イーハトーブの国のアリス(8)

                                   written by たねり

5・猫の事務所(承前)

 三毛猫は手短にゴーシュが失踪するまでのいきさつを話しました。黒猫は腕組みした
まま、銅線を張った大きな目をぐりんと見開いてきいていました。その話のなかにほん
のすこしでも嘘やごまかしがあれば、断じて許さないぞ、といった威圧感を事務長はた
だよわせていました。
 三毛猫は話おえると、事務所にならんだとりどりの猫の顔をながめました。しかし、
誰も口をききません。まあ、書記たちが事務長をさしおいて返事ができるような雰囲気
ではなかったのですが。猫の事務所には時間が止まったような息苦しい沈黙がおとずれ
ました。
 (フランスでは)と、アリスは心のなかでつぶやきました。(いま、天使が歩いた、
っていうのよ。会話がとだえて、沈黙がやってきた瞬間のことだけど)
 でも、もちろんそれを口に出していうことはしませんでした。アリスは時と場合をち
ゃんとわきまえたコミュニケーションができるかしこい少女だったからです。
 黒猫の事務長は天井をむいて首をぐるぐるとまわすと、もったいをつけた口調でいい
ました。
 「猫の事務所は、原則として猫の問題だけを扱っておる」
 そして、三毛猫の顔を凝視して「ときに、きみの名前はなんという」とたずねました

 「へい。パッヘルベルともうしますが」三毛猫はこたえました。
 そういえばアリスは、いままでいろいろと世話になっているのに、かれの名前を知り
ませんでした。パッヘルベルだなんて、なかなかしゃれた名前です。カノンで有名なド
イツのオルガニストみたいじゃないの、とアリスは思いました。
 「では、パッヘルベル君。君にきこう。猫の事務所になぜ、人間の問題を持ち込もう
と考えたのかね?」
 「へい。あいすみません。なにしろ手掛かりがつかめないものですから、溺れるもの
は藁をもつかむ、とも申します。ご気分を損ねましたら、どうぞ勘弁してください。も
しも猫の信義にもとる、ということなら退散いたします」
 三毛猫のパッヘルベルはあくまでも下手に出ていました。やはり、この事務長は猫の
世界では一目も二目も置かれている重鎮なのでしょう。
 「なるほど。君たちは無理を承知でやってきた、というわけだな。では、お嬢さん。
わたしがここでゴーシュなる人物の失踪に関する情報をしらべると、猫の事務所の前例
を破ることになる。あとあとになって、わたしがその件で罪に陥れられることがあるか
もしれない。そのとき、お嬢さんはわたしのために法廷にたつ覚悟はあるかね?」
 「もちろんです、猫の事務長さん」
 アリスは間髪をいれず、こたえました。「だってあなたは、わたしたちの恩人ですも
の。もしも、ゴーシュさんの行方がわかったら、きっと一生感謝しますわ」
 黒猫の事務長は目を細めてアリスをみつめながら、りっぱな髭をしゅっしゅっと肉球
でなでました。そして、のぶとい声で1番書記の白猫にむかって「人間の失踪に関する
情報で最近、入っているものがあれば、調べよ」と命じました。
 (こわもてだけど、いい人ね)とアリスはほっとしました。パッヘルベルも同じ気持
ちだったのか、のどをごろごろ鳴らしてアリスにウインクしました。
 白猫はテーブルの前に積まれた何冊もの帳面のなかから、一番うすっぺらの草色の表
紙のをとりだして、ぺらぺらとめくりました。
 「ええ、先月から今月にかけては2件ございます。
  トオーノ村にて、柳田某という娘、失踪す。神隠しとの噂あれど、闇夜にまぎれて
  男と出奔する姿をみたる猫あり。
  センダード市にて、伊達某という一家、失踪す。経済の逼迫による夜逃げ、という
  噂あり。近在の猫たちもこれを否定する根拠をもたず」
 白猫は事務的な口調でいいおえると、澄ました顔で帳面をとじました。どちらの情報
もゴーシュとは無関係で、ここから先につながるてががりがあるとは思えません。あま
りにもあっけない結果に、アリスはがっかりしていいました。
 「結局、ゴーシュさんの情報はここにはないのですね。わたしたち、お仕事の邪魔だ
けしにきたみたい。ごめんなさい」
 三毛猫のパッヘルベルをうながして、アリスが猫の事務所からしょんぼり退散しよう
としたときです。黒猫が奇体な声をあげて、引き止めました。
 「うにゃあ。ちょっと待ちなさい」
 アリスたちが振り向くと、事務長は招き猫のしぐさでおいでおいでをしていました。
 「まあ、正式な情報はない。記録はされていない。だから、ここからはオフレコとい
うかたちになるのだが」
 「オフレコって、何のことです?」アリスは、ききかえしました。
 「猫の事務所としての正式見解ではない、ということだよ。ニュースソースにかんし
ては表にはでない。この情報が正しくてもまちがっていても、事務所は関知しない。ま
あ、そういうあるようなないようなたよりない風の噂だ。ききたいかね」
 黒猫の事務長はそこでひと呼吸おいて、アリスの顔をのぞきこみました。もちろん、
アリスにはいやもおうもありません。どんな得体のしれない情報でも、とりあえず耳に
いれておきたい、いまはそんな心境でした。
 「はい。猫の事務長さんにはご迷惑はかけません。ぜひ、きかせてくださいな」
 アリスは心からそうお願いしました。
 「よろしい。じつはイーハトーブにはある秘密の広場があってね。そこでは同好の士
が集まってしゃれた音楽なんぞをききながら、歓談をたのしんでいる。音楽は蓄音機で
はないよ。ちゃんと楽団もととのっているのだが、そこのセロ弾きがきみたちの探して
いる人物ではないのかね」
 猫の事務長はシガレットケースをとりだして、一服つけました。
 「秘密の広場で音楽をたのしんでいるのですか。ああ、それならセロがいっしょにな
くなっているのもわかります。わたしたち、そこに出かけてみます。なんという広場で
すか。どこにあるのですか」アリスは、思わず身をのりだしてたずねました。
 「まあ、秘密といっても知るひとぞ知るでね。ポラーノの広場だよ。どこにあるのか
は、ちょっと言葉ではいいにくいのだ。じぶんで探したまえ」

 アリスたちは黒猫の事務長にお礼をいうと、猫の事務所をあとにしました。帰りの道
すがら、アリスはいくらかの安堵をかんじながらパッヘルベルに話しかけました。
 「ねえ、パッヘルベル。ポラーノの広場って、あなたは知っているの?」
 「ええ。きいたことはあります。しかし、実際にいったことはありませんぜ」
 パッヘルベルは少し考えこんでいる風情でした。
 「噂なんですがね」パッヘルベルは言葉をつづけました。「ポラーノの広場は、デス
テゥパーゴがからんでいるというのですよ。あの山猫博士の。それをあの事務長が持ち
出したのが、どうも気になる。ゴーシュさんには金星音楽団をやめて、ポラーノの広場
の楽団員になる理由なんてないですからねえ」
 「わたしにもわからないわ」アリスはうなづきました。「でも、ポラーノの広場に行
けばはっきりするでしょう。ゴーシュさんがいれば、話がきけるし、いなければいない
でもうそこはいいってことだわ。ねえ、行きましょうよ。でも、どうやって行けばいい
の」
 「たしかに」パッヘルベルは溜め息をつきました。「行かなければ始まりませんな。
気は進まないのですがね。さて、どうしたものか。そういえば、ファゼーロがレオーノ
・キューストさんといっしょにポラーノの広場に遊びにいったらしいですぜ」
 「ファゼーロ? 名前をきいたことがあるわ。レオーノ・キューストさんはいま出張
中でしょう。ねえ、その少年にポラーノの広場までの道案内を頼んではどうかしら」
 アリスはファゼーロという少年には会ったことはなかったのですが、レオーノ・キュ
ーストさんが不在の間、山羊の世話などをしているという話をきいたことがあります。
それで、未知の間柄にもかかわらず、どこかで親しみを覚えていました。
 そのときでした。とっとっとっと、とっとっとっとと、あわただしい足音が背後から
近づいて、炭で汚れた猫が汗をふきながらあらわれました。釜猫でした。
 「あら、さきほどはどうも」アリスはびっくりして、挨拶をしました。「そんなにあ
わてて、どうなさったんですか?」
 「あ、いや、これお嬢さんの落とし物でしょう。事務所の床に落ちていました」
 釜猫は少し炭で汚れたハンカチをアリスの手におしつけると、くるりと背をむけて逃
げ出すように走り去りました。
 「まあ、なんて忙しいひとかしら。こんなに忙しいひとに出会ったのは、不思議の国
のあわて兎以来だわ。それにこのハンカチ、わたしのものではないのに」
 アリスは押しつけられたハンカチを広げてみました。
 「あっ!」
 思わず大きな声をあげたので、三毛猫のパッヘルベルは毛を逆立てて地面から30セ
ンチほど飛び上がりました。そのハンカチには、「気をつけて」と書いてあったのです
。それはどうやら、釜猫の文字のように思えました。
                                 (つづく)

 Copyright (C) 1998 by たねり NQG63965@biglobe.ne.jp

  


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