担任雑記No.4「ある男2」

その男はとても性格の良い男で、いつもにこにこしていた。100キログラムー以上はあろうかという体をゆさゆさと揺らしながら大学の寮の階段を上り降りする姿が印象的。彼の部屋は私と同じ5階にあった。ブロックコンパ(寮では同じ階に住む住人の集まりを「ブロック」と言った。コンパとはいわ抄る飲み会。)を開き一晩中のみ明かした時、彼は体格どおりもの凄く食い、飲んだ。その体格たる所以である。

ある日、洗濯をしていたところ、彼が洗濯室にやってきていつもどおりににこにこしながらおもむろに洗濯機にラクピーのユニフォームを投げ人れたときは、驚いてしまった。ラグビーと言うよりはまったく相撲部のほうが似合っている。彼はその見事な体格からは想像できないのだが、信州大学のラクビー部に所属しており、見た目からは想像できないほど強靭な体力の持ち主だった。良く食べるわけである。

さて、ある晩、ブロックで会議があり、ブロックの住人皆が5階にある談話室に集合し、ブロックのきまりごとなどについて話し合っていた。例えば洗濯室の洗濯ものは早めに取り込むこと。調理室の冷蔵庫は綺麗に使うこと。決してニンニクの漬物などを入れつばなしにしないこと。トイレの紙は一回30センチまでとするなど、常識の範囲を守ろうと言うような内容だった。会議も終わりに近付いたとき、だれかが、「部屋の窓の外のベランダにごみやがらくたが酷く溜まっているので、早く片付けよう」と提案した。皆異議はなかったので、早速撤去作業をすることにした。時は夜中の10時ごろ。今思えばこんな真夜中にどうかと思うが、学生の活動時間はこのぐらいがいちばん活発であるので、ある面ではやむをえない。真つ暗な中だが、部屋の明りを頼りに、ごみやがらくたを片付け始めた。ベランダと言っても申し訳程度についているだけなので、本来は人が歩けるようにはできておらず、幅が30センチもあるかないかといったところで、手摺もない危険な場所であった。前の住人カ磯していったごみがどんどん出てくる。カップラーメンのカップや、コンビニエンスストアの袋、ひどいものになると、自動車のクラッチ、スピーカーの残骸、鉢植えの化石、などなど。良くこんな狭い場所にこれだけのごみを溜めておいたなあと、我ながら関心してしまった。さらに驚いたことに、何と布団が捨ててあるのである。仕方ないので、同室の先輩と相談して窓の外に落とし、翌朝明るくなってから処分することにした。人間が落ちないように慎重にバランスを取る。「せーの」で落とした。成功。なにせ狭いところなので、自分カ溝ちてはかなわない。ほっとした。すると、向こうでも同じようなことをやっているではないか。こつちより何か重そうな、水をたつぶりと含んだような布団をどすんと落としていた。ん?・・・何かおかしい。落ち方が布団のようにふわりとした感じではなく、それよりも重重のある大きな物が一直線に落ちた感じである。今のシーンをもう一度頭の中で再生してみた。もしや・・・人間??すると、向こうから「おい、大丈夫か??!!」と、悲鳴とも、怒号とも着かない大声がした。信じられないことにあの100キログラムの彼が5階から落ちてしまったのである。一瞬にして顔から血の気が引いた。次の瞬間、その落ちた現場に走った。彼はうつぶせで苦しそうにうなっていた。鼻からは血を流し、腕は見る見る青く腫れ上がってくる。だれかが、彼の顔を叩き、「おい、大丈夫か、しっかりしろ、ねむっちやいけない!」と懸命に意識を繋げようとする。またあるものは、「救急車だ、119番しろ!!」と叫び、別のものが電話まで走って行く。そしてまたあるものは「寮長を呼んで、実家に電話しろ!!」と叫ぶ。体を冷やしてはならぬと、毛布を掛けたり、止血をしたりと考えられる応急処置をした。いつの間にかこの事件は寮中に広まっており、大騒ぎになっていた。だが、様々な人間がが彼を助けるために、必至になって自分のできることを行動に移していた。

 しばらくして、闇をつんざくサイレンと共に、救急車がやってきた。てきぱきと救急隊員の指示で担架に乗せられ、彼は日赤病院に送られていった。付き添った仲間からの知らせで彼は直ぐに集中治療室に入れらは手術にはいったという。

責任を感じて、何人かで日赤病院に直ぐに飛んだ。こんな事態は生まれてこの方経験したことがない。頭の中は混乱を極めていた。ついさつきまで、彼は元気に生きていたのである。たった一瞬の事が、人生をあっというまに思いも寄らぬ方向へ残酷なまでに歪めてしまうのか、と、運命というか、人生の無情さというか、現実の厳しさを目の前に突き付けられた思いがした。そして同時に、なにかテレビドラマかニュースを見ているような、自分のことであって、そうでない、現実を把握できない自分に戸惑いを感じていた。「なぜこんな時間に」「なぜこんな危険なことを」「なぜ予測できなかったのか」「なぜ朝にやろうと言えなかったのか」まるで自分が彼を突き落とした張本人ように、自分を責め自問していた。車の中は終始無言、重苦しい空気が流れていた。

日赤に着き状況を聴くと、彼は腕と肋骨の骨折と、軽い脳振とうだけで、奇跡的に一命は取り止めたという。彼を救ったのは、ラグビーで鍛えた驚異的な体力であった。

 後日お見舞いにいったとき、腕に包帯をしていたものの彼はすっかり回復していた。何事もなかったかのようにお見舞いの果物をバクバクとおいしそうに食べる彼を見て、あんなに悩んだのはなんだったのだろうと、不覚にも思ってしまったのは私だけあるまい。それが彼の人柄なのかもしれない。彼は本当に性格の良い男だ。

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