担任雑記No.32 「ドラ・クエとの出会い」

 始めにお断りしておくが、これはテレビゲームを推奨しているつもりで執筆している訳ではない。ただ、そういう時期だからである。中学生の皆さんはまずは勉強したまえ。決して親を悲しませる行為をしてはならぬぞ。それを肝に銘じて読んで欲しい。

 中学生と言わず日本中、いや世界中で愛されている「テレビ・ゲーム」。任天堂が「ファミリー・コンピューター」を発売して以来爆発的に広がり、現在ではそこから派生し進化して、さまざまな会社が対抗機種を発表し、この不景気にもかかわらずかの業界は衰えを見せず発展の一途をたどっているのは、ご承知のとおりである。

 私は就職する直前までテレビゲームとはあまり縁の無かった人生を歩んで来た。小学生から中学生にかけて、どこか如何わしい喫茶店に出現した「インベーダー・ゲーム」の誘惑に負けて行く周りの同級生を横目に、中学生生活を乗り越え、さらには大学生時代に出現した「ファミ・コン」には、同室になった先輩の生活がその魔の手に嵌まり生活が堕落して行く姿を目の当たりにして、「絶対こうなるものか」と心に堅く誓い、「テレビゲーム」に染まらないよう自分の操を守って来た。そして、それが私の一つの自慢であった。

 ある日、アメリカから帰国して間もない私の友人の家に遊びに行ったとき、私は友人の所有する小さなテレビに接続された奇妙な赤い物体に目が引かれた。これがうわさに聞く「ファミ・コン」というやつか。別のうわさでは電話回線と接続してお茶の間で手軽に株を操作できるらしい。どこがそんなにおもしろいのだろう。と、心の片隅に“興味”の火が灯った。友人はそれを見て取って、その操作法を手とり足取り解説してくれた。“ぴっ”という音、そして一瞬の静寂を突き破り電子音のファンファーレとともに映画のようなオープニング画面が展開する。操作ボタンを押して行くと次々と画面が変化し、それにあったドラマチックな音楽が流れる。映画の主人公になったような気分で心は躍り、高ぶる。こんな興奮は久しぶりだ。今まで、ゲームと言えば変化のないモノクロームの場面が延々と続き、何か人間らしさを失った冷たい世界を思い描いていた。また、たかがテレビゲーム、子供のおもちゃじゃネエかと過小評価していた。ところが、ゲームの場面が展開するふとした間合いに息をつく自分に気づいたとき、今までテレビゲームをばかにしていた自分が恥ずかしくなった。その瞬間から、私は見る見る内にゲームの虜となってしまったのである。

 それが「ドラゴン・クエストV」である。うわさには聞いていたがこれ程までにおもしろいとは、予想もしていなかった。私の中にあったゲームの概念を根底から崩す傑作であり、この作品に出会わなかったらやはりテレビゲームに夢中になることはなかったであろう。というのは、「ドラ・クエ」に少し飽きて来たので他のソフトも試してみようと、何種類か手を出した。シューティングもの、格闘もの、別の会社のロールプレイもの。だが、おもしろくない。最後まで続けてやろうという気持ちになれない。のめり込めないのだ。私は大きく失望し、結果、また「ドラ・クエ」に戻ることになる。やはり、このゲームは裏切らなかった。落胆した私をまた天空の世界へ誘って(いざなって)くれる。私の脳の記憶バンクにこのときから「ファミ・コン」と言えば「ドラ・クエ」と言う黄金の方程式が構築されて行った。数カ月後、私の大学生生活が終わりに近づいて来たころの寒い日、「ドラゴン・クエストW」が発売される。友人は私の期待どおり、予約し、手に入れていた。そして、再び訪れる「天空の世界」に心酔し、没頭した。

 時を同じくして、休日になるとときたま私は帰省した。私には弟がいて、弟は決まって昼間の11時頃起きてくる。ただでさえ寝起きが悪い弟のこと、何かあると思っていたのだが、弟も実は「ファミ・コン」に嵌まっている一人であることが判明。「ドラ・クエW」が発売される日、弟は両親にこっそりとそのソフトを買っていた。しかも、よっぽどやりたかったのであろう、こつこつとお年玉をため、ファミ・コン本体も購入していた。弟は大学へ進学が決まっていたので、高校生活の最後はどうやら「ドラ・クエ」に三昧の毎日だったらしい。さて、ある晩の夕食時、弟が風呂に入っている間、弟の寝起きの悪さが食卓の話題になっていた。私は弟を裏切るつもりではなかったのだが、話の流れで、ついつい「ドラ・クエ」に嵌まっていることを口走ってしまった。そのときの父と母の表情の変化は今でも忘れない。「何それ、どういうこと?」大学進学が決まって一安心して家庭内も平和な時が流れていたが、ふろ上がりの弟が父と母にメッタメタに説教を食らっている姿を目の当たりにし、私は罪の意識に苛まれていた。弟の密かな楽しみが剥奪されては気の毒と、私はこわい両親にあえて一言、「大学決まっているんだから、許してやってよ」と弱々しく言ったことを朧げながら覚えている。

 それが功を奏したのかどうかは分からないが、弟は何とか無罪放免になった。そして、大学院へ進む今も、弟は「ストリート・ファイター」に嵌まっている。さらに、その事件をきっかけに彼はコンピューターの達人となった。もしそのとき、ファミコンが取り上げられでもし、コンピューターに以後触れることがなかったかと思うと、運命とは不思議なものよのぉと感慨深くなるのだ。

 私は「ファミ・コン」と言えば「ドラ・クエ」しかやらない。「スーパー・ファミコン」が発売されたときも、「ドラ・クエ」用に購入し、「ドラ・クエX」の発売まで封を切るのを待った。待った甲斐があって発売され手に入れたときの喜びは一入(ひとしお)だった。パワーアップした「ドラ・クエ」。私は3度感動の渦に酔った。

 1995年12月9日(土)。「ドラ・クエ」マニアである私の妻と共に、私はトイザラスへ向かう。もちろん、「ドラ・クエY」発売日だから。

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