあ比較的自由に恵まれた人生というべきでは ないだろうか。  私は荷風のまねをして、自分が書きたいことを題材にして小説を書いてみた。 書きたいことを書きたいように書くというのはなかなか面白いものである。読 み直してみると、私の小説もなかなかの傑作であるように思われた。ところが、 小説は書くのは簡単であるが、市場で売るのが難しい。資本主義体制のもとで は、小説といえども需要と供給の原則に従うから、マーケティングが大事なの であるが、小説というのはまったくの買手市場である。傑作であろうとなかろ うとすべて二束三文、それでも買手がつけばいい方である。  では荷風が死んだ時、貯金通帳になぜかなりの残高があったかという疑問が 生じるが、荷風は小説家としての名声が確立していたので、荷風の小説に関し てはある時期から売手市場になったのである。つまり、小説家の作品は無名の うちは買手市場であるが、名声がたかまるにつれて売手市場に変わる。問題は、 無名のうちのマーケティング戦略をどうするかであるが、無名の新人の間は原 稿の買手である編集者のいいなりで、作者にはほとんど自由はない。編集者は、 締め切りに間に合わなければ徹夜で書けとか、純文学はやめてエロ小説を書け とか、有名人のゴーストライターになれとか勝手なことを言う。おまけに原稿 料は半年たっても払ってくれない。おそるおそる催促すると、やっと払ってく れるが、せいぜい原稿用紙一枚に二千円か三千円である。  馬鹿馬鹿しい。やっていられない。それ位ならまだサラリーマンの方がまし だ。そう思って、私は今でも、毎朝、七時に起き、満員電車に乗って通勤する という不自由をしのんでいるのである。これも馬鹿馬鹿しくてやっていられな いとは思うものの、餌を確保するためにはやむをえない。しかし、いったいそ れほどまでにして餌を確保し、生き続けることにどんな意味があるのだろう。  などと人生の意味について考え始めると、どういう訳かまた何か書きたくな ってくる。人間は、空腹が満たされると、時々形而上学的なものを求めたりす るが、書くという行為は、形而上学的な欲求とかかわりがあるようである。そ れは、書きたいことを書きたいという排泄行為に似た本能的な欲求である。会 社でも仕事で書類を書く機会は多いが、その内容は、上司や顧客や役人の気に 入るように書かなければいけないので、表現の自由はない。これではいくら書 いてもストレスがたまるばかりである。  要するに、ものを書くという行為には二通りある。一つは、他人が気に入る ように書くことであり、もう一つは、自分の気に入るように書くことである。 前者は不自由であるが、後者には自由がある。もちろん、自分の気にいるよう に書きたいことを書きさえすれば、それで完全な自由が得られる訳ではない。 人生はそう甘くはないのだ。しかし、人間が生まれつき持っている自由な精神 をかすかに感じることはできるだろう。  最近、インタ−ネットなるものがはやりはじめた。これは、地球規模の巨大 なストリップ劇場のようなものである。また、自分の書きたいことを書いて発 表できる地球規模の巨大な雑誌でもある。この巨大な雑誌では必ずしも言論の 自由が完全に保証されているとは言えないかもしれないが、少なくとも自由な 精神の香りのようなものは味わうことはできる。おかげで、私のライフスタイ ルも最近はかなり永井荷風のそれに似てきた。そのうち電子マネーの貯金残高 を残してポックリ死ぬだろうが、ま、それでよしとするか。     (了)

Copyright (C) 1996 by 岩屋山椒魚

RMF61678@pcvan.or.jp

次の作品を読む

目次に戻る 1