主婦の井戸端会議情景。
主婦その1「ねえねえ、あの〇〇さんのお宅、おひさま車ですって」
主婦その2「そうそう、△△さんのお宅も、おひさま車なんですってよ。」
主婦その1「□□さんのお隣もおひさま車?」
主婦その2「この辺みんなおひさま車みたいね」
主婦その1「実は、私のうちもおひさま車なの!」
がび〜〜ん!!
主婦その1「あなたっ!!何ゴロゴロしているのよ!!おひさまのショールームへ行くわよ!!」
週末はおひさまのショールームへ♪
B.G.M.
私はこれをラジオ放送で聞いて、思わずつぶやいた。
「いやな宣伝だ」
なぜ、ご近所みんながおひさま車だからといって、自分の家も同じものにしたがる気持ちになるのだろうか?ここには、おひさま車の性能のすばらしさ、他車にはない付加価値を示しておらず、購買意欲を起こすための決め手はただひとつ、「隣近所みんなおひさま車」と言うことのみである。「お隣さんがみんなおひさま車だから私の家も買わなければ『いけない』」という、半ば強迫観念にも似た心理状態でこの登場人物をおひさまのショールームへと導こう、そして、あわよくばリスナーさえも、というのである。
気に食わない点は、「皆おひさま車だから私も…」という心理をくすぐろうとしている点である。よくだだをこねた子供が使う”伝家の宝刀”は、「みんなもってるよ!!」であるが、全くそれと変わらぬ。ご近所皆さんがもっているから私も私もという、誠に個人を圧し殺した心理現象ではないだろうか。
この現象は流行とかブームとか言われ、時代の一時的な熱病と片付けられているが、私はそうは思わない。これは立派な個人の埋没である。
君たちの日常からも拾ってみよう。本日から水泳が始まった。やむを得ない状況で仕方なく暑いのを我慢して見学をする生徒は仕方ないとしても、クラスの半分以上が水泳を見学する(女子に至っては2/3)状況がある。ふと耳にした話によると、
「水泳するのは『ダサイ』」
という風潮があるのだそうだ。だから、その風潮に流されて本当はプールで泳ぎたいし、点数制で欠席するたび減点され、自分に不利なことは分かっていても、
「みんなが入らないから、入れない」
と、自分自身をガンジガラメにしているのだ。つまり、判断は自分自身ではなく、「周り=みんな」なのである。自分がどう考えようとも周りが自分の考えと大幅に違うと急に自信がなくなり自分の考えを押さえてしまう。しかも、そういう自分がいることを隠すことで自分自身に勝ったというマイナス思考によって自分自身を保つほかないのだ。これは明らかに個人の埋没の結果である。ルーズソックスもそうだ。周りのみんながやらなければ、あのようなみっともない格好はあれほど増殖することはない。たまごっちもたしかに斬新なゲームではあったが、流行が去った今となっては、都会の女子高生は「ピーピーうるさくってチョムカ」と言って、見向きもしないと言う。みんながやらないから飽きられたのだ。かつての石油ショックのころも、トイレットペーパーが店からなくなるという「デマ」に振り回されスーパーマーケットに人々が怒涛のごとく押し寄せパニックになりながらも買いあさる醜態を見せたという反省があるにもかかわらず、全く進化も進歩もない日本人たち。[歴史は繰り返す]では片付けられない深刻な問題ではないか。
全くもってこの状況は今の日本の社会に蔓延るガンではないだろうか。国際的舞台では「No」とは言えず、はっきりとした答えももたず、ただ、微笑をたたえた不思議な民族として外国の方はいまだに我々日本人のことを認識しているのも、コノようなCMがごく普通に流されているところからも頷ける。
さらに日常の風景からさりげない会話の一部を切り取るという、CMの手法としては古典的と言うか、常套手段によって、聞くものに親近感を持たせてはいるが、微笑ましくもなく心に染み入る言葉もなくあまりにその内容がお粗末である。
「みな同じものを所有したがる」という日本人独特の集団心理を巧みに利用しようとする魂胆があり有りとあふれている。ユーモアのかけらも見えない、最悪の宣伝広告放送である。
こういった個人の埋没が、もし、日本人の美徳観念を支える一つとするなら、時代遅れもはなはだしい。これからの社会は個人を認め、伸ばし、支えることが前提とされる。そのために教育の世界では美術のような個人が十分発揮される教科が必要というのに、お偉い人たちは美術の時間を削ろうとしているし、授業参観でも見に来られた父母の方は美術を大変に嫌うという。せっかく来ていただいたので切り絵でも作っていってほしいとお願いするのだが、必ずつぶやかれる言葉は「美術は苦手で、…。」そういう社会体制で個人の伸張は期待できぬものとあきらめるしかないのだろうか。
一歩間違えば情報操作が行えなくもない手段であるからこそ、その点は慎重に吟味したものを流してほしいものだ。