すでに昼を過ぎ


                      written by グラウコン

 大学を留年した年の五月の終わり頃だった。その日の最後の講義が終わり、 学生たちがざわめきながら出口に向かっていくなか、前の方の席に座ってい た落合が背をまるめて私の方へやってきた。私は机の端に腰掛けて彼が来る のを待った。彼はいつものように、にやにやしながら声をかけてきた。  「いや、驚いたよ。聞いてない?」  私がなんだかわからずに落合の顔をじっと見ていた。彼は手のひらを広げ、 親指と小指で眼鏡の縁を押し上げた。落合は言いにくいことを言うときにい つも彼が見せる、ずるそうで少し照れたような印象を与える笑顔を浮かべて いた。  「涼子が結婚するんだってよ」  そう言ってから、落合は高いひきつるような声で笑った。思いがけず涼子 という名前を聞いて、胸のあたりに軽い痛みを感じた。涼子が結婚をする?  あまりに唐突で、その言葉が何を意味するのかすぐには理解できなかった。 頭の奥の方で赤く暗い光が点滅しているような気がした。  「涼子だよ、忘れたわけじゃないだろ」  落合の眼鏡の奥の頼りなげな目がからかうように笑っていた。その目は注 意深く私の様子をうかがっているように見えた。私は不快感と一緒に動悸が 高まるのを感じた。  「そりゃ、覚えているさ。あんまり急なことを言うから……涼子が結婚す るって」  「そうなんだよ」  「それは、驚きだな。いや、突然だな」  なんだか間抜けた返事をしてしまったような気がしたが、他に言葉が出て こなかった。  「そうだろ、驚くよな。久美子に聞いたんだよ。先週電話がかかってきて さ。結婚式の二次会の企画を立てようって相談だったんだけど」  「久美子って、前に一緒に遊びに来ていた女の子か」  「そうそう、涼子と同じ短大に行ってた井上久美子」  私は井上久美子の人の良さそうな笑顔とくりくりした丸い目を思い出して いた。  「他にもいろいろあってね」  そう言うと、落合は、くくっ、といつものように高い声で笑った。落合の 態度がこの事態を面白がっているようで私は不愉快だった。  教室には私たちだけが残されていた。室内の静けさが冷たい圧迫感となっ て私を取り囲んでいるようだった。私は息苦しさを感じた。  「なにか飲もうか」  そう言って、乱暴に自分のカバンをつかみ、教室のドアに向かった。  学内の喫茶店は生協と食堂だけを集めた白い建物の四階にあった。仕切の ない大きな窓にガラスを一面に張った窓際の席に私と落合は座った。  日が落ちかけて薄暗くなりはじめていた。さっきまで私たちがいた文学部 の白い校舎が赤みを帯びて、郊外の平坦な背景の中にそびえるように浮かん でいた。窓の下には、赤レンガ風の舗道が左右に走っていた。その道を一定 間隔に配置された照明灯の青白い光に照らさながら学生がまばらに歩いてい た。厚いガラス窓が完全に外の音を遮っていた。音のしない窓外の風景は物 憂げで、どこか悲しげだった。  私はコーラの入った大きなグラスを所在なげに触ったり、腕組みをしたり ほどいたりを繰り返していた。私が腕組みなんども繰り返したのは、もしか すると落合がテーブルにかぶりそうなほどに体を前に傾けて私の内面を知ろ うとする好奇心に、無防備にさらされないためだったかもしれない。  落合はコーヒーカップを二度、三度と口に運んで、最初に入れた砂糖の量 が適当かどうかを調べているかのようだった。それから彼は軽くうなずいた。 その仕草ではずみをつけたかのように話を切り出した。  「それで、涼子の相手の男だけどさ」  と、それだけ言って、落合は言葉を切った。私はなにも言わなかった。そ のしばしの沈黙に、私の心の底に先程からずっと潜んでいた疑問が突然目の 前にあらわになったような戸惑いを覚えた。相手の男。それが問題なのだ。 敵意を抱くほど具体的ではないのだが、私にとっては冷静でいられるほど友 好的な相手ではない。  「久美子から聞いた話では、三才年上でM商事に勤めている人らしい。人 当たりの柔らかい、やさしそうな人だって言ってたな」  「やさしい、か。よくいるタイプだね」  「背が高いんだけど、そんな感じはしなくって、つまり穏やかな感じで、 まあ、いい人ってことだよね」  「いい人ってのもなんだかよくわからないけど、いい人ならいいじゃない か。それにM商事って、でかい会社だろ」  「最大手だよ。本人もなかなかいい人らしいよ。ちょっと平凡かもしれな いけどさ」  「平凡がなによりでしょう」と私は笑った。  「中原とはまったく違うタイプだってことだな。中原はちょっと変わって いるからな」  「おれと違ってやさしい人か」  「涼子がああいう性格だから、ちょうどいいんじゃないか。中原には悪い けど、そういう相手の方が合っていると思うんだ。そういう方がしっくりい くんだろ」  「しっくりね。そういうものかな」  涼子がときおり火でも吐きそうな調子でものを言うのを思い出した。どこ かしゃくに障るような甲高い声で笑うことも。あの笑い声には彼女の自己顕 示欲がよく出ていた。こういう女としっくりいくおとなしくてやさしい男か。 私にはよくわからなかった。  「中原もしばらくつきあったみたいだから、よくわかるんじゃないのかな」  「おれと涼子はつきあっていたってほどじゃないよ」  「そうなのか。ふたりともはっきりしたことを言わなかったから、よくわ からないんだけど。なにやら訳ありだったよね」  「何もないって」  落合はしばらくの間、小さくうなずいてから、言った。  「でもいいのをつかまえたよね、彼女も。もっと遊んでから結婚するかと 思ったけど」  「抜け目はないよね。M商事だし。あのうるさい親父も満足だろう」と、 私は笑った。  涼子の家に電話をしたときに偶然出てきた彼女の父親は冷たく不機嫌そう に応対した。涼子を呼び出して欲しいと頼むとその父親は、何の御用ですか、 とさらに声を低くして尋ねたものだった。男が女にある用など性的な関心に 決まっているではないか。そういう言いにくいことをわざわざ聞くのは理由 がわかっているからでもあるのだろう。それとも、私がどこかの有名大学や 一流会社の名前でも出せばあの金持ちの父親はもう少しましな対応をしてく れただろうか。  私は店内を見回して、落合が伝えた男の印象に近い、つまりおとなしそう で、やさしそうなひとりの学生を見つけた。彼はソーダフロートのグラスと コーヒーカップをトレーに乗せて慎重に歩いていた。こぼさないようにバラ ンスを取りながら歩いているその姿は微笑ましくもあり、どこか情けない風 情でもあった。その学生は奥の席に座っていた女の子に言葉をかけ、二人の 間にトレーをおいて、向かいあって座った。この喫茶室はセルフサービスな ので、その学生は女の子のために飲み物を運んで来たのだ。  その男は落合の言うような印象がそのまま当てはまる、やさしくて、穏や かな、私に言わせれば至極つまらない男に見えた。おそらくそれに二三の特 徴を加えれば、あとにはとりわけ表現されるべきなにものも残らない、そん な男だ。もちろんそれが彼の見せている一面しか表現していないにしても、 私にはどうしても類型的にしか見えないのだった。彼が気弱そうな笑顔で女 の様子をうかがいながらしゃべるのを見ながら、私はその学生がつまらない 人間であることをほとんど確信した。涼子が一緒になろうとしている相手も またそいういう平板な印象のつまらない男であるのかもしれない。それこと は私には奇異なことである以上に滑稽なことだった。  しかし、涼子はメリットさえあればそういう滑稽なことも平然とやれる女 だ。自分を欺き、実利を取った自分を誇らしく感じながら、嬉々として自分 は幸せだとうそぶく涼子の顔が見えるようだった。  ひとしきりそうした思いをめぐらせた後、私は少し陰鬱な気分になった。 相手のことなどほとんどわかっていないのに、なにをそこまで決めつけて、 けなしているのだろう、と自分を冷笑した。落合が伝えたいくつかの相手の 男の印象。おそらく表現した久美子にしてみれば誉め言葉であったに違いな いそれらの印象だけで、自分なりに勝手な決め付けをして、相手の男を類型 的でつまらないやつだと思い込んだのは、私のその男への無意識の敵意であ り、侮蔑という形で現れたに自己防衛にすぎないのだった。そんなふうに考 えなければ自分の心のバランスが崩れてしまうほどに私はどこかで劣等感を 抱き動揺していたのだろう。  私は自分の暗い思考を追い払うように軽く頭を振った。  「それにしても早いよね」と私は言った。どこかでまだ揶揄したい気持ち が強く残っていた。「こっちがまだ学生なのに」  「早い方だとは思うけど、彼女は短大を出てもう三年目だからね。」  「三年か」  私は自分が涼子に強く引きつけられていたことがもう三年近くも前になっ てしまったことを遠くの絵を見るように眺めた。  窓の外はすっかり暗くなっていた。室内の様子がおぼろげにガラス窓に反 射していた。腕組みをして深い陰影の中で曖昧な表情をした自分がいた。  落合は急に何かを思い出したようにまた鞄の中をまさぐりだした。  「あ、そうだ。これ、持ってきたよ」彼は大学のロゴ入りの大きな封筒を 出した。「恥ずかしかったよ、五年になって、しかも今頃もらいに行ってさ」  「サンキュー、悪いね」  私は封筒を受け取った。それは春になって行われた就職説明会で配られた 資料だった。私たち二人は欠席したのだが、就職部に登録をするためには、 就職部に所定の書類を提出する必要があった。落合がもらいに行くというの で、ついでに自分の分も頼んでおいたのだった。  私は封筒からの資料を引っ張りだして、つまらなそうにペラペラとそれら をめくってみた。読むのも面倒だと思った。もう一年残ったらどうなるのだ ろう、と無気力な考えがふとわいた。そのときは、自分がなぜ二年も留年を したのか説明する言葉が見つからないだろう。今でもはっきりした説明など 親に対してもできなかったのだから。就職の面接官の前で言葉を失い虚空を 見つめている自分は、なぜ自分がそこにいるのかさえも説明できないだろう。 面接官は「なぜ、あなたはうちの社に入りたいのですか」と聞かれて、「わ かりません」とは答えられない。しかし、実際にどう考えて仕事を選べばい いのかわからないし、どの仕事も自分には向いていないような気がするのだ。  思えば、自分が大学に入って以来、心に重くのしかかっていた問題は、将 来の自分の姿がまったく描けないことだった。それは同時に、今の自分がど こへ向かうべきなのか、何をすべきなのかがわからないことも意味した。時 間がまっすぐ進まずに、ダリの描いた時計のように、時間そのものがぐにゃ りと曲がっているような感覚。自分の心も体も灰か砂のように形を失ったよ うな感覚。無としか言いようのない底の知れない空虚感。そんなものにいつ もつきまとわれていた。  「その履歴書、今月末までに就職部に出してくれって」  「ああ、これね」落合の声にふとわれに戻った。  履歴書には、家族構成や学歴の他に、特技や希望の職種、尊敬する人物な どを書く項目もあった。  「尊敬する人物か。これはどうしたものだろ。尊敬する気持ちってのがよ くわからないんだけど」  「適当に書いておけばいいんじゃないか」  「とりあえず二宮尊徳とか」  落合がくくっと高く笑った。  「中原はさすがに今年は観念するんだろ。おれも本当にどうしようかな。 やっぱり就職活動してみるかな」  「おまえはべつに勤めなくたっていいじゃないか。落合は家に帰ればいい んだろ」  「跡取りというのも迷いが大きいもんだよ。たいして大きくない店だしね」  そうつぶやいて落合は黙ったが、気楽そうに見えた。彼の実家は地方都市 で宝石店をやっていた。長男の彼はいずれ店の仕事を継ぐことになる。やり たくないと言いながら、いずれそうなるだろうをことを受け入れているよう だった。とは言え、すぐに家に戻る気にはなれないらしく、一度は就職して サラリーマンをやってみるつもりでいた。父親もよその家の釜の飯を食うの もいいと数年の猶予を与えているらしかった。  私と落合は裏門近くまで一緒に行った。部室へ行くからと私は落合と別れ た。あたりはすっかり暗くなっていた。  部室はサークル棟の四階にあった。自販機で買った紙コップのコーヒーを 持って部室に入ると、電気がついていたが、中には誰もいなかった。昨夜も 飲み食いをしたためかアルコールとつまみのまじりあった臭いがしていた。 私は少しべとつく床を踏みしめて部屋の中央を占めていた大きなテーブルを ぐるりとまわり、窓際の長椅子に腰掛けた。テーブルに無雑作に投げ置かれ ていた大学ノートを手に取った。新しい連絡事項は特になく、後輩の書き散 らした身辺雑記のような文章が新たにいくつか書いてあるきりだった。私も 何か書こうかとペンを出して構えたが、さきほどの涼子の婚約の話が頭に浮 かんで来て、考えがまとまらなかった。  私はゆっくりと立ち上がり、暗い中庭を見下ろした。ふたつのまるい照明 灯がうつむくようにして、レンガの床を寂しく照らしていた。何度となく見 続けてきた光景だった。中庭をぐるりと囲むサークル棟のいくつかの部屋か らは明かりとともにかすかに音が漏れていた。どこからか変な節をつけた低 い歌声が聞こえた。それから楽器らしい音。見上げると四角く開いた空にご くわずかの星が弱い光を発していた。  私は長椅子の上にごろんとなって目を閉じた。まぶたの上の明るさが鬱陶 しかった。電気を消しに立つのも面倒だったので、手近かにあった誰かが忘 れたタオルをたたんで顔の上に乗せた。そうして作られた暗がりの中で少し 気分が落ち着いた。しばらくそうしているうちに、まるい明かりの中に人々 の楽しげな姿や笑い声が見えてきた。私はそこに参加できないのだった。自 分からそうしないのか、やろうとしてもできないのか、それはわからなかっ た。その明かりの世界はやがてゆっくりと私から離れて行った。明かりはず んぶいと遠くまで行き、小さな点になって明滅してから消えた。私は暗闇の 中に残された。自分の側そばには誰もいなかった。しかしさみしいわけでは なかった。ただ全身を包む冷たさが少し不快なだけだった。きっと自分は暗 い穴の中にいるのだ。寒くてさみしい暗い穴に自分は落ちてしまったのだっ た。私はしんと静まった暗い穴の中にひとりいた。その静かさは私に不思議 と安心感を与えた。これでいいじゃないか、と私はつぶやいた。  ドアの開く音がして、話し声が二つ部室の中にやって来た。高い声の方が 私の名を呼んだ。  「中原さん?」  「おう」と答えて私は起き上がった。ほんの少しだけ目がかすんでいた。  「久しぶりですね」声の主は三年の青山だった。大阪から来ていた線の細 い男で、部が出している文芸誌の編集長をしていた。  「寝てたんですか」と新入生が笑顔を見せた。  彼らはテーブルの反対側でスチール製のイスに座り、編集の相談をはじめ た。  私は飲み残しのコーヒーを口に運びながら、その話を聞くでもなく聞いて いた。  「中原さんは今回は出さないんですか」  話がひと段落するとをしていた青山が聞いた。  「締め切りは来週ですよ。そろそろ読みたいな、中原さんの詩。ぼくが参 加したころは沢山書いていたじゃないですか。もう一年くらい出していませ んね」  「五年生も出していいのか」  「もちろん、かまいませんよ」  「最近は書いていないな。どうも駄目だ。意欲がなくなったみたいで」  「そうなんですか」  青山は怪訝な顔をした。どこか不満そうでもあった。  「書けないのか書かないのか自分でもよくわからなんだけど」  「締め切りが来ても書かないのは書く気がないからですよね」  「そうだろうな。こんなことをしていても仕方ないという思いが強くなっ たからかな」  「仕方がないって、今までやってきたことは意味がないですか?」  青山は少し苛立っているようだった。編集の話をした後でそういうことを 言われて不快だったのだろうか。  「意欲がなくなってみれば、そんなことを思ってしまうってことだよ。今 まで書いてきたことが意味がないと思っているわけじゃない」  「そうですか。でも、みんなの前ではあんまりそういう、仕方ないとか、 そういうことは言わないでほしんですよ」  「わかってるよ。真面目だなおまえは」  「部のムードが沈滞しているから、気になっているだけです。中原さんの せいじゃないですけど」  たしかに去年あたりから部室に来る部員の数は減っていた。それに伴って 集まる作品の数も減った。沈滞しているのは自分のせいもあるだろう、と言 おうとしたがやめた。青山が入部した頃は私もいくつもの勉強会を積極的に 企画していた。四年になったあたりからそうした活動もやめてしまっていた。 就職が近づいてから、すべて無意味に思えてきたのだ。それより以前から無 意味と言えば、すべて無意味に思えていたが、より深い無気力とあきらめが 自分を支配し始めたのだった。悪あがきの身振りが自分にも見えてしまった ということだろうか。今ではたまに部室に来て酒を飲んで帰るだけだった。  その晩、数人が集まってきたところで、みんなでお金を出しあって買った 酒と肴で部室で飲んだ。  目が覚めた後もしばらく布団の中にいた。すでに昼を過ぎているはずだっ たが、雨戸を締め切っていたので外の様子はわからなかった。暗闇の中にご くわずかの光が糸のように差し込んでいた。枕元の近くにあったマッチを擦 ると、赤い炎の投げかける淡い光で、机や本棚などの家具や壁が、記憶の底 から立ち上るように柔らかな形象を見せて浮かび上がり、やがてまた闇に沈 んだ。昨日の酒が残っているのか、ずいぶんと身体が重かった。煙草を吸う 気にもなれず、私はふたたび布団に身を横たえ、目を閉じた。  涼子のことを考えていた。彼女とのいくつかの場面を断片的に思い出した。 焦がれるような苦しみの中で彼女のことを諦めようとしたことも。そのうち に私は、彼女の結婚式の様子をどこからか借りてきたイメージを使って想像 しはじめた。イメージの中で、彼女は以前のままにきれいだった。だがそれ は彼女の容貌によってばかりではなく、彼女を浮かび上がらせるように当た るライトと、おさえても喜色満面になりそうなほどにこみあげてくる喜びの せいでもあった。白いウェデングドレス。細部までは見えなかったが、さら さらした光沢のある絹で作られた肘まである手袋をしていた。彼女はレース で包んだ花束を両手でそっと持ち、祭壇の方を向いていた。私はその姿を正 面から見ていた。どうやら私は牧師の近くの位置に視点を置いて彼女を見て いたらしい。男の方はやはり白い服を着ていたが、背が高くほっそりした体 つきがわかるだけで、どんな男なのか見当もつかなかった。それから場面は 教会の外に移った。教会の前には祝福をしようと待ち構えている人でいっぱ いだった。その中には久美子や仲井など、落合の高校のクラスメートが何人 かいた。彼らともずいぶん長い間会っていなかった。彼らとは落合を介して 知り合った。何度か一緒に遊びに出掛けた。涼子と知り合ったのも彼らとの 付き合いからだった。私はなぜだか彼らから離れて道路の反対側の茂みに身 を隠すように立っていた。涼子と相手の男が教会から出てきて、歓声があが った。しかし、歓声が上がったように見えただけで、音はなにも聞こえなか った。紙吹雪やテープやらが舞っていた。ゆるやかに風が吹いているようだ った。彼らの楽しげな喜びの風景を遠くに見ながら、私は煙草を出して、口 にくわえた。火をつけて、煙草を吸う自分の動作がやけにゆっくりとしてい て、もどかしかった。自分だけがスローモーションの中にいるか、違う重力 の中にいるようだった。  布団から出て、雨戸を開けた。室内に飛び込む光で目の奥に軽い痛み走っ た。私は大きく息を吸い込み、自分が仮死状態からゆっくりと蘇生するよう な気持ちを味わった。あるいはそれは打ちのめされたボクサーが徐々に意識 を取り戻すような気持ちなのかもしれなかった。  買ってきたパンで食事をすませ、しばらくテレビを見た。ドラマの再放送 が終わると、テレビにも飽きた。その日に限ったことではないが、何もする ことがなかった。読みかけの本を手にとっても読む進める気になれなかった。 春になってからずっとそんな調子だった。何かをしようという意欲が確実に 減退していた。  机の引き出しの一番上に載っていたノートを開いた。詩の断片の書かれた ノートだ。サークルの会誌に載せる詩をまとめようかとあれこれと頭を働か そうとしたが、気に入った形になりそうもなかった。しばらく断片を読んで からノートを閉じた。集中力がどうしてもやってこなかった。もういいよ。 こんなことは。そうつぶやいていた。なんともいたたまれない気持ちになっ て外に出た。意味もなくただ歩いた。途中、本屋によって雑誌を立ち読みし、 また歩いた。  夕日が沈み、寒気を感じることになって、アパートに戻った。留守番電話 のランプが点滅していた。伝言が入っていることなど、久しぶりのことでど きっとした。おそるおそる再生ボタンを押してみた。  「浩之、元気? お母さんだけど。そろそろ就職の準備をしているでしょ うけど、そのことでお父さんが心配してるの。浩之にその気があれば、お父 さんの会社か関連会社の方に紹介しようかと言っているのだけど、どうかし ら。一度連絡ください。たまには帰ってきなさいよ。それじゃ。」  母親の声でなぜか安心した。もしかして、涼子に関係のある電話ではない かとふと思ったからだ。別に何を怖れることもないのだが、そのことでなに か自分の心を乱すことがありそうな気がしていたのだ。  父親の会社と言っても、父親が経営しているのではなく、ただ働いている だけだ。ちょっとしたコネがあるからと言う意味でしかない。上場企業では あったが、そういうことに魅力を感じたこともないし、父親の知り合いのい るようなところに世話になる気にはとてもなれなかった。それは父親に対す る好悪の感情とは関係がない。そんなみっともないことができるか、という 思いだ。  授業の開始を待っていると、後から来た落合が私の右隣に座った。  「履歴書はどうした。おれは今出してきたよ。いよいよ就職活動開始する よ」  「まだ書いてない。写真とってないし」  「まったく相変わらずだな。そういう中原ってやっぱいいなあ」落合はく くっと笑った。「業種とか決めたか?」  「いや」  「いろいろ資料請求してみたけど、はじめてみると就職活動もけっこう面 白いぞ」  「遅れをとっているな、おれは」  「まあ、まだ間に合うよ。それで、涼子のことだけど。涼子の結婚披露宴 の二次会をパーティー形式でやるとかで、おれ幹事の一人になったんだよ。 それにはいろいろ友達などが気楽に出席できるようにするらしい。中原も来 ないか」  「おれが?」  「仲井とかあの連中が中原に声をかけろと言うんだよ。二次会だからな。 気楽な集まりにするから来てくれよ」  落合は彼の高校のクラスメートの名前を出した。しかし、涼子と顔を合わ せるわけには行かなかった。落合もなんでまたおれを誘うのか。気の利かな い奴だと多少腹が立った。  「そうなのか。元気でやってんのかな。みんな社会人だよな。でも、あん まり気乗りはしないけど」  「中原と涼子とのことはおれもよくは知らないけど、来にくいというのは なんとなくわかるよ。無理にとは言わないけど、でも昔のことだし、連中が 会いたがっていたよ。予定はないんだろ」  「まあ、気が向いたら行くけど」  どういうつもりで落合が言っているのかよくわからなかった。落合は頓着 しない風を装っていたが、私には半ば面白がっているように思えた。三年前 のことにこだわっていると思われるのは嫌だったので、行きたくない、と強 く言えなかった。しかし、こだわっていないふりをして出席して昔にように 振る舞える自信もないのだった。それに相手の男にどんな顔をして挨拶をす ればいいのか。そのことがふと頭をかすめると、怒りのせいなのか、恥ずか しさのせいなのか、体が熱くなった。  「とりあえず案内状を作ったら送るから、都合がついたら来てくれよ」そ う言って、落合は鞄の中を探った。「じつは写真を持ってきたんだよ」  写真屋がよくくれる紙製の小さなアルバムを私は受け取った。私は感情を 殺し、何気ない顔でページを繰った。涼子や久美子の姿があった。涼子はず いぶんと違った印象だった。昔に比べて多少痩せたように見えた。あか抜け ているようでもあったし、どこか仮面をかぶっているようにも見えた。自分 が知っている人なのに、まったく知らない人のような不思議な気がした。  「それだよ、それ」と、落合が腕を伸ばして、一枚の写真の中にいる男を 指さした。  細面の長身の男が照れくさそうに笑っていた。ドラマの脇役としてよく出 てくる二流どころのある役者に似ていた。やさしそうと言うよりも、気が弱 そうに見えた。その容貌はいわゆる男前ではなかった。そのことに私はちょ っとした安堵を覚えた。私は自信満々の男が不遜に笑っている姿を見ること を何より怖れていたのだから。  「おとなしそうな人だな」と私は言った。  私は紙のアルバムをまたぺらぺらとめくっては、最後まで見た。相手の男 が写っている写真が何枚かあった。印象の薄い男だ、と思った。つとめてそ う思おうとした。  「なるほどね」と私はさして興味も覚えなかったかのようにアルバムを落 合に返した。  教授が入ってきて、授業が始まった。いいタイミングだった。私はぼんや りとしていた。牛が食物を反芻するように、写真で見た男の印象と違った表 情を見せていた涼子の様子とを思い出していた。このふたりは落合の言った ように「しっくりいく」のだろうか。理解しがたいパズルを解くことに冷や やかな情熱を向けて、私は疲労を深めた。  一週間ぶりの部室には四人ほど部員がいた。青山は赤ペンを持って原稿を 読んでいるところだった。私を認めると青山は  「今日締切ですよ」  と声をかけた。  「書いてないよ」  「それじゃ、締め切ります」  どこか諦めたような口調だった。青山はまた顔をふせ、また作業を続けた。  もう、おれは終わっているんだよ、数に入れないでくれ、と言いかけた。 あまりに暗い響きがしそうで、胸のところで押しとどめた。  「誰かスーツ貸してくれないかな。上だけでいいいんだけど」  「僕のでよかったら」四年生のひとりが答えた。「ちょっと大きいかもし れないですけど、なんとか着れますよ。でも上着だけどうすんですか」  「履歴書の写真を撮るのにスーツがないんだよ」  「中原さん、スーツくらい買ったらどうですか」  「今は金がなくて。……六年生になっても部室に居座りたくはからな」  「いや、来てくださいよ。留年はうちの部の伝統だから。最近は四年で卒 業する人が多くてさみしいんですから。中原さんがいてくれると僕も留年し たときに心強いです」  「さあ、どうなるかな。学費を出してくれたら六年になるぜ」  「みんなでカンパしましょうか」  しばらく笑い声が続いた。私にはどこか苦いような思いがあった。自分に は別の道が用意されているような気がどうしてもするのだが、実際にその道 が見えていない現状では、諦めて就職活動を始めなくてはならない。それは わかっていたが、気分は重く、自分の中で何かを圧死させていくような苦し い感覚があった。私は早々に部室を退去した。ここに来るのはこれで終わり にしようと心の中で何度も繰り返しながら、校舎から駅へと続く長い坂道を 下った。  アパートに帰る途中、公衆電話から田舎の家に電話をかけた。公衆電話を 使えば、もうカードが切れるから、などと言い訳をして電話を早々に切るこ とができるからだ。母親が出た。  「留守伝のことだけど、就職は自分でなんとか探すからいいよ」  「ちゃんと卒業はするの? お父さんは授業料はもう出さないって言って るよ」  「平気だよ。問題ない」  「就職のことで相談があったら、お父さんとも話しなさいよ」  「大丈夫だよ、大丈夫」  そんな話だけをして切った。切った後、スーツを買うから、お金を振り込 んでおいてくれと言っておいた方がよかったかなと、少し後悔した。  しばらくして落合の言っていた案内状が来た。アパートの入り口の郵便受 けにチラシと一緒に押込まれたその葉書には、涼子が結婚する相手の男の名 前もワープロ印刷されていた。数葉の写真でしか見たことのない相手の男が 具体的な名前を与えられたことで、より現実的な存在感を増してきた。しか し、憎しみも脅威も感じなかった。男のおとなしそうな写真を見たせいもあ ったが、それよりも涼子の結婚は自分と涼子とのことをはっきりと終わらせ る契機となることにわずかながらでも救いがあったからだ。涼子が結婚する ことで、意識の底の方でくすぶっていたわだかまりに事実上の終わりがきっ と来るだろうことは私にとってプラスであるに違いないと思った。  葉書を手にアパートの自室に入った私は、立ったままその内容を読んだ。 文面は久美子や落合たちが集まって考えたのだろう。親しかった人が集まっ て、二人を祝福しましょう、という意味のありきたりの言葉がイラストの横 にはしゃいだ文体で書かれていた。会場となるレストランの名前と住所、簡 単な地図も印刷されていた。余白には井上久美子の直筆で、久しぶりにみん なで集まりましょう、とメッセージがペン書きされていた。自分の部屋の中 にまで誘いの言葉が進入してきたような感覚があった。久美子に悪意などな いだろうが、私は不快感を覚えた。  それから幾日かの間、私は奇妙な空想の中にいた。まったく行く気などな かったにもかかわらず、自分がそのパーティーに出席した場面を何度も想像 した。会場となっているレストランに入りどう挨拶をするのか。彼女とどん な言葉を交わすのか。相手の男とどんなことを話すのか。いくつかのバリエ ーションの中からきっとこうなるに違いないという一つの正解を求めるよう に枝分れをした空想を丹念に追っていた。私は何度も想像の中で苦しみの声 をあげ、そのたびごとに、ばか、くだらない、ちくしょう、などと鋭く小さ な叫びを発して悪夢から目覚めるように現実に戻るのだった。  涼子の結婚式の当日、私はいつものように午後になって目を覚ました。講 義もなかったし、他の用事もなかった。しかし、なにか理由を付けて出かけ なくてはと思っていた。家にいれば、落合かあるいは誰か昔の友達のひとり が、パーティーに出て来いと電話を掛けてこないとも限らなかった。そんな ことはあるわけはないとは思うのだが、そうした場面を私の想像の中で何度 も繰り返したことで一種の確信のようなものになっていたのだった。たとえ そんな電話がかかってきても、電話に出なければよいのだが、どんなことで 居留守がばれるかわからない、と私はそんなことまで恐れていた。それにそ の日、アパートに一人でにいるときっと落ち着かない気持ちで過ごさなけれ ばならないだろうことは目に見えていた。そうしたくだらない思いで頭をい っぱいにして、すでに何日も前から午後には外出しようと決めていた。  買ってきたパンを部屋で食べてから、すぐにでかけた。近所の本屋に入っ た。情報誌で面白そうな映画を調べて、それを見に行くつもりだった。古い 映画を近県のあまり聞いたことのない駅の映画館でやっていた。知らない映 画だったが、題名が気に入った。それに場末のきっとうらぶれたような映画 館で、湿った椅子に腰掛けているのも今の気分にはふさわしいと思った。  電車の窓から見えるゆっくりと流れていく街の風景はいつもと変わらなか った。大小のビル、道路。人気の少ないオフィス街。若者の街の雑踏。古く なった集合住宅の窓にかけられた洗濯物。ひっそりした専門学校の校舎。開 店前でまだネオンをつける前のいかがわしい店。窓の外に日曜日の風景が流 れていく。こういう時には違った面差しで自分の心を捉えるのではないかと 想像していたのに、いつもと変わらないよそよそしさだった。   古く小さな映画館の廊下には、学生や時間を持て余した映画好きの三十 前後の男女が数名、次の上映開始を待っていた。  映画は二本立てだった。一本は恋愛ものだった。私はその中に出てくる女 優が気に入った。なぜか彼女が理解できるような気がした。その女は知的で 情熱的だった。そして彼女は悲しげで、いつも一人だった。物語が悲しい結 末で終わったところも気に入った。  もう一本は田舎の家庭を描いた地味な文学的な映画だった。その映画を観 ているうち私はなんども繰り返した空想の中に落ちていた。  レストランを貸し切ったパーティー会場につくと、落合やら仲井やら何人 かがいて、私を迎えてくれる。涼子のところに挨拶に行くと、涼子は私を結 婚相手に紹介する。  「落合君の友だちの中原さん」  私は曖昧な笑顔でふたりにそれぞれ「おめでとうございます」と言う。  席に着いて私は酒を飲みつづける。パーティーの進行など見向きもせずに、 グラスを干していく。最近好きになったバーボンをストレートで飲む。かー っと焼け付く感じや、ふわふわしたものを拒絶する辛口の存在感が私の意識 をはっきりさせる。それでいながら、私はゆっくりと酩酊していく。自分の 意識が明瞭になるような感覚を感じながらも、私はゆっくりと解体していく。 私はしたたかに酔っている。果物ナイフをポケットに入れて、洗面所のよう なところに行く。男女のトイレは別になっていて、その洗面所だけが共通の ものなのだ。それは以前どこかで入った店の間取なのだ。そこへ涼子がやっ てくる。涼子は私に気づいて話しかけてくる。  「元気だった?」  「普通だ」  「相変わらずな挨拶ね」  「今は何をしてんの? 留年したんですって」  「残ったよ。副業で詩人をやっている」  「まあ、面白い。収入があるの?」  「詩人はだらだらと生きていることが仕事でね。怠惰であることが義務な んだ」  「いい身分だわね」  私は涼子の手を握ろうとする。彼女はさっと手を引っ込める。  「もうそういう関係じゃないんだから」  もう一度手をのばしても同じだ。彼女は腕を後ろにまわして冷たく言い放 つ。  「やめてよ。人が来るわ」  「連絡先教えてくれよ。引っ越したんだろ」  「新婚旅行から帰ったらみんなに葉書をだすわ」  「今教えてくれよ。おれは時間があるから、いつでも会えるよ」  涼子は驚きなのか軽蔑なのか奇妙な表情をした。  「そこをどいてくれる」  私は出口のドアを背にして立っていたのだった。  「ねえ、どいてくれる」  私は黙ってポケットから果物ナイフを出す。涼子の眼が大きく見開かれる。  「大きな声を出すわよ」  涼子は私をじっと見た。自分はこんな酔っぱらいは少しも怖くはないのだ、 と言いだしそうな表情をしている。  「本気よ、大声を出すわよ」  私は横へ一二歩ずれて、ドアの前から外れて立った。涼子は私を横目でき つく見て、無言で出て行った。  映画のストーリーはもうわからなくなっていた。その家の小さな娘が何か を悩んでいるのを父親がなだめようとしているらしかった。わからないまま 私はその映画を最後まで観た。  映画が終わった。私は廊下のベンチに腰掛けていた。次に何をしようか。 まだまだ時間はありそうだった。腕時計を見た。すでに披露宴の二次会が始 まっている時間だった。私はバッグから、落合から届いた例の案内状を取り 出した。必要もないはずなのに、その日出がけにバッグに入れたものだった。 私はそこに書かれた二次会の案内を見た。もちろん今から出席することなど 有り得ないのだった。私はジーンズで家を出て来ていたのだし、一度アパー トに戻って着替えたら、時間的にもう間に合うわけもなかった。  私は映画館を出て、曇り空の下をまっすぐ駅へと向かった。  窓外の景色に急速に高層ビルの数が増えていった。窓ガラスに横向きに雨 粒が流れた。山手線に乗り換えて何駅か過ぎ、案内状の地図にあった駅に来 た。私は少し迷って電車の扉が閉まる寸前にホームに降りた。改札を出て、 駅舎の端から少し薄暗い雨空を見上げた。腕時計を見ると、二次会が始まっ て一時間を少しまわったところだった。駅の構内にあった花屋でビニール傘 を買った。最初透明なビニール傘を手に取ったが、顔が見えにくいようにと 青いビニール傘に変えた。赤や黄色のまじった鮮やかな花束を買ってみよう かとちらと思った。なにを馬鹿げたことを、と冷たい笑いが心に響いた。案 内状をもう一度バックから出して、地図を確認した。葉書を折って上着のポ ケットに入れて、雨の中を歩きだした。  ただ近くまで行ってみるだけだと自分に言い聞かせた。すでにパーティー は始まっているし、一時間しかたっていないのだから、まだ帰る人間もいな いはずだ。誰にも会わないで行けるだろう。幹事の落合や久美子が外に出て 人を待っているわけもないだろう。仲井たちも外を歩いているはずはない。 こうやって傘を深めにさしていれば、誰も気づきはしない。何をしたいんだ、 おれは。どうするつもりだ。私の中にまたしても冷たい笑いが起こった。  私は飲食店の並ぶ通りに入った。そこから十数メートル先にでパーティー 会場があるはずだった。目を凝らしてみると、道の右側に会場になっている レストランの看板が見えた。私はゆっくり歩いた。青く透き通ったビニール 傘を目深に下げて、店のまわりの様子をうかがって歩いた。私は店の中にこ だましている歓声をふと想像した。しかし小雨の降る道路は静かだった。ほ んのすぐ近くまで来ていた。私は店を横目で眺めた。入り口のドアに大きな 文字で貸し切りと書かれた紙が貼ってあった。そのレストランの反対側にち ょうど喫茶店があった。私はその喫茶店に入った。  店を入って、すぐに後ろを振り返った。喫茶店の大きな窓ガラスにはいろ いろなポスターや飾りがかかっていて、その隙間から向かいのレストランが 見えた。のぞき見をするにはちょうど都合がよかった。レストランはドアか ら入ってすぐの手前の部屋とその部屋からさらに右手奥に入った部屋のふた つに分かれているようだった。手間の部屋にはイスやテーブルが寄せてある だけで人はいなかった。テーブルの上に段ボール箱などが見えた。右奥の部 屋に人が集まっているらしかった。とにかくそこから見える範囲には人はい なかった。それを確認してから、喫茶店の奥に入って席を取った。  ウェイトレスにミルクティーを注文した。  私の座っている位置からは向こうのレストランの様子はほとんどわからな かったが、レストランのドアの近くには電話台があるのは確認できた。こち らの喫茶店の公衆電話から誰かを呼び出してみようか考えた。しかし一体誰 を呼ぶのだろう。落合か、まさか呼んでもしかないだろう。涼子。どうやっ て呼び出す。自分の名前を告げるか。それはいやだった。中原さんからお電 話が、などとみんなの前で告げられるのは恥辱のように思えた。では、偽名 を使うか。出てくれるだろうか。  入口近くの公衆電話のところまで行った。明かりに照らされた向かいのレ ストランの入口部分がよく見えた。向こうからも多少は見えるのだろうが、 しかし、こちらの店は少し暗かったし、電話の位置も窓ガラスから通路を一 つ隔てた距離があったので、向こうからはよく見えないだろう。それにこち らの店の窓にはポスターがいくつか張ってあり、その隙間にいる人間などほ とんど気がつかないだろう。私はポケットから折った葉書を出して番号を確 認し、向かいのレストランに電話を入れた。しばらくコールが続いた後、奥 の部屋から電話の前にしゃれた制服を着た女性が現われた。女は店の名前を 告げた。  「あの、パーティーをやっていると思うんですが」  「はい、やっております」  「山際涼子さんをちょっと呼んでいただけませんか」  「はい、少しお待ち下さい」  女店員は受話器を横の台にさっと置いて奥に消えた。私は自分の名前を告 げないですんだことでほっとした。機械的で単調な音楽が流れはじめた。涼 子を旧名で呼び出したのに気づいた。意図したわけではなかった。  少しして、光沢のある淡いピンクのドレスの女性が現われて、受話器を拾 い上げた。一瞬、横顔が見えたきりで、彼女は私に背中を向けていた。  「お電話かわりました」  少しよそ行きの高い声を出していたが、涼子の声だった。私はなにも言わ なかった。音が漏れないようにと受話器を手で押さえた。涼子の背中を過去 の反芻するようにじっと見つめた。  「……。もしもし」  受話器の向こうで、窓ガラスの向こうで、涼子は私が誰なのかを知ろうと していた。彼女は少し左に体を開いた。涼子の左顔が見えた。私は身を堅く してその様子をただ見ていた。外はすでに夕闇となっていた。道路の向こう の明かりの中に涼子は遠くの音を聞こうとするかのように受話器を耳に押し あてて立っていた。彼女は髪型を上の方にあげてセットしていた。手袋や首 飾りが見えた。  彼女はもう一度、「もしもし」と言った。  彼女がこちらを振り向いたりしないかと私は急に不安になって、ゆっくり と受話器をおろして電話を切った。涼子は不思議そうに受話器を置いた。そ のまま少し彼女は立っていた。それから踵を返してさっと早足で奥の方へと 姿を消した。  私は支払いを済ませ店を出た。もと来た道を引き返し国道沿いの道に出た。 駅には向かわずに国道沿いの道をそのまま歩いた。雨が強くなっていた。風 が横から吹きつけてきた。  小さく、「バカ、死ね」と私は声を出していた。クスクスと笑いが込み上 げてきた。車道の水たまりに私自身が転がってのたうちまわっているのが見 えた。わあわあと声をあげて私は転げまわっていた。その幻想があまりにリ アルだったので、私は足を止めた。のたうちまわっている自分はこなごなに 砕けて、形をうしない、ゆっくりと消えた。水たまりを雨が打つのをしばら く眺めていた。私は「くだらない」とつぶやいて、また車の轟音を聞きなが ら歩きはじめた。

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