私生活


                      written by YASUO

 一様に広げた新聞紙で、顔の見えなかったサラリーマンが、ぽつりぽつりと 店から出始めた。右横のガラス越しにみる高層ビル群は、TV画面に写ってい るようで現実感に乏しい。ガラスを叩き割っても事態は変わらないだろう。或 いはTVを構成している部品を見いだせるのかもしれない。目の前にいる峰山 は、さも楽しそうにつまらない女の話をしている。うんざりしてきた俺は、カ ップの中の冷めたコーヒーをぐるぐる回し、弄んだ。 「あのさー、俺もう帰っていいかな」  高校時代の仲間で作っている同人誌を編集している峰山に、原稿は既に渡し ていた。他に用事はない。もう十分話しは聞いてやったつもりだ。 「なんだよ、克明。なんか用事でもあるの。ちょっと待って今、簡単に目を通 すからさー。で、大体どんな内容?」  内容といわれても暇つぶしにいい加減なことを書き殴っているだけである。 「アルバイトでSM嬢をやってる幼なじみに、仏性独朗の境涯について教えを 請う禅僧が、クリエーショニストで碧の目を持つ念仏僧とのホモセクシュアル な生活を、夜毎、彼を支配するマニアに破壊される。SM嬢にファックという 調教を通して清浄無垢の心を植え付けられた禅僧は、絶対他力の本願を手に入 れ、言葉のない無意識の森へ念仏僧と出かけちゃうという話し」  恐ろしく切れ長の目を指でこすりながら、唇を噛む。はだけた胸元から匂う 女の香りが、ルーズな生活をものがたっている。どうせ、ついさっきまで女と いちゃついていたのだろう。原稿をテーブルの上に置くと、峰山は、うなじの あたりで束ねた光沢のある長い髪を片手でつかみ、もう一方の手で器用にたば こを一本取り出し、口にくわえた。 「で、タイトルが『久遠実成のファック』か・・・。後で読む事にするわ。大 体いつものパターンだろ。無意味な言葉の羅列で笑わそうとする。笑えないん だよな〜、読んでる方が恥ずかしくなる。もうちょっと世間に関心持った方が いいんじゃない?少しは、読者を意識しなくっちゃ、そんでもってさ〜・・・」  どうせ、読む奴なんて誰もいないのだからどうでもいい。彼だって、他人が 聞いたら恥ずかしくなるような頓珍漢な批評もどきを俺に聞かせて喜んでいる のだから、救いようのなさではいい勝負ではないか。  彼の口先で踊っているたばこ。こいつは面白い。糸で縛られた鳥のくちばし のようにもがき苦しんでいる。俺もたばこをくわえて、まねしてやろうかと思 ったがやめた。素直にたばこに火をつけ、煙を吐き出す。相変わらず峰山は、 玩具みたいに無点火のたばこを上下に振って、しゃべり続けている。あれ、こ いつは誰だろう・・・そうだ、峰山だ。きめの細かい白い肌をつつむ甘い匂い。 「・・・だから、おまえの場合、視点が全く定まってないんだよな。ま〜、ど うでもいいけどさ。ところで今晩あいてる。ほら、さっき話してた女と今晩、 呑みにいくんだけど友達を二、三人つれてくるから、そっちも男適当に用意し てくれ、な〜んて頼まれたもんだから」  私は、今一つ気分が乗らなかったので、体調の悪さを理由に、彼の申し出を 断ろうとしたとき、彼は窓の外、道路の向こう側にちらっと目を移したかと思 うと、用事を思い出したといい残し、喫茶店から慌てて出ていった。両手をバ タつかせ、くちばしを振りながら。  一人残された私は、ため息をつき、此処にいてもしょうがないので、ソーダ とコーヒーで900円、と自己の存在意義を他の誰でもない俺にのみ主張する 伝票をつかむと、火をつけたばかりのたばこを揉み消した。此処を出ようと窮 屈な椅子から立ち上り、ふと、気になってガラス窓の方を向いた。  その時である。窓の外、道路の向こう側、あわただしい人の流れに浮き上が って、一人の少女が突っ立ているのが目にはいった。年は15、6といったと ころか、輪郭の曖昧な赤い服が鼠色に霞んだ高層ビル群に映えた。  赤い色に見入っていると彼女との距離感が徐々に詰まってきた。虚ろに赤い 色を見つめていた俺の目が、彼女の顔に向けられ、しばらくして彼女の目一点 に向かっていったとき、彼女の背後に霞んでいたはずの高層ビル群が彼女の瞳 に忽然と姿を現し、揺らめく太陽に溶ける巨大な鼠色のバターのように溶解し 始めた。溶解していくビルを追うように暗闇が垂れてくる。ゆっくり下に向か って溶解していくビルと反比例して暗闇は、ゆっくり下に向かって拡がってい く。窓ガラスにキラキラ映る室内照明が暗闇に散りばめられ、通りを歩く人々 の顔に大小様々な突起物が蠢く、内部から持ち上げられる事によってできた突 起物の先端が裂け、中から粘着質の体液が流れ出る。皮膚組織はただれ落ち、 一皮むけた人々は、ペタペタと身近にいるもの二、三人で寄り添い、へばりつ き合い、同化していく。団子状の肉塊があちこちにできあがる。それぞれの肉 塊の間から黄みがかった目玉が一つ、毛細血管を浮き上がらせて、せり出てく る。肉塊をなめらかに滑り落ちていく目玉の後部に連なる複雑に絡まりあった 神経組織が、脳頭蓋を引っぱり出す。上顎骨、下顎骨が外界に出てくるとケタ ケタと顫動しながら、徐々に黒い全身がヌルヌルとせりだす。全身に絡まって いる大きな掌は、コウモリが翼を広げるように突然広げられた。叫びたいのだ ろう、己の滑稽な姿に哀しい叫びをあげたいのだろう。音を発する器官を有し ていない滑稽なモノの叫びは悲哀の思念となり、辺り一帯にぶち撒かれたが、 一瞬にして外界を包み込む瘴気に取り込まれ、消えてしまった。無数の悲哀の 思念。俺は、少女の瞳からつまりは窓ガラスから室内に目を転じた。『俺は・ ・・』そうつぶやき、峰山の飲んでいた、透き通ったソーダ水の緑の底に静か に眠っている赤い胎児を確認する。『俺は・・・』ポケットから練りワサビを 取り出す。手のひらに五センチ程捻り出し、舌を出してペロリとなめる。胎児 を凝視する。胎児は消え、底に赤いチェリーが一つ残されたグラスの中身は、 飲み干されてもう無かった。  窓の外に目を遣ると、少女は消えていた。ブラウン管に写った現実感に乏し い高層ビル群は、あわただしい人の流れは、元の姿を取り戻していた。そして、 そこに写った俺の姿は『俺は・・・』消えてしまった少女には見覚えがあった。 誰だろう、そうか、純恵か・・。  迎えにきて欲しい、と克明から連絡を受けた私は、ぐでんぐでんに酔っぱら った彼を飲み屋で発見し、捕まえ、車に押し込み、発車。家の前にたどり着く。 車から引っぱり出し、彼を引きずりながら玄関先まで運搬。最近もらった部屋 の合い鍵で玄関を開け、やっとのおもいで彼をベッドに横たえた。疲れ切った 私は、ベッドの脇に座り込んだ。 「純恵ちゃ〜ん、こっちにきてよ〜ん。ぼくちん寂しいの〜。ぼくのちんちん 寂しいの〜なんつって」  不可解。何がおかしいのだろう。彼は一人で馬鹿笑いを始めた。大きくあけ た口からは、異様な匂いが吹き出してきた。ビールのあてに好物のニンニクの 芽の炒め物をたらふく食べたのだろう。すごく臭い。 「ね〜、こっちにきてよ〜ん。寂しいの〜ぼくちん」  彼はズルッとベッドからずり落ちると私に覆い被さってきた。むしゃぶりつ くように私を求めてきた彼の唇が、私の唇と重なったとき、ゲポッという、ヘ ドロの中から生まれた気泡のようなげっぷが・・・勘弁シテクダサイ。しかし、 哀願するような目つきで私を見る克明は、やっぱり可愛い。  彼の手が、ぴったりあわせた肉付きのよい弾力に富んだ私のふとももの間を 割って入ってくる。私は彼が喜ぶように、小さくイヤッとつぶやき、恥ずかし そうに顔を赤らめ、軽くふとももに力を入れる。彼の手に力がこもる。私はじ ょじょに力を抜くと、彼の指が下着の上から私の大切なところにふれた。じわ りと下着を濡らしはじめた私の粘りけのある体液が、執拗にうごめく彼の指を 湿らせ・・・ぷーっ。彼の肛門から発せられた空気振動は、ニオイを伴って私 の感覚器官に・・・勘弁シテクダサイ。しかし、哀願するような目つきで私を 見る克明は、やっぱり可愛い。  彼は、突然立ち上がるとズボンのファスナーをおろし、下着と一緒にズボン を下げ、哀願するような目つきで私を見る。彼は膝をおり、脈動するモノを私 の顔に近づけ・・・ちぇんちぇい、オチッコ・・・トホホ、私は急にむかつい てきて、ベッドの下にあった紙の束をつかみ、丸めて彼の後頭部を思いっきり どついてやった。 「あ〜、痛えーなー。何すんだよこいつ」  たいして痛くもないくせに、頭を押さえての凡庸なリアクション。そこが可 愛いといえば可愛いのだが、ノリがよすぎるとかえってしらけてしまう。私は、 手に持った紙の束が、彼の編集している幼稚な同人誌のようなものだとわかる と、暇つぶしに読み始めた。彼は、オチッコに行くけど一緒についてくる?、 などとふざけたことをぬかすとトイレに向かった。ご丁寧にも、中途半端に下 げられたズボンに足を絡め取られ・・・そのとき、お尻だけの存在になった克 明は、やっぱり可愛い。  読んでいるうちに私は、顔が赤くなってきた。そこに書かれていたものは、 克明と私とのHをなんとも言い難い程これでもかといわんばかりに精密に描写 したものだったのだ。克明がトイレから戻ってきた。 「お帰り、ながかったわね」 「途中で、でかい方に切り替えたの。あースッキリ」  口元にゲロを吐いた後がこびりついている。あの一発が無かったら、顔面シ ャワーよろしく、私にぶっかけるつもりだったの。 「あ〜それ読んでるの。どう、面白かった?峰山っていう友達が書いたやつだ けど、あんまりパッとしないでしょ」  何を白々しい事を、どう考えたってこれは克明が書いたものじゃない。私の 内股にある、月下美人のタトゥーをなんで峰山っていう聞いたこともないよう な他人が知ってるのよ。 「ふ〜ん、それでこれどうすんのよ」 「どうするって・・・別に、どうもしないけど。五十部程刷って高校時代の同 窓生を中心に配るんだけど」 「いい加減にしてよね!何なのよ、あんた一体」  ズーッッ・・ガッガッガ・・・ブチッ・ブーンッッッ  それは突然起こった。TVが幽かな青い光を放ち始め、それと呼応するかの ように部屋の明かりが、弾けるように消えてしまったのである。何なの!青い 光に浮かび上がった塵。一体、何なの!まるで命を内包しているかのように舞 い踊る塵。それが私を包み込むべく、否、拉致すべく密度を増し乱舞する。・・ ・!?空白と困惑の内に、陰鬱だった青い光が燦然と輝きこの部屋を私を支配 する。滅茶苦茶だわ!意識だけが無限の暗闇に落ちていく。漠然とした不安が 私の中に生まれる。私の中で拡がり始めた不安は徐々に私を支配していく。不 安に支配される事を怖れ私は叫んだ。我を忘れて叫んだ。・・・・しかし無駄 であった。越権行為よ!私の叫びは青い空間を仕切る四方の壁に、ことごとく 吸い込まれて消えてしまう。気が遠くなり、甘い汗がビッショリと流れる。仰 向きに縛り付けられた人形。それが私なのだ。何なの!イヤッ!私を食い入る ように見つめる視線がガラスの向こう側に。その視線の持ち主は・・・醜い! それは直視できないほど醜かった。  青い光で満たされた箱の外側、四方を囲む壁の一面であるガラスを隔てた向 こう側の世界に、奇妙で忌むべきモノのまがまがしい群が、黒い流れとなって 粛々と蠕動している。醜くも無垢な黒い流れは、疑うということも知らず、遙 か遠方にある、空に永劫の理を冠する不気味な半円形の暗黒に向かって粛々と 蠕動している。その中に私に関する確かな情報は存在するべきではないのだ。 それなのに!無垢な黒い流れに逆らうように、私を食い入るように見つめる視 線の持ち主は、憤怒と悲哀の入り交じった思念を気違い染みた絶望とも思える 調子で私にぶちまけてくる。なんて醜いの!汚らわしい!汚らわしい?・・何 なの?  私は彼を知っている。関係の存在しない世界に存在する彼。私は・・私は彼 を知っている。そう、私が彼を・・彼をあのような世界に・・ちがう!私じゃ ない・・なぜ?・・そうだ、私だ。私が、わたしが・・・。彼に寄り添うホム ンクルス・・私の子。祝福?・・誰なの?。イヤーッ!私は感じたのだ。悲哀 を帯びた思念が、無垢と思えた黒い流れの中で深海につもる塵のように澱んで いるのを。『オレハ、ダレ・・ダレナノダ』  変わらぬ景色に、アクセルペダルを踏む感覚が鈍くなる。車との包まれる様 な一体感にポッカリ思いを巡らす空間が生まれた。 「私は、間違っていたのだろうか」  かたちばかりの精巣と卵巣を持つ私。ここにいる私に寄り添う私を笑う私。 二人の私。私の思いを遂げるために生まれた克明の子供。彼にとっては本懐を 遂げたわけである。ディスプレイ越しの恋いを成就させ、他人との関わりの中 に自らを開示し、巨大な壁が彼を取り囲み、分裂病者の仲間入りをしたのだか ら・・・。  私は走り続けた。視界を遮っていた樹木の並びが、突然消え失せ、海がひろ がった。冬の海である。静かで無限とも思える海面の下に何が渦巻いているの だろう。  純恵の無邪気な笑いは、夜毎、私を襲うようになった。スクブスと化した純 恵は私から安息の夜を奪い、支配者としての愉悦に自らの体を貶めた。  画面を通しての純恵と克明の関係を仕組んだのは私だ。情報は錯綜し始めた。 そこにはもう一つの彼と彼女がもう一つの物語、もう一つの世界、もう一つの 恋い、もう一つの・・・。互いの関係の持つ意味を知っているのは私だけだっ た。今となっては、それさえも少しばかりの現実性を帯びた妄想だったのかも しれない。  ディスプレイの中の私が、克明に与えた情報は、彼の精神作用にどのような 影響を与えたのか、私にはわからない。純恵にとって、克明にとって、関係は 交わるはずのない平行線上にあった。あなたが知らないはずの私が、私が知ら ないはずのあなたに投影した私は、あなたの知っている彼女の妄想の中に微笑 を浮かべていたのか。それとも、彼女と私は彼の中で平行線上に置かれていた のか、それとも・・・。  すべての関係は一つの目的のもとに、私の中で必然性をもって動いていた。 それは、私の問題を洗い流すはずだった。結果、私はカタルシスを得られたの か?本来の目的は形骸化し、行為から得られる愉悦が目的を包み込み、消化し てしまった。僅かなズレは、時間の作用に否応なくひろがっていった。その拡 がり自体が私に愉悦をもたらしたのだから。  ゆらゆらと揺れるクルマは、無機物でできた子宮を連想させる。俺の子も同 じ様な感覚を味わったのだろうか。俺の子?ハハハ、ハハ、ハッハッハハハッ ハッッハッハッッハッハッハハッハハハッハッハッハハ・・・そう、私の子よ。  空をつかむ車輪。感覚は麻痺し、意識は加速する。 「海が近づいてくるわ・・・何てキレイなの」

Copyright (C) 1997 by YASUOKDM57538@pcvan.or.jp


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