担任雑記No,38 「不思議の国ガスト」

 先日、妻のアメリカ留学時代の友達が東京から一泊でこちらへスキーをしに遊びに来た。彼女らの希望は、自然がいっぱいの雄大な広くて長いゲレンデで滑りたいということだったので、白馬八方尾根スキー場へご案内した。折しも久々の寒波で東京地方や長野県南部は大雪の、いわゆる「カミ雪」の日曜日であった。彼女らはその日のうちに東京まで帰らなければならないから、あまりゆっくりとできなかったが、白馬八方尾根の白銀の世界や、兎平のコブ斜面、4キロというロングコースを満喫してくれたようだった。それに付き合った我々夫婦は、何かと気を使ったお陰で、彼らが満足げに帰った後、気が抜け居間にへたりこみしばらく動けなくなってしまった。

 そうは言っても1時間もすると腹が減ってくる。昨晩彼女らのために大量に作ったおでんが残っているかと思いきや、おでんつゆの中から出てくるのは、大根やがんもどきの端切ればかり。以外にも昨晩は食べるよりしゃべるほうに重点を置き、ほとんどおでんを口にしなかった我々夫婦にとって、この事実は驚きよりも絶望であり、その落胆ぶりは筆舌に尽くしがたい。そこでまた二人とも動けなくなってしまった。

 再び、そうは言っても腹の虫は鳴り止まない。かといって、今からご飯を炊く“ズク”(東京の人にこの言葉は通じない。“ボケたりんご”も同じだ。だから、彼らとの会話でついつい出てしまうこの言葉を通訳するのにまた気を遣った)もない。じゃ、少々懐が辛いが、外食しに行こうと決まった。

 ところが、こんな気力の減退している時に、どこへ行くか考えろなんていうほうが無理であり、「回転寿司なら本当の寿司屋がいい」とか「焼き肉もいいけど遠いからズクが出ない」「スパゲティーって感じでもないし」「本とはコロッケが食べたいの」「牛丼の吉野屋じゃイヤダ」我がまま放題、妻と2人で埒もない話を延々30分も繰り返した様は、関西人が見たら「オマエラ、ええ加減にせえよ!!」と数発後頭部をシバかれていたであろう。

 気の抜けた議論との格闘の末、近くの人気定食屋が休みだったら、「ガスト」へ行こう、という、何とも優柔不断な決断であった。案の定、定食屋はお休み、渋々「ガスト」へ向かうとことにした。

 さて、ここからである。我々は不思議の国のアリスの世界に迷い込んだのは。

 暗い駐車場に一つだけ空いていた場所に車を止めると、向かい側の車の中にいる二つの人影が、一つに重なり合っていた。妻も私も目が点。数秒後になんとなくニヤけているお互いをみて笑った。なんとなく得をした気分になり、浮かれた気分で店に入った。いつもなら待たされるはずが、今日はすんなりと禁煙席に座ることができた。だが、すべてがそううまく行くものではない。席は空いていたが、片付けていなかった。そこへウエイトレスがお冷やと食器を持ってやって来て、気づいたのはいいが、我々に出すはずのお冷やや食器の上に、汚れたナフキンをポン、と載せてしまった。私も妻もまたもや目が点になってしまった。

 常識から考えて、そのようなものはもう一度新しいものに取り替えてくるであろう。ところが、である。その若いウエイトレスは、何事もなかったかのように、“その”お冷やと食器をトントン、とテーブルに配り、マニュアルどおりの挨拶をして去って行こうとする。今度は空いた口が塞がらなくなってしまった。ハッと気づいた妻はウエイトレスを呼び止め、替えてもらうよう頼んだ。彼女はお冷やは取り替えてくれた(妻の分だけ)が、食器はそのままであった。

 さて、気を取り直し、私はビールをサラダうどんを頼んだ。こういう所は飲み物はすぐに出てくる。先程、席の片付けをしたウエイトレスとは違う、いかにも高校生らしいウエイターが妻にはスープ、そして、私の目の前に、空のグラスをトン、と置いて何やらグショグショ言ってから、軽く会釈をして去って行った。…?。目の前にある空のグラス。私が頼んだものはグラスビール。これは一体?私の心の中は疑問符(?)でいっぱいになった。このグラス、目の錯覚か何かの魔術で、こっそりとビールが入っているのかと思って、ひっくりかえしたが、何も出て来ない。もしかしたら、ヨーロッパのように、ビール缶かビンが後から来るスタイルなのであろう、と待ってみたが、来る気配が一向にない。私の心の中の?マークはますます増えるばかり。一体これは何なんだろう。きっと何かあるに違いない。事態の成り行きをしばらく静観することにした。

 10分ほど経ってメインの食事が来た。これまた別の20〜26歳くらいのウエイトレスだ。器をテーブルにドスン、と置く。その荒っぽい音にびっくりして私は思わず彼女の顔をのぞき込んでしまった。彼女は何か不機嫌そうである。やることが荒々しい。そこに、妻が空のグラスの件について尋ねた。彼女は始め、怪訝な顔をして私たちを睨む。数秒の後やっと気づいて、ポケットから皺になったオーダー用紙を取り出し、オーダーを確認した。私は固唾を呑んで次の行動を待った。時計の針がゆっくりと時を刻む。心臓が高鳴るのが周りに聞こえそうだ。唐突に、ガサッ、と風を切る音を残して彼女は方向転換し、厨房へと去って行った。10秒ほどしてグラスに入れたビールを片手にさらに不機嫌そうにツカツカと私たちのテーブルに向かって来た。そして、「ゴン」とテーブルにおいて去って行ってしまった。くしゃくしゃのオーダー用紙は食器カゴの中にほうり込んであった。窓には呆然と成り行きを見ている私の姿が映っていた…。

 精神が疲れているときに、ファミリーレストランへ行くものではない。アルバイトの誠意のない対応に、ますます疲れるだけだ。妻は、ほとぼりが冷めるまでしばらく「ガスト」へは行かないと今でも怒っている。

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