written by YASUO
所処に巴様をみせる美しい川面。その川縁で、清々しい朝日を浴びて、佇む 三人の青年がいる。その中に葬儀屋の井上華作がいた。彼は、釣りに熱中する あまり足下をあやまったのだろう、ぐっしょり濡れた、綾織りのズボンを膝元 までまくり上げ、大きな石に体を横たえている。朝が早かったので、うつらう つらと夢見心地である。 他の二人は、華作の旧友で、一人は浩介といい、家業の酒屋を継いでいる。 すでに子どもも二人いるのですっかり落ち着いて、華作よりずっと年上に見 える。もう一人は正一。定職も持たずまだぶらぶらしている。そのためかど こか学生っぽさの残している。二人は、華作が横たわっている大きな石の下、 小さな鉄製の鍋を挟んで、ちょうど向かい合うように、頃合のよい石に座っ ている。 正一は、白い衣をまとった小魚が、ぽっかり浮いてくるのを、今か今かと覗 いている。しかし、なかなかあがってこない。浩介の顔を見ると、丸い大きな 顔に似合わぬ、小さな口を開いた。 「結構釣れたね。浩ちゃん」 「きっと、生き餌がよかったんだろうよ」 どうも、浩介は、華作が気になるらしく、視線を華作のほうへ向けながら、 気のない返事をした。 彼等が釣り上げたものは、五寸に満たないはいじゃこだ。揚げ物にして食べ るつもりが、一度にはいじゃこをいれすぎたか、あるいは、温度が適温にあが るまで待たずにいれたか、なかなかあがってこない。 「ふんっ、魚には、うじも御馳走なんだね」 正一は、浩介が気のない返事をしたのが、気に入らないのか、吐き捨てるよ うにいうと、鍋の底でかたまっているはいじゃこを、箸でつっついた。どうも、 彼は、幼稚なところがある。浩介は、彼のそういうところが好きなんだが、た まに嫌になるときもある。 「御馳走ねぇ〜、なんだったら食べる?まだ残ってるよ、おがくずの中に、 しょ〜うちゃん」 浩介は、彼に調子をあわせ、いたずら小僧みたいな、口のききかたをすると、 正一に微笑んだ。 固形燃料が勢いをまし、しばらくすると、ぽっかり、又ぽっかりと、はいじ ゃこが、ちっちゃなたくさんの気泡を連れだって、油の表面にあがってきた。 正一は、機嫌を直したようだ。 「ごじょ〜だん、ほら、もう食べられるよ多分、十分揚がってるし」 そういうと、紙をひいたアルミ皿に、きつね色に揚がったはいじゃこをのせ、 浩介に渡した。浩介は、一匹、口に放り込むといった。 「ホントだ、あっち〜、でも旨いよ。うん!いける。お前も食べろよ。」 「でもうじ食った魚と思うとちょっと気持ち悪いかな〜」 正一は、ちょっと食べるのを躊躇した。浩介は、大笑いすると旨そうに次々 と口に放り込みだした。正一も、一匹口に入れるといった。 「うまい、おもったよりうまく揚がってるね。華作も食べない」 返事はなかった。 「放っておいてやれ。疲れてるんだろ」 浩介は、そういうと、あらたに、はいじゃこを揚げはじめた。正一は、なん となく、承伏がいかないという表情を浮かべながらも、浩介に従った。 すっかり、取り残された感のある、大きな石に体を横たえている華作は、清 々しい朝日を浴びて、うつらうつらと、楽しい夢の中に漂っていたのだろうか。 そうではなかった。突然釣りに行くぞと、朝早くから起こされた事が、気に入 らず、二人を無視していた・・・そうでもない。彼は、前日の出来事が頭から 離れず、よく眠れなかった。釣りにでも出かけたら、気晴らしになるかと思い、 すすんで付き合ったのである。彼は、耳に入ってきた二人の会話に、心の中で、 こう呟いていたのである。『ウジ・・・っか』 何のことはない、結局は、前日の出来事を忘れられず、物思いに耽っていた のである。 華作は、小さい頃、便所を這い回るうじを見て、得もいえぬ嫌悪と恐怖を感 じた事を思い出していた。今、思えばそれは、死を暗示する物として人に共通 した嫌悪と恐怖だったのだろうか・・と。 葬儀屋の華作は、 前日、警察に入山自殺した遺体を、彼の上司の忠治と共 に、 引き取りにいったのである。葬儀社に入って間もない華作は、死後幾ば くか経った、 変死体というものを、眼のあたりにするのは、初めての経験で あった。 係わらずに済めばよいものを、係わらなくてはならない憂鬱な気持 ち。 それでいて隠し得ない興味本位の覗き見根性。訳の分からない、むくむ くと心の中にうごめく後ろめたい気持ち。 これらがない交ぜになった、何と もいえない複雑な心持ちを抱いていた。 警察に着くと冷蔵庫から、そろ〜りとだされたビニール袋に包まれた遺体を 目の前にして、華作は、ふーっとため息をついた。警察の係のものが二人をみ ていった。 「後は頼みます」 そういうと彼は、死体安置所からでていった。忠治はこれの前に立つと、ビ ニール袋のジッパーを下ろした。華作は、忠治に、変死体に興味があるなどと 思われたくなかったのか、真に係わりたくなかったのか、死体をちらっと見る と眼を逸らした。 「山で倒れていただけあって土まみれですね〜」 華作は、冗談混じりにこういうと、冷蔵庫に入っていたせいかな、それとも 某かの処理が施してあるのかしらん、などと腐臭が余りしないのを不思議がっ ていた。すると、忠治は、華作のほうに顔を向けるといった。 「土ね〜、じっくりと見たらどう?」 上司の言葉に、待ってましたとばかりに、のぞき込んだ華作は、 「あれ、なんか変?土が動いて・・」 そう言うと、ウニャッという意味不明の言葉と共に、死体から離れると、妙 な耳鳴りを覚え吐きそうになった。 死後幾ばくか経って発見された変死体というものは、その死臭もさることな がら、家であれ、野であれ、川縁であれ、長さにして一ミリに満たないウジが、 穴という穴から吹き出ている。不思議なことにそれは、必ず体の内部から吹き 出ているのである。眼、鼻、口、肛門、陰部、穴という穴から吹き出ている。 勿論、華作が目の前にしている変死体も、これの例外ではない。 葬儀屋たるもの、変死体であろうと物理的に、着せられるのであれば、ゆか たを着せねばならない。その時あやまって、ただれ落ちそうな皮膚を突き破ろ うものなら・・・ 華作は、忠治から言われるがまま殺虫剤を顔に吹きかけ、土の動きをとめる と、(彼は、それを土だと思い込まずには、作業が出来なかった)アルコール で満たした綿花で土をぬぐい、顔を探し始めた。死後硬直は、とっくにとけて いるので、どうも首のすわりが悪く、作業は思いどうりには進まない。耳鳴り は、止んでいなかったが、彼は、それを既に遠くに聞いていた。 彼は、一つ一つ探し当てていった。白濁し奥にめり込んだ眼球、驚くほどし っかりとした鼻、そして、何かもの言いたそうに、ぽっかりと開いた口をみつ けた。 そこに、華作の見たものは、歳の頃なら三十前後の女性の顔だった。 華作は、しばらく彼女の顔をみつめると、色々な妄想が、頭の中を駆け巡っ た。 実は、この死体安置所には、冷蔵庫が二機あって、もう一方の冷蔵庫には、 この女性と一緒に重なって倒れていた男性の遺体が、収まっているそうだ。そ して、どうやら男性のほうは、未だ身元引受人が見つからないらしい。この事 を、先程この場から出ていった警察の係のものに、聞かされていたのだ。 それが、彼の耳を俚耳の一つとして化けさせ、妄想の内に彼を陥れたのかも しれない。 しかし、依然ぬぐいきれない土が、うごめいているのを目の当たりにすると、 耳鳴りが近づいてきた。彼女の顔を見ていると、口の中から何かが胎動をはじ め、這い出してくるような錯覚を覚え、気分が悪くなる。彼女の顔から焦点を ずらす。口の中をそそぎたい。頭の中をうごめくケガレを祓いたい。 この時、華作は、ふと思った。山で発見される遺体というのは案外多いと聞 く。中には、白骨化(正しくいうと茶骨化というべきか)して発見される場合 もあるのだから、彼女は、まだ、幸せなほうか。しかし、何故、骨になるまで 発見されない遺体があるのだろうか。ウジでまみれてわからないのであろうか。 ウジが食い尽くしてあらわになるまでわからないのであろうか。 小さい頃の思い出がよぎる。眇(すがめ)を気にしていたあの頃。眇、つま り、華作は、片目がひどく大きく、片目がひどく小さいのである。すましてい ても、やぶにらみしているような顔つきである。 土をぬぐっても、祓っても、完全にはぬぐいきれない。祓いきれない。残っ た土は依然、うごめいている。華作は、夢とも現ともわからぬまま、彼女の肢 体から焦点をずらしたり、ぼかしたりしながら、忠治と共に、彼女に浴衣を着 せ、ビニールの内張りをした棺に彼女を収めた。うごめく土と共に封印する。 華作は一つの区切りをつけた、という気持ちの中に一種の安堵を覚えた。忠 治と共に彼女を封印した棺を寝台車に乗せると、彼女を待つ家に出発した。 後部に安置された棺の中で、彼女を食い尽くさんばかりにうごめく土が、棺 から這い出し首筋から、ズボンの裾から、腰の切れ目から、彼女では足りぬと 自分にそろりと入り込まぬかと心配で、華作は、何度も後ろを振り返る。そし て自分の肢体の隅々に目をやる。彼女の顔が浮かぶ。 ふと、忠治の顔をみる。ハンドルを握る忠治の顔は、無口で、あくまでも冷 静であった。 華作は、カーラジオの上に位置している時計に目をやった。時計はPM5:00を 示していた。少し落ち着いてきた。車の窓越しに外の景色を眺めると、どんよ りとした雲が薄い朱色に染まり、空は黄昏を告げていた。『安置所から出て1 0分もたっていないのか・・・』 忠治が華作に声をかけた。 「送り先は、美鈴村なんだ。ちょっと遠いな。後、一時間はかかる。そういえ ば華作は、美鈴村の出身だったな」 「よく知ってますね。そうですよ。すごい田舎です。美鈴村か・・」 そうつぶやくと華作の表情は曇った。 「送り先の家が、うちの寝台車で、送って貰えるようにと警察に頼んだらしい。 向こうに着いたら、すぐに枕机と小道具を並べてくれよ」 華作は里子だった。父親のわからない子をはらんだ母は、華作を生むと華作 が二歳のとき、叔父の家に捨て子同然に預けて失踪したのである。 物心つく頃には、いやでも自分の境遇に気付くものである。それに加えて、 華作は眇だった。近所のみんなから眇を、里子を、原因にいじめられていた。 華作は思い悩んだ。どうして、僕は、こんな顔に生まれたのだろう、僕の両 は、どこへ行ったのだろう、どうして、どうして、自分で自分を責め、自分で 自分を傷つけていく。何もかもが嫌になっていった。思い悩んだ末、闇で満た され、華作が、心の中にもうけた檻は、日に日に、堅固になっていった。 ある時、華作は、粛々と流れるようにすすむ葬列を見た。そして、わけも分 からず、吸い込まれるように葬列の後をつけた。目的地にたどり着くと、葬列 の中心にあった駕籠がおろされた。そしてその駕籠からだされたモノを、華作 は、みた。それは、大きな穴に入れらると、土を被せられ、土を盛られた。そ こまで見とどけると、華作は家に帰った。 明くる日、庭の土を夢中で掘り返す華作がいた。何故か、母親が庭に埋まっ ているような気がしてならなかったのである。叔父に見つかり、叱れたが、し ばらく、華作は、土を掘る手を止めなかった。 華作が中学を卒業する頃、母の行方がわかる。母親は、山で死んでいた。自 殺だと聞かされた。男と一緒だったそうである。華作のもとに帰ってきた母は、 茶色い骨であった。これが、母だといわれても、何の感情もわいてこなかった。 綿を敷いた木箱には、茶色い骨片がいれてあるだけだった。こんなモノを、母 だといわれて口惜しかった。華作にとって、こんな茶色い骨が母であるわけが なかった。『お前ら、まだ、俺をからかうのか!』華作は、口惜しかった。 美鈴村には、山人のいい伝えがあり、彼等は国巣(くず)と呼ばれていた。 彼等には眇のモノが多いと聞くにあたって、華作は、俺は、きっとクズの子だ と思うようになる。彼は、いい伝えの中に、自分を見つけた気がした。彼は、 眇を気にしなくなった。彼にとって、茶色い骨は、決して、母にはなり得なか ったのである。華作は、村を出ていった。そうだ、俺はクズの子だ・・・。 忠治が、華作に話しかけた。 「お前、何で葬儀屋になんかはいった。ほかにも行くところはいくらでもあ ったろうに」 「別に理由はないですよ」 「そうか、昔、駕籠やと呼ばれていた頃は、ずいぶんと、差別されたものだが、 お前らぐらいになるとそうでもないのかな」 「そういうのは、全然、感じませんけど」 「そうか、俺なんかは、葬儀屋のそういうところが好きで、入ったんだけど な」 「そういうところって?」 「世間から浮いたところさ」 「忠治さんって、ちょっと変わってますよね」 「そうか、変わってるか」 「でも、わかるような気がします・・」 黙りこくった華作を見て、忠治は窓の外を眺めた。『何か悪いこといったか な』と少し考えたが、すぐに、どうでも良くなった。 車が進むにつれ、景色は、見慣れたものから、見覚えのあるものへと変わっ ていった。そして、山道にはいった頃、華作は、ずいぶんとこの辺も景色が変 わったな、と感じた。黄昏に、けばけばしいネオンを放つホテルが木々の間に たっていた。そんなものがいつできたのか、華作は知らなかった。道路は、基 本的に砂利道だったが、ところどころ、アスファルトで舗装されていた。 短いトンネルを二つばかり抜けた頃、暗闇が黄昏に取って代わろうとしてい た。少し窓を開けると、独特のしめった冷たい空気が舞い込んできた。しめっ た土と緑の匂い。見知らぬ獣が、ときの声をあげるように遠くで叫んだ。 それが合図のように忠治が、車のライトを点けた。すると、漠然と飛んでい た白い小さな羽虫の群がライトに浮かび上がった。 嫌な予感に、少し心細くなった華作は、そんな気持ちをかき消すように、忠 治に話しかけた。 「忠治さん、もう、そろそろ着きますね」 「あー、もうすぐだ」 棺を積んだ寝台車は、ゆっくりと、大きな古屋の前に止まった。土のにおい のする家である。まるで、昔話にでてくる、庄屋という趣である。 「お前、ちょっとここで、待っててくれないか」 「はい、わかりました」 忠治は、朽ちた気組みの、門をくぐり、中に入っていった。忠治が玄関の戸 を開けると中は騒然としていた。 「どうもあんがとさんです」 「澄子さんがかえってきたえー」 「おー、かえってきたか、棺にはいっとんやな」 「どこに運んでもらおう」 「どこでもええがな」 「なにいうとんや、あんたのでるまくやあーへん」 「澄絵はどうした」 「康子さんがみとーすやろ」 「安楽寺さんは、もうきゃーるか」 「まだや」 「あーそやけど、なんでこないなことに」 「なくな、ないてもしゃーないがな」 「次郎さんはー」 「はよーきめーやー」 「どこにおいてもらうんな」 「仏間がええやろ」 「すんまっせん、かんじんのじろーさんがついさっきでていってしもーて」 華作は、後ろの棺をみて、ぼーっとしていた。忠治が、車の窓をたたいた。 「座の棺台を持ってきてくれ」 「あっ、はい」 華作は、慌てて車から降りると、小道具と座の棺台を手に持った。忠治は、 先に家の中に入っていった。 山奥から獣の声を聞いた。腹の中にしみるような声だった。門をくぐる。が しゃっ、犬小屋から薄汚い犬が出てきたかと思うと、獣の声に答えるように吠 えた。華作は、薄闇に意思を感じるような気がした。目の前を小さな羽虫が、 飛び交う『虫が多いな・・』 仏間に棺を安置した後、忠治は、さっそく、障子を隔てた仏間の向こう側の 部屋で、仕事の話しをはじめた。 華作は、棺の前に枕机を組み立てておくと、小道具を並べはじめた。次郎と いう人が、帰ってくるまで話は進まないだろう。どうやら、次郎という人がこ の家の主らしい。なくなったのは、澄子という方で、澄絵という一人娘とアパ ート住まいをしていたようだ。澄子の主人はいないようで、ここは生家。次郎 というのは、澄子の兄らしかった。いろいろと事情はあるのだろう。向こうの 部屋からもれてくる話しからは、そこまでしかわからなかった。 「おにーちゃん」 突然、後ろから声をかけられ華作は、どきっとした。まったく人の気配を感 じていなかったからだ。振り向くと、そこには、五、六歳のかわいい女の子が たっていた。しばらく女の子の顔を見ていると、その子がいった。 「おかーさんなの?おとーさんに会いに行くっていったきり、帰ってこなか った・・・おかーさんなの?」 「・・・」 「おかーさんなの?」 華作が、返事に窮していると障子があいて、女の人が顔を出した。 「何してるの!澄絵ちゃん、こっちに来なさい、どうもすいまっせん、おに ーちゃんのじゃましたらだめでしょ」 華作は、苦しそうな笑みを顔に貼り付け、ははっと笑った。意味のない乾い た笑いだった。何か妙に助かったような気がした。女の子は向こうの部屋にか けていった。『お母さんか・・』華作は、ウジまみれの彼女の顔が、鮮明に脳 裏に浮かび上がり、気分が悪くなった。 華作は、ため息と共に何かモヤモヤとした気分を吐き出し、枕机の上に、燭 台、線香立て、香炉などの小道具を並べ終えた。過去帳のみをおいてある黒檀 の立派な仏壇に目をやる。『真宗か・・あの子が、彼女の娘さんなのか・・南 無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・俺も少しは、信仰心があるのかな』知らぬ内に 心の中で念仏を唱えている自分に気がつき、華作は、妙におかしな気分になっ た。 忠治のいる部屋の障子を開ける。家にいるものは皆、この部屋に集まってい る様だ。八畳の部屋が狭く感じる。中央に置かれた縦長の机は、黒く鈍い光を 放っていた。話しはやはり前にすすんでいないようだ。 「忠治さん、小道具並び終えました」 「お前もこっちに来て、座れ」 華作は、家のものに座布団を進められ、大げさに礼をいうと、忠治の横にす わった。そして、横で、忠治と家の人のやりとりを聞いていたが、われも、わ れもと口を出すものだから、いっこうに、話が前に進まない。華作は、いい加 減、嫌になりますねといわんばかりに、忠治に向かって苦笑いを見せた時、玄 関が開いて、次郎さんが、かえってきた。 「どこいっとんたんや」 「あー、安楽寺さんむかえにいっとんたんやが、もうかえってきとんのか、そ うか」 「迎えにいくんやったら、むかえにいくいうていってーなー、みんな、あんた どこいったんか、しらんもんやから、葬儀屋さん、きてもうてんねけど、話が 全然前にすすまへんねや」 「そうか、すまなんだ、安楽寺さん、どうぞ、なかへ」 人なつっこい顔をした僧侶が入ってきた。 「しばらくですなー、しかし、この度は、たいへんなことに」 「ご無沙汰してて、すんまっせん、まー、安楽寺さん、あがっとくなーはれ」 次郎は、忠治と華作に目をやった。 「あー、すんまっせん、しょうこうできますか」 「どうぞ、準備できてますから」 次郎は仏間のほうに向かっていた。僧侶に向かって、家のものが、そして忠 治が、挨拶をすませた頃、仏間のほうから叫び声が聞こえた。 「澄絵!お前、なにしとんやー」 澄絵は、喧騒の中を抜け出し、仏間に安置されている棺の前に、ちょこんと 座っていた。 「おかーさん・・」 そう呟くと、澄絵は、棺に近づいていった。 しばらく、不思議なモノでも見るような目つきで、棺をみつめていた澄絵は、 思い詰めたように、ナイロン製の棺に掛かっているカバーを、不器用な手つき で外すと、そこにのぞき窓をみつけた。そしてまた、しばらく先程と同じ目つ きで、棺をみつめると、一尺足らずののぞき窓を開いた。そこには透明のセル 板が一枚貼り付いていただけだった。 澄絵は、中を覗こうと前屈みになった。その拍子に、セル板に手を突いた。 セル板はあっけなく外れ、あっと思う間もなく、澄絵の手は、セル板越しに、 澄子の顔を押さえつけた。 セル板越しに、何かしらヌルっとした感触を感じると共に、背伸びしたよう な格好になった澄絵は、バランスを崩し、倒れた。 その時、棺のふたをつかんだかどうだか、棺のふたがずれ落ちた。 澄絵は、気がつかなかったが、その時、ナイロン製の棺カバーに、枕机の上 のロウソクの火が燃え移ったのである。棺カバーは、だらしなく、棺にまとわ りついていた。 澄絵は、立ち上がり棺を覗いた。変わり果てた母の顔が否応なしに飛び込ん できて、澄絵は、目を見開いた。 おぼろげで危うい小さな意識の器が、受け止めきれない現実にあふれかえり、 感情が、どこかに消え入り、白一色に染められ、壊れそうになったその時、母 の首筋が、むくむくとうごめき、そしてとまった。 澄絵の意識は、その一点に向けられた。じっとみていた。『動いていた・・ おかーさん・・違う・・動いていた・・違う・・いきている・・誰・・おかー さん』まとまらない意識を振り払うように、そのうごめいていた箇所にそっと、 手を伸ばした。 小さな、かよわい手が、澄子の喉に触れたとき、息を吹き返したように、喉 が再びうごめきはじめた。ふるえる小さな手は、やさしくうごめく喉をなでた。 澄絵は、生きている母を感じた。澄絵は何か暖かいものに包まれていくよう 気持ちに微笑み、 「おかーさん」 そうつぶやき、うごめく喉をなでる小さなかよわい手は、ますます優しさを ましていった。 しばらくそうしていた澄絵の瞳に、赤い火が、突然、飛び込んできた。びっ くりした澄絵は、母の顔から視線を外した。 ロウソクの火が、棺カバーに、燃え移っていることに気がついた澄絵の瞳に 映る赤い火、青い火。ナイロン製のカバーをなめるように火の手はすすみ、棺 に燃え移らんとしていた。 赤い火、青い火。その驚きと恐怖に、澄絵は、無意識に棺の中の母に寄り添 おうとした。その瞬間、喉をやさしくなでていた澄絵の小さな手は、うごめく 喉の薄い皮膚を突き破ったのである。 ドロッとした感触の後、ざくろ様に開いた喉から無数のうじがはいだし、小 さな手にまとわりついた。こそばがゆい手の感触。うごめく小さな無数のうじ。 濁った黒い血、それに染まったかのような焦げ茶の小さな無数のうじは、澄絵 の小さな手に、澄子の顔に張り付いたセル板の下で、鈍い動きしか見せない仲 間に向かってはい上がり、ひろがっていく。 澄絵は、何がおこったかわからなかった。母の喉に押し込まれた小さな手を 引き抜くと、濁った血に染まり無数の小さなものが這いまわる、自分の小さな 手を見つめ、ざっくりと開かれた喉にうごめくモノ、そして突然、思い出した かの様に飛び込んできた、あまりにもリアルな変わり果てた母の顔を見つめ、 目の前でひろがっていく火の手を見つめた。自分を失った澄絵は、その場から 動けなくなった。 「澄絵!お前、なにしとんやー」 突然、怒鳴った次郎の声に、家のモノが皆、開け放たれた障子の向こう側の 仏間に向かった。華作も流れに巻き込まれるように、仏間に向かった。 ナイロン製の棺のカバーは、燃えひろがり棺自体にも火がつきそうな勢いだ った。 次郎の声に、棺の横で、へなへなと座り込んでしまった澄絵の瞳には、色が なかった。 華作は、澄絵の手に自分が一度、意識の外に追いやったモノを見つけ、驚い て、澄絵の顔を見た。その瞬間、華作は、色を失った澄絵の瞳にとらわれ、吸 い込まれていきそうな気がした。 喧騒の中、火を消すため、棺周辺に水がぶっかけられた。ドライアイスが入 っていた棺からは、白い煙が立ち上がった。ふたのあいた棺から漂う腐臭と焦 げた畳のにおいが混ざり何ともいえなかった。色のない見開いた澄絵の瞳に映 る白い煙と喧騒は、いかにも現実離れしていた。華作は、ぼーっと眺めていた だけだった。華作と澄絵だけが、ぽっかりと喧騒の中に浮いていた。 華作は、妙にばかばかしくなり澄絵に微笑みかけた。澄絵も華作に気付くと 微笑んだ。 華作に微笑む顔。昨日の女の子か、違うな。華作は、うーんと一息深呼吸す ると、ぼんやりと徐々に焦点を合わしていった。 「華作、食べないの、もう無くなるよ」 「正一か、あー有り難う。ちょっと、もらうか」 浩介が、はいじゃこの天ぷらを揚げている。 「大丈夫か、すまないな、朝早くおこして、横になっとけよ。疲れてるんだろ」 「いや別に、ちょっと眠たかっただけさ。おいしそうだな」 「けっこういけるよ。そうそう、さっき正一が、うじ食った魚だと思うと気持 ち悪いっていってたんだぜ。わらっちゃうよ」 「なんだよ、わるいかよ」 「ごめん、ごめん、そうおこるなよ」 笑いながら、浩介は正一に謝った。 華作は、大きな石からおりると、揚がった天ぷらを口に放り込んだ。 「うまい、いけるね」 華作は、生き餌のうじに目を向けるとにっこり笑った。 「色即是空、空即是色、受想行識」 浩介と正一は、華作のほうに向くと、ほとんど同時に口を開いた。 「何いってんだよ、やっぱり疲れてるんじゃない」 華作は、彼等を無視するように、うまいうまいと、天ぷらを口に放り込みだ した。 清々しい朝日は、川縁にたたずむ三人に公平にふりそそぎ、木々の緑は爽や かな風にそよぐ。一匹の魚が飛び跳ねた時、三人は川面に目をやった。 「まだ、釣れそうだね」
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