「大丈夫です。3年生になってもちゃんとやっていけると思っています。」
と、りゅうの担任の先生はニコニコしながら言った。
「最近おもしろいんですよ。えーっと例えば、『りゅうちゃん、これ間違っているよ』
っていうと、『なんでっ!』って言うんです。」
「あ、それ家でも、よく言ってます。『なんでっ!』って。」
先生の『なんでっ!』は、りゅうのそれにそっくりで、二人で吹き出してしまった。
もうすぐ3年生になるのでクラス替えもあり、この先生ともお別れになる。2年間のり
ゅうの成長はすばらしく、先生といっしょにあんなこともこんなこともできるようにな
ったし、こう変わったねと、ニコニコしながら確認しあって、他の人の3倍の時間も面
談してしまった。一番変わったのは、こだわりが減ったことだそうだ。時間割りの変更
も許せなかったし、忘れ物があっても許せなかった。涙して抗議したそうだ。違ってい
るって。算数の練習問題にしても自分がこたえを間違うことが許せなかったそうだ。そ
れが今では、「なんでっ!」で済ませられるのだ。すごいぞ。
こだわりというか変更を許さなかったり、ひとつのことに熱中するのはりゅうの特徴
だった。例えば、3才のころは、床をよつばいではいはいし、テレビはフジテレビだっ
た。わたしは、それがとても変わっているこだわりだとは、なかなか気が付かなかった
。それほど、疲れていた。今、若乃花が別居だ離婚だと問題になっているけど、私は奥
様の気持ちがわかるような気がする。3才2才0才の3人の子供と家にいない夫。まさ
にあのころの私と似たような環境だ。家にいて子供を育てているだけじゃないか・・・
って。疲れているだって?家にいるくせに?と、私も誰にもわかってもらえなかったか
ら。そんな時に、飛び込んできたりゅうの自閉症。今でもあのころの私はいったい誰だ
ったんだろうと思うくらい自分を見失っていた。しかも眠れない。これからどうしよう
と考えれば考えるほど眠れない。
小児科の神経外来から帰って、鈴木に「自閉症」だったといっても、鈴木はまた母原
病の自閉症だと思い込んでいて無視されてしまった。私はひとりで、りゅうのことを思
い途方にくれた。次の日、あゆの4ヵ月検診だった。無事に検査は終わったが、最後に
保健婦さんとの面談で長男が自閉症であゆをちゃんと育てる暇がありませんと泣いてし
まった。保健婦さんは話を一通り聞いて児童相談所に連れていくように言ってくれた。
そしてその場で電話して予約をしてくれた。
「間違いなく自閉症です。」
2週間後の小児科の神経外来での診断結果がでた。大学病院の先生はその場で自分の病
院に電話をかけて、CTと脳波測定と血液鑑定の検査予約をとってくれた。それからバ
ンビ学園という療育施設に紹介状を書いてくれた。そこは大学病院の先生も診察に行っ
ている療育施設で、CTや脳波に異常がなかったら、いいところまでのびるように指導
してくれるという。わたしは、わらでもすがりたい。うれしかった。そこにいけばなん
とかなるのだ。
家に帰って鈴木に大学病院で検査を受けることを報告して、病院まで車で連れていっ
てくれるように予約した。なんでも、予定は先に言っておかないと競艇に行ってしまう
からいつもそうしていた。
「どうして?」
と、大学病院と聞いていうので、
「りゅうの脳に障害がある。生れつきなのよ。」
って先生が言ったとおりに説明するとやっと、鈴木は理解した。衝撃を受けたらしく、
涙を流した。私はそれを軽蔑した目で一瞥した。あゆが生まれて4ヵ月以上たっている
。その間口もきいてもらえず、無視されて、責められてきた私は、その姿がいまさら馬
鹿にみえた。もう、砕け散ってた心は鈴木の動向に対して何の興味も示さない。うっと
うしいとさえ、思った。案の定、その鈴木の涙も一週間で終わった。開き直ったのだ。
競艇もやめるといったその1週間後には、りゅうが自閉症であることを納得してまた、
競艇場に通いだした。
次の日、今度は私は児童相談所にりゅうと二人ででかけた。神経外来もりゅうと二人
だった。なんせ私のせいで、りゅうはこうなったと思っていたので鈴木はいっしょにつ
いてくる予定を入れてなかった。実家の母に来てもらって留守を頼み、おにぎりを持っ
て電車とバスを利用した。のどかな小春日和。児童相談所の近くの湖畔のベンチでりゅ
うにおにぎりを食べさせた。私は歩くと方向音痴なのでその池から道を間違えて、約束
した時間に遅れてしまったのだけど、係の人は親切に部屋に案内してくれた。小児科の
神経外来で昨日自閉症だと診断されたことを告げた後、そのことを書いてある母子手帳
を見せると、担当の先生は、
「診断がでたんですね。病院は診断がきついですからね。」
と、記載事項を確認した。それから、知能テストを受けた。絵を見て名前をいうテスト
などはうまくいったが、同じようにつくれ・・という課題は、わけがわからないようだ
った。「同じ」という言葉がわかっていないのだ。療育手帳Bと判定を受けた。ランク
で言えば軽度の障害ということになる。こんなにたいへんなのに、「軽度」なのだ。じ
ゃあ重度とは・・・と私よりもたいへんな人々に一瞬思いを寄せた。このB判定は、障
害者控除が受けられる。ただし、有効期限があり2年後の3月にまた知能テストを受け
る必要があると言われた。その時に、B判定が外れるのを目標に育てなさいと先生は言
われた。後にこれは、鈴木との争いの種のひとつになってしまうのだが。自閉症と診断
された次の日に、今度は知的障害者としての判定を受けてしまった。
「そうですか。」
と、ぬけがらのような私はその言葉の重さに気がつかなかった。
「3才2才0才ですか。あなたは他の二人の子供もちゃんと育てなければなりませんよ
。それにしても、手が足りませんね。お父さんは何をしているんですか?」
「ギャンブルにいっていて、いつも家にいません。」
先生は、呆れてためいきをついた。そしていろいろアドバイスをしてくれた。
「早期教育とかの教材を買っても無駄です。療育とは、早期教育とは違います。幼稚園
も無理でしょう。バンビ学園にやりなさい。そこで1年間やったうえで幼稚園に行って
もおそくはありません。ほら、今、この子は絵本を踏んでいます。こういうことをさせ
たままではいけません。絵本は踏んではいけないことをちゃんとおしえるのです。」
おもちゃや絵本がちらばった部屋を子供たちは平気で走り回っているので、絵本を踏ん
でもりゅうは悪いことだとはちっとも思わないのだ。そういえば。私はとても自分を恥
じた。私が家に帰ってまずやったのは、おもちゃと絵本の整理整頓だった。3人もいる
と片付ける端からおもちゃを出していくので、やがて、だしっぱなしになる。やること
は次から次にあるので、そういうのはあとまわしになっていたのだ。その状況に私自身
なれてしまっていたのだ。
そういえば、忘れていたが12月から、近くの早期幼児教育センターにりゅうとみさ
を通わせていた。おもに、体育が主だった。鈴木は私の育児をまったく信用しないでそ
ういう機関に教育をたくそうとした。私は余裕がなくてできないといったのだけれど、
自分が送り迎えをしてでも、通わせると言った。それで、半ば強制的に、子供たちはそ
こに入れられることになった。私は最初は本当に行かなかった。家であゆとふたりで待
っていた。みさは2才で母親から無理やり引き離されてしまうということを経験するこ
とになった。まだ心の準備ができていなかったので後々母子分離に失敗することになっ
た。経験入会の日に、会長に電話をして自閉症なのだけれどということで話をした。結
局、気がついたら送迎バスを利用してて、もちろんそれに送り出すのは私の役目になっ
ていた。めざせ完璧な家事と育児。いっさいの手抜きは許されず、しかも汗をかかなく
てはいけない。あれもこれもで、私は心身ともに疲れ果てて、3月になって、とうとう
近くの神経内科にカウンセリングを受けにいった。先生は自閉症にもちゃんと理解を示
し、鈴木を「だめですね・・」といってわたしの話を聞いてくれた。わたしの望むまま
に薬をだしてくれた。睡眠導入剤と妊娠中毒症の後遺症を解消するための漢方薬だった
。眠れないというのは、解消したし、失っていた笑顔をとりもどすことに成功した。ぼ
ーっとしてふあふあな気分になって、胸をしめつけられるような不安から解放されてい
た。
実家のほうには、最初は父にだけ真実を話した。母に言えば、ショックを受けるから
母原病の自閉症のままにしておいてくれと、父は言った。母親の私よりも祖母である母
のほうのショックが大きいものか。私はむっとした。父にとっては母の精神の安定こそ
が生活に不可欠なことなのだ。差別は身内からも起こるものだとあきらめた。自慢する
べき孫が障害者だったのだ。でも、それからも続いた勝ち誇ったような母の「育て方が
悪い」というコメントにキレて、母にも本当のことを話した。父はバンビ学園の園長と
話す機会を得て、「バンビに通ったら治ると聞いてきた」というようになった。治ると
いうのは、自閉症を認識していないと私は父にくってかかった。自閉症は治るというの
ものではない。社会に対して適応するように育てるだけだと。
鈴木は自分の実家にひとりで行って、いつのまにかりゅうが自閉症であるということ
を自分の親に報告していた。大騒ぎになっていた。ある日電話がかかってきた。ちょう
どりゅうの誕生日で、私の両親が赤飯やらお祝いを持ってきていた。そこに電話がかか
ってきたのだ。
「いまからそちらにいきます。りゅうのことで話があります。」
と。今からこられても、迷惑だし、それに話しぶりでは私がりゅうが自閉症だと知らな
いという感じだった。鈴木は自分だけがりゅうが自閉症だと思って悲しんでいると親に
伝えたらしい。馬鹿もほどほどにしてほしい。今ごろ気がついたのは、鈴木だけだ。呆
れて、知ってることを伝えたし、今の状況も話した。鈴木と協力してがんばるべきだと
繰り返し言うので、ギャンブルしているのを知りもしないくせにと
「何も期待していないし、あきらめている。」
といって電話を切った。そしたら、すぐまた電話がかかってきて
「あんたが悪い。あんたが悪い。」
と繰り返していうので、
「どーして私だけが悪いんですか。」と、低音で怒鳴り返してやった。
「お願いだから息子にやさしくしてよ。」とあっちも怒鳴って電話が切れた。息子さん
には、やさしくしてもらえないのに、やさしくしてやれと言われる。それからも、たび
たび、電話がなった。鈴木の姉は友人の弟さんが自閉症だったこともあったし、保母の
免許も持っているので、私が母親のあなたよりも誰よりも一番にりゅうが異常なことに
気がついたと自慢しはじめた。弟さんのために言語療法士になっていた友人と連絡をと
りいろんなことを聞いて、「親のあなたたちが聞いたらショックを受けるような話をい
っぱい聞いた」と報告するようになった。とてもいやな気分がして落ち込んだ。しかも
「バンビにはいかずに、お姉さんの友達の紹介の大学の障害児教室にしろ」
と、うるさい。大学は、長期の休みがあるし、学生はあてにならない。ずっと通い続け
られるバンビ学園がいい。児童相談所もそこを紹介してくれたじゃないか。私は、鈴木
の実家の意向を無視して、バンビに行ってみることにした。もちろん、幼稚園には行き
たい。どっちも平行して通うこともできると確認した。それは母親の希望で選べるだろ
うと。ついに、姉と鈴木の母はあきらめた。好きにしたら・・・と。
鈴木の母は、将来跡取りだったりゅうをとても残念がり、くやしまぎれに何も悪いこ
とをしていないりゅうのおしりをたたいたりした。そして、みさやあゆは結婚できない
から何か手に職をもたせなさいといった。どうしてそんな悲しい、悲観的なことを言う
のだろう。まだ、ふたりがわからないからいいものの、わかるようになってそんなこと
を言われたらどんなに傷つくだろう。私はぜったいこの人たちから娘たちを守ってやる
と思った。
大学病院での検査の結果は、よかった。とくに原因は特定できなかったが、将来てん
かんなどの発作を起こすことはないだろうと、予測される結果だった。しかしながら自
閉症には間違いないので、バンビ学園に行くようにと、鈴木にも先生は話してくれた。
児童相談所からもらったパンフレットには、まず診察を受けて、そしていくつかの検
査をしたあとに、個別に療育プログラムができると書いてある。順調にいっても、訓練
が始まるのは5月。いろんな情報を手に入れた鈴木の姉が言っていた。6才までになん
とか言葉をしゃべるようにならないとだめだとか、発見がおそすぎるとか。間に合わな
いとか。しかも、幼稚園がはじまってからじゃないとバンビの診察も受けられなかった
し。あせった私は、いろんな資料を集めて、少しでも何か自分でできることはないか調
べた。今ではいい本ができあがっている。自閉症のための実践の本などだ。自分も読ん
でみたが、そのころにほしがってた本だと思った。これを探していたんだと。当時でき
る範囲で色々探すと、外国の自閉症の親が小学校にあがるまでの記録を書いた本があっ
た。でもそれと同じことはできない。自閉症児を個別に訓練してくれるカウンセラーの
ような職業は日本にはないし、もしいたとしても、雇えるほどお金もない。自分でやろ
う。それしかない。
自閉症児は不思議な異常行動をとる。社会に参加するためには、余計なことだ。まず
お友達から変だと思われないようにしようと、異常行動をなくそうとした。でも、それ
には全部意味があった。ストレスを解消していたのだ。言葉はわからないが、基本的な
欲はある。ジュースが飲みたいとかお菓子を食べたいとか。でも、それらはうまく親に
伝えられない。母親の手をとってほしいジュースまで連れていくとか、そういう行動を
とる子供もいるけれど、たいていはそれはストレスとなって子供に留まってしまう。ま
たそれを発散することもできずに、方法もわからずに、どんどん貯まっていく。それを
解消するのが、特異な行動なのだ。りゅうは、それをはいはいすることやものをならべ
ることで、解消しようとした。はいはいを止めると、こんどは、唾をぶーーっと吹いて
くちびるを鳴らすことをはじめた。これには、まいった。いまでも、誰かがぶーっとく
ちびるを鳴らすと私は、眉間にしわがよってきて、頭痛がする。どーっとストレスがた
まる。なんとかそれをやめさせるとこんどは、窓につばをふきかけて、ワイパーのよう
に手を動かすようになる・・・という具合で、ひとつを止めれば、また別の人とは変わ
った行動をとりはじめた。でもそれは言語を獲得して、自分の意志を伝えられるように
なるのとは入れ代わりにだんだん納まっていくようだった。でも、今度は別のストレス
がたまってくる。集団欲。友達とうまくコミュニケーションがとれない。いかにしてそ
れを解消したらいいのか。この前も「たん」を髪の毛や肌にぬりこむという奇妙な行動
をとっていた。近所の女の子のお母さんから、りゅうちゃんはマーガリンを髪の毛に塗
っていると娘が言っていると聞いて、気がついた。激しく怒った。でも、考えてみたら
ぜんそくのりゅうはたくさんの痰がでる。それをどうすればいいのかわからないのだ。
「飲み込みなさい。」と教えた。ちり紙につつんで捨てろとか、めんどうな手順は学習
できない。それでなんとかりゅうはたいくつなときに、「たん」で遊ぶことをしなくな
った。何かりゅうの好きなものでストレスを解消する方法はないかと考えて、プレイス
テーションを買ってあげた。これは、成功だった。りゅうはひとつのゲームを飽きずに
ずっとやっている。ゲームなら他人を不愉快にさせることはあまりなく、常識的な遊び
には違いないから。それに指先も器用になるし、右と左と視覚と聴覚を組合せる訓練に
もなる。それに、担任の先生の話によると、友達と会話が成立しているというのだ。何
もかも、前に進んでいる。私も先生もニコニコだ。
はやくバンビ学園での訓練がはじまるようにと思いながら、すぐそこにせまる幼稚園
での生活を思って、不安をごまかしながら、間に合わないと悲鳴をあげつつ時が過ぎる
のを惜しんで日々をせいいっぱいすごしていた。そんな日々はこの若い2年生の先生に
は想像もつかないだろうな・・と思いつつも他人の子供の成長を喜んでくれる人柄に感
謝しながら、暗くなった学校を後にした。
(つづく)
Copyright (C) 1999 by 中村緑