担任雑記No.21「ヨーロッパ旅行記11」

 一生の伴侶として二人を巡り合わせた運命を司る神は、時に二人を荒れ狂う海に放り出し、二人の資質を露にさせる。この日、神は私に2つの試練を与え賜うた。

 フィレンッェからヴェネッィアへ向かう途中で乗り換える駅ポロー二ャ。お昼時であったので、何か簡単なものを食べようということで、列車に荷物を積み込み、座席を確保して、置き引き防止のために妻をおいて、私が食料の調違をしに出掛けた。。ホームからだいぷ離れたところの駅舎に日本で言えばお弁当屋さんのようなものがあり、入ってみた。うまそうな食べ物がずらりと並んでいるが、皆ガラスゲース越しで店のおぱちゃんに取ってもらう仕組みだった。食べ物の名札が普通ならついているはずなのだが、この店に限って、表示が無い。欲しいど思っているものでも、何と言っていいのか分からず、まごまごしていた。メニューのようなものがあって、それを見ても、イタリア語はチンプンカンプン。グズグズしているうちに列車の発車時間が迫って来ている。店のレジは私以外皆白人でごった返している。頭の中はパニック状態、脂汗が額から背中から手のひらから滲み出てくるのがよく分かる。あと10分しかない。困った。その時私は何と、店にくるりと背を向けスタスタと列車に戻るという暴挙に出たのである。

 何ももたずに帰って来た私を見た妻が、呆れたように、「いいよ、私行ってくるから」と、列車を飛び出した。ホームからお店まで、かなり遠かったように記憶している。果たして妻は間に合うのだろうか。いや、このまま列車は走り去って行ってしまうのではないか。座席に一人ポツンど座りながら考えを巡らしていた。

「もしかして、呆れた妻はこのまま帰って来ないのじゃ無いか。」

「いやいや、ここはイタリアだ、列車が時刻表どおりに動くはずが無い」

「ローマではきちんと動いていたぞ、今朝もそうだった、ここだって、きっと」

「そうだ。荷物を下ろしてホームで待っていれぱいいじゃ無いか。」

「いやいや待てよ、降ろしたとたん、列車が走り始めたら困るじゃないか。」

「それより、妻を迎えに行った方が早いんじゃないか」

「待て待て、置き引きにあったらどうずる」

「もしかして、どこかで転んで怪我をしているとか」

「人さらいにでもあっているんじゃ無かろうか」

「それにしても、腹減った。」

「じゃ何故、さっき買って来ないんだ、情けない」

「だって、だって、コワイんだもん一」

「もっと情けない」

「そう自分を責めるな」

「もしや、これが原因で、今流行の『成田離婚』なんてこと一」

「何をばかな、考えないようにしよう」

…と、焦るぱかり。いよいよ列車の出発時刻になって、階段から食べ物の入った袋をさげた妻の汗をかいた姿を発見したときの安堵感はたとえがない。そして、同晴に、「俺って、情けない」と自責の念に駆られてしまった。でも、妻は前ど変わり無く付き合ってくれた。。とりあえずは今現在まで成田離婚の危機は避けられたようである。

 ヴェネッィアに到着、目的であったヴェネツィアングラスの工房を尋ねることにした。ムラーノ島という、ちょっと離れた島が本場である。ヴァポレットという水上パスにゆられて20分、島に到着。客引きのおじさんに違れられていった所は悪人顔のオジサンが出て来て、案内されたが、買う気を見せなかった所、態度が急変し愛想が悪くなった。こちらも気分がよくなかったので、違う店へ。ただの土産物屋と思って入ったところ、ジョージ・マイケルの小型版のような兄さんが、店の奥の特別展示場のようなところへ案内してくれた。我々の好みに合うように、実にていねいに分かりやすく辛抱強く付き合ってくれて、やっと気に入りのワイングラスを見つけることができた。ポイントは色である。蛍光灯の光の元では只の青だが、自然光に照らすと紫に変わる。その変化が奇跡を思わせるように劇的なのである。一種の感動を抱かせる逸品である。それを見つけたときの感動といったら、涙が出そうだった。ただ、足がつくと値段が倍に跳ね上がるので、タンプラータイプにした。船便で送ってもらい、3カ月後、我が家にお兄さんの言ったとおり、厳重に梱包されて、ヴェネツィアン・グラスが届いたのである。

 さて、今晩はこのヴェネツィアに一泊できればいいのだが、次の日朝早くスイスに行かなけれぱならない予定があったので、夜行列車に乗る予定であった。それまで時間があったので、ヴェネッィアに来たなら一度は訪れたい「サン・マルコ広場」で時を過ごした。カフェテラスでビールを頼み、行き交う人々、海に沈み行くヴェネツィアに郷愁を感じつつ、生バンドの演奏を楽しむ。日が落ち、広場のガス塔に火が灯り、ロマンチックな時間が訪れる。運河にはベネツィアの代名飼とも言えるゴンドラが揺れている。しばらく写真撮影などして、列車の出発時間の40分前に広場を出る。駅まで、迷路の様なヴェネチィアの道を歩いて行ことになった。私の計鼻では20分もあれぱ着く予定だった。だが、人が一人ぐらいしか通れないような電灯もない道がメインストリートというヴェニスの道。一歩踏み外せば運河に落ちるというところもある。なんだか、暴漢か追いはぎに遭ってもだれにも気づいて貰えそうにない雰囲気だ。私は一生懸命案内表示に従って歩いているのだが一向に駅が見えて来ない。10分。依然道は暗いし、狭い。角を曲がると教会が不気味な姿で二人を威圧する。妻は足が痛いと言う。 20分。後ろから罵声とともに一人の男が走って逃げて行く。するど怒鳴り声を発しながらエプロンをつけた男が追いかけて行く。繋張が走った。妻がおびえ出す。 30分、やっと広場に出たと思ったら、行き止まり。妻の怒りが膨らんで来た。「もう暫くすれぱ駅に絶対に着くから。」と言っては見たものの、こっちもなんだか不安になって来た。また広場に出た。運河が見え、向こう側が明るい。駅だ。急いでその方向に走って行くど、何ど、駅は運河の向こう側、橋が架かっていない。妻の怒りは爆発した。私はオロオロするぱかり。結局、45分かかって駅に着く。私の立場はその事件以来「夫」という立場から只の「ポーター(荷物持ち)」になり下がっていた。この気まずい募囲気を何とか打破しようと「僕みたいなヨーロッパ人の足なら20分で行けるんだけどネ、」と言った言葉が妻の神経を逆なでた。そして、道案内は任せられない信用ならん男というレッテルを貼られてしまったのである。何どか発車時刻には間に合ったものの、汗だく。水は買えず仕舞い。二等クシェット(寝台車)で、一部屋6人のところ、2人きりだったのがせめてもの救いだった。その夜は、列車を揺り籠代わりに爆睡状態であった。気が着くど、窓の外はスイスアルプス、列車はレマン湖の辺をひたすら走っていた。

 時として、試練に打ち勝てない敗者も世の中には必要なのだ。アーメンソーメン。

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