written by たねり
6・ポラーノの広場
パッヘルベルに連れられてゴーシュの小屋にやってきたファゼーロは、とても利発そ
うな目をした少年でした。いつも日のしたや、畑のなかで仕事をしているのか、みずみ
ずしい草いきれのにおいがつんとたちました。それから、かすかに、やわらかくて甘い
山羊の乳のにおいがしました。
「わたし、あなたのこと、知っていてよ」
アリスは微笑んで、少年の目をみつめました。
「ぼくも、知っているよ」
ファゼーロは顔を赤くして、いいました。
「レオーノ・キューストさんから、おまえのこと聞いたんだ」
「まあ、なんて?」
「西洋からきた女の子だろ。音楽のことをとてもよく知っているから、本なんかより
もよほど勉強になるといっていたよ」
「それほどでもないけど。あなたも音楽のこと知りたいの」
「音楽はねえ、好きだけどうまくない。歌はぼくよりミーロのほうが上手だからねえ
」
「ミーロ?」
「羊飼いのミーロさ。西洋ってよほど遠い国なんだろ。イーハトーブからめったに行
く人はない」
「そうね。遠いといえば遠いけど、あんがい地図のうえだけの話ではないかしら。わ
たし、イーハトーブに来てから“第六交響曲”や“インドの虎狩り”をきいたもの。金
星音楽団の演奏はロンドンシンフォニーオーケストラほど規模は大きくないけど、同じ
音楽だったわ」
「その金星音楽団なんですがね」三毛猫のパッヘルベルが横から肝心の用件を切り出
しました。
「セロ弾きのゴーシュさん。つまりここの小屋の主なんですが、神隠しみたいに姿を
消しちまったのですよ。ほら、部屋のなかにはセロもないでしょう。セロといっしょに
どこかへいっちまった」
「それはぼくは知らなかったな」ファゼーロはあらためて室内を見渡して、ちょっと
申し訳なさそうな顔をしました。
「ぼくにゴーシュさんの行方をききたかったのなら、おまえたちの力にはなれないよ
。いまのいま、そのことをきいてびっくりしているくらいだ」
「いいえ、わたしたち、あなたの力が必要なの」アリスはきっぱりと首を横にふりま
した。
「わたしたち、ポラーノの広場を探しているの」
ファゼーロは秘密をみつけられたときの子供のように驚いて、たちまち頬を赤くしま
した。
「いまなんていった?」
「ポラーノの広場!」アリスとパッヘルベルは声を合わせていいました。
「レオーノ・キューストさんとそこに遊びにいったとおききしましてね。それで、道
案内をあなたにお願いできれば、と思ったのですよ」
パッヘルベルは髭をなぜながら、事情につうじている猫にはかくしごとなどできませ
んぜ、といったふうににやりと笑いました。
「ああ、昔ばなしなんだけれども、たしかにあるらしいんだよ」
ファゼーロは思いを決めたように話し始めました。
「ただ、みんなで何べんも行ったけれども、わからなくなるんだよ」
「でも、レオーノ・キューストさんとは行ったのでしょう?」アリスは、念を押しま
した。
「いいや、近くまでは行ったことはいったのさ。でも、どこかで音はするんだけれど
も、つめくさの花の番号が途中でこんがらがってそのうちもう夜明けだろう。だから、
ぼくらもまだポラーノの広場に着いたことがないのだ」
「では、あなたたちがポラーノの広場で遊んだというのは、たんなる噂だったわけで
すな。根も葉もないとはいえないが、なんたることか」
パッヘルベルは悔しさに頭をかきむしりました。
「そんなに悲観することもないわ。ポラーノの広場の近くまではいっているのでしょ
う。あとは音のするほうへ行けばいいのではないかしら。聞こえるくらいならそんなに
遠くはないはずよ」
「いいや、イーハトーブの野原は広いんだよ。霧のある日ならミーロだって迷うよ。
だから・・・」
ファゼーロはすこしためらっていましたが、言葉をつづけました。
「レオーノ・キューストさんが野原の地図を用意してくれることになっていたんだ。
こんど行くときにね」
「まあ、素敵。その地図はどこにあるの?」アリスは両手をあげてばんざいしました
。
「競馬場のレオーノ・キューストさんの家にあると思うけど、いま留守だろう」
「鍵はかかっているの」
「うん」
「では、入れないのね」
「いや」
「どういうこと」
「ほら、山羊を預かっているだろう。鍵が置いてある場所もなんとなく知ってはいる
のさ」
「では、お願いだからファゼーロ、その地図をとってきてちょうだい。レオーノ・キ
ューストさんにはわたしがあとでちゃんとお話をします。この町の若くて貧しいパブロ
・カザルスが行方不明になったのよ。行方不明になって、ポラーノの広場の楽団でセロ
を弾いているという噂がたっているの。いったい何があったっていうの。だからわたし
たちはそれが真実なのかどうか、じぶんの目で確かめてみたいのです。レオーノ・キュ
ーストさんにはこの気持ちがきっとわかってもらえると思うわ」
ファゼーロはしばらく黙っていましたが、夕方、地図をもってくるといってひとまず
帰りました。ポラーノの広場へのおさえがたい好奇心と、ゴーシュのふしぎな失踪がま
ざりあって、レオーノ・キューストさんの留守宅に無断で入って地図をさがしだすとい
う行いの罪悪感を忘れさせたようでした。
でも、アリスはファゼーロにひとつ隠していることがありました。それは釜猫の「気
をつけて」という警告です。ファゼーロがそのことを聞いて、ポラーノの広場へ出かけ
るのを尻込みするのではないか、とおそれていました。
夕方になって、ファゼーロは約束どおり戸口から顔をだしました。手には何枚かの紙
をまるめた筒状のものをもっていました。
「とうとう見つけたよ、こんばんわ」
「こんばんわ。地図はあったのね」
「ああ、蓄音機のわきにたててあったよ。ほら、とにかく地図はこれだよ」
アリスはファゼーロから受け取った地図を、藁のベッドのうえに広げてみました。
「パッヘルベル、見て。これがイーハトーブの野原の地図よ。わかるかしら」
「おや、あっしは地図はよくわからないなあ。どっちが西だろう」
パッヘルベルはどうも地理は土地勘でまにあってるもんで、こういう学問はてんで苦
手でしてね、としっぽを巻きました。
「いいこと。上のほうが北だと思うわ。そう、置いてみましょう」
アリスは窓からみえる景色にあわせて、地図を置き直しました。
「これだとわかりやすいでしょう。こっちが東で、こっちが西。いまわたしたちがい
るのは、この小川のほとりの水車小屋よ」
「乾溜工場はどれですかい」パッヘルベルはききました。
「乾溜工場? この地図には出ていないみたいね。こっちのにはあるかしら」アリス
はべつの地図を広げてみました。
「それらしい印はついていないわね。その工場って、いつごろからあるの」
「去年にできた新しいやつですよ」
「なんだ。ほら、この地図はもっと前に測量されたものなのよ。ざんねんだけど、去
年とか今年とかの新しい建物は間に合わないわ。でも、だいたいどのあたりに建ったも
のなのかしら」
「ムラードの森のはずれですぜ」
「ああ、それならこのあたりよ。ムラードって活字があるでしょう。あたりは木の印
ね。楢や樺が多いのね。唐檜やサイプレスじゃなくて」
「楢と樺にちがいないですぜ。林を切り開いて工場をつくったんだ。それで、あの工
場のあたりで音楽をきいたという野ねずみや梟があったのです。ときにファゼーロ。き
みが音をきいたというのは、どのへんだったろう」
「うん。たしかにあのあたりでぼくも音をきいたような気がするよ。行こう、行って
みようよ」ファゼーロは地図をもって、はねあがりました。
水車小屋を出ると、日はもう落ちて空は青く古い沼のようになっていました。あたり
の草もアカシヤの木も、一日のなかでいちばん青く見えるときでした。
「どうせ月はでるでしょうが、万一ということもありますからね」パッヘルベルはそ
ういって、ガラス函のちょうちんを持っています。
「ポラーノの広場に行けば何があるっていうの?」
アリスはずんずんと前を行くファゼーロにたずねました。
「オーケストラでもお酒でも何でもあるそうだよ。それから、そこへ行くと誰でも上
手に歌えるようになるそうだよ。ぼくお酒なんか呑みたくはないけれど、上手にうたい
たいんだよ」
アリスたちはまっすぐに野原へ行く小さなみちにかかっていました。ふりかえると、
ゴーシュの水車小屋はおもちゃのように小さくなっていました。
「ねえ、ファゼーロは学校にいっているの?」アリスはたずねました。
「ぼく仕事があるんだ。日曜もないんだ」
「どうして。なんでそんなに仕事をしているの」
「旦那に雇われているからさ。畦に入って小麦の草をとったり、山羊の世話をしたり
、牧場の柵をなおしたり、ひとつ終わるとまたひとつさ」
「お父さんやお母さんは」
「ない」
「兄さんか誰かは」
「姉さんがいる」
「どこに」
「やっぱり旦那のとこに」
「ふ〜ん」
「だけど姉さんは山猫博士のとこへ行くかもしれないよ」
「デステゥパーゴのとこへかい。ボー、ガント、デステゥパーゴ。県の議員は表の顔
、裏でいろいろ悪さをしているのに、いままで一度たりとも尻尾をつかまれたことがな
い」ふたりの話をだまってきいていたパッヘルベルが、どうもそんなことは我慢できな
い、とフウウとのどを鳴らしました。
「うん、姉さんは行きたくないんだよ。だけど旦那が行けっていうんだ。旦那は山猫
博士がこわいんだ」
「ねえ、なぜ山猫博士というの?」
アリスには、猫の事務所でもポラーノの広場でも割り込んできたそのまがまがしい名
前が、これからの旅にもついてまわるかもしれない、という予感がしました。
「あいつは山猫を釣ってあるいて外国へ売る商売なんだってきいたよ」ファゼーロが
こたえました。
「山猫を? では動物園におろしているのかしら」
「動物園じゃないと思うけど」ファゼーロもわからないのか、だまってしまいました
。あたりはもう、とっぷりくらくなって西の地平線の上が古い沼の水あかりのように青
く光っていました。
「おや、つめくさのあかりがついたよ」ファゼーロが叫びました。
アリスが目を向けると、黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのような白いつめく
さの花があっちにもこっちにもならび、むっとした蜂蜜のかおりでいっぱいでした。
「ね、ごらん、それに番号がついているんだよ」
(つづく)
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