担任雑記No,54 「遠慮という美徳・?」

 帰り道、自動車で18号線は帰宅時間帯で上り線、下り線ともやや混んでいる。前方に郵便局から出ようとしている軽自動車がいた。私はパッシング(車のライトを軽く点滅させる)して、車の流れに加わるように促し速度を落とした。

 ところが、その軽自動車は微動だにしない。「あれっ、反対側に出ようとしているのかな?」いや、方向指示機は明らかに私の走っている方向を指し点滅していた。いくら速度を緩めても、このままだと通り過ぎるか完全に止めねばならない。今なら車間は十分、むだな停車が避けられる、もう一度パッシングし促してみた。先程よりも近づいているのでドライバーの女性の顔が見える。何と、彼女はこちらを見ていなかった。オイオイ、出る気があるのだろうか?ちゃんと意思表示しろよ。

 それでも、と思ってもう一回パッシングを試みた。やっと気づいた彼女、そろそろと車を出してきたはいいが、もたもたしていて、半分出たところで止まってしまった。そして、しなくてもいいお辞儀を何度もしてやっと流れに加わることができたのである。 私としては、さっさと入ってきて、ハザードの2・3点滅くらいしてすいすいと走って行ってくれれば、むだな減速を免れたのに、速度を落とせば再び加速し、むだなガソリンを食いおまけに余計な排気ガスを撒き散らせねばならない。結果、環境破壊が進む。ああ、悪循環である。

 この間、恐らく10数秒。たったこれだけのことだが、その後自宅に着くまでの車中、いろんなことが頭に浮かんだ。

 まず、日本の交通事情は「意地悪」の一言である。反対車線の様子を見ていて、脇道から本線の流れに車を入れることは、余程の親切なドライバーに巡り会えるとか、車間がかなり空かないとできない。特に朝晩のラッシュ時は、殺気立っていて醜い。仮に、朝のラッシュ時に脇道から出てきたトラックなど入れようものなら、後続車の危険なまでの車間詰め(あおり)にあったり、パッシング、クラクション鳴らしを食らう。

 次に、「遠慮」が悪い方向に働いているということだ。自動車を運転する方なら、せっかく親切な人が流れに加わらせてもらうと、どことなく後ろめたいことありませんか?私の遭遇した先程の小さな事件(?)はそれが作用しているものと思われてならない。先程の彼女は「私のようなものが、おいそれと道に出てはいけませんわ」とは大袈裟かもしれないが、きっと「遠慮」したのだと思う。そして、明確な意思表示を避けいつかくる流れの切れ目を辛抱強くじっと待っていれば、いつかきっとだれにも「遠慮」する事なくスムーズに流れに加わることができる、それで良かったのであろう。

 ところが、そこに余計なお世話好きの車がやって来たので、当惑してしまったのかもしれない。ましてや、パッシングなど、日本では「攻撃的警告・先制攻撃的サイン」に使われている場合が多いので、もしかしたら彼女は自分は車線にはみ出し過ぎているのでは?などと、怯んでしまったのかもしれない。だから、よけい「遠慮」したのだ。

 辞書を紐解く。「遠慮」とは、「他人に対して言動を控えること」「辞退すること」と記してある。これは、我々社会道徳の最高の「美徳」のひとつである、と考えられている。「自分が身を引く」イコール、「相手を立てる」という図式だ。

 しかし、これはあくまで2次的な意味である。本当の意味は、「遠い将来に対しての深い考え、・計画」となっている。つまり、「ふかぁ〜くいろいろかんがえる」の事を指していて、「身を引く」事とは別だ。むしろ、高度な思考の要求である。

 「お前、遠慮しなさい」というのはそもそも、「お前、よぉーく考えて行動しなさい」と、ただそれだけのことだったんじゃなかろうか。それが、人間の歴史が重なって行くうち「お前、よぉーく考えて行動しろ、それはあなたの出る幕じゃないのよ」という余計な尾鰭がくっついていったのではないかと考える。

 遠慮は時には誤解を生む。遠慮した人は表面はその事象に加わりたくないと意思表示したのであるが、本音は「やりたかった」なんて事よくある。特に中学生の二年生後半、何かやろうと誘っても本音と違うことをいったりして自己嫌悪に陥る事が間々ある。

 また、遠慮された人は「なぜ加わらないんだ、何か気に入らないことでもあるのか。」と勘ぐってしまうこともよくある。特に、「別に理由はないんだけど」とか、「私なぞ、器ではないですから」などど妙に丁寧に「遠慮」する人に対しては、「不信」すら覚えてしまうこともある。

 自分の意思表示をすることはタブーであるという、おかしな国民的思想(美徳)が蔓延っているうちは日本は国際社会で生き残れないなと時々思う。自分を抑えて集団に奉公する、「社会の歯車」発想ははっきりいってもう100年も前に欧米では捨て去られている。その中で人と人とをつなぐ「ボランティア活動」という概念がうまれ、無償で働いても「人の役に立ってよかった」という高度な精神的充足感が満たされればそれでよい、となる。だから、各国で行われるオリンピックは多くのボランティアで運営され、アトランタオリンピックのTVで見た彼らの表情はすこぶる明るいのだ。

 ところが、日本は違う。そもそもボランティアという概念がない。「奉仕活動」とは全く違う。奉仕活動とはむしろ「滅私奉公」(自分を抑えてお上の役に立つ)的な意味合いが強いので、自分なぞ生きるが死のうがどうでもよい、あなたさえよければ、である。アア、何たる自虐的思考であることか。自分も「一人の人間」であるのに。

 こんな事書くと「高度な精神的充足感なんてねえ…、分からないわ」と「遠慮」する声が聞こえてきそうだ。もうやめましょうよ、遠慮という美徳は。そして、ストレートな意思表示を自然に受け入れられる社会を築きませんか?ねえ。

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