担任雑記No,48「ヨーロッパ旅行記25」 モンマルトルの丘の出来事から一夜明けた朝は、夏とは思えないほど風の強い、どんよりとした厚い雲が空を覆っていた。おまけに、スーツケースの奥のほうからカーディガンを引っ張り出して着ても震えがくるほど寒い。
この日は午前中、モネの「睡蓮」を見に行く予定である。これはルーヴル美術館の西にあるチュイルリー公園のこれまた西の端にある小さな「オランジュリー美術館」に収蔵され、常時展示されている。
開館は午前9時45分なので、ゆっくりと朝食を済ませ、オランジュリー美術館へ向かったが、時間になってもなかなか開けてくれず、寒い中震えながら待つ羽目となってしまった。
さて、この美術館はモネの晩年の超大作「睡蓮」のためだけにある美術館なのであるが、印象派から、ピカソ、ブラック、レジェなど、近代絵画も数点展示されているので、こぢんまりとしているわりに、内容の濃い美術館である。
エントランスでチケットを買い、手荷物を預ける。フランスに限らず、ヨーロッパの美術館はどこでもそうだが、肩掛けカバンやデイバックなど預けるクロークが備わっている。そこに荷物を預けずに入ろうとすると、係員に厳しく注意されるのである。つまり、作品を傷つけないようにとの配慮なのだ。日本の美術館のようにどんな価値の低い作品でもガラスケースの中からしか鑑賞できないのと違い、ルーヴル美術館の「ジョコンダ」(モナ・リザ)や、スペイン・プラド美術館の「ゲルニカ」以外、すべての作品は壁に直接かけて展示されている。絵肌に触ろうと思えばできるくらい(実際やったら大変なことになるので、だれもそんなことはやらないが)なのだ。これによって、作者の筆のタッチがよく観察でき、作者の息遣い、心の乱れ、動き、背景までもを連想できるのである。美術が身近で大事にする文化の高い国ならではである。
エントランスから階段を上る。第1展示室だ。ここには先ほど述べたように、印象派から近代の代表的な画家の作品が展示されている。一番奥には、ピカソの「ルネッサンスの時代」のころの大作があった。ルノワールもある。セザンヌもある。そのほかマティス、ドラン、ユトリロ、マリー・ローランサン、モディリアニ、ルソーなど、美術の教科書に載っているような画家の作品が44点。5年前に訪れたときとほとんど変わらぬ状態であったのが何とも懐かしく、うれしい気分にさせてくれる。
そうはいっても、やはり足早に一通り見学してから、目的の展示室へ向かう。階段を降りると「睡蓮」の展示だけに設えた特別展示室なのである。20メートルくらいのつぶれた楕円形の形をした2つの部屋が、メガネのようにつながっている。その壁面はすべて「睡蓮」である。入ったとたん、時間の流れがゆっくりとなった。
部屋の中央にふかふかのソファが置いてある。ゆっくりと何時間でも鑑賞できるようにとの配慮だろうか。腰を下ろしてみる。視線がちょうど作品の一番バランスのよいところに収まるようにできている。
モネの「睡蓮」という作品は、モネが追い求めて来た自然界の「光」というテーマの集大成とも言える作品だ。彼は睡蓮の咲く池のある庭園によく通って、何枚もスケッチを残した。そして、ごく普通のサイズの作品を何枚も描いた。だが、どういう心境の変化か、偉大な芸術家とは時に恐ろしいことを考えつき、そして、実行し、形に残すものだ。考えつくまでは凡人にもできるが、実行し、形に残すことが偉大な芸術家の証しなのであろう。とにかく、池に浮かぶ睡蓮とその水面と、枝下た柳などの織り成す、柔らかく、深く、複雑で、しかし単純な「光の数々」が、2つの楕円形の部屋の壁面に隙間なく描かれているのだ。近づいてみれば、花の一つ一つは、早い筆でさっと描いてあるだけ。輪郭線など見当たらない。純粋に、光を追い、色の組み合わせだけで描かれている。これが、後にパレットのうえでは絶対に絵の具を混色せず、小さな純粋な色の点だけで表現しようとした「新印象派」と呼ばれるスーラなどに受け継がれて行くのかと思うと、また感動も大きくなるものである。歴史的名作を目の当たりにして、私の子供、いや、孫、もっと後にも残して置きたいと壮大な気持ちになった。
そんなまるで夢のような心地で半ば覚醒状態でぼんやりしている私を、一条の閃光が一気に現実の世界へと強引に引き戻した。写真機のフラッシュである。
ヨーロッパの美術館はよほどのことがない限り、撮影禁止ではない。ただし、フラッシュなど強い光は、作品の表面の顔料を痛めるため、固く禁じられているのだ。係員が飛んで来て、「No,flash!」と叫んでいた。
「Sorry」と済まながっているのは日本人である。すると、しばらくしてまた、閃光が。「No,flash!」今度は少し強めに叫んだ。またしても日本人だ。しかも、反省する様子もなく、ニヤニヤしている。全く無頓着である。人類の遺産を台なしにするつもりなのか。
昨今の教育指導要領の改定で、ますます美術の授業を減らす方向にある日本の教育行政は、海外の諸外国に日本人の文化度の低さを露にしていることが分からないのだろうか。「日本人は美術を大事にしない。」そして、「名画は莫大な金で買うものと思っている」という、妙なレッテルを貼られても仕方ないのである。
たしか5年前、私が大学生のとき訪れたときもそうであった。日本の教育は何をやっているのだろう。教員になって、美術を教えているつもりであるが、自分の微力さにもどかしいやら、悔しいやら、せっかくの大傑作を目の前にしながら、ゆったりと楽しめない自分に腹が立ってしょうがない一時であった。