橋姫


                      written by 三鷹板吉

     「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫」(古今集) 「変な女がいるのよね」  唐突な妻の佐和子の言葉だった。六月も終わりに近い雨の夜。九年前に引っ越し てきた築三十年近い公団アパート。ベランダの錆だらけのスチールサッシを閉め立 ててエアコンを回しても、どこからか、じっとりと湿った空気がダイニングにまで 忍び込んでくるようだ。 「良太の通学路の途中に、国道を渡る歩道橋があるでしょう。信号も横断歩道も無 くて歩道橋渡るしかないんだけど。あの橋の上にね、変な女がいるの」  妻の佐和子は純一より一回り年下で、今年で三十三になる。この四月に小学校二 年生に進級した息子の良太は、ダイニングからふすま一つ隔てた子供部屋で、もう とうに寝ている様子だ。 「変な女って?」 「真っ黒な着物を着ているのよ。歩道橋の上に突っ立って、通って行く子供たちの 顔を一人一人、じっと見てるんだって」  真っ黒な着物、と佐和子は言った。喪服という言葉があるだろうに、と純一は思 い、妻が無意識にかその言葉を避けたことに気がついた。九年前の、あのことのせ いか、と思い当たった。 「団地の住人じゃないのか」 「そんな女が住んでいたら、すぐに噂になるわよ」と佐和子は笑って見せた。その ような異分子を見逃すほど団地の母親たちは鈍感ではないし、黙殺できるほど寛容 でもないでしょう、と今更ながらの確認を夫に求めるように。  事実、純一と佐和子が、この団地に引っ越してきた九年前、佐和子の最大の努力 は、平凡さを装うことにあったのだ。私たち一家は異質な人間ではない、この団地 への引っ越しにも特別な事情などない、と周囲の女性たちに印象づけることが。そ して、二人がここに来る原因となったあのことは、けして知られてはならなかった。 「気になるなら、その女に直接聞いてみればいいじゃないか」 「あたしもそう言ってやったのよ、でもね」と佐和子は説明を始めた。その喪服の 女を見たというのは、団地から小学校に通う子供たちだけで、佐和子も含めた母親 たちは、誰一人そんな女に会ってはいないのだ、と。 「あの歩道橋は、小学生以外、ほとんど使う人がいないでしょう。大人がいるだけ で、目立つと思うんだけどねえ」  その女の正体も目的も不明ながら、いつの間にやら子供たちの間では、ハシオン ナとか何とか変な名前で呼ばれて、怪談じみた噂の対象にまでなっている。母親た ちも気にして、子供の登下校につきあって歩道橋を渡ってみたりもしたのだが、そ ういう時に限って女は現われないのだ、と佐和子は言う。警察に相談した母親もい るが、子供の噂に必要以上に神経質になることもないのでは、とあまり真剣にとり あってもらえなかったようだ。 「団地のお母さんたちで交替で見張ろうかって話も出ているのよ」 「そんなおおげさな」 自警団ではあるまいし、と言いかけた純一に対して、 「最近は、子供に危害を加える通り魔みたいなのもいるようだし、万一のことがあ ったらとりかえしがつかないでしょ。それにあの歩道橋、前にも事故があったじゃ ないの」  それは純一と佐和子がこの団地に越してくる数年前のことだった。歩道橋を使わ ずに国道を自転車で渡ろうとした団地の小学生が、前方不注意の四トントラックに はねられて即死したのだ。片側三車線の広い国道で、行き交う車も相当にスピード を出している。雨の日の日暮れ時で、それでなくとも事故が起きやすい条件が揃っ ていた。  佐和子はその話を、引っ越してすぐに、近所の女性たちの井戸端会議の輪に巧み に潜り込んで、聞き出してきたのだった。子供の身体はトラックの車輪に巻きこま れ、遺体はほとんど原形をとどめていなかった、というようなことまで、佐和子は 純一に話した。一人息子を亡くした一家は、その後半年ほどして団地を去ったとい う。 「もしかして、ウチに前に住んでた人なんじゃないかと思って、ついつい根掘り葉 掘り聞いちゃった。でも、別の棟の人だったみたい」と無邪気に話して、夫の表情 の険しさに気づいた。あのことがあってまだ間が無いのに、また、佐和子自身身重 であるのに、そのような噂話を口にするとは、という無言の非難を込めたものだっ た。ごめんなさい、と佐和子は小さな声で謝った。そのことを純一は今でも覚えて いた。 「あんまり、おかしなことに関わるなよ」と純一が言わずもがなの言葉を口にし、 その夜の話はそれで終わった。だが、橋に佇む喪服の女のイメージは、純一の脳裏 にずっと残った。それは、まぎれもなく純一自身の過去、九年前のあのことに繋が る風景であった。  その週末、純一は久しぶりに息子の良太と一緒に風呂に入った。  子供の身体は日向の匂いがする、と純一は思った。テレビゲームに夢中になり、 ろくに外遊びもしていないようでいて、身体のあちこちから土と草と汗の混じった 匂いがする。そんな小さな身体をていねいに洗ってやり、まだ頼りない腕で父親の 背中をタオルでこすらせる。  子供はたちまち成長する。こうやって自分と風呂に入るのもあと何年かだろう、 と純一は思う。そして子供の成長はそのまま、親である自分の老いの証でもある。 四十を過ぎたあたりから、息子を見る視線に常にそのような思いが付随するのを、 純一は自覚していた。 「ハシヒメって言うんだよ」と良太が大きな声を出して、純一はわれにかえった。 ぬるめの湯に漬かり、息子がとりとめなく語る学校の話、友達の話を、適当に相づ ちを打ちながら聞き流していたのだった。 「モリシタ君もヤマシナ君も見たんだ。ボクも見たいんだけど、まだ見てない。雨 の日にしか出ないんだ。ハシヒメは妖怪だけど、悪い妖怪じゃないんだよ。ただ、 自分の子供がいなくなったのを捜してるの」  子供同士の間で、何度も繰り返し語られ、聞かされてきた物語なのだろう。小学 二年生の語るものにしては、それなりに理路整然としている。 「ハシヒメが捜している子供は、ミツヒコっていうんだって」  夢を見ているのではないか、と純一は思った。美津彦というのは九年前に死んだ 良太の兄の名前。純一のもう一人の息子の名前だった。 「お先に」と大人のようなせりふを残して良太が風呂から出た後も、純一は湯船に 漬かったまま、息子の言葉を思い返していた。本当にミツヒコと言ったのだろうか。 イツヒコと言ったのかもしれない。いや、イクヒコ、リツヒコ、アツヒコ、エツヒ コ・・・  違う。良太は確かに美津彦と言った。  驚きは、やがて確信に限りなく近いものへと変わった。佐和子から、奇妙な喪服 の女の話を聞いたときから、ずっと心にひっかかっていた漠然とした何かが、はっ きりとした像を結んだように純一は思った。喪服の女が捜している子供が美津彦な らば、彼女は瑞江だ。間違いない。かつて自分の妻だった女。瑞江は自分に会いに 来たのだという確信が、次第次第に純一の心に満ちてきた。  九年前のあのことが、純一を追いかけてきて、そして追いついたのだ。  純一は、人口十万足らずの地方都市で生まれ育った。地元の高校を出て、県庁所 在地にある国立大学の教育学部を卒業した後、県の教職試験を受けて、故郷の町で 中学教師となった。三十を過ぎてから、親の薦める相手と見合いして結婚し、一年 後、息子が生まれた。その妻が瑞江で、息子が美津彦だった。  山に囲まれた城下町で、市街の真ん中を大きな川が流れていた。結婚後、実家か ら市内の借家に移った純一は、その川にかかった橋を渡って、勤務先の中学へと通 った。やがて小学校に上がった美津彦も、小さな身体にランドセルを背負って、父 親の勤務する中学校に隣接した小学校へと毎日通うようになった。  他人から羨ましがられることこそあれ、不満など抱きようがない生活だったはず だ、と純一は回想する。物静かで従順な妻と健康で屈託のない息子。祖父の、その 祖父の代から続いてきただろう、町の人々との温かでしっとりとした人間関係。し かし、何かが足りなかった。その何かが、純一を不倫へと走らせたのだ、と後に町 の人間は噂した。  舞台は町の繁華街を少し外れたところにあるクラブだった。酒や料理ではなく、 あからさまな性的サービスを売り物にする、あまり上等ではない種類の店だった。  その店を純一が初めて訪れた夜も、雨が降っていた。その日の夕刻から、別の中 学に異動する同僚の送別会が市内の小料理屋で行われた。純一は、飲み慣れない酒 を飲まされて、いつになく酔った。家への帰路、降り出した雨を避けるために、純 一は傍らの雑居ビルの軒先に身を寄せた。 「あら、先生、おひさしぶり」と、馴れ馴れしく純一に声をかけてきた女がいた。 身体の線を露に見せる原色のワンピースを身にまとい、派手な顔だちをさらに化粧 で引き立てた女の顔には、どことなく見覚えがあった。  女が、純一のかつての教え子だったということが明かされたのは、そのビルの二 階のクラブに案内されてテーブルにつかされ、女にすすめられるまま何杯かグラス を空にした後だった。女の正体を聞かされた後も、酒で濁った純一の思考は混乱し ていた。中学の教室では、口がきけないのではないかと思うほど無口で、後ろの方 の席でいつも不機嫌そうに顔を伏せていた少女と、目の前の女とが同じ人間である という事実に、簡単には納得がいかなかった。 「学校、好きじゃありませんでしたから」と女は笑った。「中学を出てすぐに町を 出ちゃったし、先生が覚えていなかったのも当然ですよねえ」 「その分も含めて、これからはしっかり覚えてもらわなきゃ。よろしくお願いしま す、先生」と女は意味ありげにささやき、紅で彩られた唇が微笑を形作った。  女の名前は佐和子。純一の今の妻である。  それまで遊びらしい遊びをほとんど経験したことが無かった純一が、そのクラブ へ足しげく通うようになったのは、純一を「先生」と呼ぶ佐和子に魅かれるものを 感じたからだった。ほどなくして、純一と佐和子は深い関係になった。 「わたし、中学生の頃から、先生に片思いしてたの。卒業したら押し掛け女房にし てもらおうって思ってた。結婚されたって聞いて、一晩泣き明かしました」 「馬鹿だなあ」と抱きしめる純一の腕の中で、佐和子はくすくすと笑った。  純一は仕事を口実に、ときおり外泊するようになった。瑞江は夫の浮気には気が ついていない様子だった。いや、たとえ気づいたとしても、気づかないふりをする ことによって、平穏で静かな生活を守ろうとしただろう。それが瑞江という女だっ た。  その平穏な生活は、しかし、突然に破綻した。美津彦が小学校からの帰りに、橋 で事故にあった。級友にそそのかされて橋の欄干を渡り、足を踏み外して川に落ち たのだ。折からの長雨で増水していた濁流は、小学生の小さな身体を一息に呑みこ んだ。罰を恐れた級友が、大人への報告を怠ったために捜索が遅れ、美津彦の運命 を絶望的なものとした。夜になっても美津彦が家に帰らないため、母親の瑞江は近 所の友達や同級生の家をしらみつぶしに連絡をとった。くだんの級友がようやく口 を割ったのが深夜。翌早朝から捜索が始まった。昼過ぎになって、数キロ下流で美 津彦の遺体が発見された。半狂乱となって一夜を過ごした瑞江は、性も根も尽き果 てたふぬけのように、息子の遺体の引き上げ作業を眺めていた。  通夜から葬儀の間も、瑞江はほとんど口をきかず、うつろなままだった。喪服に 身をつつみ、髪を結い上げて、喪主である純一の隣りに座り、焼香する参列者に操 り人形のように礼を返す。そんな瑞江の振る舞いに、子供を亡くした母親の底知れ ぬ悲しみを感じて、涙を新たにする参列者も少なくなかった。  二人は小さな骨壷と化した息子を家に連れ帰った。にぎやかな子供を喪って、急 に広くなってしまった家で、夫婦二人きりの生活が始まるのだ。  純一は妻に慰めの言葉をかけた。 「しかたがない。運命だったんだ。子供はまた生めばいい」  その瞬間、うつろだった瑞江の身体に激しいものが充満した。純一が初めて見る、 妻の夫に対する怒りだった。全身の毛穴から激情を噴出するようにして、瑞江は純 一の胸倉をわしづかみにつかみ、叫んだ。 「あなたはそれでいいでしょう。あなたの子供はもう一人いるのだから。私はそう じゃない。私の子供はただ一人。美津彦ただ一人なんです」  そう言い捨てて、瑞江は純一を突き飛ばし、家を走り出た。喪服に足袋裸足のま まで。「みつひこお、みつひこお」と死んだ息子の名前を大声で呼ばいながら。純 一は妻の後を追ったが、なかなか追いつけなかった。瑞江は橋に至り、美津彦が落 ちたあたりの欄干を乗り越え、さかしまに川に飛びこんだ。わずかなためらいもな く、純一の方を振り返ることもなく、棒のように落ちたのだ。  一週間以上の捜索にもかかわらず、瑞江の遺体は上がらなかった。  妻が言い遺した言葉が事実だったことを、純一はほどなく知った。かかりつけの 医師が、瑞江が生理不順を理由に診察を受けていたことを純一に伝えた。医師の診 断と、念のためにと県庁所在地の大病院を紹介して受けさせた精密検査の結果はと もに、瑞江の不調の原因は子宮内の腫瘍にあると断定していた。癌に至るような悪 性のものではないが、第二子以降の妊娠はあきらめた方がいい、との告知がなされ ていた。純一にとっては、すべて初めて知ることだった。  そして、これも妻の言葉通り、佐和子は妊娠していた。佐和子は妊娠を純一に隠 していた。胎児はすでに五ヶ月に成長していて、中絶は不可能だった。 「一人で生んで育てるつもりだったの。先生に迷惑をかけるつもりはありませんで した」と佐和子は言い訳したが、純一はなぜか嘘だと思った。  自分と佐和子との関係に、瑞江は気づいていたかもしれない。だが、自分もまっ たく気づかなかった佐和子の妊娠を、なぜ瑞江が知っていたのか、その謎だけはい つまでも純一の心に残った。  息子と妻を立て続けに喪った純一を、町の人間は当初、十分な同情をもって遇し た。だが、日を経ずして中学の同僚教師の口から、純一の佐和子との不倫の関係が 洩れ伝わり、悲劇は醜聞によって毒々しく彩られた。水商売の女に入れ揚げて家庭 を省みず、その結果、幼い息子を死なせ、女房を自殺に追い込んだ男。それが純一 の実像である、と。田舎町の中学教師としては、致命的な悪評だった。純一が校長 に提出した辞表は、形式的な遺留さえなく、その場で受理された。  月給に換算すれば数ヶ月分でしかない退職金と、少しばかりの衣類や日用品を詰 め込んだ鞄一つを持ち、純一は町を捨てた。目立ちはじめたお腹を抱えた佐和子の 手を引いて、純一はあの橋を渡った。美津彦と瑞江を喪った橋を。橋を渡る間じゅ う、佐和子は純一の手をひときわ強く握りしめていた。  そして、バスと鉄道とをいくつか乗り継いで、誰一人知る人のいないだろう、遠 く離れた大きな都市に転居してきた、いや、落ち延びてきたのだ。  仕事も住いもすぐに見つかった。上向きの景気がまだ続いていた頃だったので、 選り好みさえしなければ仕事はいくらでもあった。たまたま無抽選で入れた郊外の 公団アパートから、都心とは反対方向に数駅行ったところにある製本工場に、純一 は職を定めた。教師より仕事はきつかったが、拘束時間は逆に少なく、給料は悪く はなかった。教師時代も、聖職にある責任をとりたてて意識していたわけではない。 だが、四六時中「先生」呼ばわりされることによる心理的圧迫から解放されたこと を、純一は実感した。  佐和子の方は、まったく別の人生を始めることを決意したようだった。化粧を変 え服装を改めて、佐和子は田舎町の風俗嬢から、大都市近郊の団地主婦へと変身し た。きらびやかな羽根を誇る蝶がくすんだ毛虫に戻り、大輪の花が泥臭い球根へと 戻るような、自然とは逆方向の変態だった。団地近くの産院で男児を出産して、佐 和子の変身は完了した。息子を抱いて産院から出てきた佐和子は、凡庸さと地味さ を全身から発散させていた。私たちは異質じゃない、私たちは異分子ではない、私 たちはあなたたちと何の変わりも無い、団地暮らしの母親とその赤ん坊なのよ、と。  引っ越し以来、純一を「先生」と呼んだことなど、ただの一度も無かった。  たちまちのうちに九年間が過ぎた。妻の佐和子は、はるか昔からそれ以外の何者 でもなかったかのような団地の母親を演じ続け、いつしかそれが地と変わらなくな った。息子の良太は夏草のようにみるみる成長して小学生となった。死んだ美津彦 と同じ年に。そして、純一は年老いた。  この生活が永遠かもしれない、と思う時もあった。しかし、過去は忘れることは できても、捨て去ることはできない。あの日、濁流に消えたはずの瑞江が再び現わ れた。あの日と同じ喪服をまとって、自分の住む町にやってきたのだ。純一に対し、 不倫の精算を求めるために。単なる精算ではすまないかもしれない。瑞江が自分の 裏切りに対する復讐をするつもりならば、それも仕方がなかろう、と純一は思った。  平穏な日々は、しかし、さらに数日続いた。純一は自動機械のように働き、日々 を過ごした。そんな純一に対し、佐和子はけげんな思いを抱いている様子だったが、 何も言おうとはしなかった。良太一人が元気いっぱいで、雨などものともせずに毎 日遊び回っていた。  その朝、純一は夢を見ていた。夢の中で、純一はランドセルを背負い、傘をさし て階段を登っていた。自分が何故か息子の良太であり、朝学校に行くところなのだ、 と、夢の論理で理解できた。  ここは、そう、歩道橋の階段だ。登り切ったところで、歩道橋の上に喪服の女が 立っているのが見えた。雨が降っているにもかかわらず、傘もささずに立っている。 ハシヒメという言葉が頭に浮かぶ。噂には聞いていたけど、実際に見るのは初めて だ。僕もハシヒメを見ることができたんだ。学校に行ったらみんなに話そう。モリ シタ君にもヤマシナ君にも。ハシヒメは子供を捜してるんだ。子供の名前はミツヒ コ。でも僕は良太だから関係ない。ハシヒメとは関係ない。顔を伏せてかたわらを 通り過ぎようとしたのだが、傘ごしの、頭上からの声に呼び止めらてしまった。 「やっと見つけたわ、美津彦」  そう、はっきりとハシヒメは言った。 「あなた、起きて」という妻の声に純一の夢は破られた。佐和子の声には、尋常な らざる何かが含まれていた。今日は日曜で、純一は前夜、酒を飲んだ。酔いにまか せて寝たまま、朝寝をしていたのだった。 「良太が、自転車で、あの歩道橋で」  そこまで聞いて、鮮やかなイメージが純一の脳裏で結晶した。自転車、歩道橋、 交通事故。四トントラックの車輪に巻き込まれた小学生の遺体は・・・  気がつくと、純一はパジャマ姿のまま、歩道橋のすぐそばに立っていた。雨が降 っていた。裸足を雨が濡らしていた。その雨の向うに回転灯を回したパトカー数台 と救急車、少し離れたところに大きなトレーラーが、変な向きで停まっていた。そ して、歩道には原形をとどめぬまでにひしゃげた自転車と、毛布に包まれた何か。 ちょうど、小学二年生の男の子の身体をすっぽりと包んだくらいの大きさの。毛布 はぐっしょりと血ににじみ、血が雨で流れて歩道の敷石を染め・・・  どこか遠いところで誰かが叫んでいるようだった。「りょうたあ、りょうたあ」 と息子の名を呼ばう、醜く割れた男の声。他ならぬ、自分自身の喉から発している 叫びであるはずなのに、自分の声が声として聞えない。夢から醒めたはずが、もう 一つの夢の中に入り込んでしまったかのように。 「パパ、僕はここだよ」  自分を呼ぶ声がした方を純一が見上げると、歩道橋の階段を駆け登っていく、見 覚えのある後ろ姿が目に入った。良太のジャンパーと良太のジーンズ、そして良太 のスニーカー。 「良太、そっちへ行くんじゃない。橋に近づくな。家に帰るんだ」  純一は、はいずるようにして息子の後を追い、歩道橋の階段を上っていった。  歩道橋の上に、喪服の女が立っていた。さっきまで見ていた夢の通りのハシヒメ。 まぎれもない。九年前の、あの日そのままの瑞江だ。その女の手を握って立ってい る小学生は、良太の服を着て、良太の靴を履いた・・・ 「ふざけんじゃないよ」  純一の背後から絶叫する女の声。 「それはあんたの子供じゃない。あたしの子供、良太じゃないか。どうして良太を 連れて行くんだい」  佐和子だった。雨に打たれ、化粧も剥げ、逆にくっきりした目鼻だちが露になっ ている。びっしょりと濡れた服が身体の線をはっきりと見せ、あの雨の夜の雑居ビ ルでの出会いの時のようだ、と純一は思った。まったく年をとっていないかのよう だ。そう、瑞江と同じように。 「あんたの子供は、美津彦は九年前に死んだんだ。あたしが殺してやったんだよ。 得意げに欄干を渡っているのを見て、急に憎らしくなって、川に突き落としてやっ たんだ。一緒にいた子供には誰にも言うな、言ったら殺すと脅しをかけてね」  そこまで一息に言ってのけて、佐和子はからからと笑った。 「ついでにあんたにも電話してやったっけ。お気の毒に、純一さんのご長男はお亡 くなりになったけど、弟だか妹はあたしのお腹の中ですくすくと育っているからご 安心を、と伝えてください、って」 「僕は良太なんて名前じゃない。僕は美津彦だよ」と声がした。良太の服を着て、 良太の靴を履いた小学生の、その声は、その顔は、まぎれもない美津彦。九年前に 死んで、火葬場で焼かれたはずの純一の長男だ。  愕然とし、凍りつく佐和子。 「あんた、ひどいよ。取り替えるなんて。あたしの子供が育つのを待って、取り替 えてしまうなんて」 「お待ち申し上げておりました、あなた」  そんな佐和子など眼中にないがごとく、喪服の瑞江は純一に向かって深々と頭を 下げた。物静かで従順な妻。水商売の女に浮気する夫をとがめだてもせず、平穏で 静かな暮らしを、ひたすらに守ろうとした女。  その瞬間、純一は、圧倒的な実感とともに思い出した。自分の妻は瑞江と言う名 前で、たった一人の息子は美津彦。一家三人で平凡ながらも幸福な生活を送ってき た。それ以外のすべては、飲み慣れない酒で酔った一時の夢でしか無かったことを。  あの町の橋を渡って九年間、すべてを捨てて雨の中を歩き続けてきたようなつも りでいたけれど、何一つ捨てることはできなかった。どこへ行き去ってしまうこと もできなかった。しゃにむに歩き続けた果てに、結局は同じ橋へと戻ってきただけ なのだ。妻と息子が待つこの橋へ。 「嘘よ先生、こいつらはもう、とうの昔に死んでいるのよ。騙されちゃ駄目よ」と 叫ぶ女の声は、もはや誰のものかさえ分からず、その姿さえも降りしきる雨の中、 背景に溶け去って行く。  その純一のかたわらに立つのは、小学校二年生の、たった一人の息子の美津彦。 今まさに遠足に出かけようという子供のように張り切っている。 「さあ、行こうよ、パパ。九年ぶりだよね」  そして純一の生涯唯一の妻にして、喪服の橋姫、瑞江は、慈母観音のような微笑 みを浮かべて、夫の腕をとり、向こう側へと強く引いた。

Copyright (C) 1997 by 三鷹板吉QYA33902@pcvan.or.jp


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