担任雑記No.43 「寮生活その3」

 「署名してくれ!」

 彼は言った。「署名?」今にも彼ら風紀委員の部屋へ大挙して押し込んで行き、暴力的に追い出すことばかり考えていた私の頭の中だったので、この提案は拍子抜けさせるものであった。同じようなことを考えていた新入生もいて、不満げな表情を浮かべていた。が、その署名を彼ら風紀委員につきつけ、風紀委員の即時解散を前提とした交渉をし解決を目指すのだと言う。説明を聞いて行くうち、先輩たちがあくまで平和的な解決を望んでいることが分かったし、暴力的に解決しても元の木阿弥である。先輩たちの紳士的かつ、冷静な対応に私の心の激しい炎はしだいに小さくなり、鎮火した。

 すると、別の気持ちが沸き上がって来た。ここまでの一連の出来事において得た妙な感動である。「さすが大学生だ!!」の一言にエコーがかかって回っていた。

 先輩の中には7年生とか、30歳を越えている人も何人かいた。社会経験が豊富な人達である。それに、寮長の毅然とした態度や、女子寮の先輩の真剣なまなざしが、今まで自分がたどって来た人生のなかで、経験したことのない「大人」の世界を感じるに充分であった。このあけぼの寮は自治寮である。寮の代表である寮長を立て、自治会を組織し、管理者である大学と対等に会議をもち、自分たちの生活をより快適に、清潔に、安全に過ごすために、自分自身で一生懸命運営しているということがよく分かった。

 その自治会がいま動き出そうとしている。彼らについて行こう。彼らを信じて、署名をしよう。書類が回ってきた。

 「この署名によって、悪夢のような寮生活から解放されるのなら…。」

 名前にこれ程までに気持ちを込めたことは、大学受験の時でさえもなかったことである。印鑑はもっていなかったので、拇印を押した。朱肉はあらかじめ自治会が用意してあったものである。入念に朱を親指につけ、できるだけはっきりと跡が残るように押した。指先がジーンとした。

 1時間ほどで会議は終わった。風紀委員に悟られないように部屋に戻るのに神経を遣った。先輩が廊下で見張りをして、一人ずつタイミングを見計らって部屋に送った。特に女子への気遣いは並々ならぬものがあり、廊下を渡らせると危険なので、普段は使わない女子寮専用の扉まで廻って入るよう絶妙に計画されていた。

 無事気づかれず部屋に戻るとほっと一息ついて、コタツに入った。先輩は用事があると言って、部屋には戻らなかった。一人、もう一回息をつく。心が充実しているのが体のすみずみまで伝わっているようである。未知への扉をあけた瞬間の不安を抜け、光りに満ちた世界へ飛び込んで行った爽快感。そんな表現がピッタリとあてはまる。

 先輩たちはあの署名をもって今、風紀委員のところへ向かっている。そして、その署名を彼らにつきつけ、彼らの解散を交渉している最中であろう。うまく行くだろうか。想像するだけでドキドキした。ベッドで横になってもそのことが頭から離れず、ずっと考えていた。その晩は風紀委員による消灯の放送は流れなかった。

 翌朝の7時、寮長の声による招集の放送で目が覚めた。私はいつの間にか眠っていたらしい。いつもと違ってやや緊張した口調の寮長の放送で私は跳び起きた。

 とりあえず着の身着のままで食堂へ向かった。食堂にはだいぶ人が集まっていて、異様な緊張感が漲っていた。だれもが不安そうにこれから起こる予測できない事態を待つ。 もしかしたら、交渉は失敗したのでは…。不安が募る。みんなの前には寮長以下、自治会の役員が緊張した面持ちで並んでいる。

 「皆さん。」寮長が重々しく口を開いた。「昨晩、風紀委員のかたがたと皆さんの署名とともに話し合いをもちました。」 ゴクッ…。いよいよだ…。

 「話し合いの結果は、風紀委員のかたがたに発表してもらいます。」

 ぞろぞろと風紀委員の面々が食堂へ入場してくる。何やらホウキだの、バケツだの、手にしている。もし、暴力行為に出たなら、それなりの覚悟はある。少し身構え、彼らの出方を待った。食堂の空気はさらに緊張感を増し、数秒の静寂も数時間のように感じられた。“固唾を呑む”音が聞こえた。

 「ア、せぇのぉ〜」彼らは我々の予想もしない行為に出た。

 「うっそでーす、ウ・ソ、ウ・ソ、みーんな嘘でしたぁーっ!!」

 素っ頓狂な声とともに今まで厳しい顔をしていた風紀委員の奴らが、突然狂ったように踊りだしたのである。ホウキやバケツには、「今までのことはすべて嘘でした!新入生の皆さん、ごめんなさい」などと書かれた画用紙が張り付けてあり、副委員長は扇子に「天誅」などと書いて頭のうえでひらひらさせ、一番恐ろしい雰囲気を醸し出していた委員長に至っては、ひたすら平謝り。上級生が特大張りセンを持ち出し、「スパーン、スコーン」と一発、二発される始末。他の上級生も交じって拍手喝采、もう、バケツの中身をひっくりかえしたような大騒ぎであった。

 この状況は私にとって理解できる状況ではなかった。彼らが言っていることは一体なに!?「ウソ」って何だ?どうしてあんなに騒いでいるの?「ウソ」って嘘だろ?呆然とし、肩の力が抜け、床にへたりこむ私に、隣にいた友がニヤリと笑った。そして次の瞬間、大爆笑の渦に加わった。事態は次第に飲み込めて来た。つまり、これは恒例、新入生歓迎の行事として全寮挙げての「大芝居」だったのである。

 こうして、私の大学寮生活が正式にスタートした。個性的で有能、友を大事にする先輩や同級生に囲まれ、私は卒業を迎えるまでこの愛すべき「あけぼの寮」に住む。2年後私が「風紀委員長」役をやるとは、このとき夢にも思わなかったのであるが。(完)

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