明けぬ夜   その1

                                         Written by 中村緑

「おかあさん、がようしなあい?」
「あるよ。りゅうくん。なにをかくの?」
「えんぴつでね、みによんくをかくのですよ。」

 今年の春、りゅうは小学校2年生になった。2年前まで会話はなく単語しか発声できなかったのに、最近は日常会話には困らなくなった。毎日いっしょにいると気がつかないけど、ふりかえってみればりゅうはとっても成長している。すごいなってりゅうとそして私自身をほめる。がんばってるじゃない。えらいぞって。今年は、みさが保育園の年長さんあゆが年少さんになり、誰もがひとつだけ進級するということで余裕のある春だった。みさは、だいすきな雄大くんとはクラスが違ってしまったけど3人の王子さまがいるからいいもーんとはりきって登園し、あゆは新入園児につられ泣きしている。今
日も先生から、「せまーい自分のロッカーにおしりから入って、しみじみと泣いてました。」と報告を受けて私は笑ってしまった。先生から何を報告されてもたいてい動じない。何が起こっても笑ってすませられる。なんだか幸せだなーって思える。あのころに比べたら、ほんわか幸せな日々だ。

 3年ほど前、りゅうは医者から『高機能自閉症』だと診断を受けた。ああ、やっぱりと思ったのとほっとしたのとがっかりしたので顔がほかほかになったのを覚えている。 りゅうは、7年前に生まれた。最初の子供だったし、私は子供が苦手なので他人の赤ちゃんに触れたこともなく、また赤ちゃんを産んだ友達も親戚もなかった。とにかく、「はい」と産婦人科で看護婦さんに渡されたのが初めての体験だった。勉強だけはたくさんした。育児書は暗記するほど読んだ。でも36時間におよぶ出産でへとへとになってて、子供を産んだことさえ「あ、そういえば産んだのだった。」って思うほどで、陣
痛の痛さから解放されたしあわせと、裂けた産道の縫い目の痛さばかりを感じていた。そしてその疲れの癒える暇もなく、赤ちゃんが病室にやったきたのだ。わたしの明けない夜のはじまりだった。

 昔の病院だったので家族のつきそいを許可する病院だった。必要じゃなかったのかもしれないけど、母は布団を持ってきて部屋に泊まっていった。特別室で畳敷き4畳半にベットがおいてあったので広さにも余裕があった。母の食事は誰か他の家族が買って持ってきた。3人目は紹介してもらった他の病院で産んだのでわかったことだが、設備やシステムや新米ママの教育や看護婦の態度においてまったく違っており、最初からそこで産んでいればどうにか母乳で育てることもできただろうし、母とけんかすることもなく楽しい出産だったに違いないとつくづく思った。やはり出産は人気のある病院でするのがいい。良かったと思う人はまた、そこで出産するから。

 私は普段から母とは仲が悪い。ことごとく意見が合わないし、普通に話していてもすぐ喧嘩になる。そういいながらも母にとっては初孫だったので出産にもはりきっていたし、私は臨月から実家にもどってきてた。夫は、3交替制の警察官だったので非番の日にやってきてビールをすすめるままに何本もあけバキュームカーのように食卓にのってる食物を食べつくしてしまうような日々を送った。母は経済的にもたいへんだったみたいだけどその時の私にはよくわからなかった。

 出産は、先に破水して始まった。陣痛促進剤の点滴を打つのだけど、弱い陣痛が延々とつづくばかりだった。陣痛室のない田舎の病院では先に病室をもらって、そこが陣痛室と家族の控え室の代わりになる。そんなに出産もないので大半を分娩室で過ごしたのだが、他の出産が始まったり食事の時間になると部屋へ戻った。その間にも産まれそうにはないけど動けないほど強い陣痛がやってくる。やっとのことで部屋に戻るとその度に母が誤解して「産まれたのですか?」と聞くので陣痛で疲れている私には、いやみにきこえて顔もみたくない。夫の存在も感じない。私は私のために出産していた。妊娠してからの10ヵ月、夫も夫の家族もまったく気を遣ってくれなかった。ふとんのあげろしもやってもらえなかった。ふとんをかかえられないほどお腹が大きくなったら、部屋の隅にたたんでおいていた。義理の母からはおめでとうの一言もなく「ふーん」だった。夫の実家なんてこんなもんだと思っていたのだけど妹が結婚してみると妹の夫の実家の対応がぜんぜん違うのでいまではなにか行事があるごとに比較されて笑い話になっている。

 りゅうが病室にもどってきて家族はかわりがわりに抱っこしてよろこんだ。そういうのも束の間で、わたしはりゅうにおっぱいを吸わせることにやっきになってイライラしていた。産後おっぱいがではじめるのは、退院するころで初産ならなおさら体も出産で疲れているのでなかなかでないし、赤ちゃんもうまくくわえられるように学習しなければいけない。なかなか授乳もうまくいかないままだ。でも、そんなことはまったく育児書には書いていない。育児書によってあおられた「おっぱい神話」と病院の管理にあせってしまった。風量といって2グラムの単位からはかれる体重計におっぱいを飲ませる前と後に赤ちゃんをのせてはかる。そうすると、赤ちゃんがどれくらい飲んだのかわかるしくみになっている。どんなにがんばっても、わたしは0だった。産まれるまでが長かったのでその待つ間のストレスとつきそって泊まる寝不足で母も限界だったのだろう。りゅうを泣かせてばかりいる私を見て母はいやみを言う。「となりの部屋の人は、ぴゅーっておっぱいがとびよったよ。」人生とはおもしろいもので、この時陣痛が長かった私をおい抜いて産んだ上におっぱいが飛んでたお母さんとは小学校で再会する。同じ日に同じ病院で産まれたふたりは、机を並べて座っていたのだ。この事実を知ったときその娘が平凡で幸せな日々を経てここにいるのに対してりゅうはたいへんだったよねとこっそり思った。

 私は母のいやみで爆発し、夜中に腹が減ったと泣きわめくりゅうを抱いてわんわん泣いた。寝静まった病室の廊下にわたしとりゅうの泣き声が響き渡った。私は母との間にある溝をうめる一生一度のチャンスを失ってしまったと後になってこの数日を思った。翌日、婦長が回診にきたのでわたしがおんおん泣いていたのはばればれだったと感じた。母は布団を持って帰っていった。

 義父が足を骨折して近くに入院している義母をつれて「数日」たってお見舞いにきた。妹が出産したときは、産まれてすぐに真夜中だったにもかかわらず遠くから弟の家族がみんなでかけつけてきたそうで、その時もまた比較されてしまった。こんなに違うねって。わたしは授乳のようすを他人に見られるのが苦痛だったので、友達にも誰にも報せなかったし親戚や近所の人がくるのもいやだった。義母は3ヵ月ほど前から骨折して入院していたのでまさかくるとはおもわなかった。とても緊張していたけど赤ちゃんにみんなの視線は集中していたのでなごやかに面会も終わった。けれども後になって、義母の苦情が知らされた。「あんたがお見舞いにきたとき、わたしは松葉杖をついて病院の玄関まで見送ったのに、私が見舞いにいったときは部屋にいたままで見送らなかった。」と義母が怒っていると。ぞっとして、がっかりしてしまった。いつもいつも義母は、後からあのときはこう思ったと文句を言う。義母に会うたびに今度は何を言われるのかとどきどきしてしまい、自分のほうからはいっさいしゃべらないように気をつけた。何を言われても夫は、かばってくれたりなぐさめてくれたりしたことはなかった。わたしの義母に対する行動や発言にミスがあるとばかりに実家の苦情を私に伝えた。自閉症が産まれる原因は不明でよくわかっていないらしいけど、妊娠初期から夫と夫の家族に与えられたストレスじゃないかと私は思いたいらしい。

 こんなはずじゃなかった結婚というのは、夫のほうもそうだったらしく、妻を養うために自分で使うお金がほとんどなくなったのを嘆いてうつ病になった。夫はお見合いでかくしていたのだが肝臓が悪かった。非番の日はごろごろしてて指定休の日にもあまりでかけないのは、肝臓のためかと思っていたら遊ぶお金がなくて憂欝でふて寝をしていたのだった。もっと給料をもらえる仕事に転職すると言われたのは、産婦人科にいって妊娠を確認した日だった。びっくりして泣いてしまいお願いだからやめないでとおこづかいを倍増した。後になって、この時に堕ろして離婚すればよかったと繰り返し思い出した。夫への不信と軽蔑と後悔はこの日に始まったのだ。

 母がいなくなったので、わたしはストレスがひとつ減り母乳はあきらめてミルクを与えることにした。初乳は与えたほうがいいと育児書に書いてあったので搾乳器を近所の薬局で手に入れてせっせとしぼっては哺乳ビンにいれて飲ませてどうにか入院期間を乗り切った。家に帰ったらミルクを与えようと決めて、もう悩まなかった。

 ミルクでは悩まなかったけど、本当に寝ない子だった。いま考えてみれば睡眠障害があるので、寝ないはずだよ・・・って笑えるんだけどたいへんだった。うつぶせ寝で育てるのが全盛期だったので田舎の病院でもうつぶせ寝だった。でも、なかなか寝ついてくれない。あおむけにしたりうつぶせにしたりシーツをかえたり、いろんなことをした。抱いて揺らしても眠らない。ほんとうに抱き方が下手だと言われたりした。でも誰が抱いても眠らない。あおむけに寝せてミルクを飲ませながら寝たところをゆっくりひっくりかえしてうつぶせにすると、睡眠時間も長くてよく眠ってくれた。ゆれるのがいやなので抱っこしないでベットに寝ながら飲むのが、りゅうにとってはよかったのだろうと今ごろ納得している。

 そういえばりゅうはおむつもたいへんだった。紙おむつはよくないと評判だったので最初は布おむつを使った。ひとりだと洗濯もそんなに苦ではなかった。白い布おむつが風に吹かれているのを見ると、これがわたしの求めていた幸せかなーと錯覚するほどだった。でも、だんだんお出かけのときだけに使用してた紙おむつの便利さにおされていって、おむつカバーが小さくなって大きいものに移行するときに全部紙おむつにきりかえた。りゅうは安いメーカーの紙おむつでは濡れてなくても泣いてしまうので、おむつがとれるまで高分子吸収体がいっぱいはいった紙おむつを使った。思い出してみれば、妹たちはどんな紙おむつでもよかった。最初に使った紙おむつの感触をりゅうは覚えていたのだろうか。りゅうの症状は産まれたときからあったものだったのだ。泣いてこだわりを示したのだ。しかしながら、赤ちゃんは泣くものだからとそれほど気にもならずみんなたいへんなんだと思って頑張っていた。ほんとに育児ってたいへんだなって。とくに男の子は育てにくいよねと、母も知ったように言うし。へたはへたなりに一生懸命だった。

 一生懸命だったのを忘れて、まわりの人の「育児が失敗した」という言葉にうなづいて傷ついて自分を無くしてしまったのは、3人も産んでからのことになる。りゅうが自閉症だったのだ。「おかあさんの育て方が悪かったせいじゃありません。原因はわかっていませんが生まれつき脳の中枢に障害があるのです。」大学病院の先生に言っていただいたことが、私自身の再生への第一歩だった。

                                                                               (つづく)
 

 Copyright (C) 1998 by 中村緑



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