担任雑記No.2 「なえま作り」

 私の実家は農家でないので本格的に農業に従事したことがない。やったとしても、家庭菜園で趣味程度の土いじりが関の山という、軟弱な育ち方をして来た。だから、お米は「買うもの」、作って食べるなんて、想像すらできなかった。少なくとも、結婚する前までは。しかし、我が愛する妻と結婚、お米を妻の実家から分けてもらえるという幸運を得て、想像すらできなかった世界「なえま作り」を体験することとなったのである。 私は「なえま作り」の前の晩、妻の実家に泊まった。お米作りの第一歩、「なえま作り」は朝早い仕事で、それをお手伝いするためである。ビールをいただきながら、お義母さんは「申し訳無いねぇ、崇さんが来てくれたから大助かりだわ」と、しきりにすまながっていた。わたしとしては「なえま作り」の段取りさえ知らず、むしろこちらこそ足手まといで申し訳ありませんという気持ちであったのに、お義母さんにそう言われると余計申し訳ない気がした。お米を分けていただける以上、お手伝いしなければ罰が当たると思っていたので、照れ臭いと同時に、なんでそんなに感謝されなければならないのだろうと不思議な気持ちになった。

翌朝、お義母さん、おじいさん、おばあさんは既に5時半ごろに起き出していて、わたしが起きた6時にはお義母さんとおじいさんはたんぼの水を見に行っていていなかった。これはまずい、寝過ごしたと動揺しつつ、眠い目をこすりながらも居間に行き、おばあさんに「何かお手伝いできることありませんか」と尋ねたところ、「コタツにでも当たっていてくだせえ、これから朝飯にするから」とニコニコしながら気遣ってくれた。そして、「あぁ〜、崇さんが来てくれて助かった、助かった。」とも言った。ゆうべお義母さんがわたしに言っていたことと同じ口調で、心から助かった、という気持ちが滲み出ていて、なんだかくすぐったかった。

知っている方も多いと思うが、「なえま作り」とは、「なえま」と言う種モミを発芽させ苗に育てるための場所作りとでも言おうか、苗床と言おうか、とにかくそんなようなものを田圃に作ることである。稲の苗というものは、イチゴやナスの苗のようにどこかの園芸屋さんや農協で売っているものではない。自分のもつ田圃の面積に合わせ、半ば経験と感で量を決め、自分自身で作り育てるものなのだ。お義母さんに「なえま作り」を手伝ってと言われたとき、そんな大それたことがわたしにはできるのだろうか、とちょっと不安に思っていた。何しろ、田植え風景は小さいころからたんぼでよく見かけてどうやるかは漠然と知ってはいるものの、その苗を作るのはどこかの専門業者がビニールハウスで大量生産しているものを買って来ているものばかりと思っているくらいだから、まさか自分のうちで苗から作るとは夢にも思わず、日本の農家の大変さを垣間見た気がした。

朝7:00。天候はどんよりとした曇り。親戚のかたがたや、近所の人が手伝いに来てくれた。まず、田圃の一角に水を引き、土に十分水分を含ませておく。幅約1メートル50cm、長さ20mの土の部分を鍬や熊手で丹念に掻き混ぜ土をやわらかくし、水分を十分に染み込ませる。私は熊手で均す役をおおせ付かったが、地面は泥んこ、この日のためにわたしにわざわざ新調してくれた長靴を履いてはいるが、くるぶしのうえ20センチメートルはズブリとはまり込んでしまう。慣れていないと身動きが取れず、しかも泥は重いと来て、始めは何ともぶざまな姿をさらしてしまった。見かねて、お義母さんに「崇さん、新婚なんだからあんまり無理して腰痛めないでね」と言われてしまった。しばらく悪戦苦闘しているうちに、要領をつかみ泥にも慣れてすいすいと仕事をこなせるようになった所で、次の段階へ。均した所に種籾を撒いた板をきれいに並べて行く。これも、泥にしっかりとなじんでいなければならないので、置いたら板で押さえ込む。その次に、板のうえに油紙を敷く。この作業がなかなか大変だそうで、風が強いと油紙が風にあおられ、種を蒔いた板を痛めてしまうのだそうだ。だから、人手がたくさんいればいるほど、能率的に仕事ができるという訳である。その後、保温して発芽を促す為に寒冷紗とビニールシートのトンネルをかぶせる訳だが、これも風に飛ばされないようシートのはじを泥の中にいれてしっかり押さえる。ここで気づいたのだが、そのビニールシートには気温が暑い日に換気ができるように窓がついていたのだ。こんなところに、日本の稲作農業技術の粋を見た気がして、えらく感心してしまった。

いろんな段階をへてここまでやって「なえま作り」は完了。風は終始微風、仕事が一段落したところで強くなって来たので、油紙やビニールシートが飛ばされなくてよかったと、ホッとした。時間は9:30ごろ。予定では10:00ごろに終わると見ていたので、またまた、お義母さんに「崇さんのお陰で、早く終わった、よかったよかった。」と感謝されてしまった。長靴や手についた泥を畦の川で流し、そのまま家に戻った。家では御馳走の用意がしてあり、一仕事した後の爽快感というか、充実感も手伝って実にうまかった。つい1〜2時間前に朝飯をしっかり食べていたにもかかわらず、バクバクと食べている姿をじっと見ている妻の視線が痛かったが、それにもめげずに食べまくった。わたしは充実感があることをした後だと、空腹が倍増するたちなので、これは仕方のないことなのだ。それに、このごちそうの陰では、妻の実家における一年で盆と正月に次ぐ一大イベントなのだという意味も含まれており、そのためにお義母さんとおばあさんが夜なべして心を込めて用意してくれたという事実を知っていると、自然と箸が動いてしまうのである。

ビールを注ぎながらおじいさんが「あぁ、いい後継者ができて、よかった、よかった」と言われたときには内心ギョッとしてしまったのであるが、その言葉自体は冗談とは言え、それだけ農業従事人口が減っていることを象徴的に言っていると感じた。

私はこの秋に籾はこびのお手伝いをする。そのとき、私が手伝った「なえま」で育てた苗が大きく育ち、倒れんばかりに穂をたれ金色のじゅうたんになってくれていることを心から祈っている。生まれて初めての気持ちに何とも言えない新鮮さを感じながら妻の実家を後にした。

帰り際、おばあちゃんは「また、来年“ねーま”作りにきとくれや」と遠くで言った。

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