担任雑記No,39 「朝焼けの美しい朝に」

 今日は卒業式である。いつもより早めに家を出て、まだ誰もいない学校の美研で恐らく本年度最後になるであろう「担任雑記No,39」を書いている。どうしてこんなときに書こうと思い立ったのか。それはこの時期になると2年前、私が初めて担当したクラスの生徒を卒業時のことが頭の中に蘇り、書かずにおられなくなったからだ。

 私の初めて受け持ったクラスには、入学式に1日登校して以来、後の3年間一度も学校には顔を見せなかったTさんがいた。彼女は小学校のころは病気がちな母の面倒を見るために、姉と1日〜2日交替で学校を休んでいたが、姉が高校進学のため学校を休まなくなって以来、一度も学校へ姿を見せることはなくなってしまった生徒であった。

 私は、彼女との繋がりを保つために、時間の許す限り、ただおしゃべりをすることだけを心掛け彼女の自宅へ出掛けていた。だが、初めのころは、彼女は、私に対して心を開いてはくれず、襖越しに話しかけるような事態がしばらく続いた。

 ある日、夏のことであったが、めったに家から外に出ない彼女が、父親と二人で庭に出て、自動車の掃除をしているところへ偶然にも鉢合わせになったときがあった。彼女は少しと惑っていたが、私と父親との会話の中に自然と溶け込んで来てくれて、ようやく私と面と向かって談笑をすることができるようになった。そのとき以来、私が彼女の家のドアをたたくと、風邪を引いていたり、体調を崩していない限り、玄関先まで顔を出してくれるようになったのである。

 しかし、依然、彼女は登校する意志を持とうとしなかった。臨海学習、登山、修学旅行と、さまざまな行事のたび、クラスの生徒が誘いの手紙を出したり、訪問したりしたが、一切受け取らなかった。また、そうすることが母親にかなりの強迫観念を持たせてしまうこともだんだんと解ってきた。私が訪問したりすることは特に何の問題もなかったことから、クラスの生徒と彼女との唯一の繋がりは、私でしかなかったのである。だから、クラスの生徒の中には、彼女の顔や容姿を全く知らないもの半分以上いても全く不思議ではない。Tさんの顔をほとんど知らずに卒業して行ってしまったのである。いずれどこかの街角でTさんに出会ったとしても、「お久しぶり!」とか、「元気だった?」など、懐かしんだり再会を喜びあったりすることはないのである。

 さて、時は流れ、いよいよ我がクラスも卒業シーズンを迎えていた。あるものは推薦入学を決め学校への最後の奉仕活動をしていたり、あるものは自分の希望の高校とは掛け離れた所を受験せねばならないつらい思いをしながら受験勉強に励んでいた。Tさんはというと、進学は希望していなかった。かといって、就職も考えていない。つまり、「家居」という進路を選んだのである。母親の言葉が今でも印象的である。「人の生き方にはその人のスピードがあるからね…」私は反対はしなかった。彼女は私には話してくれなかったが、将来に向けての夢があると言う。それを実現するには今の進路選択がいちばんだと、彼女なりに考えた末の結果であるからだ。職員会で行われる進路指導の会議出す資料に「家居」と記入するのはTさんの項目だけであった。そのことに恥ずかしさはなかったが、私にもっと力があれば、もっと違う道も選択できたはずだと心の隅にわずかながら自責の念があったことは否定できない。

 私はそのころ、結婚を控えていて、さらに、この篠ノ井西中への異動も決まっていた。クラスの生徒には公表できないもどかしさを何とか耐え、クラスへの置き土産を作っていた。それは、もう一人の美術の先生に教えてもらいたての「銅版画(エッチング)」である。モチーフにしたのは、最初から「クラス全員の似顔絵」と決めていた。そして、その中にTさんの顔もごく自然に、あたかも入学当時からずっといたかのように入れようと考えていた。そして、このクラスの生徒達がいつまでもTさんの存在を忘れないでいてほしいと願いを込め、銅版に刻んだ。そして、木版画とは比べものにならなくらい大変な“刷り”の作業を行い、約1カ月かけ45枚を刷り上げた。

 卒業式当日。朝焼けの美しい朝であった。証書授与式は滞りなく進み、私が壇上に上がる離任式も含め、すべての日程を終了した。最後の学活の時間になった。教室に入るとクラスの生徒は私との別れに誰も泣いてはおらず、淡々とした空気にやや拍子抜けしたものの、それも彼らなりの照れもあるだろうと、無理やり自分を納得させて、私の話を始めた。とは言っても、気の利いた話ができる訳でも無し。だから、彼らへの置き土産として、苦労して刷り上げた銅版画を一人一人に手渡しし、別れの挨拶とした。もちろん、Tさんは出席しなかった。だから、彼女には後で自宅へ向かい、卒業証書と一緒に渡すとクラスの生徒に伝え、最後の学活を終わりにした。

 Tさんの自宅へは校長先生と向かった。校長先生自ら手渡しをしたいと言ってくれたのである。彼女の自宅では、いつものとおり、コタツに当たり、母親の出してくれるお茶をすすりながら、Tさんと談笑した。彼女は校長先生を素直に受け入れてくれた。そして、卒業証書を受け取り、私からの銅版画も受け取ってくれた。彼女はいつもよりも口数が少ないようにも見えたが、それは、校長先生がいたからであろうと思っていた。学校へ向かう自動車の中で、校長先生が、私にボソッとつぶやいた。「Tさんは、辛かったんだろうねぇ」「えっ?」「あの表情は、池田先生と別れるのが辛いと言う表情だった」「ああ、そうでしょうか…ねぇ」私は彼女との3年間をぼんやりと頭の中に思い出して、無言になった。そして、Tさんの選んだ道が明るいものであることを願った。

 2年後、DANDY’sの面々は卒業を迎える。君たちはどれだけ成長しているのだろうか。どれだけ自分の未来に目を向けているだろうか。自分の納得した進路選択をしているだろうか。そして、朝焼けの美しい朝はやってくるだろうか。

ホームページへ   担任雑記No.40へ

1