written by たねり
1・つまらない一日は、大事な一日。 アリスはその日ご機嫌斜めでした。ドジソン先生が写真をとってくれる、と約束をし ていたのに、とつぜん、キャンセルになってしまったからです。もちろん、ドジソン先 生が意地悪ですっぽかしたわけではありません。お勤めしている学校のご用事ができて 、アリスを自分のアトリエに呼ぶことができなくなったのです。ドジソン先生だって、 よっぽど悔しいんですよ。学校のご用事と、アリスの撮影といったら、もうどっちが大 事かなんて比べるのも野暮です。ただ、やっぱり大人というのはしかたがないもので、 つまらないことを大事なことよりも優先しないといけない場合もあるみたいなのです。 「つまらないことと大事なことだと、大事なことのほうが大事じゃないの!」 アリスは、ドジソン先生から届いた手紙を読みながら、林檎のような頬をふくらませ ていいました。ドジソン先生はその手紙のなかで、「大人というのはつまらないもので す。つまらないことを大事なことよりも大事にしなければいけないのだから」なんて、 アリスにキャンセルの了解を求めていたのです。 ママに頼んでつくってもらった妖精のドレスがベッドのうえに置いてあります。やわ らかいシルクの生地でワンピースのミニを仕立てて、背中にはフェルトでかわいい羽を 縫いつけてもらいました。これを着て、写真をとるはずだったのに。アリスはなんだか がっかりして、生きてるのってつらいわ、と思いました。ママはドジソン先生の撮影が 延期になったことをきいて、 「しかたないでしょう。また、近いうちに写真はとってもらえると思うわ。今日で世 界が終わりってわけではないのよ、アリス」 なんて慰めてくれました。そんなことはアリスにだってわかっています。手紙にも、 “かならず近いうちに写真をとってあげるからね、それもとびきりのやつを。どうかほ んのちょっとの間、きみと僕とのおたのしみが先にのびたのだと思ってがまんしてくだ さい。そのマシュマロのようなかわいいホッペにキッスを1,000,000回!!” とか書いてありました。 「でも、わたしは“今日”写真をとってもらいたかったの。明日でも、来月の今日で もなくて、今月の今日。どうしてって、カレンダーにもしるしをつけて、今日が来るの をたのしみにしていたからだわ。クリスマスがクリスマスではなくなって、1か月延び たらうれしいかしら。樅の木のツリーだって用意してるっていうときよ。それでもがま んできる子どもがいたら・・・よっぽど親がこわいんだわ」 アリスは妖精のドレスを胸にあてて、鏡にすがたをうつしてみました。そういえば仮 縫いのときに身につけただけで、ちゃんとドレスを着たことはありませんでした。ドジ ソン先生のアトリエにいったとき、そのまっさらのドレスをおろそうと思っていたから です。でも、こうなってしまっては、アリスの気持ちもわかるでしょう? そうです。 アリスはサテンの普段着をぬぎすてると、あっという間に妖精のドレスに着替えたので した。 そのドレスはアリスにぴったりのサイズでした。とっても腕のいい仕立屋さんだって ママはいってたけど、ほんとうね。アリスは鏡のなかにうつった自分を見つめました。 妖精ティンカーベルみたいに空でさえ飛べそうな気分です。 「そうだわ。姉さんを驚かしてあげなくちゃ」 アリスはいたずらっぽく笑うと、ドアに向かってかけだしました。すると、どうでし ょう。まるで身体が自分のではないみたいに、ふわり、と浮き上がるのです。両方の足 がたよりなく空中に浮かんで、床が消えました。うそだわ、とアリスは思いました。床 が消えるなんて。床が消えたら、わたしはどこに立てばいいというのよ。 でも、アリスは経験から学べるかしこい子どもでもありました。この前は鏡がやわら かい霧みたいになって、むこうにおかしな人たちが住んでいたんだし、前の前はしゃべ るあわて兎が不思議な国へ道案内をしてくれたのです。そうしてみると、これはまたし ても新しい世界へのご招待かもしれません。 「わかったわ。ドジソン先生とのお約束がなくなったから、退屈でつまらない一日に なるところだったの。さあ、わたしを連れてってちょうだい。お部屋で算数やフランス 語の勉強をするよりも、そっちのほうがだんぜんいいもの」 アリスがだれにともなくそういいますと、身体がすうっと床に(といってもそこには 透明な空間があるだけだったのですが)すいこまれていくのでした。アリスは思わず目 をつむりましたが、でも、とちゅうの風景だって見ておかなければ、と思い直すと勇気 を出して目を開けました。だって汽車にのって旅をするときには、窓から見えるめずら しい風景もたのしみですからね。けれども、目の前にはぼんやりした光があるばかりで した。これなら、目をつむっていてもおんなじだわ、とアリスはがっかりしました。と 、そのとき、ふわっ、と空気の感じが変わって、アリスは夜の畑のなかに尻もちをつい ていました。 いったいここはどこなんでしょう。南の空を見上げると、赤い目をしたサソリ座やケ ンタウルスがくっきりとまたたいています。アリスは立ち上がってお尻の土を払うと、 こんどは畑のまわりをぐるっと見渡しました。どうやらそこは小高い丘になっていて、 畑のむこうに小さい家がありました。家にはぼんやりあかりが灯っています。だれかが 住んでいるんだわ、とアリスはほっとしました。とにかく、ここがどこなのかはこれで わかるというものよ。 アリスはそっと小さな家に近づいていきました。なにしろ、ひょっとして山賊かなん かだったら、こわいじゃないですか。だから、窓からこっそりと家のなかをのぞいて、 ちゃんとそこの住人の様子を確認してからノックするつもりでした。そのとき、とつぜ ん楽器の音が鳴りひびきました。そうして、それにあわせて、かっこうかっこうかっこ うかっこう、とけたたましくかっこう鳥がうたうではありませんか。 アリスは思わず立ち止まって、きき耳をたてました。楽器はどうやら弦楽器です。バ イオリンよりも音が低くて太いので、セロかコントラバスでしょう。かっこうかっこう かっこうかっこう、とまたかっこう鳥がうたいました。その音程にあわせて、楽器がド レミファソラシド、とついていきます。アリスもピアノとバイオリンは習っていたので 、わかるのですが、かっこう鳥の音程のほうがよほどしっかりしていました。 「絶対音感をもっているかっこう鳥ね。わたし、鳥にそんなりっぱなひとがいるなん てちっとも知らなかったわ」 アリスはいよいよ好奇心にかられました。ドレミファソラシドってうたえるかっこう 鳥なんて、素敵よね。少なくとも、山賊じゃないわ。また、そおっと小さな家の窓まで 近づくと、息をころして背伸びをしました。小さな居間では、セロをかかえた若い男が かっこう鳥とむかいあってレッスンをしているようでした。かっこう鳥は一生懸命にか らだをまげて、かっこうかっこうかっこうかっこう、と叫びました。 しかし、若い男は険悪な顔をして、 「こら、いいかげんにしないか」 といって、セロをひくのをやめてしまいました。レッスンにしてはへんね、とアリス は訝しく思いました。先生にたいして、そんなふうに口をきくのはずいぶんです。もし もわたしだったらママにお尻をいやというほどぶたれるでしょう。 「こら、鳥」 と、若い男はもう喧嘩ごしです。「もう用がすんだら帰れ」 「どうかもういっぺん弾いてください。あなたのは、いいようだけれども少しちがう んです」 「何だと、おれがきさまに教わっているんではないんだぞ。帰らんか」 なんだ、とアリスは思いました。どうやら、そんなに仲のいい同士でもないし、先生 と生徒のおつきあいでもないようです。でも、だったらなぜ、いっしょに音楽をやって いるのかしら。喧嘩だったらあんまり見ることもないでしょう。アリスはつまらなくな って、窓からはなれると元の畑のほうに戻りかけました。若い男はそこそこにうまくセ ロをひくようですが、音楽家としては粗暴すぎます。アリスはかれにここがどこなのか 、質問するのがこわくなってしまったのです。 「がしゃっ」 アリスの背中で硝子にぶっつかる音がしました。アリスが急いでふりむくと、また、 がしゃっ、と黒い影が窓硝子にあたりました。 「あれはかっこう鳥だわ」 かっこう鳥があの家から逃げ出そうとして、あわてて硝子にぶっつかっているのでし た。助けなくっちゃ、とアリスは思いました。すると若い男の影が硝子にうつり、がた がたと窓を動かしていますが、なかなか開きません。 「ぐわしゃっ」 前よりもいっそう大きな音がして、かっこう鳥は硝子にぶっつかります。あのままで は死んでしまうわ、なんてひどいひとだろう。アリスはその家にむかってかけだしまし た。ふわっ、と浮きながら飛んでいることにアリスは気づいていませんでしたが。その とき、男が窓をけっとばしました。2、3枚窓硝子が割れて、窓はわくごと外れて、ぐ わっしゃん、というけたたましい音とともに落ちました。すっかりがらんどうになった 窓のあとから、アリスとすれちがいに矢のように飛び出して南のサソリ座のほうにむか うものがいました。かっこう鳥でした。たすかったのね、とアリスは安心しましたが、 くちばしから血がにじんでいるのがわかりました。 アリスはもうこわさよりも、身体じゅうがまっかな怒りの火の玉になって、窓からぼ んやりと外をみている若い男の前に立ちました。 「ちょっとあなた。鳥をいじめるのもいいかげんにしなさいよ。いったい何がたのし いっていうのよ!」 若い男はたましいがぬけたみたいにキョトンとしていましたが、 「鳥のあとは妖精か。もうきょうはつかれちゃったから、またにしてくれないか」 「そんなわけにはいかないわ。毎日あんなふうだと、鳥はきっと死んでしまうわ。こ れからは鳥にやさしくする、って約束をしなさい。しなければいけないわ」 若い男はこまったような顔をして、窓ぎわにのこっていた硝子の破片をとりのぞきま した。 「そこにも硝子があるよ。気をつけて。ところで、きみはだれ?」 「わたしはアリス。妖精じゃなくて、イギリス人だけど、まあいいわ、どっちでも。 ところで、ここはどこなの?」 ゴーシュはドアを開けて、アリスに入るよう合図をしました。 「イーハトーブだよ。ぼくはゴーシュ。この町の金星音楽団のセロ弾きだ。」 つづく。
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