written by 蓑田狂気
「いじめ」・・・・この言葉は今、最も陰鬱なイメージのつきまとってい る言葉であるといっても過言ではないでしょう。私には、この言葉と、私 たちの(中の多数派の)「正義」「良識」を仮託されたニュースキャスタ ーのしかめっ面が、セットになって浮かんできます。そういえば、私がま だ大学生で就職活動をしていた時のことなのですが、保守的言説を売りに しております某出版社の集団面接に参加しましたところ、「いじめ」をテ ーマにした討議を要求されたことがありました。そこで、まず討議に入る 前に、「いじめを受けたことのある人」に挙手を求めた学生がいたのです が、10人くらいのうち7〜8人の手が挙がり、私、その数の多さに結構 驚いた記憶があります。ちなみに私もその手を挙げた一人なのですが。 「いじめ」という言葉のルーツは「夷締め」であり、すなわち「夷(アイ ヌ)侵略」であるというのをどこぞの左翼のオヤジから聞かされたことが ありまけれども、実際のところ、どこからこの言葉が出てきたのかという のは私、浅学にして存じません。ただ、今や「いじめ」というと、すぐに 「学校」と結び付けられ、「いじめ問題」として深刻に取り上げられてい るのは、ほとんど学校におけるそれのみと言えるように思います。しかし、 「いじめ」の形態は大きく (1)肉体攻撃(殴り・蹴り等に代表される) (2)言語攻撃(イヤミ・皮肉・罵詈雑言・陰口等に代表される) (3)精神圧迫攻撃(無視・侮蔑的態度等に代表される) このように三分されると思いますが、これは学校を卒業し、社会に出ても よくあることでしょう。さすがに(1)は大幅に減少するでしょうが、そ れでも、空手マニアの社長が回し蹴りで社員を死なせるなんて事例も、つ い最近あったばかりです。六つ子の魂ナントヤラという諺もありましたが、 人間の精神構造なんてのは社会人になったからといってそうそう変わるも のではありませんから、「いじめ」が学校にのみ止まっておくわけありま せん。しかも、それは時代とともになくなってゆく性質のものでもないら しい。イザヤ・ベンダサン著『にっぽんの商人』(文芸春秋)に紹介され ている、江戸時代(天明7年)の職場いじめの凄まじさは、なかなかに「 いじめ」の普遍性を感じさせてくれます。これは、どういう話かかいつま んで申しますと、「収賄」などに断固として拒否反応を示すクソ真面目な 水上美濃守という旗本が、その真面目さゆえに周りから疎んじられ、自分 (水上)の家で宴会を開くように仕組まれて、まあその席でムチャクチャ やられるわけです。悪口雑言に始まって、膳やら道具やらを打ち壊す、水 鉢や猪口を便所に投げ込む、飼っている小鳥を庭に放つ、皿や杯も庭へ投 げ出し、火鉢まで火のはいったまま庭石に叩き付けて壊す。あげには、み んなで茶碗に小便をして、これを座敷にぶちまける、、、といった具合。 こんなことが、当時の記録をみるとゴロゴロあったというのですから、か なり救いがない(笑)。 ただ、話を戻しますと、「いじめ形態」の傾向は、年くって変な知恵がつ いてしまった分、「学校」と「職場」では大きく変化することになるでし ょう。すなわち、より自分が安全である(発覚しにくい、かつ、発覚して も大したお咎めはない)いじめ形態、上の三分類でいうと(3)ですが、 これが大きな比重を占めるようになってくる。最近は学校における「いじ め」において、(3)が増加してきた、これは「いじめの陰湿化である」 なんて騒いでおるかたもおられるようですが、知恵がついてくれば(1) やら(2)やらといったリスクの大きい「愚か」ないじめが減ってくるの は至極当然なことでありまして、現代のような高度情報化社会(つまり受 け手にも、情報の収集及び加工といった頭のトレーニングが要求されるわ けですが)においては、自然な流れといっていいでしょう。むしろ、子供 たちに「知恵」がついてきたという紛れもない事実については、「評価」 に値する現象と言えるかもしれません。要するに、「子供のいじめ形態」 が「大人のいじめ形態」に一歩近づいただけなのですから、こんなものは 「子供が大人びてきた」昨今の社会現象の中の、単なる一事象に過ぎない というわけです。「いじめの陰湿化」などときかされると、何やら大そう なことのようですが、本質が「子供の大人化」に過ぎない以上、私にはこ の程度のことで何やかやと騒ぎ立てるのは、かなり滑稽に映ります。「子 供」に「子供らしさ」を強要したいのならば、また話は別ですが。 で、なぜ社会一般にて広く行われているはずの「いじめ」なのに、学校で のそれのみが大きくクローズアップされるのでしょうか。マスコミ等のこ の姿勢につきましては、私はかなり批判的です。なぜならば、まだ社会を 知らない、俗に「いじめられっ子」と言われるような学生が、「耐え難き を耐え・・」じゃありませんが、学校さえ堪え忍んで我慢すれば、社会に 出ればもう「いじめ」なんてものは存在しないと、勘違いしてしまう恐れ がある。もしそんな勘違いをしてて、例の印刷会社のように、社長がしょ っちゅう空手チョップや回し蹴りを繰り出すような会社に就職してしまっ たら、もうショックもショック、二度と立ち直れないんじゃありませんか。 こんな残酷なことはないでしょう。むしろマスコミは、変な若造に少年時 代の思い出を語らせ、最後に「いじめかっこ悪い」とかなんとか言わせる、 露骨に子供向けのCMなんぞ流すのは即刻やめて(誤解を招くもとです)、 「いじめなんぞ珍しくもない」という態度に終始すべきです。そうすれば 社会に出ても「いじめ」は存在するという冷厳たる事実に対し、心の準備 が出来るというものではありませんか。 そういえば色々能書きだけはたれるものの、「いじめ」の抜本的解決なぞ まったく出来る兆しすらない日本の「その道の」方達ですが、まあ「いじ められる」要素といいますか、もっと露骨に言いますと「こういう奴はい じめられる」ということなのですが、そういう方向に限って言えばある程 度の答えは出しておられるようです。私は現実主義者でして、「いじめ」 をこの世からなくせるなどといった、そんな妄想みたいなこと考えており ませんから、いかにこの現実に存在する「いじめ」とうまく共存していく かという方向から考えたいのですが、そういう視点からいきますと、その 「こういう奴はいじめられる」という資料につきましては、かなり使いよ うがあると思う。先ほど「六つ子の魂」云々の話をしましたが、同様に、 「その道」の方々の出した「こういう奴はいじめられる」に該当するかた というのは、これは人間改造に成功しない限り、一生「いじめ」と腐れ縁 になる可能性というのも大いにあるわけです。そうすると、「今、自分が いじめられているというのは、自分の本質に関わることに起因するのだか ら、一生いじめに縁があるかも知れない」と気付いたかたにつきましては、 若いうちから「いじめ」に対するトレーニングを積んでおくことが出来る。 「何でも慣れ」とはよく言われることですが、「いじめ」についても、ト レーニング如何では「いじめられ上手」になれる可能性は多いにあるわけ です。例えば、「いじめ」による精神的打撃を早急に回復する方法とか、 或は「いじめ」がエスカレートするのを防ぐための様々な手段等々、そう いうことは若いうちに探求しておいたほうがいいのではありませんか。こ んなことを書きますと、何やら胡散臭いと思っておられるかたもおられる やも知れませんが、よく言われる「若いうちの苦労は買ってでもせよ」、 あれと根元は一緒なのですよ。若いうちに、登校拒否等の発動によって、 もうはなからいじめから逃げちゃって、「いじめられる資質」があるのに ろくにいじめられなかった場合、いきなり社会人になって「いじめ」の洗 礼を受けて果たして大丈夫なのでしょうか。「若いうちの失敗は何度でも やり直しがきく」などと言いますが、これは「いじめ」にもあてはまりま して、若いうちに「いじめ対策研究」に行き詰まって、二進も三進もいか なくなった場合、これはもういざとなれば逃げちゃえばいいわけです。小 学校や中学なら登校拒否、高校なら中退すればいい。小学校や中学なら登 校拒否しようが卒業させてくれるし、高校中退しても例えば大学に行きた ければ「大検」という、大変便利な制度がある。ところが、社会人になっ て「会社」勤めが出来ないなんてことになろうものなら、もう社会的には 抹殺されたも同然ですよ。そうなったらもうどうしようもないわけです。 やり直しがきかない。「いじめ」が不可避であると感付いたならば、そう なる前に演練しておいたほうがいいというのは、ズバリ、そこなのです。 といっても、「オレには一生いじめられる資質があるな」と感付くという のは、よっぽど賢い子供じゃないと無理でしょうから、これは親御さんの 課題といっていいかもしれません。自分の子供にそういう資質があると気 付いたら、躊躇わずこういうべきでしょう、「若いうちのイジメは買って でも受けよ」と。あなたが「若いうちの苦労は買ってでもせよ」と躊躇な く言える人ならば、「若いうちのイジメは買ってでも受けよ」、この言葉 に何で躊躇うことがありましょうか。
Copyright (C) 1997 by 蓑田狂気FDJ53534@biglobe.ne.jp
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