written by YASUO
私は脅迫的なネオンに背を向け、地下鉄へとつながる穴に向かって歩いてい た。街の風が新聞紙を走らせている。浮浪者、女の厚化粧、いまだ温かい吐瀉 物、腐った油と煮込んだ豚の骨、すべてが揮発性を有するように街の風に容易 に溶け込み、漂っている。帰りたかった。私は道路標識に寄りかかると崩れ落 ち、タイルで敷き詰められた歩道に座り込んだ。帰る場所は無かった。私も街 の風に容易に溶け込み、漂う断片に過ぎなかったのだ。思い出すことも少なく なった妻の断片も私と共に、この街の風に漂っている。何度試みたことだろう。 私は恐る恐るもう一度、自らの手で自らの体を触ろうと考えたが、小さくため 息をついて諦めた。そして、酒場での記憶。そう、あの日の酒場での記憶と共 に街の風に漂い「物語は続いているのだろうか」と、私は思い続けるのである。 永遠に。 その店に残っている客と言えば、私一人だった。 いつのまに、こんな薄汚いバーで酔いつぶれてしまったのだろう、私は勘定 をすまそうと、朦朧とした意識にまごつきながら、背広のポケット、内ポケッ ト、ズボンのポケット、やたらにあちこちへ手を突っ込んで財布を探した。 「あれえ、おかしいな。どこにしまったかな」 カウンターの丸椅子から立ち上がり、ひくっと一度しゃっくりしたのち、店 の中を見まわした。客だけでなく店の主人もいないようだ。カウンター席だけ の小さな店である。酔い潰れた客一人ほったらかして不用心なものだと思いな がら、私は店からでようとした。財布どこにしまったっけと首を傾げながら、 店の扉を押し開いた。 「ねえ、あんたどこへいくつもりなのさ」 年増女の甘ったるい声が背中におおいかぶさった、勘定をすまさないで店を 出ようとした後ろめたさがあった私は、その声にどきりとした。 振り向くと声の印象とは異なり、若い女が壁にもたれかかっていた。丸顔で 愛嬌のある一昔前の清純派アイドルといった顔つきの女だった。見たことのあ る顔だったが思い出せなかった。声にも聞き覚えがある。彼女は人を見定める ような目つきで私をにらむと、「あんた、勘定まだすんでいないよ」と、顔に 似合わぬ声でしゃべり、その後、右手でたばこをくわえ、左手を私の方へつき だした。 私は今思い出したようにとぼけ、再びあちこちのポケットに手を突っ込んで 財布を探しながら、彼女の方に近づいた。彼女は同じ姿勢のまま、同じ目つき で私をにらんでいた。 「おい、おい、それが客に対する態度かよ」と、私はできるだけ怒らせないよ うに愛想良く彼女を咎めた。 彼女は視線を天井に向け、ゆっくりと煙を吐き出すと、再び私に視線を向け、 「いま、なんていったの」と、人を小馬鹿にしたような口調で言った。 「客に対して、そんな横柄な態度をとるなんてどういうつもりだっていったん だよ」 腹の立った私は、知らず知らずの内に声をあらげてしまったようで、店中に 私の声が響きわたった。狭い店で大声を出した自分が少し恥ずかしくなり、ま たそんなことをさせた彼女にますます腹がたった。 「なにさ、馬鹿みたいに大声だしてさ。こそ泥みたいに勘定もすませないで店 から抜けだそうとしてたくせに。文句があるんならさっさと勘定すませて、で てってちょうだい」 「いや、大声だして悪かった。あんまり怒るとかわいい顔にしわが増えるよ」 愛想良く笑ったつもりだったが、どうやら相手にはいやらしく下卑た笑い顔に しかうつらなかったようだ。 「うるさいわね。馬鹿じゃない」 虫の居所が悪いのだろうか、これだけ客にからんでくる女主人というのも珍 しい。こんな客の扱い方も知らないような若い女主人と口げんかしてもはじま らない。 「いやあ、わるかった。わるかった」私は苦笑して謝った。「勘定をすまそう と思ったら、誰も見当たらなかったんだよ」 彼女はまたしても人を見定めるような目で私をにらみつけ、「誰も見当たら なかったねえ。ああ、そうなの」そうつぶやくと嗜虐的な笑みを一瞬浮かべた。 「ふうん、あんたってそういう人なの。店のものが見あたらなかったら平気で 勘定も支払わずにでていくような、そういう人なの。なるほどねえ」 私はいい加減嫌気がさして、彼女を無視して財布を探しはじめた。だが、財 布はどこにもなかった。 「どこへやったんだろう。おかしいなあ」 私は、苦笑を浮かべながら彼女の顔をのぞき込むようにして、「どうも財布 をどこかでなくしたようだ」そうつぶやいた。 彼女は、くりくりとした大きな目を細め、色白の顔をしだいに紅潮させ、口 元には嗜虐的な笑みが隠せなくなってきた。そして、ふふっと不気味な笑い声 を洩らしはじめた。彼女の口元から洩れる不気味な笑い声に私はぞっとした。 「そんなことだろうと思ったわ」 彼女の言葉に私は笑いでごまかすしかなかった。 「何を笑ってごまかしてるのよ」彼女から笑みは消えた。 「わかった、わかった。連絡先教えるから、後日必ず支払いにくる。今日のと ころは勘弁してくれ」そう言って、私は名刺を彼女に手渡した。 名刺にちらっと目をやったかと思うと、彼女は哀れむような表情で私を見つ め、「あんた本当に馬鹿ね」そういうと名刺を胸の谷間にしまい、新しいたば こに火をつけた。 妙なところにしまいこみやがったなあ。おれを誘ってるのかな。妙に絡んで くるしなあと思い、胸のあたりをじっと見つめた。ほおう、けっこうおっぱい 大きなあ。肌も玉のようにきめ細やかで匂ってきそうだ。よく見るとなかなか いい体つきしてるなあ。そういえば最近、若い女とはご無沙汰だなあ。むふ、 むふふ。 「すけべ面さげてどこみてんの、あんた。豚みたいな鼻おっぴろげて。醜悪ね」 私の一番気にしてる鼻の形をずけずけと嘲笑われた私は、猥想から醒めると 怒りがこみ上げてきた。 「ちょ、ちょっと、電話を貸してくれ。友人に電話する。さっきからおとなし く聞いてたらいい気になりやがって、馬鹿にするのもいい加減にしろ」 「電話ならそこにあるわよ」彼女が指さした先にはピンク電話がおいてあった。 「すまないが電話代貸してもらえないだろうか」 「ふん、電話代もないくせに豚みたいにブーブー騒いじゃってさ。土下座して 貸してくださいっていったら貸してあげてもいいわよ。ふふふ」再び彼女の顔 には嗜虐的な笑みが戻っていた。 一瞬わたしは、彼女に対する殺意さえ感じたが、気持ちを抑え、できる限り 丁寧な言葉使いで彼女に電話代を貸してもらえるよう頼んだ。 「偉そうな口をきいて悪かった。いや、すいませんでした。この通り謝るよ。 ね、だから、電話代かしてください。お願いします」電話代ごときで何故こん なにぺこぺこしなきゃならないんだ、くそっこの性格ブスの三文売女め、そん な思いにとらわれながら私は、彼女に頼み込んだ。 「土下座しなさい」彼女のこれが最後通知よと言わんばかりの物の言い様に、 私は自分の耳を疑った。 「き、君は本当に、わ、私に、電話代ごときで土下座をさせるつもりなのかね。 いい加減にしろ。もう怒った。金なんかびた一文払うものか」私は再び扉の前 までいき、扉を開けようとした。その時ぐいっと力強い腕で私は両肩をつかま れカウンター席の方に向かって投げつけられた。それは、私にとって何か避け られない意志のちからのように感じられた。 気がつくと私は、ずらりと並ぶ丸椅子の間に体を埋めていた。両の手はそれ ぞれ丸椅子にゴム紐できつく縛り付けられ、指先の感覚は既になかった。衣服 は剥ぎ取られ丸裸で、人間の尊厳も何もかも無視された様な状態であった。 「いったい何の権限があって、私をこんな目に遭わすんだ。はやく紐をほどけ! 」私は、泣き声にちかい叫びをあげた。 彼女は私のいった言葉をそのまま繰り返すと腹を抱えて笑い転げた。「いっ たい何の権限があって、私をこんな目に遭わすんだ。はやく紐をほどけ!」も う一度繰り返すと、またもや腹を抱えて笑い転げた。 「な、何がおかしいんだ」私がそういうと、彼女は私の目を見つめ、にこりと 微笑みウィンクした。 「ちょっとまっててね。先生」そういうと彼女は奥にひっこんだ。私は自分の おかれている異常な状況が全く信じられず、暫し茫然としていた。彼女が再び 私の目の前に現れたとき、私は驚きのあまり言葉を失った。 「先生、私のことおぼえてるかしら。ふふふ」彼女の身につけている制服は、 私の勤めている中学校の制服だった。 「お、お前は」私がそこまで口に出したとき、彼女は私の頬を平手打ちにした。 「だまれ、このくそオヤジ!私はあんたにとって女であること以外、何の関係 もないのよ」 痛みと共にしょっぱい味が口の中に拡がっている。とても女のちからとは思 えない。彼女はそうだ。私が今勤めている中学校に赴任した八年前・・・うう っ・・やめてくれ・・・頭が割れそうだ。 「つまらない話をつくろうったて無駄だわ。私とあんたの関係なんて読み手が 勝手に創造するのよ。私をあんたと関係づけて物語に縛り付けようとしたって、 そうはいかないの。先生、この町の出身だったかしら」彼女が私の出身地を聞 きたがっている事以外は、何をいっているのか理解できなかった。 「いや、私は幻護町出身だ」 「子供さんはいたっけ」 「ああ、14歳になる娘が一人。それがどうした」 「私に質問するなんて許さないわ」そういうと彼女の平手がまたもや私の頬に 打ち付けられた。 「お願いだ。助けてくれ。いったい何の目的があってこんな事をする」私は力 無くつぶやくように言った。 「なんていったの。聞こえなかったわ、せ・ん・せ・い」彼女は私の耳元でそ うささやくと、私の耳たぶに舌を這わせた。 「もう一度おっしゃって、せんせい。さあ」彼女は私の顎を右手でしゃくり上 げながらそういうと、舌で口元から流れ落ちる血を優しくなめあげた。 「お願いだ。助けてくれ」そういったとたん、彼女の平手が私の頬を往復した。 「あんた、何の目的があってこんな事をするのかって訊ねたわね」 私は小さく何度もうなずいた。 「目的ってなによ。目的って。いい加減にしてよ!あんたを物語にすぐにでも 閉じこめ、抹殺したってかまわないのよ」 私は彼女の言ってることが理解できなかったが、抹殺という言葉に恐怖し、 目を剥いて、何度も首を横に振った。 「お、俺が悪かった。許してくれ。お願いだ。もう許してくれ」 「許してくれって私にいってるの」彼女は哀れむような目で私をみつめた後、 首を何度か横に振った。 「あなたは何もわかっていないのね。私が許したからってどうにもならないの よ。あなたは既に、この物語に生まれてしまったの。過去に戻って書き変える 事もできないわ。あなたはこの物語の主人公で、そしてこの物語の中で個を与 えられつつある存在なのよ。そして私はあなたにとって何者でもないのよ。も う既に遅いけれど、許しをこう相手がいるとすれば、それは私ではないの。わ かるでしょ。その相手が誰かなんて事は、いくらあなたが馬鹿だとしても、そ れぐらいのことは」 「どういうことだ。あの時のことを怨んでの復讐じゃないのか」 「復讐って、あなたの物語はあなたの中に潜在しているかもしれないけど、今 のところこの物語に顕在してないから、私があなたを怨む理由は何もない」 「何を言ってるんだ。怨みじゃないとすれば何なんだ。誰かの命令か」 「命令ねえ。命令という言葉もしっくりこないわね。意志かしら。何者かの意 志。あなたを生み、そしてあなたを消す。何者かの意志」 「遺志?」 「違うってば、意志よ。私にも、それは誰だかわからない。ましてやあなたに わかるはずはないかもね。今この瞬間、私がしゃべっているこの言葉も、何者 かの意志がしゃべらせてるのよ」 私はわけが分からなくなり、ぐったりとうなだれた。 その時、カランコロンと乾いた音共に、中年の女が一人入ってきた。派手な 化粧に安っぽい香水の匂い。ゆったりとした長めのスカートからでもひどいO 脚であることは、はっきりとわかる。彼女は買い物袋をカウンターに置くと、 私を見て、驚いたような顔をして見せたが、あまりにも大袈裟で芝居じみてい た。 「な、何してるの!そ、その人は、いったい誰」 「何してるのって見たらわかるじゃない」と、彼女は顔色一つ変えずに答えた。 「そうね。あなたがそんな風にその男を扱うのも無理ないわね」中年の女は、 そういうと買い物袋を再び手につかみ、奥に行こうとした。 私は中年の女に向かって助けを求めた。 「助けてください。私は何がなんだかわからないのです」 「私にだってわかりませんよ。大体、何故私がここに登場したのかも私自身わ からないのですからね」 「あなたは彼女の母親ですか」 「そうですよ。と私がいえば、そうなるのでしょうけど、どうなんでしょう。 あなたは、彼女とは知り合いなの」 「勿論、知っています。彼女は・・彼女は・・わからない。だけど、彼女が私 に怨みをもっていることは知っています。その怨みとは・・怨みとは・・わか らない」 私が彼女の私に対する怨みについて考えている間に、中年の女は輪郭がぼや け、そして空気中に消え入ってしまった。 「消えた」私はもう何もかもわからない。何もかも認めたくない。 「消えたわね。でも彼女は、あなたにわからないだけで、どこにでもいるわ。 どんな姿であらわれるか、私にもわからないけど。あなたの意志では彼女とあ なたを関係づけることはできない。それだけのことよ。愉快だわ。さあ、お話 を続けましょ」 私は、刑事に尋問されている容疑者のようなものだった。 「娘、何て名前?」 「りょうこ」 「奥さんの名前は?」 「はなこ」 彼女は爆笑した。「嘘でしょ。ぎゃはははは。そんなおかしな名前。ぎゃは はは」「何がおかしい。名前を聞いて笑うなんて。あなただって、自分の名前 を笑われたら気分が悪いだろう」私はそういって彼女をにらみつけた。すると、 彼女の輪郭が一瞬ぼやけた。 「私に名前は無いわ。あなたの名前・・いっていいの。そろそろ気づいてもい い頃じゃないかしら。あなたはこの物語に主人公として生まれてはきたけど、 まだ完全じゃないの。助かるかもしれないのよ。個が確立してるわけじゃない のよ」 「助けてくれるのか」私は目を輝かせた。「どうすればいい。どうすれば助け てくれる。何でもする、いってくれ」 「何でもする?」彼女は困ったような顔をした。「何でもするといわれても、 何かをすれば助かるというものでもないわ。私、正直言ってつらくなってきた わ。ひどいはなしよね、これって。はなしは続けなければならない、続ければ あなたはあなたになり、あなたは死に近づく。あなたをあなたにしようという 意志はあなたを逃がしはしない。あなたはあなたであることを何の根拠も無し に疑いはしない。あなたをあなたにする行為はあなたを死に近づける。あなた はあなたは、あなあなあなた、あなたあなた」 彼女は仰向けにどたっと倒れた。 「どうしたんだ!」私は彼女に向かって叫んだ。 「あなたを助けたいの。このままこの物語を終わらせるのよ。この物語が終わ ればこの世界は消える。未だあなたはあなたでないの。そうよ、あなたはまだ 名前さえ与えられていないのよ。あなたを助けたいのよ」彼女は涙ぐんでいた。 「何をいっているんだ。何を泣いているんだ。私の名前は・・わからない。何 でなんだ。自分の名前がわからないなんて、どういうことだ。自分で自分が何 者かわからない。嘘だ。どうなってるんだ」 私はパニックに陥りそうになり、自分の精神的均衡を保つ拠り所を求めてあ ちこちに視線をとばした。しばらくして私は彼女の胸に目をやった。そこには 先程彼女に渡した私の名刺が挟まれていた。 「お願いだ。君の胸にはさんである、私の名刺。そこに書いてあるわたしの名 前を読み上げてくれ」 「あなたは何もわかっていない」相変わらず彼女は涙ぐんでいる。 「信じられないことだが、自分で自分がわからないんだ。その名刺は私のもの だ。それを見れば私が誰であるかわかるはずだ」 「どうしても知りたいの」彼女は上半身を起こすと、私の名刺を胸の谷間から 抜き取った。 「あなたは、この物語にひとりきりで生まれ、ひとりきりで消えていくのね・・ そんなことはさせないわ。私もこの物語に生まれ、あなたと共に消えていくこ とにする。私は君島花子。この物語はもうすぐ終わる。そして私もあなたも消 える。すべてが消える」 「何をいってるんだきみは。ばかばかしい。物語だなんて。そんなばかな!そ んな・・物語だなんて・・何をいってる。わたしは現に今、ここに存在するじ ゃないか。わたしは今、ここに・・ここに・・うわっ!どうなってるんだ。わ たしの顔がない。顔がなければ笑うことも泣くこともできないじゃないか。わ、 笑うぞ、私は。笑うぞ。『ははは』何だこれは。泣くぞ、私は。泣くぞ。『し くしくしく』何だこれは。どういうことだ。体もないぞ。あれもない。これも ない。いやだ。たすけてくれ。出せ、ここから出してくれ!お願いだ!だして くれ、たすけて、ちがう。おれは、こんな、わたしはイヤだ、だせ!だしてく れ」 「名刺、読み上げるわよ」彼女はそういったきり何もしゃべらなかった。
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