担任雑記No,3「ダイエット奮闘記」

 わたしは決して太っていない。だが痩せているとは言いにくい。あえていうなら「体格が良い」がぴったりだろう。何故ならば、君たちに見せたことはないがたるんでいる所などほとんど無いからだ。確かに体重は85キログラムに迫ろうかというところだ。だが、わたしは水に浮かない。もし腹についているものが脂肪なら、わたしは水に浮くはずだ。だからこれは筋肉であると確信し、わたしは生きている。

 だが、わたしは生まれつきそんな体重であった訳ではない。生まれたときは3,050グラム、玉のようにかわいい赤ん坊で、いわゆる標準であった。そして、両親の溢れんばかりの愛に包まれてすくすくと育って行く。小学校高学年ではやや小太りであると親に指摘されたことがあったが、中学校ではバスケットをやっていたお陰で身長も伸び、高校生ではむしろ大きいほうになっていた。大体そのころは体重よりも身長が気になる年頃なので、一体自分がどれだけの目方だったのかなど記憶の隅にもない。つまり、気になるほど痩せてもいなかったし、そして太ってもいなかったということになる。

 さて、体重が気になり始めたのは確か大学生時代だった。大学一年生のころ、わたしは下宿生活をしていた。下宿には風呂などなかったので近くの銭湯に毎日出掛けていた。その銭湯には体重計がある。家庭用のヘルスメーターでなく、いかにも「測れるもんならやってみろ」と言わんばかりの立派な奴だ。こんな立派なモノは学校の体重測定でもお目にかかれない。以前から乗ってみたかったのだが、なんだかその銭湯の主みたいな特権階級の人専用品みたいな感じがして、乗ってみる勇気がなかった。ある日、お客が少ないときがあり、このチャンスを逃す手はないと、どきどきしながらもなんとなく目新しく新鮮な気持ちで、周りの目をちょっと気にしつつ恥ずかしさを覚えながら、しかし、銭湯の素人だと悟られないように悠然とした態度でタオルいっちょ腰に巻き、「うーむ」などと唸りながらえらそーに腕を組んだりなんかして、乗ってみたそのときの体重は、65キログラム。何ということはない平凡な数値に拍子抜けした。このころはダイエットの「ダ」の字もなかった。

 次に体重を意識したのは、教育実習6週間のころだった。信州大学の教育学部は3年の夏休みの前後、付属中学校で6週間の教育実習を受けることになっていた。先輩から「絶対に痩せるほどキツイから」と半ば脅かされていたので、本当かどうか実証してみようということで記録をしていた。ところが、わたしはどういうわけか70キログラムをキープしたまま、変化無し。あれほどハードで睡眠時間のないつらい生活をしていたにもかかわらず、である。しかしよく考えてみると、あの今でも身震いを起こすような生活のストレスを発散する手段として、何かを食べる、奪ってでも食べるという事をしていたように思う。

 大学時代は70キログラムを大体キープしていたのであるが、異変が起こり始めたのは、わたしの記憶が正しければ、就職して実家に入ったころである。幸運なことに、わたしの初任地はわたしの実家が学区内にある「佐久市立浅間中学校」だった。当然実家から通うことになるが、大学時代の悲惨な食事事情とは雲泥の差、久しぶりに息子と一緒に暮らせるということで、母は張り切ってくださり毎日がごちそう、しかも、大好きなビールの晩酌付きと来たもんだから、太らない訳がない。普通、就職したての新卒は慣れぬ環境に翻弄され、食事もままならず、ストレスはたまる一方でどんどんやせ細って行くものなのだ。わたしの先輩もその魔の手に引きずり込まれ、見る見る内に骨と皮だけの青白い生る屍と化していただけに、わたしのつやつやとした肌やだんだんと短くなって行く首を見た先輩が、「幸せそうだねぇ」とつぶやいた姿を今でも忘れない。

 同年同じ学校に赴任した2人の新卒の女の子が、会議などで出されるお菓子を「池田君、これ、食べない?」と分けてくれて、親切な人達だなと思っていた。それが、何かある度にお菓子をわたしにもってくる。あるときは仕事机のうえにお菓子がドーンと置いてあり、「た・べ・て 」などとメッセージが添えてあったりして、そんなふうに勧められるとうれしいのが男の性、何の疑問もなく食べている自分があった。さて、そんな幸せな日々が半年ほど続いたある日、女の子の一人がニヤニヤしわたしにお菓子を手渡しながらこんなことを言った。

「フ、フ、フッ。“池田ブロイラー作戦”に見事引っ掛かったわね」

 一瞬の静寂。頭の中は混乱。「ブロイラーってだれ?」「わたしはどこ?」「この半年は何だったんだぁぁぁぁっっっ」女にだまされた時ってきっとこんな感じじゃなかろうか。そのときの体重は、83キログラムにまでなっていた。

 それからである。ダイエットという言葉に目覚めたのは。「池田ブロイラー作戦」の目標体重は何と100キログラム。この日から女の子たちはわたしの顔を見るたびに「今何キロ?」と聞く。わたしは85キロの線だけは絶対に越えたくないと目標を立て、「アンチ・ブロイラー作戦」を実行に移したのである。

 まず、わたしは野球部の顧問であったので、積極的に部活に出て、生徒とともにランニングをしたり、1000本ノックをしたり、サウナスーツを着たりして、汗をなるべく沢山かくようにした。そして大好きなお菓子を極力食べないようにし、涙を呑みながら他の先生に分けたこともあった。さらに、大好きな晩酌も土曜日の晩だけにした。こんな文字どおり汗と涙の努力のかいあって、一時は78キロまで落ちた事があった。

 が、現実はそう甘くはなかった。雪国の大晦日シンシンと音もなく降り積もる雪のようにストレスが精神を押し潰していった。ストレスとの戦いに勝つには飲む、食う、寝るしかない。見る見る内に体重は84キロ。大学時代にはいていたGパンが腹に容赦なく食い込むのを感じるたび、腹を無理にへこませる。そんなささやかな抵抗を試みる自分がどことなく哀愁を帯びているようで、時たまブルーになったものである。

 神は我を見捨てたのか。いや、神は最後のチャンスを与えたもうた。浅間中学校の若い先生方の仲間の一人が、「バレーボールチーム作らない?」といった一言が、あれよあれよという間に東信バレーボール連盟に所属、月1回の定例試合に強豪実業団に交じって参加する「浅間ラッキーズ」なるバレーボールチームを結成してしまった。やるからには練習も本格的、バレーボールの専門家を呼んだり、中学生と練習試合(浅間中学校は県大会の常連だった)を定期的にしたりして結構本気で汗を流した。その甲斐あってジャンプをすればバスケットボールのリングにぶら下がれるまでになった。

 そして一年。妻と結婚することになり、婚礼の準備で披露宴で着る衣装合わせをする。わたしは自信をもって白のタキシードを着た。何かおかしい。上着のボタンがはまらない。ズボンもなんだか食い込んでいるようだ。そこでわたしは一つの結論に達した。これは贅肉ではない。筋肉なのだと。結局衣装は一サイズ上のツーピースになった。色は紺色しかなかった。やっぱり白のほうがよかったかなとちょっぴり後悔している。

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